穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

「村上春樹はむずかしい」か

2015-12-31 13:27:03 | 村上春樹

大晦日で大掃除も終わり、あとはジャンボ宝くじの抽選を待つばかりとなりました。私は紅白を見ないので。そこでアップをひとつ。

加藤典洋氏の「村上春樹はむずかしい」(岩波新書1575)を見ました。読んだとか理解したとは言えないのですが。

もっとも私にとっても村上春樹はむずかしい。どう難しいかというと、なぜあんなに売れるのか、理解するのがむずかしい。テーマとかが難しいというのは加藤典洋氏ですが、たしかに「テーマはなんだ」と詮索すると村上氏はむずかしい。だけどそう言う詮索しようと言う気持ちがそれほどわかない。

私は村上氏の文章はうまいと思うのです。文壇ギルドではあんな翻訳調は、とけなす人たちがいるそうですが、私はそうは思いません。むしろそういう人たちよりかは数段うまいのではないですか。 

しかし、これはあの売れ行きの理由にはなりません。加藤氏は村上氏の初期の作品から順を追って解説しているので、わたしも未読の初期作品をいくつか読みました。すなわち、「短編集中国へのスローボート」や「パン屋再襲撃」です。確かに初期の作品の文章は良い。二、三読んだ後期と言うか最近の作はゴツゴツしていて名文とは言えなくなっている。

加納氏は文章の質についてはまったく触れていませんが、彼のテーマについての「推測」を読むとなるほど、そうもとれるな、とも思います。 

私なりに要約すると村上春樹は左翼運動、過激な学生運動が最後の線香花火をあげている時代にノンポリ学生としてすごした。左翼運動というのは保守勢力に対する否定性を体現しているが、そういう否定性が民衆の歓心を引かなくなりつつあった時代に学生時代を送った。村上氏は団体行動というのが嫌いのようです。これは作家としては正常の部類に入ります。左翼運動が生理的に嫌だからと言って右翼が好きではない。ノルウェイの森を読むと分かりますね。だけど、問題はほとんどの学生が参加していた左翼運動に背を向けていたことが潜在意識で罪障感になっている。この図式でみるとたしかに初期の作品は説明出来ないこともない。 

さすがに評論家は偉いと思うが、私の課題である村上作品が売れる理由が、うまくノンポリ学生の心の動きを捉えた所にあるとも思えない。加藤氏がいうように、それはこういう図式なんだよと教えてもらわないと村上ファンにはそんなことは分からないと思うんですよね。だからそれがベストセラーの理由ではないと思うわけです。

 


田中英光「さようなら」は格好の自著解説

2015-12-23 10:52:33 | 田中英光

さて傑作選のとりを飾るのは「さようなら」である。著者が師太宰治の墓前で自殺するのは昭和24年11月であるが、その月の雑誌に掲載されたもので、短編ではあるが、自分の生活、小説を振り返っている。要領よく(要領よくというのはこの場合適切ではないが)まとめられており、すぐれた評伝あるいはこの本の自著解説に変わりうるものである。 

また、これは田中英光の遺書でもある。自殺する月の雑誌に発表されるなんてタイミングがいい。もっとも小説の中では「生きたまま西行のように死ぬ」と告示しているが、本当に死んでしまった。執筆当時は書いてある通りのつもりだったのが気が変わったのか(つまり擱筆宣言だったのか)あるいはカモフラージュなのかは不明である。

いくらなんでも雑誌編集者が生前に自殺の決意を承知しながら放置して遺書を掲載する訳がないからね。

この中でパンパン(まま、いまの読者に通用するかどうか)のリエのことが出てくる。桂子のことであることは明白だが、前回ふれた桂子もののどこまでが私小説かを憶測させるところがある。

 


田中英光は私小説作家か

2015-12-23 07:23:10 | 田中英光

再度疑問を提出する。しかし、今回は小さな声で: 

彼は何時書いていたのだろうか。桂子という「たいへんな女」と睡眠薬と酒のカルテットを演奏していた時か。

睡眠薬と酒、あるいは覚醒剤使用の症例には詳しくないが、とてもあの彼の小説に描かれた躁状態では執筆どころではあるまい。また、薬が切れたときの極端な脱力状態(田中英光の描写では指一本動かせない)では、これまた執筆出来る状態ではあるまい。また書いてもとてもあの文章のツヤは出ないだろう。

桂子もの、あるいは晩年の無頼派ものは短期間におびただしい作品が発表されているらしい。もっとも、いずれも短編らしいが、一体何時書いていたのだ。

これが演技あるいは誇張で相当程度想像(あるいは創作)で書いていたなら分かる。またあり得ると思う。ある意味で彼の描写は非常に客観的で狂躁状態の当事者が書けるようなものではない。大体そういう時のことは本人は覚えていないというではないか。

無頼派時代の小説には多数の人物が登場するが、後世たとえば西村氏のような人が評伝的な裏付け取材をしているのだろうか。

自分の経験三割、創作七割というあたりではないのか。全然タネがなくてはこれまた書けないからね。それでも私小説というのか、という、まあ、定義の問題ではある。

話は飛ぶがこの辺の「誇張」はハードボイルド小説のいくら鉄パイプで殴られてもピンピンしている。クジラが水を飲む様にウィスキーを飲んでもなんともない、という主人公を連想させる。あるいはヘミングウェーの「日はまた昇る」だったかな、重傷を負った足を手術する直前に種馬よろしくベッドの上で女を相手に暴れ回る主人公を思わせるのである。読んでいる方はしらけちゃうんだが、田中英光のすごい所は読んでいても全然読者を白けさせないというところであろうか。おわり

 


[野狐」田中英光傑作選より

2015-12-22 19:58:59 | 田中英光

著者がいう「大変な女」桂子ものの一つである。この文庫本には「桂子もの」がいくつか収められているが野狐が白眉であると西村氏はいう。下拙は野狐と生命の果実しかまだ読んでいないが、後者より野狐の方が優るようだ。収録の桂子ものはいずれも田中が自殺した年に発表された作品である。これらを読むと確かに私小説であるし、無頼派ものである。

大変な女桂子と睡眠薬と酒の三点セットが作り出す愛欲と創作の狂躁状態を描き出している作品である。この種の作品では他の作者の作品を隔絶している。西村賢太氏の小説がTNT火薬であるとすると、田中英光の桂子ものは原爆級の迫力がある。西村氏が手放しで礼賛するのも理解できる。藤沢清造の場合と違い、西村氏の鑑定は妥当であろう。

これらの作品には津島治先生が登場する。云わずと知れた太宰治である。描かれている太宰治はまことに高雅な紳士であり親切な後進の指導者である。連続心中魔というネガティブ・イメージはない。


田中英光のモデル小説その二

2015-12-21 22:33:42 | 田中英光

「風はいつも吹いている」昭和23年発表。「ぼく」から「私」がナレイターになる。すでに30歳をこえたらしい。「オリンポスの果実」がオリンピック日本選手団」のモデル小説だとするなら、これもモデル小説である。二章からなる短編であるが、第一章は作家と共産党活動家の二足のわらじを履いている。 

ちなみに私小説だとすると、田中は当時沼津の共産党支部の責任者であり同時に小説で稼いだ金を支部活動に貢いでいる。おびただしい人物が出てくるがほとんどすべてが当時の実在の共産党員らしい。名前も容易に想像出来る程度にしか替えていないようだ。小筆はその辺の名前には疎いが宮沢とあるのは明らかに後の共産党委員長だろう。その妻も名前を替えて出てくるがモデルは宮本百合子らしい。他にも沢山中央幹部(主として文化宣伝部か)や地方活動家の名前が出てくるがおそらく、共産党関係者や事情を知った連中は容易にモデルを推測出来るに違いない。

第二章は支部活動の責任者を止めて執筆に専念し、時々上京して自分の作品を行商して歩く場面である。ここにも多数の作家との交流が出てくるが、容易に誰がモデルであるか推測可能である。六車小路のような名前もある。有名な作家もおおいようで容易に判別出来よう。田中が死後その作品の流通が先細りになったのは作品の質というより、このモデル扱いの露骨さ(まさに私小説か)が出版界、小説家達に敬遠されたのではないか。

第二章では東京に来るたびに作家や編集者と飲み歩く様になり、後の無頼派と呼ばれる傾向が強くなっている端緒になった事情の一班がうかがわれる。

驚くのはヒロポンが街の薬局で売られていたことである。

共産党のなかでの人間関係の感情的なもつれが大分書かれているが、このような「愚痴」は小さい頃小筆も昔親戚の共産党員(多分)から聞かされてうんざりした記憶が蘇った。あれは彼らに共通する独特の(聞いている方、読んでいる方は)やりきれない思いがするだけの馬鹿馬鹿しい話なのだが。

注:当時はどの家庭でも一人や二人は共産党員みたいのがいるのが普通の世相でした。我が家が特殊というのではありません。

 


田中英光は私小説作家ではない

2015-12-19 09:39:55 | 田中英光

 オリンポスの果実を読んだ。「ぼく」の回想というか告白体で記述されている。1940年発表(昭和15年)。田中自身が早大生で、昭和7年のロサンジェルス・オリンピックにボートのエイト選手として出場したが予選敗退。

「ぼく」がナレイターで自分が出場したオリンピックの道中記を書いたから私小説と云えるのか。彼の作品で読んだのは講談社学芸文庫の短編数作とオリンポスだけだが、私小説臭のある作品はそのなかにはない。「さくら」という作品は自分の父の実家の伝記風なところがあるが(ただし短編なので挿話風)、こんなものを書いた作家は無数にいる。

おっと、京城(今のソウル)での新入社員時代を描いた作品『愛と青春と生活』のみは私小説のにおいがする。これだけで私小説作家とレッテルを貼ることが出来るのか。

もっとも、自社(自者)作品を差別化して付加価値を付けようと自分で私小説を売りにする作家もいる。それは自由であるが、田中英光自身が自分を私小説作家と称していたのか。

太宰治の子分であったから、そう分類されるのか。太宰の初期作品は私小説であると説を立てる者もいるようだが。あるいは彼自身が自分は私小説作家であると云っていたなら何もいうことはないのだが。

ロサンジェルスでのメダリストはほとんどが競泳選手である。ほかに陸上では走り幅跳び、棒高跳び、三段跳びである。それに大障害馬術のみである。団体競技ではホッケーが銀メダルなんだね。女子選手もたくさん出場したようだが、メダリストは競泳の前畑のみ。

この小説を実録風、ノンフィクション流に読むという手もある。「ぼく」と女子選手達の話が相当部分を占めるのだが、嘘かまことか、当時の世相でよく書けたなというところはある。つまり寄宿舎の女性監督風の観点からは問題な箇所がある。

まだよき時代であったのだろう。これが次のアムステルダム・オリンピックあたりになると世相も大分軍国主義的になっていて、たしか馬術の選手(軍人)は入賞を逃したら上官から死ねとか云われたことがあるらしい。

昭和初期のモガモボ(モダンガール、モダンボーイ)時代の終わりで満州事変も始まる直前の「よき時代」の終わりであったようだ。私事になるが、親戚の女性が陸上の選手として参加していた。勿論入賞もしていないが、この小説をみて女子選手団の船上での比較的奔放な行動を読んで、彼女たちのことを思わず想像してしまった。

今のオリンピック選手団の女性の行動の方が当時よりも監視されているみたいだ。マスコミも群れているからね。

付け加えると、ボート選手のなかで年少の「ぼく」はいじめの対象になっていて、その情景がやけに詳しく描かれている。いじめ告発までは云っていないが、体育会風の今に続くいじめとあまり変わらないようだ。

私小説の定義の一つに社会とのつながりが希薄である、あるいは峻拒しているというのがあるらしいが、この小説は女性選手たちとの交流、ボート選手の間のいじめ、現地での二世や外国人女性との交流等むしろ非常に幅広く描写されている。その意味でも私小説と囲い込むのは『贔屓の引倒し』ではないかと思うのである。

 


田中英光傑作選

2015-12-17 19:17:52 | 田中英光

本日市中徘徊の途次妙な本を見つけた。角川文庫「田中英光傑作選」西村賢太選・解説。先月発行。 

2年以上前に田中英光の「桜」という作品の評をこのブログで書いた。講談社学芸文庫にある。二十年ぶりに第二刷が出た機会に紹介した。彼の一番有名な作品(そう言う意味での代表作)「オリンポスの果実」は新潮文庫にあるというが、今は手に入らないと書いた。 

角川文庫の解説で西村氏は新潮文庫でしか田中英光の作品は発行していないと書いているが、新刊本で現在まで手に入るのは上記の「桜、ほか」のみだった。いずれにせよ、彼の作品としては一番言及される「オリンポス」ほかが今回手に入る様になったわけである。

西村氏は一時田中英光に入れこんで、その後藤沢修造に入れこんだらしいが、相変わらず田中英光氏にぞっこんらしい、解説文を読むと。

藤沢修造の作品は西村氏の努力で新潮文庫に確か代表作という「根津権現裏」が収録されていて、この評もこのブログで書いたが、かなり程度がひくいものだったので意外に感じたことがある。さて、田中英光の場合はどうだろうか。


浅井リョウ「何者」はシャドウ・アカウントの名前

2015-12-13 08:02:03 | サリンジャー

ネタバレという田舎者センス丸出しの言葉がある。作家を物書きという表現とともに正調日本語から追放すべき言葉と思われる。 

のっけから青臭い議論で申し訳ない。

さて、「何者」を読み終わりました。アメリカ留学帰りの女性リカさんが突如般若の面を被って終盤あらわれます。般若というのはいささか現代の若者にはイメージ喚起力が弱いからゾンビとでもいいますか。

リカさんがゾンビに変わる予兆はないのでありますが(それだけ効果があるのかもしれない、作劇術上は)、登場人物のひとりニノミヤタクト君に襲いかかるのであります。

「何者」というのはタクト君のシャドウ・アカウントであります。最後の2、3頁に内容が出ていますが、さしたる毒のある内容ではないが、就活中のリカさんがこのアカウントをタクト君に結びつけて激怒するわけです。ま、これがネタバレね。

従来型の小説構成では、なかよく就活をしていた仲間の一人が、他の連中を冷たい視線でみていて、それを匿名の手紙とか陰口で触れ回っていた、ということになります。

それをツイッターという若者文化で作劇したという所が新しい(といえば新しい)。

これは作品の感想とは関係ないが、毎年ある時期になると街にネズミの大群が現れる。男ならダークの背広、茶髪は脱色し、女性ならおなじダークの所謂就活スーツ姿でビジネス街を埋め尽くす。異様にして不愉快な現象が現れます。若者の結局は付和雷同性がもろに感じられて不快なものです。学生時代にはいい加減な生活を送って来たのに一変する。そうして運良く採用されるとあっという間に特徴のないサラリーマンに見事数年のうちに変身する。

ま、めくじらを立てるほどのことではないが、これからの日本は若者の活躍にある、なんて本気では云えませんね。

 


浅井リョウ「何者」

2015-12-12 07:35:23 | 直木賞と本屋大賞

文庫で300頁でいま200頁。これ芥川賞だろう、とカバーを確認。やはり直木賞。芥川賞で技能賞という感じなんだけどね。就活学園物語だが、これ、エンタメなのかな。そう早くは読めない。現在の芥川賞のレベルでいえば、芥川賞でもおかしくない。

暫定評価60点、最後まで行くと(行けそうだが)すこし変動するかも知れない。直木賞で文庫になったのでは最新の受賞作じゃないかな。

「なにもの」と云われるような実のある(実績のある、世に出た)人間になろうとする若者の欲望を描いたものかな。

振り返ると(そのくらい昔になるが)私の学生時代当時の希望(ネガティブなもので)は「何者にもなりたくなかった」若者であった。「何者」になるということは自分をはっきりと限定してしまうことで、それが当時の私には一番の恐怖であった。

だから定義不能、何者にもならなくて済みそうな哲学を消去法で選んだ。

さて、この小説、ツイッターを多用している。この方面に不案内な小生がインターネットであさると、このようにツイッターを取り込んだ小説は初めてだそうだ。それなら技能賞ものじゃないかな。

普通の小説のモノローグというものをツイッターで表している。そして主人公だけではなく、登場人物全員のモノローグで構成している。三人称多視点のモノローグというのは珍しいんじゃないかな。従来型の小説ではこう言う時には

1:手紙を援用 2:立ち聞きという手を使う 3:伝聞、噂

を使う手があるが、せいぜい一人の視点のみだ。

 

ツイッターはやらないが、登場人物の一人の言葉だが、ツイッターというのは最大140文字で自分を表現しなければならないから、なんだったかな、自分をもっとも強く表現するだったかな、なにかそんな制約だか、メリットがあるとか云う。それもいいが、四六時中ツイッターでこんなことをするのは健康に悪いね。

云ってみれば、お湯を沸かす時に10秒ごとに一番熱くなっている表面を掬って放り投げているようなもので、永遠に対流は起こらない、すなわちお湯は全体として沸騰しない。料理だってそうだろう、土鍋に蓋をして一時間じっくりと煮る。

ツイッター世代には精神的構造物を完成する能力はないのではないかな。

続く(予定)

 


解釈過多の「サリンジャー戦記」

2015-12-08 08:45:52 | サリンジャー

150頁ほど読んだがほとんどキャッチャーの話らしい。フラニーについての村上春樹氏の褒め方に違和感を覚えてもう少し詳しく解説を読んでみたいと買ったのだが早とちりだったようである。

で、キャッチャーのはなし。村上春樹氏と柴田元幸氏の対談が中心のようだ。不審なのはキャッチャー(以下C)が1950年代の若者を取り巻く状況を反映しているというところだ。この主張は本書のベースになっているし、相当部分を占めている。1940年代でもない、1960年代でもない、という。

16歳のミスター・ホールデン(16歳でミスターというのは変だが、当該書籍に倣う)の突っ張りは1950年代のアメリカの「転換期の」閉塞状況を反映している、という説(私はそうとりました)。

私は主人公の突っ張りには時代も何も関係ないと思います。でなければ今読む意味も無い訳だ。16歳で生意気な知恵のつき始めて戸惑う若者なら何時の時代でもああいうのがいる。それをうまく表現しているというだけだ。

ところで、サリンジャーの原書がないという話をしたが、別の書店にいったら、安っぽい活字の細かい、粗悪な紙に印刷された(いかにもフォトシュタットからおこしたような)小型本がありました。4作とも平積みでやんした。前回の記事を補足しておきます。

Cが時代を反映しているのではなく(時代の産物ではなく)て、1950年代の若者の読者にアピールしやすかったという表現なら分かります。真偽は判断出来ませんが、文章としてはスジがとおる。

両氏の主張の背景にはアメリカ文壇(批評界)で確立しているそういう見方があり、それにそった意見とは思いますが、それも含めて理解しにくいところです。

この書は村上氏が主張して、柴田氏が聞き役という印象です。

注:サリンジャー戦記 文春新書330 村上春樹・柴田元幸

 


楽譜と演奏

2015-12-07 19:50:09 | サリンジャー

解説を読まずに直接作品に当たれと云う人がいる。どうだろう。未成年の場合は(岩波少年文庫読者層みたいな)は変な解説でバイアスがかからない方がいいかもしれない。 

解説あるいは批評にもろに暗示を受けたりする人は直接作品に当たった方が良いかも知れない。 

批評にもひどいものが多いのも事実であるが、参考になるときもある。音楽に例えると生の演奏会でも演奏者の解釈が原作(楽譜)に加わっている訳である。ほかに、レコード、CD,BRDもある。またFM放送等もある。いずれにしても原石からの光は屈折して最終鑑賞者には届く訳である。

小説の場合の翻訳、解説、批評などもある意味では原作の屈折である。ときには拡大鏡の役目をはたす。なにしろ商売にしている専門家の解説である。針の穴をつつくような細かいものがおおいが、一般読者が読飛ばしてしまう所をくどくど解説している場合など、そうかそうして見るとなどと、一時停止すると感興がわくときもあろうというものである。

解説、批評を読む楽しみは論駁する楽しみである場合もある。そうかなあ、そうじゃないだろうというわけである。次回は村上春樹・柴田元幸氏の「サリンジャー戦記」をあげつらってみよう。

 


フラニーとズーイの突っ張り合戦

2015-12-06 17:40:39 | サリンジャー

 ようやっと読み終わった。といっても最後の2、30頁は読んでいない。読むに耐えない。サリンジャーはライ麦畑とこれしか読んでいないが、突っ張り小説しか書けないのかな。ライ麦畑より兄と妹はそれぞれ10歳ほど年上だ。もっともライ麦畑の兄弟がそのまま成長した訳ではない。名前が違うし。

突っ張り小説という点では同じだ。それもきょうだいの場面だけで。よほど何かがあるのかな、特殊な状況設定を繰り返すのは。さてこの本の兄の方は25歳くらいの役者である。妹は20歳くらいの大学生。すべての知り合いをくさしているのはライ麦と同じ。ライ麦のときは高校生だから突っ張りも面白みがあったが、良い大人がこれじゃ興ざめだ。

この本についての、どの評論でも宗教がらみ(特にインド、日本の、仏教や禅の)の屁理屈を深刻に受け止めてまじめに研究している。評論家の中には大真面目で頭をひねっている人もいるらしい。笑うべきことである。

村上春樹氏の解説によると、ライ麦畑に続きニューヨーカー誌上に掲載された本書も大変うけがよかったという。ニューヨーク知識階級のハイブラウぶり(間抜けぶり)に敬意を表しておこう。

サリンジャーは本書を最後に擱筆したというが、これじゃ書き続けられないだろうなと思う。精神病院にでも隠遁しない限りこの延長線上の作品はかけないだろう。

 


fz at 153p

2015-12-05 17:20:41 | サリンジャー

フラニーとゾーイを153頁まで読む。ショウペンハウアーが良い小説というのはどうでもいいことを長々と書くことだと書いていたのを思い出した。勿論肯定的な意味でね、なぐさみものとしての小説として。彼の念頭にあったのはかの「トリストラム・シャンディだったらしいが。

ところでサリンジャー戦記で村上春樹がしきりに文体文体というので原文を買おうと思ったが手に入らない。東京で一番品揃えがいいと思っている書店にいってみたが、サリンジャーの本は一冊もなかった。

村上訳は、それはそれで彼の訳だから、それなりのまとまりを見せて入るが、何カ所か一体原文はどうなっているのだ、と疑問に思う所がいくつかあったものだから原著をあたろうとしたのだが。


「フラニーとズーイ」を買った理由と読む理由

2015-12-04 08:36:24 | 村上春樹

新潮文庫で村上春樹訳のサリンジャー「フラニーとズーイ」が書店徘徊中目に入った。新潮文庫用に新たに「訳し下ろされた」ものだという。平成26年3月発行同五月二刷と奥付にある。彼の訳してはあまり売れないようだ。そのせいか、初めて気が付いた。

表紙のコピーによると、フラニーが妹でズーイが兄だという。サリンジャーには「ライ麦畑で捕まえて」というのがある。どこの進学校にいっても、すぐに放校処分を受ける突っ張り少年のニューヨーク三日間の放浪記である。全編が16、17歳の突っ張り少年のモノローグである。冗長であるが、リズムを刻んだ文体でとにかく読ませる。 

それだけで終わればそれだけのことだが、少年が最後に行く所がなくなり、金もなくなり、深夜こっそり家に戻る。そして妹の寝ている部屋に入る。10歳くらいの少女である。この少女が目を覚ましたあとの話が実に良い。

兄、妹を描いた小説は他にもあるだろうが、これほど印象に残る小説には出会わなかった。社会に対して、学校に対して突っ張り続けた少年がにわかに妹に慕われる兄として描かれている。この〆が無かったらこの小説はピッピーのバイブルに留まっていただろう。

この記憶があるから、文庫のコピーで兄と妹物語だと書いてある点に注意を惹かれた。今度はどういうバージョンかなというわけである。とりあえず買っておいた訳であった。

まだ読んでいない。サリンジャーは訳者に解説をつけることを禁じているが、ひょっとしたらこの本には村上氏の解説があるかな、と頁をパラパラとめくっていたら折り畳んだチラシ様のものが出て来た。読むとこれが村上氏の解説なのである。現著者(亡くなったらしいが)あるいは版権者から解説をつけることはやはり禁止されているらしい。それで村上氏が工夫したようだ。かなり長い文章であるが、それでも書き尽くせないので続きは新潮社のウェブで見て欲しいとある。http://www.shinchousha.co.jp/fz という訳である。

これを読んで驚いた。村上氏の入れこみ方が尋常ではない。かれはすぐれた後書き作者(あるいは書評家、批評家)であるが、ときには手放しの賛辞になることはあっても、なんというかdetachedな客観性がある。ところがこの文章の書き方は彼の書評では初めて読んだ。記述は抽象的で最大級の形容詞を連ねている。

ちょっと、興味をそそられるではないか。まだ読んでいないが、読もうと思う理由である。

 


村上春樹氏の高校図書館貸出記録流出

2015-12-02 08:23:08 | 村上春樹

ちょっとした議論になっているようだ。高校時代というと右も左も分からない時代で成人の場合と分けて考える必要があるかもしれない。 

ネットなどの孫引き報道によると、廃棄処分になった記録を調べていた臨時雇いが大分前に廃棄処分になっていたらしい資料のなかに見つけたらしい。捨てろと云われた臨時雇いが一々内容まで読んだというのも解せない所だ。臨時雇い(ボランティア)が村上春樹氏の貸し出し記録を見つけてご注進ご注進と神戸新聞に持ち込んだ(売り込んだ?)のを神戸新聞が理屈をつけて転載したという。

中学高校時代には学校の図書館を利用したこともあるが、成人してからはなるだけ図書館を利用しない様にしている。よほど特殊で新刊書店で入手出来ない資料(年鑑など)を図書館で必要に応じてまれに見るくらいである。小説の類いは図書館を利用することは皆無である。このことはこのブログでも再三触れて来た。同様に古本にも手を触れない。ま、人様々である。

図書館の規則に抵触するか、学校図書館の場合はどうか、一般的なプライバシー保護の観点からはどうか、など様々な意見があるようだが、ここでは見られる側の気分から述べたい。もっとも人によって色々でおれは若いときからこういう難しい本を沢山読んでいると自慢する鼻持ちならないヤツもいる。

ちょいと脱線するがこういうヤツの例を思い出した。高校時代に学校に講演に来た東大教授である。フランス文学の権威である。名前はだれでも知っているからここでは出さない。その人が高校時代におれは毎日三冊本を読んだと自慢するんだね。こういう俗物もいる。沢山いるかも知れない。

村上春樹氏は自分の著書の行商で表に顔を出すことがない。彼の性格からすると今回のことは不愉快だろう。

ひるがえって(大げさだが)自分の場合を考えると何が嫌だと云って家に来た客が本棚の前に立ってしたり顔に長々と本棚を点検して感心した様に褒めることである。

私に取って本棚の本は排泄物である。人に排泄物を見られて喜ぶ人間は少ない。読んだ本は食物と同じでその1パーセントから X パーセントは咀嚼吸収されて身となりエネルギーとなる。残りは排泄物として本棚という一時保管所に並べられるのである。

そして実態をいうと、咀嚼率というかエネルギー変換率は平均して低い。せいぜい10パーセントであろうか。換言すれば下らない本を読むことが多いのである。何しろ活字中毒だし、世の中そんなに安くておいしいレストランはおおくないのである。しかし食べなければ(読まなければ)飢餓状態になる。そういうことだ。

エネルギー変換率が低いということは読書傾向が低俗ということかも知れない。それで、なおさら人が泥棒の様に目を皿の様にして本棚の前に立つのが我慢がならない。

村上春樹氏の場合はどうかな。