PCの不調があって、また雑用が重なってブログのほうがお留守になっていました。お許しください。
その間さして本も読まなくて、また書評の意欲のわかない本が多くて失礼しています。
現在新潮文庫で村上春樹訳の「心は孤独な狩人」の鳥羽口を読んでいます。村上が絶賛していますが、どうも退屈で興がのらない。高名な作者じゃない、訳者に敬意を表して今少し辛抱して読んで見ます。
PCの不調があって、また雑用が重なってブログのほうがお留守になっていました。お許しください。
その間さして本も読まなくて、また書評の意欲のわかない本が多くて失礼しています。
現在新潮文庫で村上春樹訳の「心は孤独な狩人」の鳥羽口を読んでいます。村上が絶賛していますが、どうも退屈で興がのらない。高名な作者じゃない、訳者に敬意を表して今少し辛抱して読んで見ます。
相変わらず辻村深月『傲慢と善良』126ページ。
婚活中の相手の女性がストーカーに付きまとわれて疾走もとい、失踪するという記述が延々と。
仄かに推測するに「ストーカーされて失踪」というのは胡散臭いがこの推測が当たるかどうかは辛抱して読まないとわからない。
驚くのは、読んでいて、現代の婚活事情である。昔からの結婚相談所からインターネットの婚活サイトまでの記述。三十代で婚活システムを利用したのがほとんどみんな百人くらいの相手と婚活しているというから驚くじゃないか。
主人公のプレイボーイらしい会社社長すら婚活相手は50人というから驚く。飯を食う暇もないじゃないか・
大体でこういう風俗を扱った小説では「数字の根拠である調査を巻末で表示するが、辻村さんは出典には触れない。本当かどうか不明だ。嘘八百にしても唖然とする数字だ。
この実態というか、婚活事情というのは本当なのかね。なんだか悲しいし、グルウミーでSF的だ。
主人公の女性も婚活していたので、ストーカーも婚活相手のなかににいるのではないかと、男が女の昔の婚活相手を虱探しに調べて、探して長い巡礼の旅に上るというのが筋らしい。やれやれ。
へへへというのは照れ笑い。前回架という名前にルビかないといったが、もう一度最初から読んだらルビがついていた。西沢架(にしざわかける)という名前でした。
どうもそそっかしくてお恥ずかしい。なるほど、カケルならひねりはない。そうでもないか、やはり珍しいかもしれない。
西村健太がどこかで言っていたが、ルビを付けるのは著者ではなくて編集者らしい。どうりでおかしいのが多い。つけなくていいのにつけたり、振らなければわからないのにつけなかったり。
入眠恐怖(入眠できない恐怖)を避けるために深夜読書のために辻村深月の{傲慢と善良}を買った。タイトルはイギリスの女流作家からパクってきたようだ。例によって帯によると映画化されてベストセラーだという。
この本でもルビに捧腹絶倒ものがオンパレードだ。主人公が「架」というらしい。こんな名前は見たことがない。それなのにルビが降っていない。男か女かもわからない。しばらく読んでいると男らしい。
そこで漢和辞典の名前読みを引くと「か、かける、かる」などの読みがある名前では「みつ」とよむとある。さすれば「みつ」と読むのであろう。しかし読んでいくうちに男であることがわかる。
そうすると、みつでは女みたいだ。作者というか出版社はなんとよませるのだろうか。
感心するのは読者が黙っていることだ。世界で一番扱いやすいのだろう。日本の読者は。
医者の睡眠論に「夜読書をすると眠れなくなる」というのがあるが、私の場合は「読むものがあればすこし読書をすると睡眠モードに移行する。例えばドストエフスキーの作品はそのようにして読み始めた。難しい文章のほうが頭が疲れるからか、睡眠に移行しやすい。読むに堪えない文章はそもそも読んでも始まらない。
眠気覚ましに興をもって読める作品が良書を見極める目安となる。その意味からするといまよんでいるロスマグの「さむけ」は落第である。今150ページくらいだが、どうしようもない感じになってきた。
なにか、はやりの精神分析を援用しているつもりか、力んでいるがどうしようもない。こういうのは現代の日本の小説にも多い。小説でも「心理学」を援用しているのが多い。勘弁してくれよ。
ようやっと読み終わった。ひどい作品で、書評を書く気もなかったが、訳者や出版社の褒め方が、言いぐさがひどいので誤解を避けるためにも、やはり一言言っておいたほうがいいのかな、と思ったのでちょっと触れる。
要約すればドストの作品としてはひどいの一言に尽きる。着想、キャラ建はいいのだが、作品としては最低である。
出版社や翻訳者の惹句はすざましいのだが、まあ、30点だろう、ドストの作品の平均点が75点とすれば、25点くらいかもしれない。
訳者の解説に丸谷才一がドストの作品ではこれがいいといったと紹介しているが、本当に丸谷がいっているなら、ひどい話だ。こんなに褒めて恥ずかしくないのかな。
ほんちょっと後の作品で「死の家の記録」という良い作品があるが、それとの比較にもならない。
飛ばし読みで半分くらい読んだかな。
感想「冗談じゃないよ」
文章拙劣退屈
散歩の場面があるが、散歩の描写は一番文章力が問われるが、この作者はD級である。テーマが面白くないし、描写が拙劣、読むに堪えず。
盤上の向日葵、読み終わる。どうやら終盤持ち直したようだ。読み終えた。
思い出したが、囲碁にも将棋と同様、素人で強いやつで金銭を賭けた「勝負師」というのがいたらしい。
間接のまた、間接でそれらしい人の話を聞いたことがある。呉清源に四目置いたら絶対に負けない、と豪語していた。
ただしその人は大学教授で賭け碁はしなかったらしいが、そういう人たちと囲碁を打っていたらしい。
王将とかいう演歌があったが、あれも真剣師(賭け将棋)を歌ったんじゃなかったっけ。
前回作者、というより出版社
に難癖をつけたが、なかなかの書き手ではある。
岩波文庫西永良成訳で100ページほど読んだ。共産主義国での学生運動のごたごたを一個人、おそらく筆者の経験、をもとにして書いている。日本の同時代の学生運動と比較してみると面白いかも。
チェコでは国家は共産主義体制であり、学生運動は政府に追随補完する役割である。行ってみれば戦争中の翼賛体制での町内会の役割だ。
対して日本の同時代の学生運動はアメリカの支配の濃い自由主義体制に対する強烈な反発である。したがって日本の当時のほうが運動は激烈、容赦のないものだった。テロ、凄惨な内ゲバは日常茶飯事だった。もちろんシナ、ソ連の強力な支援のものに。
クンデラの描く学生運動は生ぬるく、ガールフレンドへの手紙の内容にケチをつけるようなことをしていたらしい。そして、驚くなかれ、女子学生に付文した主人公は学校を追われて地方の軍隊に入り炭鉱で働かされる。
体制に阿諛追従する学生運動はやりたい放題というわけだ。そのかわり、日本のように激烈な反体制運動とは無縁である。
その辺の事情をくみ取れば、まあ、比較一読の価値はあるかもしれない。
城以外の作品で男女交合の描写はカフカでなかったと思う。それがまた、なんというか即物的なんだね。これがカフカの最後の作品だが、話は飛ぶがチャンドラーも最後の作品、なんと言ったかな、プレイバックだと思うが、すたこら登場人物がくっ付いて唖然としたが、カフカの場合はもっと味気ない、言ってみれば鉱物と鉱物がぶつかったみたいな描写だ。一言で言えば全然なっていない。
ともに最晩年の作だが、チャンドラーの場合はもう70歳だからまあ、そんなものか、と思うが、カフカは確か36,7歳だろう。あの味気なさはある意味で唖然とする。
またぞろ、退屈なカフカの「城」を読み始めた。理由はわからない。ほかに食指が動かなかった、というのは説明になるだろうか。
ま、難解、というより、訳の分からない小説を苦労して読むほうが、退屈しのぎになるという理屈かな。ところが第五章にきてこれはカフカの官僚論(もちろん極端なである)と気づかされた。
官僚は過ちを犯してはならない、というよりか、官僚は過ちを犯す能力がもともとないという無謬論を極端に推し進めた小説と気が付いた。訪問した村長宅でこれまでの経緯を説明されるのだが、官僚は過ちを犯さない、というより、実体論として過ちを犯すことなどありえない、という極端な議論で測量士招聘めぐる経緯を説明される。つまり神は無謬である。その無謬論は現実には多数の矛盾を発生させる。測量士の招聘問題はそれである。
他方小説「審判」は対照的に大衆組織の無謬性というか後戻りできない宿命を描いたものだと納得した。組織された大衆と官僚の無謬性を描いた兄弟的作品であることに気が付いた。
私は専門家の種々の「カフカ論」についてはまったく無知である。この見解が大勢を占めるかどうかは分からないが。おそらく極小意見であろう。
村長の説明は小説の核心の謎解きになっている。カフカの小説で親切に謎解き部分を設けているのは、この小説だけだろう。
とにかく、第五章はカフカには珍しく謎解きを設けている。
年末から、ご苦労にもマスコミを翻弄したぱーてい券のキックバック問題を検察が有耶無耶にした経緯はミニ「城」の問題を想起させた。
萩原氏の作品は直木賞を取った「海の見える理髪店」の書評をした記憶がある。たしか褒めておいた記憶がある。
今度「噂」というのを買った。出だし快調だったが、おしいかな、終盤だれてきた、300ぺーじあたりから。もっとも500ページ弱というのは長すぎる。
東野圭吾の作品はこのブログの範疇とはちょっと離れているが、この人の作品はかって二作取り上げた。容疑者Xの?、白夜?である。容疑者Xの場合は可能性があると評価した。白夜はあまり評価しなかった。
こんども気の迷いから東野の「分身」を読み始めた。あまり説明する理由はないのだが、、
表紙のデザインや帯になにかひきつけられるものがあるのだろう。これは出版社製作者に対する評価である。
最後まで読んでいないが、帯などによるとクローン問題を扱っているらしい。構成は二人の若い女性、これがクローンらしいのだが、章ごとに変わりばんこに主役となっている。クローンだからある面では区別できないほど似ているという弁解も成り立つのだろうが環境は、違うのだし、ある程度キャラ建ての区別は必要だろう。そのほうが最後の落ちで説得力が出てくるのではないか。
この作品では平板な書きぶりで、読んでいるとどちらがどちらか区別できない。最後まで読むかどうか迷っているところだ。