穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

ジャック・ロンドン「荒野の叫び声」

2014-06-30 20:59:14 | 書評
久しぶりに小説の書評です。私が好きな小説というのは二種類に分かれます。前に話したかも知れない。一つは「ムンムン度」満点の小説。あるいは腹応えがいいというか。ドストエフスキーなんかがそうですね。もう一つは名文。

なにもこれは小説に限りません。文章で書いてある物ならジャンルに関係なくです。デカルト、カントよりもショーペンハウアーとかね。これはムンムン度と名文と兼ね備えています。

小説で名文というのは極めてまれです。ま、永井荷風ぐらいしか知りませんが。
それも随筆と小説の中間のような、たとえば濹東綺談など。

ムンムン度でいうと、日本の小説にはありませんね、私の乏しい読書体験では。ドスト以外では「白鯨」と今回取り上げたジャック・ロンドンの「白い牙」とか「荒野の叫び声」。いずれも動物小説なのは妙だ。

「白鯨」は老船長が主人公で白鯨はシャドウだが、キングの小説によく有る様に。動物の情念(というものがあるとして)、執念、衝動などが人間の生々しい情動のように描かれているからでしょう。

「白い牙」と「荒野の叫び声」は主人公は犬のような、オオカミのような。舞台は酷寒のカナダです。むかし「白い牙」を読んでなかなかの物だとおもっていました。今回「荒野の叫び声」を読んで最初の方は「白い牙」のほうが上かな、これは似たテーマの習作のようなものかな、と感じたが読み進むうちにどうしてなかなかのものだと思いました。

郵便そりを引く犬達なんですな。19世紀の末だが、まだあのあたり、当時ゴールドラッシュだったカナダ北部とカリフォルニアなどを結ぶ郵便は犬ぞりしかなかったようです。この設定がいい。もっとも、著者もゴールドラッシュで一儲けしようと行ったらしいが、そのときの経験がうまく使われている。金は見つからなかったらしいけど。

なんだが、サンテクジュベリの「夜間飛行」とか、「南方航空便」を連想させる。あれも草創期の郵便物航空輸送の冒険物語だったかな。もっと、サンテクジュベリは私には面白くなかったが。



ヘーゲルの読み方

2014-06-27 14:04:44 | 書評
ヘーゲルの読み方には二種類あると思う。

一つは禅の公案のつもりで読む。公案というのは支離滅裂、論理不整合の短文を意味があるものとして解釈しろと師匠から強制されるものである。

これが無意味の様に思われるが、でたらめな文章に意味を見つけようとして頭を労するうちに、アーラ不思議独特の理解と言うか心境に達する。だから昔から教育手段、修行の過程として繰り返されてきた。

ヘーゲルの言葉を公案と思って10年も取り組めばなにか得るものがあるだろう。

二番目はヘーゲルの書き方の癖に注意することだ。ヘーゲル自身がちらっと漏らしているが、自然科学と違って哲学では最初に定義や公理が来るものではない。もっともスピノザは幾何学みたいに定理から演繹して行くがね。ヘーゲルの方法ではない。

また、哲学というものは円環作業でどこが始まりということはない。つまり山手線だ。どこが始発という訳ではない。

この二つのヘーゲルの著述法から出てくるヘーゲルの読み方は、分からなくても止めないで、何回も読むことである。10年、20年かかるかもしれませんよ。

実は第三の方法もある。詳しくは書かない。別に著作権はないがね。ヘーゲルの弁証法はすべてが否定されながら、すべてが引き継がれて行くところにある。したがってこれまでの哲学の諸説がすべて取り入れられていると思ってよい。勿論濃淡はある。それを見つけ読解の手がかりにする。そのためには彼の「哲学史講義」を参考にするといいだろう。わりと手間が省けるかもしれない。



ドストエフスキー「二重人格」とヘーゲルの自己意識

2014-06-23 21:53:27 | 書評
大分前に何回かドストエフスキーの「二重人格」という小説について書いた。二重人格というのは岩波文庫の訳題である。訳者によっては「分身」とするものもある。私は「生き写し」という訳が適切だと内容を読んで思った。英訳では(ペンギン・クラッシック)ではdoubleとなっている。要するにドッペルベンガーである。二重人格と言うといかにも安っぽい心理学や精神医学用語のようだし、内容というかテーマと全く違う。

以上は何回も書いてきたことであるが、なぜまた取り上げるかと言うと、現在何回かヘーゲルの話をしているが、精神現象学の自己意識のあたりで自己意識というのは他者あってのことであって、自己意識(対象意識)は自分を脱して外へ出て行って否定されてまた自分に戻ってきて自己意識になるというようなことが書いてある。

それでドストのダブルを思い出した。ドストは処女作「貧しい人々」が批評家のベリンスキーに認められて世にでたわけだが、このベリンスキーがヘーゲリアンだった。

精神現象学が1807年出版、二重人格が1846年出版、ドストは直接読んだか人に聞いたか、内容を知っていた可能性は十分にある。そこで師匠のベリンスキーの気を惹こうとヘーゲルをコミカルにパロッてやろうと二重人格を書いた可能性があるのではないか。間違いなく新説である、誰もそんなことを言っていないと思う。だからここで書く訳だが。

ところがこの作品は前作と異なりベリンスキーにはまったく評価されなかった。作品の世間の受けも全く悪かった。ベリンスキーには訳の分からない奇妙きてれつな作品に見えたらしい。「なんだ、これは」と言ったとか。

「なんだ、これは」というのは現代の日本にいたるまでの世間の評価であるらしい。私は、前にも書いたが、よく分かるし、面白いし、ドストエフスキーが意気込んだ様に彼の傑作であると思う。

彼の作品は「貧しい人々」の系列と「二重人格」の系列がある。前者の系列は「虐げられた人々」、「白痴」などであり、後者は「地下室の手記」、「罪と罰」、「カラマーゾフの兄弟」などに続く。

実質的な処女作(発表は二番目)である「ダブル」は後者の系列でも最高の部類に入る。「貧しい人々」は白痴などに比べると大分質が劣るが、「ダブル」は同じ時期のごく若いときの作品であるにも関わらず、この系列の最高水準に達している。おそらく「地下室の手記」より上の作品と言えるであろう。





ヘーゲルの臭気

2014-06-22 21:42:02 | 書評

自己意識あたりを読んでいる。なんだか急に読みやすくなったような感じがしてきた。内容が易しくなったというのではない。話の持って行き方がなにかに似ているな、と気が付いた。

こりゃあ、フリーメーソンじゃないか。私は会員でもないし、会員以外には内実は知ることが出来ないことになっているが、世に出ている解説本の類いは読んだことが有る。

言っていること、話の持って行き方はフリーメーソンそのものだ。ヘーゲルの後期の作品は哲学史講義しか読んだことがないから、後の作品がこうも露骨にフリーメーソン風かどうかは知らない。

しかし、彼の処女作である『精神現象学』はフリーメーソン風だし、カバラ風、更に言えば古代末期のヘルメス文書を彷彿とさせる。

そういえば、哲学史講義でも類書には珍しく中世、古代末期の哲学者、異端の思想家の記述が多かった。

友人のシェリングはフリーメーソンだったというし、彼自身が後にはベルリン大学の総長になり、御用学者と反対派から言われたが、実際には警察がヘーゲルの身辺を観察し続けたという話も有る。フリーメーソンにつながりがあるとにらまれていたのだろう。

そう言えば彼の急死にも不自然なことがある。コレラで死亡したというが、発病の翌日に死んだという。なにか訳があるのかもしれない。フリーメーソンの秘儀を公にしたというのでグランドマスターから暗殺指令が出ていたりして。





ヘーゲルをとらえるいくつかの枠

2014-06-21 10:04:00 | 書評
前回は彼の思想の背景には神秘体験があると述べた。

それと関連して、その他に、ドイツロマン主義や啓蒙思想(合理主義)の枠が有る。

また、カントが課した物自体不可知論の桎梏を必死で逃れようとしたドイツ観念哲学共通の特徴がある。

彼の青年時代の親友としてシェリングと詩人ヘルダーリンが有名である。シェリングには後思想的に批判的となるが。

青年時代は啓蒙思想に染まり、フランス革命に熱狂した学生時代であったらしい。彼の合理主義、理神論、ハッピーエンド思想には濃厚に痕跡を残している。

理神論は超越神を否定し、内在神的で彼岸を否定するところに至る。

カントは物自体は不可知だよ、というが青年達は到底そこまで諦観出来ない。以後の観念論はすべてなんとかカントの桎梏を逃れようと試みるあがきである。

フィヒテは主観、自我がすべてというオプション、シェリングは後期に至り宗教とか芸術で理屈なしに彼岸を知ることが出来るとしたためにヘーゲルから揶揄された。

カントの直系弟子を名乗るショーペンハウアーは「盲目的意志」なるものが物自体の正体であると遠慮がちに主張した。

E・ハルトマンはそれは「無意識」なんだよ、という具合。

ヘーゲルも物自体という分からない世界があるわけではない、というわけだ。彼の手品師みたいなロジックのラビリンスはそれをいいたいわけだ。

一番がっかりするのは、絶対精神が自己をフルに世界に開陳したあと、そこから先がないことである。ハッピーエンドのおとぎ話である。なんだか、すぐに認知症になりそうな感じである。




あいかわらず「たわごと」を読んでいます

2014-06-21 07:35:10 | 書評
つまりヘーゲル「精神現象学」の鳥羽口あたりをうろうろしている。ヘーゲルの論証につき合う必要はないが、結論にははなはだ魅力的なものがある。あきらかにラッセルの推測する様にヘーゲルは自分の神秘体験を必死になって哲学化しようとしているのだろう。

いきなり結論をだしては、宗教の教祖になってしまう。ご神託を突きつけるようなものだ。ヘーゲルも哲学者だ。理屈をこねなければならない。しかし、これがうまくない。論証になっていない。

弁証法とか正反合などの『論理学』はこのために考えだされたものだが、独断的であまりにもアクロバティックな思考を相手に強いるものである。

これを有り難がるのは、ヘーゲルの一言一句を押し頂いて護符の様に切り売りして生活の糧を得ている「大学の哲学教師」、「講壇哲学者」である。

意識をこね回しているあたりでも面白いことを言っている。意識と対象、主体と実体とは相互交換可能で、その働きをしているのは『力』であるというのだ。19世紀の初頭にはエネルギーと質量の等価性などの考え方はなかっただろうが、この考えは(というよりはヘーゲルの直感は)アインシュタインによって公式化されたエネルギー(力)と質量の交換法則を連想させる。例の E=mc^2  である。

マルクスをメロメロにしたのはどのあたりかな。まだ出てこない。





ヘーちゃん拾い読み

2014-06-12 08:33:33 | 書評
西田幾多郎の「善の研究」とりあえず終わらせてもらいます。どこが独創的なのかよく分からないが、よく色々な本を読んでいるようだが、理屈の持って行き方はあきらかにヘーゲルの「「論理学」」がアンチョコである。

それで、ヘーゲルの「精神現象学」拾い読み。勿論初めて読む。「意識、感覚的確信 このものと思い込み」あたり。

これは思弁心理学そのものだな。もっとも当時はそれが(今でも一部では)哲学だったのだから。

それと、現代の言語分析風だね。現代というよりかスコラ風というか。

二十世紀の後半、分析哲学は中世哲学を学んでいるが、いっていることはほぼ同じだ。ようやく中世との断絶がつながりつつある。

近代哲学は中世哲学の「嫌悪」否定から始まった。といってもデカルトやスピノザはスコラ哲学の教育、雰囲気の中でそだったから、否定しようも無くスコラ臭がする。そこがいいところというか、危なっかしさのなさになる。

その後は中世を飛び越していきなりギリシャ哲学に接ぎ木するようになった。もったいないことだ。

ちょうど戦争直後の日本の左翼的知識人が教養として戦前の教育と断絶していなかったのと同じだ。それが、現代になると体でも頭でもしっかりした土台が消えてしまって、根無し草というか言うことが奇矯になる。戦後民主主義などというやからのように。





思弁心理学の要件

2014-06-05 19:57:35 | 書評
西田幾多郎「善の研究」。著者が分かりにくいから最後に読め、と親切にアドバイスしていた第一編「純粋経験」を拾い読み。これは心理学だね。実証的ではない、思弁的だ。だが書き方は当時の心理学を下敷きにしているふうな書き方である。しかし、それが本当にそうであるかどうかは当時の心理学をしらないから私には判断出来ない。

思弁心理学も立派な学問で、実証科学ふうを装わなければ今でも通用する者もある。私はニーチェは哲学者というよりかは、思弁心理学者と捉えている。なかなか読ませる。

西田の書き方は『実証的、正当的」心理学を振りかぶって恐れ入らせようとしているようで、自分の主張にもっていく論旨が我田引水的で論理的に「飛び,抜け」が多い。つまりまともに理解出来ない。

執筆の頃、W・ジェームズの「宗教的体験の諸相」を感心しながら読んでいたそうだから、種本はその辺かも知れない。

ルネッサンスのころなら知らず、近現代では個別科学の当時の成果を寄せ集めて哲学的建築の土台にするのは非常に危険である。科学の進歩は急速だから置いてけぼりを食わされることになる。もっとも、ニコライ・ハルトマンなどは帰納的形而上学なる言葉をひねり出したようだが。E・ハルトマンもそんなところがある。






もう一人の先生

2014-06-02 09:01:20 | 書評
最近の記事を読み返してみましたが、どうも少し与太っているようです。自然とそうなるんですが、何故なんだろうと考えました(無駄なことを考えるものだ)。

どうももう一人の先生の影響らしいんですな。大学で宗教哲学の先生でしたが、この人が教壇で与太りまくるんですな。そのせいで人気はあった。きわどいエロ話が得意で、そのせいか女子学生の聴講者が多かった。

その名前は学外にも轟いていたらしく、他の大学からのモグリの聴講生も多くて大きな教室はいつも満員でした。ダサイ学校でしたが、他の大学から沢山学生が聞きにくるのはこの先生の講義ぐらいじゃなかったかな。

だから哲学ネタを書くと無意識のうちにその先生の口吻を真似しているらしい。




西田幾多郎は徹底した経験主義?

2014-06-02 08:30:13 | 書評
ある研究者によると西田哲学は徹底した経験主義だそうだ。不適切な評言だろう。

それを言うなら彼の哲学は彼自身の神秘体験あるいは神秘経験に基づくというべきだろう。すなわち座禅などで体験した神秘体験である。それを泰西の哲学用語で表現しようとしたものだ。

神秘体験というものは精神、身体未分化の領域で天啓のように飛び込んでくるか、心身一体の修行の過程で経験する者である(西田の場合は座禅)。

普通英国伝統の経験主義というのとは、全く違う。不適切な解釈である。

上記と関連するかしないか、思い出したことが有るが、バートランド・ラッセルがヘーゲルの思想の根底には神秘体験があるといった。たしかに彼の論理学などアクロバティックなテント(論理構成)張りには背景に神秘体験を考えないとよく分からないところがある。

講談社学術文庫に小坂国継という人の「善の研究」注釈本がある。その中の注にE・ハルトマンを厭世哲学者とあるが(197ページ)本当かな。何度も言う様に私自身直接彼の著作を読んだ訳ではないが、様々な二次情報(鴎外の没理想論争など)から受ける印象では厭世主義とは縁遠い様に思われる。

無意識ではないが「盲目的な意志」のショーペンハウアーは厭世主義者と言われているが、これは一面の真理である。彼と小坂氏は混同しているのではないか。






高校生相手に西田幾多郎の離れ業

2014-06-01 07:13:03 | 書評
『善の研究』第三編は『善』である。160ページから190ページあたりでわずか30ページで古今の倫理学説を紹介するという離れ業を演じている。

この書、とくに第三編は金沢の第四高等学校の授業がもとになっているそうだから、これでいいのかも知れない。勿論旧制高校で今の金沢大学教養課程に相当するのかな。

第三編第九章で、西田が一番評価しているのがアリストテレスのニコマコス倫理学であることが明らかになる。それに彼の分かりにくい純粋経験を絡めてくる訳だ。

西田の説は「もっとも深き自己の内面的要求の声は我々にとりて大いなる威力を有し、云々」また「善とは理想の実現、要求の満足であるとすれば云々」(190ページ)。

しかし、「もっとも深き自己の内面的要求」は当人にとっても分明でないことが普通ではないか。また「もっとも深き内面的要求」の実現がすべて善であるというのは現実的には「すべての行為を肯定する」非常に危険な考え方と言わなければならない。随所に本書で見られるが西田の端折った表現には随分と乱暴なところがある。高校生相手の授業だからかな。

「内面的要求」は「理想」を内包するのだろう、そうして両者はぴったりと重なる訳ではなかろう。その分別をどうするか、の基準は今後の章で出てくるのかどうか ?

ま、おいおい読み進めば、上記の説を補足、限定する箇所が出てくるのかも知れない。

以上ポジション・レポート 190ページ。