穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

城読了報告

2024-02-16 20:47:29 | カフカ

池内訳「城」本日読了したのでご報告します。いま訳者池内紀氏のあとがきを読んでいるが、城の意味をめぐっては、今までに数限りない解釈がなされたとある。そこで昨日のアップになるが、カフカ研究書で城に言及したのが書店で皆無なのはどういうことか、過去色々論じられたが、現在では研究者に相手にされなくなったということかな?

 


城について専門家の批評紹介は無かった

2024-02-15 18:37:48 | カフカ

去る大型書店でカフカの「研究書」のコーナーがあった。全部で二十冊ほどあったかな。ざっと見たがどの本にも「城」の書評も考察、評価もない。わたしの拙い書評に間違いがあってはいけないのでチェックしたんだが、ウンともすんとも書いていない。やはり書けないのか、評価の対象となる完成品ではないとみているのか。それにしても二十冊もあるカフカ研究で「城」への言及がまったくないのは予想外だった。


カフカの作業

2024-02-14 19:42:54 | カフカ

「城」ポジションリポート388ページ。カフカの制作態度なんだが、長編では初稿、再稿、まあ最終原稿と普通は行くと思うんだが、特に長編ではね。カフカの長編というと、「失踪者」、「審判」と「城」だと思うが、これはカフカ研究者に聞かないと分からないが、失踪者と審判は、その纏まり方から判断すると、初稿に手を加えていたらしい。城は伝えられている執筆経緯からすると、初稿の行き当たりばったりで中断したらしい。

そう思えば、わかりにくくて当然である。荒唐無稽なのはしょうがない。無理して理屈をつけて感心することは滑稽かもしれない。城は「とりつく島がない」というのが正直な感想だと思うが、それを分かったように自己流に解釈するのはどうかと思う。今日ちとインターネットを浚って感想文を読んだが、えらい肯定的な文章が散見するので驚いた。もっとも専門家ではそう断定的に肯定する人はいないようだ。もっとも訳者は別だ。訳者には訳者の仁義があるだろうからね。

執筆途中で中断した経緯からして、あまり評価できないと思う。カフカの様な作家は粗原稿を彫琢していって完成するのが本来だろうからね。

その理由はこれまでいくつか理由を述べた。どこに問題意識があるのかフレームアップされていない。きわめて平板、冗長、退屈な作品である。


ポジションレポート・P334

2024-02-11 14:54:40 | カフカ

池内訳「城」334ページまでたどり着いた。最後まで読んでいないが、後半のほとんどは「この地方」の「処女権」の話だね。実存主義なんか関係ない。処女権というのはもともと封建城主が持っていた支配地域の処女のつまみ食い権利を言う。

カフカの城では城主のかわりに官僚集団の権利である。その当時か直前までそういう風習があったのだろう。そうでないと話がつながらない。そしてその官僚の権利を拒絶した人間、女は村八分にされる。つまり官僚には強制力はないが、村人たちが役人の処女の召し上げ権に反抗した住民を村八分にする。そんな話を「測量士」が延々と聞かされる。ほとんど小説後半すべてを使っている。

測量士が大した反論もしないで傾聴しているのを笑わせる。

小説の主題としてもおかしいし、実存主義の古典に持ち上げる文芸評論家の説はなお、おかしい。そしてもっとおかしいのはこの女性の親父が官僚のもとへとりなしをもとめて必死になる長い長いクダリである。村八分の解消を求めるなら、村民に働きかけるべきだろう。あらゆる観点からいって、この小説は破綻している。

池内さんの意見を聞きたいね。おーすとりあ・はんがりー帝国の醜状のリアリズムなのかな。

 

 


カフカ「城」とキャラ建て

2024-02-06 13:59:42 | カフカ

カフカの城を300ぺージ読んだところで今回もスタック。放り出しておいたが、ふと、キャラ建てに気が付いたことがあって、別の角度から分析してみた。

言うまでもなく、皆さまご案内のように主人公のKは測量士である。百年ほど前のオーストリア・ハンガリー帝国の辺境の地??プラハの役人だったカフカは労働者の保険担当だったらしいから、仕事上で「測量士」をよく知っていたとは思えない。しかし、測量士を描く力量というか、キャラ建ての観点からみるとよくわかっていると思う。つまりリアリズムだね。

またそう思って読むと納得する。私も仕事で「現代日本の測量士」と間接的に折衝したことがある。ウェストウェスト伯爵ほどじゃないが。オーストリア・ハンガリー帝国の辺境の地ブタペストの百年前の測量士と現代日本のいわゆる「測量士」とは同じかと思うほど似ている。

城を読んでみると非常に似ている。社会的地位は土方とほんのちょっぴり知的な職業のミックスである。(三角関数やら少しの数学的な観測データの処理)。

一方で助手は先生先生と言って測量士を非常に尊敬した。この図式を「城」の描写に当てはめるとぴったりである。そして測量士がほんのちょっぴり知的な一面と根は土方的な部分もよく描写している。Kの荒っぽいしゃべりぶりも。そう気が付いて読むとなかなか読みやすい。手当たり次第に女とくっ付くあたりも。

この小説は「測量士のキャラ建て」を評価、玩味しないと分からないのではないか。

 

 

 

 


カフカのKと穴村の三四郎の場合

2016-10-12 08:05:21 | カフカ

ミラン・クンデラのエッセイ「小説の技法」(岩波文庫)の第五部は「その後ろのどこかに」である。これは三十ページ弱のカフカ論である。 

欧米でもカフカの小説は独裁体制とか官僚制度などの未来を予見したという説が主流らしい。日本のカフカ論は勿論これを踏襲している。クンデラはこの説を退ける。このブログで前に書いた様に人間社会で古今東西を通底する構造をカフカなりに切り取った作品だとはこの本を読む前に書いたが、クンデラのいう『その後ろのどこかに』も同様の意見である。

カフカの場合、最初の試みは「判決」という短編に現れ後に「審判」につながる。

彼の場合はボス(社会、父親、権力)に追求されて、Kはその訴追を正しい物として無批判に受け入れ、次になんとかして自分の罪(過失)は何だったのかと知ろうとする。必死に自分の過去を追求する。なんとかして自分を納得させたいのである。これは独裁者会、共産主義社会の自己批判にあたる。

クンデラは共産主義独裁体制のチェコからの亡命者であるが、かってのチェコでこの種の例を多数見ている。つまり当局や「お仲間」に追求されて必死に自分で自分の罪を見つけようとして躍起となる自己批判者の群れである。

かれらは自分の「罪」を見付ると安心して死刑になっていったそうである。そういう知識人がチェコには多数いた。戦後戦勝国やその追随者に操られる日本の「戦後民主主義者」が「自己批判する能力を権力者に認められてもらう最大の武器」と捉えるのもおなじメカニズムである。そういう連中が平成の御代にいまだに日本人の三割もいる。

しかし、カフカの場合は一例にすぎない。権力者に追求糾弾されてひたすら自己批判にはしるグループのほかに、それを機に権力者にすりよるグループも多い。転向者もそうだし、密告者に変身する連中も多い。わたしはこれを猿社会になぞらえてボス猿の毛繕いをする連中と名付けたい。こういう連中もまた多いのである。

穴村の「反復と忘却」のなかの三四郎は上記のいずれにも該当しない。理由の分からない、理由の開示されない非難に対してひたすら自分の中に閉じこもり沈黙する少数派グループである。もちろん「なぜ」という追求は密かに粘り強く続けられるのであるが。

 


まめなカフカ、その二

2016-10-08 08:25:54 | カフカ

生前カフカの作品で刊行されたのはいくつかの短編あるいは小品だけであったのは、おそらく作品に市場性が無かったからだろう。つまり出版社からの注文がない。売り込んでも出版してくれない。とくに長編はそうだっただろう。だから既に小説家として一家をなしていた友人のブロートの紹介でわずかの短編が世に出たと思われる。

その辺の事情を「カフカの生涯」に期待していたのだがあまり書いていない。よく専門家がいうことだが、カフカは長編の結末がはかどらなかったから長編は遺作になったというが本当だろうか。出版のメドがつかなければ作家という物はいつまでも作品を弄くり回し、手を入れるものではないか。あえてまとめる必要もない。これがカフカの長編にいくつものバージョンがある理由だと思う。 

さてカフカの作家としての生活は修道僧を思わせる。出版のあてもない作品を毎日(毎晩)書き続けるという態度は真摯というか「マメ」というか。彼は判で押したような日常を送ったらしい。役所のようなところに勤めていて勤務時間は午前八時から午後二時まで。家に帰ると家族と昼食して一眠り、夕方から母親が作った夜食をぶら下げて仕事場に歩いて行く。そして明け方に一眠りして役所に行く。 

仕事場も妹が借りていた部屋だったりした。プラハの冬の夜は零下10度に気温が下がるが、彼は暖房の無い部屋で外套を着て足に毛布を巻いて朝まで執筆したらしい。この熱意と言うか執念はなんだろう。

 


カフカの生涯

2016-10-08 02:33:15 | カフカ

 カフカの長編のすべてと短編の多くが死後大分たってから友人マックス・ブロートの手でまとめられ公刊された。その後半世紀以上にわたっていろいろな人の手、出版社によって編集され刊行されているということである。

そこで他の作家ではあまりしないことだが、初歩的でもある程度書誌的な知識が必要だろうと思い池内紀氏の「カフカの生涯」を読んだ。

カフカというのはまめな男だなという印象である。とくに女性に関しては。そして小説執筆に関しても実に「まめ」である。

女性関係の記述は30歳前後から増えてくる。それまでは当時の社会の慣行(?)にカフカも従いレストランのウェイトレスなどに話を付けて食堂の二階を利用するとかその手の連れ込み宿を利用していたらしい。性欲処理にはさして普通の青年とかわりが無かったようである。

それで思い出したが欧州の知識人の慣行(あるいは、だった)なのだろうな。ミラン・クンデラの小説にもそんな主人公の日常が出てくる。たしかサルトルの「嘔吐」の主人公の性欲処理方法でもあったような記憶があるが。

ま、それはともかく、閑話休題(だぶるね)、カフカの性欲処理方法も相手が不特定多数で、それほど特殊ではないから「カフカの生涯」でも詳しい記述がない。

それが三十歳ころから特定、同階級というか、素人(たち)というか、の女性との集中的関係が増えてくる。これが伝記的にも書きやすいのはカフカが一日に多い時には三通も四通も手紙を書き、相手の女性達がそれを大事の生涯保存していたから伝記作者は書きやすいのである。これが結核の進行と奇麗にシンクロしている。

この辺が印象深かったのは私の良く知っている人間も結核で異常に性欲が昂進した例を見ているからである。結核患者は普通人以上に性欲がたかまるらしい。結核は消耗性の病気だから女性関係は控えなければいけないのだが、押さえきれなくなるらしい。しかもそれが患者の一方的なものでなく、結核患者というものは女性にたいして強烈なホルモン効果を生む物らしい。なにか未発見のフェロモンでもだしているのか。

カフカの場合、それは短期集中的である。つまり一年ほどのあいだに500通ほどのラブレターを交換するがそれで終息する。焼けぼっくいに火がつくこともある(フェリーツェの例)。しかし今度は別の女性に熱を上げる。病をおして無理な長距離旅行をして女に会いにいく。30歳以降そういう女性が数人いた。一種の艶福家だね。女はまめな男に弱い。どう考えても結核菌が脳の性欲中枢を刺激したとしか考えられない。

カフカが偉いのはそれらの女性との関係を作品に持ち込まないことである。作品にまったく反映させない。この辺は感心する。日本の私小説でも昔は結核患者が主人公である(つまり作者自身である)。そしてカフカの例の様に女性関係がにぎやかである。そして、それを作品に持ち込む、私小説という作品に。ま、一昔前の日本の私小説というのはそう言う物だった。

次回は仕事にもまめであったカフカです。

 


カフカとドストエフスキーにおける「父」の変換語

2016-10-02 08:24:28 | カフカ

「父」はカフカの場合いうまでもなく体罰の執行者(審判)であり、不可侵、不可越な壁(城)であり、追放者(アメリカあるいは失踪者)である。

彼の場合、社会や国家とか組織は父のイメージを仮託したものであり、評論家達の定説になっているような物語の対象ではない。変身でもいわゆる不条理は「父」を表していると見るべきだろう。

カフカには未送達の遺稿メモに「父への手紙」というのがある。

ドスト作品には「悪霊」まで父が出てこない。そこで初めて「育児放棄者」として「父」が出てくる。後期長編群個々で見ると;

罪と罰:全く出てこない

白痴:幼時に死別(だったかな、ようするに未出)

悪霊:戯画化されたオールド・リベラリストとしての育児放棄者

   成人してテロリストとなった息子とパトロネスの家で再会する。

未成年:育児放棄者、成人してから息子と再開

カラマーゾフの兄弟:

   父は育児放棄者である。物語では成人した息子達と再開して物語が進展

 

育児放棄と子殺しは実質的に同じであるから、父がある程度の役割を果たしている作品では父は同じ扱いである。

よくカラマーゾフは父殺しのミステリーであるというが間違いである。フョードル(だったけ)殺しは物語のアヤにすぎない。

 


カフカ「城」 池内訳 >>> 前田訳

2016-10-01 06:52:07 | カフカ

 さて、前日話したカフカの「城」の翻訳であるが、池内訳を10ページほど読んだ。読んだ箇所は池内訳20章「オルガの計画」である。ちなみにこのくだりは新潮文庫前田訳では第15章になっている。

絶対比較はできないが、相対比較では比較にならないほど池内訳の方が良い。絶対比較するならドイツ語の原文にあたらなければならないし、第一、ベースになるテキストが明らかに違う(章分けを見ても明らかな様に)からテキスト・クリティークにまで踏み込まなければならない。本書評の範囲外となる。

前田訳は日本語としてもおかしいという箇所を三カ所ほど指摘したが、会話の女言葉の取扱が前田では妙だ。たとえば、「オルガの計画」であるが、ここ以外でも「城」のなかでKと女の会話は、会話というよりも長いモノローグの羅列と言った方が良いところが圧倒的に多い。

前田訳はほとんどの語尾に「ですわ」などの女言葉を使っている。猛烈な違和感がある。池内訳では女性的結語は最小限に抑えている。正解はこちらだろう。言葉に対するセンスの問題なのだろうが。

話は違うがカフカの「変身」は結局二、三度読んだが私は読み終わると本を捨ててしまうので読み直すときは買い直した。それで何人かの違う訳で読んだのだが、訳者の違いによる違和感は無かった。だが、この「城」は前田と池内では全然印象が違う。

それぞれに後書きが付いているがこの文章にも歴然とした差が出ている。

ま、どうでも良いことだが変身でも審判でもKは勤め人(今の言葉で言えばサラリーマン、週刊誌言葉で美化すればビジネスマン)なのに、城では測量士*だ。そして彼の仕事ぶりとかは全然出てこない。城が仕事をくれないのだから、当たり前ではあるが。カフカの長編では『失踪者(アメリカ)』というのがあるらしい。この主人公は15(6、7)歳らしい。池内訳で読んでみようかなという気になった。

なお、彼の短編、中編であるが、変身以外にいくつか読んだが感心した物は一つもなかった。

私も過去に必要上1、2度日本の測量士と接触したことがあるが、かれらは土方とインテリの中間という印象であった。知的仕事ではあるが、仕事の現場は土方と異ならない。カフカも役所勤めの間に測量士と接触した経験があるのかな、それが反映しているのかな。

 


カフカの「城」、池内訳はどうかな

2016-09-30 06:59:37 | カフカ

不図(フト)思いついた。私もワードでは変換出来ない言葉を使います。広辞苑によると「ふと」という言葉はあるが不図(図らずも、から転じた物だろうが)は当て字だそうです。昔から使っているので漢字の方が最初に頭に浮かぶ。御免なさい。 

それでフト思いついたんだが、他の訳者で城を読んだらどんな印象だろうな、とね。前田訳新潮文庫で第十四章まで読んだが、終章まで(二十章)は池内訳で読んでみようと思うのだ。それについてはいずれご報告。

城は行き当たりばったりの執筆のようだが、カフカの筆力はあきらかに衰えている。彼は一、二年後に死亡している。

アクセルは猛烈に踏み込んでいるのだが、ひーひーと煙ばかりが出ている。筆者に成り代わって案ずるに、城の役人の村娘に対する欲情を軸に両者の疎外感を描写しようとしたのだろう。それを利用しようとするKの立場からね。

役人クルムとフリーダの交情、役人ソルティーニの欲情をはねつけたアマーリア一家に襲いかかった(と一家が思い込んでいる)村八分から一家がもがき出ようとしている有様をくどくどと書いているようだ。これによって、役人社会からの村の住人たちの疎外状況を描こうとしているとも解釈できよう。

しかし、前回も触れた様に筆力意図に及ばず。勿論カフカでメシを食っている評論家、書評家は色々な資料(日記、伝記、友人の証言メモ、研究所書など)を渉猟して立派な理屈を付けているのだろうが。私はそう言う物は一切読んでいないので至らない所はご容赦願わないといけない。

小説とは、たとえカフカの作品といえども、大量消費商品である。専門家みたいに全部の資料や彼らの研究書を読まなければ(味の)批判して行けないなどという主張は通用しない。ざっと読んだだけの印象で批評を展開するのは金を払って本を購入したものの当然の権利である。

 


カフカの『城』に関して「冗長」という意味

2016-09-29 09:17:27 | カフカ

行文で冗長が許される場合がある。筋には関係なく長々と脇道にそれたり、冗長に流れるのが許されるのは文章そのものが読むに耐える、或は読んで感興を覚えるものでなければならない。

新潮文庫の「城」は翻訳とはいえ、文を遣る間に読者を楽しませるという文徳がまったくない。翻訳のせいもあるだろうが、原文にもそう言った性質は欠けているようである。


カフカ『城』訳者前田敬作氏が口述ではなく口授(クジュ)を選択した正当な理由があるのか

2016-09-28 22:24:40 | カフカ

新潮文庫『城』 371ページ、クルスが書記に口授(クジュ)する、とあるが口述という訳語をあてなかったのは正当な理由があるのか。例えば原ドイツ語のニュアンスとか。

クジュは宗教指導者が信者に口づてに教えを授けるという意味だが、ドイツ語の言葉がそれに相当しているのか。訳者の無知、気取り、無神経、知ったかぶり、気取りではないのか。

あながち訳者の日本語能力のためばかりではないだろうが、「城」は相当な駄作と見切った。長編(短い長編)の審判は取っ付きにくい小説だが、そう思って読めば興味津々だし、迫力もある。それに比べて『城』は冗長、しばしば意味繋がらず、また前出を受けているのかどうか不明な箇所が多い。カフカの最晩年の作なのかな。未完だというし。 

『審判』は最後の部分を最初に書いたという。つまり構成としての整序がある。従ってテーマもはっきりと伝わる。それに比べて「城」は行き当たりばったりでしかも未完のまま残された遺作と言う。苦労して意味を慮りながら読む価値は無さそうである。

 


カフカの「城」すくっとのばす?

2016-09-28 08:06:06 | カフカ

前田敬作訳新潮文庫P287、「すっくと伸ばす」なら分かるんだけどな。「すくっとのばす」は初見である。例によって広辞苑、これには無いようだ。もっとも広辞苑に無くても他の辞書にあることもあるけど。初めて見たのは事実です。

「折れ合う」もそうだけど、前田氏の訳は妙だ。普通こういう細かいことには気が付かないことが多い(気が付かないから、そういうことがあるのかどうかも分からないと言えるが)のに、この訳ではどうして目につくのだろうか。

細かいといえば細かい。朝の目覚ましアップは細かいのです。適当に鍵盤の上で指を走らせていると目が醒めてくる、というわけで。

それにしても、この「フリーダ、学校の小使い」パートは長過ぎるね。冗長だ。寓話的な意味もあまりないし。