穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

ロスマグ再評価

2024-04-14 18:12:35 | ハードボイルド

かってはハードボイルドの御三家ということが言われた。もちろん筆頭にチャンドラー、ハメットと続き、ロス・マクドナルドと続く。

ロスマグは一寸格が落ちる。むかしロスマグも読んだが、スピード感がなく退屈であるといいうのが、一般的な見方で、最近ではあまりロスマグのことを取り上げる人がいない。私もそういう印象であったが、最近読むものが無くなってロスマグの代表作の一つ「さむけ」を立ち読みした。結構読みやすそうなので買って20ぺーじほど読んだ。昔の印象と違って結構読めることを発見した。「さむけ」だけに限ったものかもしれないが。

インターネットのブラウザーで(素人書評)を読むと退屈でつまらないというのが現在でも主流らしいが。まだ20ページしか読んでいないが、昔とだいぶ違って軽い文章の印象なので先を読んでみることにした。

ほかの作品も二、三読んだが、題名は覚えていない。「さむけ」は読まなかったのかもしれない。

 

1976年第一刷とあるから新訳ではないようだが、結構スピード感が

 


友情・復讐・女

2023-08-21 08:21:56 | ハードボイルド

友情・復讐・女とくると三題噺めくが、チャンドラー「ロンググッドバイ」、ハメット「マルタの鷹」それからスピレーンの「裁くのは俺だ」の共通テーマは相棒への友情に基づく復讐で一致する。

前回触れたスピレーンはまだ該本を取得していないが、私立探偵マイク・ハマーが太平洋戦争で日本軍を相手にジャングル戦を戦った戦友を殺した相手を「絶世の美女」もちろんナイスボデーという意味だが、と突き止めて射殺する結末だったと記憶する

ハードボイルドの典型的なパターンだ。どうも潜在的にアメリカ人男性にある女性優位の社会に対する怨恨があると思えてならない。


アメリカ・ハードボイルド小説における女の位置

2023-08-20 18:18:50 | ハードボイルド

ハードボイルドといえば、ミッキー・スピレーンを先駆者にあげてもいいのだろうか。Wikipediaを見てみたら彼は意外に長生きして二十世紀末まで著作をしていたらしい。彼の作品ではなんといっても、「裁くのは俺だ」だろう。しかし絶版らしい。英文ではどうだろうか。探してみたい。

どの作品だったか、犯人が絶世の美女でマイク・ハマーが彼女の裸の腹に45口径をぶっ放すのが、どの作品だったかにあった記憶がある。それで気が付いたのだが、ハードボイルドは美女が実は真犯人だったというのが多いね。

理由があるはずだ。アメリカ文化を逆読みしてみると分かるかもしれない。欧州で女性にやさしくするのはマリア信仰に由来するのだろうが、アメリカの女性観は極端に行き過ぎている。それの反動が、西部劇やハードボイルドに表れているのかもしれない。

チャンドラーはほとんどが犯人は女性ではないか。ハメットの「マルタの鷹」の犯人も女性だった。

 


北方謙三「逃れの街」

2016-07-28 07:52:02 | ハードボイルド

大分前に北方謙三氏の「檻」のことを書いた。褒めたような記憶があるがはっきりと思い出せない。それで調べたのですが、私としては好意的な書評でした。6年前のことでした。 

日本語のエンタメ(ハードボイルド)業界にこんな文章を書く人がいるんだ、と感心したり驚いたので書評したわけです。小道具の使い方には文句をつけていましたね、すみません、北方殿。

先日不眠症対策でなにかエンタメを買おうと書店をぶらついていた時に書棚から引っこ抜いたのが北方謙三氏の「逃れの街」でした。解説が北上次郎氏。彼は経験上解説の信頼出来る数少ない人です。少なくとも方向性では(つまり良い悪い)。ただ気に入ると手放しの絶賛調になりますが、そこは割り引いて考えれば良い。

それで購入して、とぎれとぎれに最後まで読みました。「檻」と同水準のようです。やはり才能のある人のようです。小道具はいろいろありますが、捨て子のヒロシとの交情は読ませますね。パーカーの「初冬」だったか、同じような逃亡者と身寄りのない小児との共同の逃避行があったのを思い出した。雪に閉じ込められた別荘が舞台だったのも似た設定です(記憶による)。初冬を読んだのは随分古い話でよく記憶していないが「逃れの街」のほうが印象的です。

北方氏は調べてみると無茶苦茶な多作家のようで、ハードボイルドを数冊書いた後では支那の歴史小説に転じたようですが、こちらの方は読んでいません。

文章はいいが、道具立てには凝る暇がなかったのでしょう。もっとも後で書かれた「逃れの街」では大分よくなっています。

 


「カクテル・ウェイトレス」ジェームス・ケイン

2015-05-25 19:57:52 | ハードボイルド

書店でこの本に目をとめて買う気になった理由は二つある。『郵便配達は二度ベルを鳴らす』を二度ほど読んだことがあるが、興味を感じなかった。別にタイトルに義理立てして二度読んだ訳ではない。随分昔のことであるが最初に読んだ時にはまったく感興がわかなかった。しばらくして読み方が悪かったのかなと再読したが迫力を感じない(大方の世評はそのインパクトを買うのであるが)。で別の本の新訳が出たので(新潮文庫)、他の作品はどうなのかな、と思ったことがひとつ。

ケーンは1977年85歳で亡くなったそうであるが、この作品は83歳から85歳にわたって書かれ一応完成していたが出版されなかったそうである。それをある編集者(チャールス・アルダイ)が原稿を探し当てて編集し2012年に出版したそうである。 

犯罪小説らしい。毒婦ものらしい。83歳でどれだけツヤのある作品が出来るものか、と言う点にも興味があった。それなら、俺ももう一丁ポルノでも書けるかな、と色気も出るところである。 

上記のアルダイという編集者が解説を書いているが、ケーンはチャンドラー、ハメットと並ぶハードボイルドの大家だそうである。ケーンの文章についてはハードボイルドだという評価もあるようだが、チャンドラー、ハメットの範疇に入るというのは初耳だった。普通HB御三家というとチャンドラー、ハメットとロスマグということになっている。もっともロスマグはあとの二人に比べると大分小粒である。別にミステリーというか探偵小説に限らなければケーンも御三家なのかもしれない。

ケーンの小説では探偵の視点は物語を引っ張らない。あくまでも犯罪者の視点である。もっとも、読んだことがあるのは「郵便配達」と今度の『カクテル・ウェイトレス』だけだから他の作品がどうなっているのかは分からない。

一種の毒婦もの(訳者によれば悪女もの)である。叙述は彼女によってなされ(録音というかたちで)、自己弁護というか、一切犯罪を犯していないという弁明という形になっている。そして逮捕されるが法廷で無罪を勝ち取っている。しかし、妊娠中の彼女はサリドマイド(奇形児を生む薬害で有名)を精神安定剤として多用していることになっているから、作者はやがて彼女が待望する生まれてくる子供の不幸を暗示するというテクニックで彼女が毒婦であることをにおわせているようである。東洋風、古風にいうと「親の因果が子に報い、」というわけである。

そこで85歳の文章の艶はいかにというに、編集者の手も加わっているのであろうが、まあまあである。いささかバイアグラを服用して力んでいるような感じを与える所もあるが。


マルタの鷹講義、黄色は逡巡をあわらす

2015-05-17 10:21:53 | ハードボイルド

yellowなる語がもっとも頻出するのは終章である第20章である。警察に電話してスペードがブリジッドを警察に突き出す前に二人で会話するドラマチックな場面がある。

 

211: Spade’s face was yellow-white now.

211:His yellow-white face was damp so and so,

212:..and yellowish fixedly smiling face.

213:His wet yellow face was set hard so and so,

出典 Vintage Crime

 

スペードはアーチャー殺人の当初からブリジッドの関係を疑っていた。最初は無意識領域で、あるいは下意識で、そうしてやがてそれは半意識領域*にあがってくる。最後には意識内で断定する訳だ。

*お断り:心理学用語で半意識なる語があるかどうかしらない。しかし意味はわかるでしょ(うるさい読者がいるから一々断らないと)。 

性的関係を持った魅力的な女、愛したとは言えないが、強烈に性的に引きつけられた女(いわゆる惚れたおんな)を無情に警察に突き出すという決断に伴う苦悩であり、最終段階にあってもスペードの内面で矛盾した感情に逡巡するこころを表現したとも言える。 

では前回述べた第9章の黄色く燃えた目はどうなのか。これも逡巡、気迷いを表すとして意味が通る。黄色は逡巡を表すと同時に黄色信号(交通信号、アメリカでも注意信号は黄色である)である。胡散臭いひょっとしたら殺人犯かも知れない女と関係して自分に隙ができるのではないか、という職業的探偵の警戒心である。

いやいや、この女をたらし込めばひょっとしたら興奮したときに本当のことを口走るかも知れないという計算が一方に有ったかも知れない。翌朝にスペードのしつこい質問がそれを表している。

そういう諸々のスペードの心の動き、打算を「黄色」信号として表現したのである。現にスペードは相手が関係後の疲労で快い深い眠りに落ちている間に、彼女の鍵をハンドバッグから盗んで彼女のホテルの部屋の捜索を手早くすましている。

信号は黄色だ、渡れるかな、途中で赤にかわるかな、とあなたも逡巡することがあるでしょう。

最終章ではスペードは最後まで彼女を警察に突き出すかどうか、決めかねている。そのように最終章は読まなければならない。無理矢理に自分の気持ちをそう持って行くために彼女に非情にあたるのである。じっさい、彼女がガットマンやカイロと一緒に去ってしまったらスペードは彼女を止めなかったであろう。彼女は部屋に残ることによってかれを決断せざるをえない立場に追い込んだのである。

 

 


「マルタの鷹」黄色考

2015-05-17 06:32:18 | ハードボイルド

カポーティの「ティファニーで朝食を」では散々「mean reds」に悩まされた。村上春樹氏は簡単に「いやったらしいアカ」とすまして訳していたが、これじゃ同義反復で不得要領である。主人公の一人であり、ナレイター役の「僕」はangstのことか、と聞き返している。不安感とでもいうのか、実存主義かぶれ達が好んで使った言葉らしい。この辺の考察は以前にアップしたことがある。

さて、マルタの鷹に「きいろ、黄色」という単語が頻出するのだが、これがわからない。もっぱらスペードに関して出てくる。目の描写や顔色の描写として、である。スペードの内面を外形的に描写するつもりなのだろうが、これは一考を要する問題である。

色で情緒、気分、感情を表すことがある。ブルーなんてのは当代の若者でも使う。憂鬱な、というほどの意味である。その伝(デン)でいくと「きいろ」というのは卑怯とか臆病という意味になる。スペードもそういう気分になることもあろうが、どうもそれではスジが通らない。

例えば九章の最後の段落はスペードのアパートでいよいよブリジッドと性交する(村上、桐野流表現)場面であるが、His eyes burned yellowly. とある。

スペードがびくびくして、おっかなびっくり彼女にのしかかる、とは取りにくい。かれは「金髪の悪魔(第一章)」だから目が金色に怪しく光るのか。たしかにひとつの解釈かも知れない。しかし、これでは少年少女向けの劇画になってしまう。 

*   *

 


諏訪部浩一著「マルタの鷹講義」第15章について

2015-05-16 08:36:45 | ハードボイルド

研究社から出ている該書を買う気になったのは、原著第10章冒頭の文章をどう説明しているかを、あるいはなにか説明しているかを知りたかったためである。結果として諏訪部氏はなにも触れいない。少々がっかりしたわけである。このことについては別稿で述べたい。

今回は15章の解説が随分ピント外れなので、先にこの件について触れたい。第15章はスペードに比較的好意的な部長刑事と食事をし、そのあと地方検事の事務所に呼ばれて行くところである。

問題は地方検事とのやり取りに諏訪部氏が加えた解釈である。全くの見当外れといわなければならない。英文学評論の学究として博識な英米の文学理論を操ってマルタの鷹を解説しているのが本書である。しかし、所々でまったくおかしな解釈をしている。

警察あるいは検察と私立探偵(ハードボイルド小説に現れる)の対決を註釈している章はこの章の他にもあるようだが、両者の関係を公権力の腐敗とハードボイルド探偵の白馬の騎士的な対決という少年小説レベルの分かりやすい構図で押し切ろうとしている。まったく滑稽としかいいようがない。

たしかに、その面はあるだろう。ハメットでは「血の収穫」は一応そうとらえてもよろしい。チャンドラーの小説にもそういう面は有る。しかし、それは中心ではない。ハードボイルド小説で私立探偵と警察のなかが険悪となるのは「縄張り争い」である。

警察は探偵が持っている情報がほしい。逆に探偵は警察が持っている情報がほしい。そして地方検事や地方の公安委員は探偵のライセンスを取り上げる権限をもっている。(注:日本では探偵に免許は不要である)。理屈をつけて探偵を逮捕、起訴することも可能である。この立場を利用して探偵に圧力をかける。それに探偵が雄々しく耐え、抵抗する。ま、これがハードボイルド小説の一つの特色でもある。

探偵には依頼者の秘密保持の行動倫理がある(ことになっている)。この行動規範を取り去ると、探偵は単なる警察の手先となる。たれ込み屋と変わらなくなる。

地方検事が犯人についての仮説を述べる所がある。それを聞いてはハメットが茶々を入れる。諏訪部氏はこれを大真面目に受け取って検事の無能をハメットと一緒に成って嘲笑うかの様に解説する。そうだろうか。 

警察は依頼者がだれであるかの情報を持っていない。ハメットが教えない訳である。依頼者の指示で尾行をしていた相手が殺される。当然依頼者が事情を知っている。あるいは依頼者が関係していると考えるのが人情である。現にスペード自身も同様の疑念を持っているが、あまりにも突拍子もないし、証拠もないから結論はくだせない。そうだろうか、そんなことがあるだろうかと小説の終わりまで迷っているのである。 

警察が知っているのは殺害された人物がヤクザの親分のボディガードということである。また、その親分が賭博のトラブルでアメリカをふけたことも情報として知っている。とすれば、依頼者の情報をスペードが警察に開示しなければ検事の仮説はきわめて理論的である。あまり前である。それはスペードにも分かっている。茶々をいれて混ぜ返したのは、自分の情報や推理を隠蔽するためだろう。

そして鋭敏なハードボイルド読みには当初から気が付いていたろうが、大部分の読者がまだ気が付いていないポイントを検事の推理としてハメットがここで読者にはじめてサービスしたと考えられる。つまり依頼者を探れ、と。

それでも凡庸な読者は小説の終わりになってはじめて犯人がブリジッドだと教えられるのであるが。

 


マルタの鷹講義2

2015-05-15 20:11:38 | ハードボイルド

マルタの鷹の第五章の終わりのほうにスペードが

“What about his daughter?”

とカイロに聞く所がある。(Vintage Crime p50)

彼の、って誰の?てなものである。読んでいるほうではよく分からない。この種の誰を受けているのだか分からない人称代名詞があちこちに出てくる。これもリアリズムなんだろうな。つまりハードボイルドもの(HB)あるいはハメットの記述テクニックなのだろう。 

普通は読者の便を慮って、『スペードはひょっとするとカイロの話す依頼人(カイロに黒い鳥の彫像を買い戻す様に依頼した人物)に娘がいて(そんな話はここまで出てこないが)、それがブリジッドなのかな、と思って当てずっぽうにカイロに質問をぶつけた』とでも書く所かもしれない。

しかしHBである。探偵の心のうちは描写しない。そうすると「彼の娘はどうなんだ」というセリフしか読者には披露できない。 

ちなみに創元文庫では「あの男の娘はどうかね?」(81頁)と忠実に訳している。いっぽう早川文庫では『「あの男の娘の方はどうなんだ」とスペードがかまをかけた。』(87頁)と親切な注釈的意訳である。

もっともこれが作者の意を体しているかどうかは疑問ではある。早川の訳者は東大英文学准教授諏訪部浩一氏の指導を受けているようだから、諏訪部氏の意見が反映しているのかもしれない。

早川文庫の訳者小鷹信光氏は諏訪部氏の指導後改訳したそうで、其の前の版でどう訳しているか興味が有るが、そこまでは手元に旧版がないので紹介できない。

上記は一例でかなりの箇所で同様の突き放したような曖昧さがあるので、50頁を例にとって説明した。これがハードボイルド(HB)のナラティヴだということなのだろう。

 


マルタの鷹講義1

2015-05-14 15:50:09 | ハードボイルド

 これから何回か、マルタの鷹に限って文体の問題等を取り上げたい。マルタの鷹に限るのはたまたま再読しているという理由だけである。ほかの作品は再読するかどうかの予定は決まっていないので。

マルタの鷹は完成品ではないと書いたが、文体に関してもしかり、のようである。文章もごつごつしている。それが意図的かも知れないし、それはそれで瑕疵でもなんでもないことは言うまでもない。

心理的な内面描写をしないというのがHB文体らしい。この私の理解が間違っていれば以下は別様になる。この理解で進める。

気が付くのは異様に形容詞と副詞が多用されていることである。心理状態を表現したり、表情に注釈的に形容詞を至る所で付け加える。動作にいちいち副詞をつける。具体的な動作の表現や表情の形態を解剖学的にあるいは絵画的に表現するのがHBだと思っていた。評論家が書いているものを読むとそう取らざるをえない。

形容詞や副詞はステレオタイプの心理描写の典型である。マルタの鷹には、これとは別にまったく即物的な記述も多く(つまりHB的)、この二つの表現方法の混じり合わない異様さが気になる。

形容詞や副詞は作者が登場人物の心理状態の判断を一方的に読者に押し付けるものである。そしてその視点は三人称多視点あるいは神の視点(言い換えれば作者の視点)からなされる。

 


ハメットの文体

2015-05-11 07:39:45 | ハードボイルド

前回の様にハメットを数パラグラフで片付けては(決めつけては)大ハメット(ファン)には申し訳ない。そこで少々思いついたままに追加。 

というわけで買った。前に読んだ本はとっくに処分したのでvintage crime版を購った。最初の二、三章は快調だが読み進むうちに訳の分からない文章が出てくる。この版の誤植ということはないだろうか。前に読んだのは別の出版社のものだったのだろうか。ペンギンだとか。

ハメットの文体はハードボイルドの典型といわれるが、はなはだHB的でない文章が出てくる。大分前に短編を含めてかなりの作品を読んだ。その記憶も大分薄れているが、チャンドラーと違い、ハメットには様々な文体がある。ま、それが彼の作家修行の過程を表しているのだろうが。意外に思うかも知れないが、鼻持ちのならない美文調の作品もある。気取った文章もある。

前回マルタの鷹は完成品だと書いたが訂正する。比較の問題だが、彼の場合、完成品と言えるのは「ガラスの鍵」と「the shin man」だろう。余談だが後作を「影なき男」と訳すのはどういうセンスだろうか。

たしか、マルタの鷹では結末でオーショネシーという女依頼人が探偵スペードの相棒を闇討ちした、と判明することになっていたと記憶する。そこでそこへのハメットの持って行き方を注意して読んでいる。

 

手だれで尾行も専門の相棒が簡単に闇討ちされるとは考えられない、とスペードは最初から疑っていたわけである。したがって尾行している相手から返り討ちにあったとは考えられない。とすると尾行を知っているのは尾行を依頼した女しかありえない。しかし、それはあまりにも突拍子もない考えだ、とハナから金髪の悪魔スペードは女を疑っていたのであるが証拠がない。

この気迷いを三人称視点で仕草や表情で外面的に描くハメットの手腕が作品のキモとなる。でそこを第一章から注目して読んでいる。なるほどね、と思ってね。

なかなか考えてるな、と感心しているのだが、そのうちに誤植としか思えない文章が出てくる。前に読んだ時には気が付かなかった(と記憶している)のだが。 

ハメット自身の言葉として、一番気に入っている、つまりうまく書けた作品は「ガラスの鍵」だというのがある。たしかにヒントのばらまき方だとか「回収」の仕方など齟齬はないようだった。しかし、いかにも地味な作品である。

女(上院議員の娘だったかな)と探偵役のヤクザ(仕事師)との関係もステレオタイプで地味すぎる。一般受けはするまい。それに比べるとマルタの鷹のキャラ建ては受けるだろう。「ダイナマイト」であり「ワイルドキャット」でもあるオーショネシーなど独創的だ。

Thin Manはコメデイタッチでこれはハメット作品の中ではアメリカで一番売れた作品らしいが、連続大衆テレビ番組の脚本みたいな所があり、ハードボイルドの犯罪小説とは言えない。もっとも当時テレビは無かったがブロードウェイで上演されて大当たりをとったという。

マルタの鷹は完成品としては瑕疵があるが、HBのクライムノベルとしては限られたマニアのあいだでは一番好まれる作品なのだろう。

日本でもだれかマルタの鷹の新訳を工夫してくれないかな、翻訳ではなくても翻案でもいい、うまくいけば人気が出るかも知れない。

 


ハメット「マルタの鷹」

2015-05-09 11:43:07 | ハードボイルド

チャンドラーの短編には三人称視点のものがいくつかあった。記憶で言うと「脅迫者は撃たない」、「シラノの拳銃」、「スペインの血」や「ヌーン街で拾ったもの」かな。他にも有ったのかも知れない。

そこでふと思いついて、三人称視点だからピンとこないのかなと思って、検証しようと(物好きも昂じたものだが)拾い読みをした。印象から言うと、三人称視点だからということではないようで、一人称でも分かりにくい、つまり印象が薄いものはある。そうすると、短編時代は習作期間だったのかも知れない。

文章は出来上がっていても、小説の構成なんかではまだ慣れていなかったせいで読みにくいのかもしれない。

一語1セントの原稿料だったというから(いくら物価が違うといっても安価なものだ)あまり練らないで書飛ばしていたのかも知れない。やはり、村上春樹氏の評価はおおよそのところ当たっているのだろう。

そこで三人称といえばハメットだ、とハメットに飛んでしまった。わたしの読書対象のいうのはとんでもない所にとんでもない理由で跳ぶのである。マルタの鷹を読み始めたがさすがによく出来ている。完成品だな。