穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

小池真理子「無花果の森」

2022-02-28 08:58:49 | 書評

 さて、前回は有栖川有栖の「双頭の悪魔」の謎解きの拙劣さ(記述の)を嘆きましたが、現在表題を読み始めました。現在24ページ。なぜって小川榮太郎氏は89点という極めた高い評価を与えているのでドレドレと。
 これはエンタメ部門に入っていますが、これはエンタメかな、というのが24ページ読んだところの印象です。夫のDVを逃れて家出した中年女性の逃避行らしい。

 私が評価する基準の一つに読者としての自分がまったく経験したことのない場面の描写が何の違和感もなく興味深く読めることがあります。私は女性ではないし、中年の家出の経験もないし、ドメスティックバイオレンスの被害者でもないが、小説の記述に違和感なしに入って行ける。こういう小説は実際珍しいのですね。
 この頃は若い女性、、中学生とか高校生とか、ひどいのは?幼女のトラウマを描いた小説があふれていて、かつ高い評判を得ているようですが、私はまったく疎外感を持つばかりで放り出してしまいます。あるいは男のガキ(同語反復かな)が暴れまわる話とか、まったく入って行けないのが多い。
 それに比べて、この小説は興味を持って入って行ける。さて最後までこの調子でいけるかな。


有栖川有栖の「双頭の悪魔」は30点がいいところ

2022-02-27 13:09:30 | 書評

 ミステリーの価値を謎解きに置くなら有栖川有栖の「双頭の悪魔」は拙劣きわまる小説である。記述の進め方はド素人なみである。ここだけでこの小説の商品価値はなくなっている。
 なお、有栖川有栖は「ヒッチッコックの描いた『交換殺人』」云々と書いているがヒッチコックはパトリシア・ハイスミスの小説「見知らぬ乗客」を映画化したにすぎない。この映画のシナリオを書いたのは、ちなみにレイモンド・チャンドラーである。
 前に原作を読んだ記憶があるが印象は薄れている。一応さまになっていた記憶がある。映画もまずまずの出来と覚えている。特に看護婦役のいかにもそれらしい女が適役と感じた記憶がある。

訂正の予感:女は看護婦ではなくて薬剤師だったかもしれない。記憶はっきりせず。

 


「分析哲学」とはアンブレラ・タームである

2022-02-25 12:17:18 | 哲学書評

 さて、相変わらず小川榮太郎先生ご推薦の有栖川アリス「双頭の悪魔」を通読中です。ようやく二百ページになって死体が転がるという超スロモー展開です。そうしたら癖がついたのかもう一つの死体がポロリと出てきました。現在650ページ分の400ページと言ったところです。これだけスローペースだと結末を読んでおしまいにするのですが、ゆっくりとシリアル・リーディング中です。それだけ我慢できるのは文章はしっかりとしているからでしょう。

 さて、話題は変わりますが、当ブログの看板は小説と哲学の二枚看板なのに、最近は哲学関係をすっかりご無沙汰していましたが哲学ネタで久しぶりにご機嫌を取り結びます。

 先日日課の一日百万歩、いや一万歩計画を消化するために大型書店をうろついておりましたところ、ちくま学芸文庫の新刊でエイヤーの「言語・真理・論理」が目に留まりました。いや懐かしかったですね。もっとも読んだことはないのですが、書名は昔から聞いていた(有名な、令名高い)本です。日本での分析哲学流行の走りのころは有名な著作で人口に膾炙していました。それなのに、読んだことがないのでどれどれと書名が懐かしく購入したわけです。

 見ると1955年に岩波書店から出たものをちくまで拾ってきたものらしい。つまり戦後まもなく昭和三十年以来ほかの翻訳は出ていないらしい。これが読んでみると訳文のせいか、非常にわかりにくい。翻訳が悪いのか、と思い原書を探しましたが注文になるので中止しました。書店の係がすぐに検索のためにPCをたたき出したので、かなり問い合わせがある本らしい。最近復刻版が出て、やはりどうもわからん、と原書をチェックした人が多いようです。

 訳文のせいもあるのでしょうが、主張を裏付ける例示引用がまったくない。例示がなくても腑に落ちる書物と言うのはあります。ウィトゲンシュタインのトラクタトスなどはそうでしょう。反対に補強する例示がないと何をいっているのか分からない本がある。この本はそちらのほうのようです。

 エイヤーによると、彼の学説はバークリーを淵源とし、ラッセルとウィトゲンシュタインのあとを継ぐものだという。ま、これで大体わかりますが、それではかれがそれらの先陣をどう咀嚼したかとなると、全くわからない。著者自身の言によると、この本は広く長い間教科書として使われてきたという。そうするとやはり訳文に問題があるのかな。

 もっともこれは二十歳代の若書きでその後大分考えの変遷があると、ものの本に書いてあるから、のちの著作は書き方も変わってきているのかもしれない。

 それと、これは一般論ですが分析哲学の歴史の中でどういう位置に彼がいるのかと言うのがとらえどころがない。ある人がうまいことを言った。分析哲学と言うのは「アンブレラ・ターム」だというのです。

 つまり「分析哲学」と言うのは分析哲学と言う傘の下にある哲学すべてで、てんでんばらばらの内容だというのですね。これは至言だと思います。統一的歴史的な流れの中で個々の哲学者を位置付けることは難しいのです。これがドイツ観念論と言えば、一塊のグループで誰と誰ではここがこう違うと明確に位置付けられるが、分析哲学者はそういうわけにはいかない。どう違うんだということが分からない。非常に煩瑣な議論が多いので大筋がつかみにくい。ある人は分析哲学と言うのは中世のスコラ哲学と同じだといったが、その通りでしょう。

 

 


空涙の女狐(メギツネ)とコンピューターおたく

2022-02-17 09:33:28 | 書評

 二匹のモンスターのご紹介

  まずはポジション・レポート。あと二百ページほど読むと読了となります。忙しい仕事の合間に読んでいますのでなかなかはかどりません。
 さて、モンスター(はてモンスターの女性形はあったかな)の一人は女性で十歳から三十歳あたりまでが小説なんですが、絶世の美少女から美女、空涙を自由自在に流せる特技がある。もっとも空涙(ソラナミダと読みますね)はどんな女性でも持っているジェンダー技と言えるかもしれませんが。作者が描写するのはこのくらいなんですが、目つきが猫のように鋭く光ることがある。
 男のほうはどうかというと、作者によれば暗い目つきの男の子で長じては、高校生ぐらいになると、コンピューターおたくになる。ちょうどそのころ、つまり1980年代にマイコンなる文化が出来て、マイコン業界の急成長に連れて、彼の扱うものはワンボードマイコン、マイコン、ラップトップパソコン、パソコンに変わる。この辺は作者が史実に基づいてフォローしている(ような)のでその当時を知るものとして、初期マイコンブームに熱狂した小生としても懐かしい。
 最後は二十年後、つまり1973+20で前世紀のラストディケイドあたりなんだが、今まで読んだところでは、外出先で使える電話は公衆電話しか出てこない。自動車電話もショルダーフォンも出てこない。いわんや携帯電話やスマホは影も形もない。ポケベル全盛期だからポケベル(アメリカではペイジャーと言いました)の話は盛んに出てくる。彼ははさみで影絵を切り抜くことが特技である。最後はこの大型ハサミで自殺?するらしい。
 勿論二人のモンスターは全編にわたってヘビのように絡み合うのだが、その記述というか謎解きはこれまでのところ全然記述されていない。最後の謎解きがあるらしい。だからこれは私のネタバラシ、じゃない、推測です。

 


トリックスターとはだれか

2022-02-15 15:31:09 | 書評

 解説の馳星周の解説にはほかにもおかしなところがある。「トリックスターなんだよ」といきんでいるのだね、何回か短い文章の中で。主語が分からない文章だ。作者つまり東野のことを言っているようでもあるし、登場人物の誰かを言っているようでもある。しかしトリックスターなんていうキャラはいないんだよ。普通の語の意味では。
 トリックスターと言うのは普通の意味ではペテン師、詐欺師ということだ。東野がペテン師ということなのか。それともモンスター役の2人なのか。これのほうがまだ通る。しかし普通の意味なら日本語として、こなれていないトリックスターなんて言葉を使うのは変だ。単にペテン師と言えばいい。しかも、この二人のモンスターは単純な詐欺師ではない。
 もう一つ、トリックスターと言うのは作劇上、あるいは小説評論史上で使われる意味がある。あまり一般的ではないが。それは道化師と言う意味で、しかも作劇上、進行に必要な役割を果たしている人物のことを言う。評論家のバフチンなどが多用した用語だ。日本語の「狂言回し」という言葉に通じるところがある。劇、小説の筋の推進エンジンとしての道化ね。そして二人はそういう意味合いのキャラではない。
 もっとも、ガキ相手の劇画世界ではトリックスターと言う用語に別の意味があるのかもしれない。
 なお、前回二人のモンスターは小説初頭で男は高校生と記憶間違いをしましたが、女性と同様に十歳くらいの年齢でした。読み返してみて確認しました。

 


モンスターにはモノローグは似合わない

2022-02-13 14:04:59 | 書評

 東野「白夜行」評の二回目です。これは最初短編シリーズとして書いたものを長編に纏めたと、どこかに書いてあったようだが、確かに登場人物は入れ替わり立ち代わり目まぐるしく出てくる。しかし主役は、あるいは中心人物は二人のモンスターであると言ってもよかろう。この小説は二十年弱の期間にわたる物語で、二人の主役は勿論最初から出ている。当初女性のモンスターは小学校五年生くらい、男は高校二年だったと思う。なお、モンスターと言うのは私が彼らに張り付けた言葉で、本文中にも書店の宣伝文句にも、馳星周の解説にもそんな言葉は出てこない。
 ここで馳星周の巻末解説の珍説に触れる。彼は二人をモンスターとは言っていないが、こんなことを言っている。ただし主語が彼の文章でははっきりしない。ただ彼は「モノローグなしで通すのはチャンドラーでもできなかった」とおかしなことを言っているが、途中まで読んだところでは冒頭に私が白夜の主役と指摘した二人の内面描写はたしかにない。そんなことを馳星周のように「私には到底できない」と嘆賞する意味がない。卑下しなくてもいい。
 馳星周はチャンドラーの作品のなかのPIマーロウのことを言っているように受け取れる(馳星周の文章が不明確なのでそうかどうかは分からないが)。マーロウでも時には抒情的なモノローグを「使った」と言うのだ。それをチャンドラーの欠点のように書いている。当たり前だろう。かれは探偵で犯人を推理する。推理されるほうにはモノローグはありえない。マーロウ記述者からみれば外面的な表情、しぐさ、セリフしか書けない。犯人候補者のモノローグが出てきたらおかしなことになるのは当たり前だ。同時にマーロウのモノローグ挿入は全く自然である。もっともなるだけ抑えているがね。ハードボイルド文体がどうのこうのと言う問題とは関係ない。
 ドラキュラが「あの女の血は極上の葡萄酒の味がするかもしれない。今夜飲んでみるか」なんてセリフを吐きますか。作者はいきなりその場面を描写します。
 さてPOSITION REPORTをしておこう。白夜行5ページから356ページ、および840ページから854ページを読んだ。最後はパシャンと唐突にシャッターが下りた感じだね。
 補足;ハードボイルド(私が言うのは一時期を限ってアメリカで咲いたローカルなジャンルである。具体的にはハメットとチャンドラーに限る)。ハメットの「マルタの鷹」は確かに探偵サム・スペードの内面描写はない(ほとんどないか)。しかしハメットほど文体の変遷が顕著な作家もいない。すべての作品で探偵の内面描写、モノローグが無かったかどうかは保証できない。

 


東野圭吾(白夜行)を読み始めた理由

2022-02-11 21:31:39 | 書評

 大分むかし、同じ作者の「容疑者Xの献身」と言うのを読んで水準だなと思った記憶がある。最も筋とか内容はまったく記憶していないが、読後感が悪くなかったという印象だけが残っていた。それで小川榮太郎氏が同じくらいの点数をつけている白夜行を求めたわけです。
 これは集英社文庫で、わたしは集英社文庫を買うのは初めてだが、小川氏の推奨する小説には結構集英社文庫収録のものが多い。もっとも買うときにちょっと迷った。何しろ新潮文庫よりも活字が小さくて、それでもって850ページもある。普通なら上下二巻になる分量だ。一作上限400ページ未満というのが私の不文律なので、規格外なのだが。
 その時に変なことを思い出した。時々大きな声で話しながら書棚を数人で回り本を選ぶ人がいるでしょう。あるときに体躯魁偉な女性がおつきのような女性を連れて本屋の書棚を回っていた。見ると手にはすでに数冊の文庫本。そのひとが白夜はすごいよ、なんて話している。その時は白夜なんて何だろうてなくらいだったが、ふとその時の光景を思い出した。変な話で理屈は付かないが、それを思い出して急に買うことにした。他愛のない話で申し訳ない。
 家に帰って馳星周の「解説」を読んでしまったと思った。まるで小学生の文章で的外れでチンプンカンプン(珍文漢文)。的外れもいいところだ。しかし大枚千三百円をどぶに捨てるのはおしい。といま300ページまで読んだところ。
しかし読んでみると馳星周の解説の印象とは違い、文章のすべりはいい。

 


「万延元年のフットボール」雑記

2022-02-06 12:20:25 | 書評

 200ページまで読んで通読を放棄しました。記述が退屈で切れがなく、引き込まれることもないし、内容がthought-provokingでもなく、読むのが苦痛になったので。
 しかし200ページの投資を無駄にしないために、ウィキペディアの「万延元年のフットボール」の「あらすじ」をチェックしておきました。記述がdullでもどういう展開になっていくのか、工夫があるのか。それによっては我慢して読もうかな、というわけでした。
 なんかあっけないですね、それで通読放棄を決定しました。ウィキペディアには「評価」という項目があって、いろいろな評論家の意見やら、江藤淳氏の大江との対談も要約が載っています。江藤は登場人物の名前が妙なのばかりだと非難しています。この非難に大江がどう反論したかは出ていないので、大江の考え方も不明ですが、これは明らかに大江が私淑したというラブレー先生こと仏文学者の渡辺一夫氏のガルガンチュア物語の影響ですね。
 体重130キロの大食女などラブレーの登場人物的です。蜜何とかいうのもそうだし、鷹四と言う名前、彼の親衛隊の星男とか桃と言うのもガルガンチュア的です。「スーパーマーケットの天皇」なんてのもそう。
 ところで「芽むしり」には、ふと気が付いたのですが、逆にほとんど名前が出てこなかった記憶があります。僕、弟、村長、鍛冶屋、脱走兵など。唯一名前が出てくるのは「朝鮮部落の李」でしたかね。そういえば、少年院の南というのもあったかな、いずれにしても少数派だ。
 評論家は根所たちの曽祖父たちが関係したという万延元年の農民一揆と現代(終戦後10年くらい?)の対比、意味的合致をうまく料理したというのが、海外の意見も含めて一致しているようですが、???です。すくなくとインパクトのある対比にはなっていないし、そこから何らかの寓意も引き出せていません。


大江健三郎の「万延元年のフットボール」を読む

2022-02-05 06:53:57 | 書評

 さきに大江の「芽むしり仔撃ち」の感想をあげた。「ホウホウホウ」と村上春樹のような嘆声をあげたのである。二十二歳の作である。その後多数の作品を発表しているからどんなに大化けしていることか、と興味を持った。
 小筆はこれまで大江健三郎の小説は読んだことが無い。「芽むしり」が初めてであった。私の持っている印象はもっぱらマスコミで折に触れて報道されている断片的な情報だけである。主として彼の社会的な発言である。どうして「芽むしり」の作者が安っぽい「戦後民主主義」のトーチ・ランナーに祭り上げられたのか?
 どうして文士的センスの欠片もない言葉「戦後民主主義」の旗をふるようになったのか。それで評論家たちが言う、彼の前期と後期を分けるという作品「万延元年のフットボール」を手に取った。
 およそ150ページあたりまで目を通した。全体で450ページほどの著作である。ここで途中書評第一回をあげる。全部読み通せるかどうか分からないのでとりあえず途中書評をあげる。
 スタイルというか構成が変わっている。第一章はシュールと言うか観念詩というか、褒めて言えばそういうことになるのだが、解説の加藤典洋によると「難解」だったか。この作品は講談社文芸文庫と言うあまり売れそうもない作品が収録されている文庫にある。たしかに第一章にびっくりして普通の読者は敬遠するだろう。作品は講談社の群像と言う雑誌に連載されたので講談社が文芸文庫に収録したのだろう。
 第二章以下はがらりと平板になる。そして冗長である。加藤の解説を読んで変だと思ったのは作品は五部仕立てというが文庫には十三章あるが、部分けはしていない。これでは丁寧な解説とはいえない。
 作品の舞台は四国の山村である。大江健三郎の出生地である愛媛県丸子町(現)をそのまま描いたものではないだろうが、出生地が色濃く反映されていると思われる。「芽むしり」にも出てくるが、この作品でも「朝鮮人部落」が一つの舞台となっている。愛媛県の統計を見ると、いつの物か分からないが丸子町には朝鮮人居住者は一人となっている。勿論小説の舞台は終戦後の話であるから、それから減ってはいるのだろうが。朝鮮人部落にどういう意味を持たせているのかがよく分からない。
 以後読み続けられればアップを続けたい。

 


書評家の上前をはねる番外編;中国人名表記の問題

2022-02-03 08:30:55 | 書評

三体、宇宙消失、不夜城。三題噺ではないが、何を連想しますか。
共通点1:多数の中国名人物が登場する小説。
共通点2:数十ページから百ページ未満で通読不可となる。
 さて、今回は小川榮太郎先生ご推薦の不夜城(84点)を読書放棄した時点でいやでも気が付いたことがある。いずれも中国人が多出する。そして読んでいくうちに誰が誰だか分からなくなる。主要人物が二、三人なら、どんなに描写が下手でも混乱することは無いでしょう。上記の作品はどうしてこんなに次から次に出てくるのかと、嫌になってしまう。そして判別できればまだいいのだが、A=B=C=D、以下同じに見える。読書放棄となる。
 人名表記の問題もあるようだ。ほとんどが漢字三文字で表記されるが、これが馴染めない。日本人名も漢字だがこれは馴染んでいる漢字だからいい。
もう一つ不思議なのは台湾人ならともかく、本土人には略字と言うか簡字体というかが、あるでしょう。人名にも新字体を使うのではないか。よく知らないが。ところがみんな旧来の字体だ。これって翻訳者が簡単字体からわざわざ本来の字体に、日本人読者用に戻しているのかしら。
 ま、どっちでもいいが、なじみのない字が多く、また本字は画数が多い。それが小さな活字で印刷されていると読むのに苦労する。みんな同じの黒い塊に見える。それにご親切にルビが振ってあるが、当然超細微なフォントになるから虫眼鏡で見なければならない。エンタメ本を読むのにルーペを脇において読みますかね。それでもキャラの出し入れに工夫があればともかく、芸もなく次から次へと繰り出されては、勘弁してよ、となる。


参考書「作家の値打ち」その後

2022-02-02 09:16:51 | 書評

 上記の書評本に出ているエンタメ系の文庫本について、池袋ウエストゲートパーク、重力ピエロについては書いた。その後クライマーズハイ、不夜城、果つる底なき、を手に取った。通読したものもあり、途中で呆れてほうりだしたものあり、だが評点をつけると
A 重力ピエロ 70点台
B クライマーズハイ 60点台 可もなく不可もなし
C 池袋WGP 五十点台
D 果てる底なき 五十点台 読み終わって「ヤレヤレ」と肩の荷が下りた安堵感あり。
E 不夜城 通読不能 四十点台 同工異曲のバイオレンス描写の連続

点数を付けるなどと言う器用な真似は出来ないが、無理をして付けるとこんなところか。
今回は「果てる底なし」について数言。文語はWPで一発変換できないので、果てる、でいく。
これはクライマーズハイにも通じるが、登場人物が多すぎてキャラ分けが不十分。組織(企業)小説、(銀行内、金融機関)小説だから登場人物が多くなるのは分かるが誰が誰だが読み進むと分からなくなる。つまり人物描写、登場人物の出し入れに工夫がない。組織小説では役職がキャラの重要な構成要素であるが、面倒くさいのか初出以外は名前だけで行くから、読み進むと誰が誰なのか分からなくなる。これは不夜城も同じ。不夜城の場合はシナ人名の紛らわしさの問題も加わるが、これについては次回触れたい。
なお、この小説に関しては小川榮太郎氏の誉め言葉にはまったく同意できない。