穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

クロソフスキー的随想

2018-11-20 06:36:30 | 妊娠五か月

 尿意を催した日藤智弘はデパートのトイレに入った。便器の前に立ち、ズボンのチャックの間から手を突っ込んで探索するが入り口が見つからない。時々どういう具合か朝寝ぼけてパンツをずらして着用していることがあるので、彼は左右くまなく遠方まで探索したが入り口がない。とうとう彼はパンツを前後ろさかさまに履いたと認めざるを得なかった。かれは後ろを振り返ると空いていた脱糞用のブースに飛び込んで鍵をかけた。ベルトを緩めてズボンをずり下げるとパンツも一緒に下ろしてようやく目的のものをつかみだした。放尿を終了すると彼はズボンを脱いでパンツを履き替えようとした。

  周りを見回すと狭苦しいスペースではそんな作業をするのは無理のようだ。周りの壁は気持ち悪く汚れ放題で一面に落書きがある。中にはハングルのもある。とても壁にあるフックにズボンをかける気にはなれない。便器の蓋を下ろしてみたがこれも汚れている。とても脱いだズボンを置く気にはなれない。

  大体彼は公共の場での大便所には入ったことがないのでその不潔さに驚いた。学生の頃は日中でも外出先で時ならず腹痛に襲われたり便意が我慢できなることがあったが最近ではそういうことがまったくなくなったので外出先で大便所を利用することがここ数年無かったのである。

  小便をしていると、若い男が昼日中でも大便所に入ることが最近は多い。五人のうち三人は脱糞スペースに入る。よほど腹具合の悪い若者が増えてきたのであろうか。こういう連中は放尿スペースが空いていても脱糞ブースに入る。昔から馬上、枕上と並んで脱糞ブースは瞑想に最適の場であると言われている。彼もしばし疑似瞑想状態に陥ったが、いつかテレビか新聞の記事で読んだことを思い出した。近頃の若者は子供のころから母親に小便も座ってするようにしつけられているという。立ってすると飛沫が便器や床を汚すので掃除が大変だというのが理由らしい。そうだ、なにも子供に限らないという。それで若者たちは外でも小便を大便スペースでないと出来なくなっているというのだ。近頃では若妻も夫に小便は座ってするようにしつけるとかいう話だ。妙な世の中になったな、と瞑想から我に返ったわれらが主人公は思うのであった。

 

 


11-4:ドルゥーズ+ガタリの学際的手法

2018-11-03 07:51:14 | 妊娠五か月

自然科学どうし、あるいは社会科学どうしの学際的手法はやむを得ないというかそれぞれの分野が細分化していった経緯から「再統合」のようなことには創造的な結果に結びつく可能性があり意味がある。しかし哲学と科学(と称する分野)との学際的な寄せ鍋は「下品」な感じがする。

それは疑似宗教や新興宗教的手法を連想させる。新興宗教で自分の考えは科学的であると主張しないところはほとんどない。

DGのアンチオイデプスは表題どおり反エディプスコンプレックスだというが、どうも庇をかして母屋を取られているようだ。この「アンチオイデプス」はフロイト説に終始まとわりついている。また三角関係(父、母、子)は近代資本主義社会特有だという。だからエディプスコンプレックスには根拠がないと言いたいのだろう。しかし、そうかな、歴史を通底して今の家族関係は変わらないのではないか。もちろん核家族化ということはあるが親子の関係は歴史、東西を通底して変わっていないのではないか。

そこで著者二人は得意の学際的手法で未開社会のフィールドサーベイに助けを求めた。すなわち文化人類学者の助けを求めた。どうもご苦労様なことであった。この援用がうまくいったようにも思えない。強引すぎる。一つや二つのフィールド・サーベイから一般論を引き出すなど、インチキ健康食品の宣伝文句と異なるところがない。