穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

近代以降哲学にパラダイムチェンジはあったか ?

2016-11-25 07:51:20 | 哲学書評

ない。自我から実存へ、はパラダイム・チェンジというほどのものではない。行き詰まった「自我」がひねり出した産物である。

自然科学(自然哲学)における天動説から地動説に相当するパラダイムチェンジはデカルト以来ない。

重力、引力、電磁波、のようなパラダイムチェンジをもたらした根本概念の変革あるいは概念の産出は哲学にはみあたらない(だから哲学書は娯楽として安心して読める)。相対性理論、量子論のようなパラダイムチェンジはない。

自我が行き詰まったから実存なる言葉をひねりだした。これはパラダイムチェンジではない。自我が行き詰まって出て来た概念に、他に、超人なる概念がある。ダーウィンの進化論の影響をうけたニーチェが、どこに行っても付いてくる自我という犬を振り払おうともがきながら、ひねり出した。 

現代哲学のほとんどは折衷主義の産物である。

 


探偵のいない推理小説

2016-11-24 13:58:57 | アガサ・クリスティー

ACの「そして誰もいなくなった」の続きである。ACも探偵の視点(素人探偵や非現役探偵を含む)の小説としてはポワロとかミス・マーブルがある。タペンスと何とかというアベック探偵のシリーズもある。この「誰も、」は素人も玄人もボランタリーの探偵もいない。 

この小説は謎の人物にまんまと誘い出されて交通の不便な島に集まった10人の視点で進行する。おそらく私の印象に残らなかったのはこの散漫な視点の分散のせいだろう。同様に読者に残るようなキャラも立てにくい。

芝居にしたらもう少し印象が残ったかも知れない。実際彼女はこの小説を劇化しているのではないかな。

犯人は最後に自殺する判事ということになっている。彼が自殺前に(書いていないがそういうことだろう)犯行計画の全容と実施報告を書いて瓶に密封して海に流したということになっている。

したがってこの小説は記述トリックものである。アクロイド殺しと同じである。ただ、記述の流れが十人の視点に分散していること、犯人イコール報告者部分が最後の数ページしかないことでアクロイドとはだいぶ印象がちがう。

さておつぎは何を読むか。アクロイドは同じ記述トリックものだし、オリエント急行は交通途絶の島が吹雪で外界と連絡出来なくなった特急列車の車内に変わっただけだ。これも本来映画や演劇向きの設定だね。記憶では犯人はたしか乗客全員ということだった。「誰も」から趣向を変えたのはそこだけだったと思う。「予告殺人」でも読むか。これは読んだ記憶がないしね。

こうして見ると彼女の得意な状況設定はこのようなパターンの繰り返しなんだね。

ところで「予告殺人」というのは売れていないのかな。あまりAC棚で見かけないようだが。


アガサ・クリスティー「そして誰もいなくなった」

2016-11-24 07:36:24 | アガサ・クリスティー

「そして記憶はまったく抹消されてしまった」。だいぶ前に読んだのだが、この小説の内容で覚えているのは、迷宮入りの事件の真相が明らかになったのは、犯人が書いて瓶のなかに密封して海に流したものが、何年か後に漁船に拾われた、というような結末だったな(ではなかったか)ということだけである。

ところで今度読んでみてもストーリーを思い出すことが全くない。つまり読んだ記憶がない。あれれ、俺の記憶は間違いだったかな。ということで結末に至った。ようやく最終章で瓶の中のメモの事が書いてある。やはり読んだという記憶は正しかった。普通は前に読んだことのある小説は遅かれ早かれ思い出すものである。既読感が蘇る。それが最初の十ページか百ページかの違いがあっても。それが最後の数ページに至ってようやく記憶と合致するというのは私にとっても初めての経験だった。 

なぜか?筋が不自然だったからか。確かにこの小説の構成というかアイデアは不自然である。しかし不自然ならその点が記憶に強く残るものである。畢竟するにACの文章にイメージ喚起力がないと言うことが原因だろう。平板な文章ということかも知れない。もっとも彼女の文章は別の言い方をすれば平明である。そしてこれは文章にとって普通は長所なんだけどね。

次回「入れ子構造の記述トリック」


アガサ・クリスティーのベストテン

2016-11-23 22:13:10 | アガサ・クリスティー

さるサイトにファンクラブ投票によるアガサ・クリスティー(以下AC)作品のベストテンが紹介されている。またAC自選のベストテンも紹介されている。 

彼女はミステリーだけでも毎年一冊は発表していたそうである。毎年クリスマス頃に出したらしい。彼女の長い生涯ではおびただしい数になる。商売を当て込んで日本でも翻訳点数が数十冊になっているようだ。ハヤカワのAC文庫なるものがあり、赤い表紙が諸点にずらりと並んでいる。

こう言う物を片っ端から買うファンもいるのだろうが、私は逆にどれを読んだら多少はあたりがくるのか見当がつかないから素通りする。最近は読むミステリーの本も少なくなったので、どれACでも読んでみようかという気をおこしても選択の基準がない。そこでこのサイトのベストテンを見たときに参考になるかとおもった。さてこの二つのベストテン(ファンクラブとAC自選)の一位から四位までは同じである(奇しくも?)。すなわち

一位 そして誰もいなくなった

二位アクロイド殺し

三位オリエント急行の殺人

四位予告殺人

五位以下はばらばらであった。

このうち、「そして誰も、」と「アクロイド」は読んだ記憶はあるのだが内容は覚えていない。「オリエント急行」はたしかテレビで見たような気がする。それで基準点として「そして誰も、、」から始めようかと書店で立ち読みした。例によって解説だけを。赤川次郎氏の解説があるが、この文章は水準以上であった。この人もミステリー作家らしいが彼の本は読んだことがない。ハヤカワのAC文庫の解説は名も知らぬ(私がしらないだけだが)人のくだらない文章が多いので、おやベストテン一位の解説者にはしっかりした人を選ぶのかなと思った。>>

 


ニーチェの言い間違い「神は死んだ」

2016-11-12 08:36:28 | 哲学書評

神は死んでいない。現代において、むしろニーチェの時代よりも活発である。彼はこう言うべきだった。「哲学は死んだ」と。哲学教師に残されたのは哲学史だけである。

諸学の残飯を集めて二次的料理を作ってもしょうがないではないか。ニーチェにおいて現代哲学者ほど露骨に目立たないが、彼も当時の諸学の残飯を彼の構築物のセメントにしようとしていた形跡が有る。

 


哲学は諸学の母か

2016-11-09 07:20:23 | 哲学書評

歴史的にみれば事実として言える。現代では違うようだ。認知科学だとか精神医学では多少相互交流は有るようでは有るが。

別の言い方をするならば、哲学的な手法では行き詰まったというからに過ぎない。別の考え方、手法、データが集まる様になって新しいパースペクティヴが開けたからにすぎない。したがって哲学が自然科学、人文科学の受胎分娩に寄与したという名誉は与えられない。

哲学は諸科学(既存、或はこれから勃興するであろう)に対して過去の様にオルガノンとして寄与しうるか。出来ないだろう。科学の創造性や生産性はそういうくびきを脱した所にこそある。いわゆる科学哲学とか分析哲学、言語分析は諸学のオルガノンたらんとしているようだが、到底達成出来ない目標であることは当ブログで前に説明したところである。

しからば哲学は諸学の総合であるか。総合というのは荘厳すぎる言葉である。寄せ集めというべきだろう。これは新興宗教がよくやる手口である。新興宗教はこの手法で世界観という見世物小屋のテントをはる。

総合に意味があるのか。ないと言える。情けないのは20、21世紀の哲学者なるものの大部分はハイデガーの「存在」という神についてフッサールの「現象学的手法」や「志向性」をベースにして、さらに自分の都合の良い様に新興諸科学のつまみ食いをしてお化粧をしている。それ以上のものを現代哲学に見いだすことは出来ない。

ところでE・レヴィナスの「存在の彼方へ」を10ページほど読んだ。講談社学術文庫の翻訳だがひどいものだ(翻訳がひどいのか原文がひどいのかは分からないが)。

まさにこの本は上述した現代諸人文科学の現時点(20世紀中葉)の成果を牽強付会して自らを高くしている。ということは将来まったく顧みられることは無く、将来は将来でその時の諸科学の成果を適当に寄せ集めたものが出来上がることになる。

弁解:それでは何故この本を買ったのか。目次に騙されたのである。

該書第一章「存在することと内存在性からの超脱」

これを早とちりした。ハイデガーの「存在という神様」に疑問を投げかけているのかと勘違いした。現在では無謬、不可侵の概念として「存在」と「志向性」という怪物が哲学界を徘徊している。これに対して反省を加えているなら面白い、と早とちりをした。

 

該書第二章「志向性から感受することへ」

これを現代哲学界が無批判的に当然のこととしている無謬の「志向性」に根本的な批判を加えていると勘違いした。

もっとも、「梗概」の数ページを読んだだけだから辛抱して最後まで読めば何かそのようなことでも書いてあるのかも知れないが。

 


名物にうまいものなし

2016-11-02 18:49:44 | 書評

というが、小説史家や評論家が必ずあげる近代小説の最初のDNAというのがある。ガルガンチュア、トリストラム・シャンディそれとドンキホーテである。

名物にうまいものなし、のたとえどおり、ちっとも面白くない。二千年、三千年前のものでもイリアスやオデッセィは面白く読める。要するに文章が読むに耐えるということである。

最初にあげた三書は技法などは見るべきもの、つまりイノベーションが有るのだろうが、文章がね。読むに耐えない。

ガルガンチュアは岩波文庫にあるが、全7冊か8冊で各巻500ページとすると、そのうちの300ページは注である。こんなモノグラムみたいな物を文庫で提供するな。

 


フロベールとチャンドラー

2016-11-02 09:15:51 | チャンドラー

チャンドラーの作品で他の作家、とくに純文学作家に言及した所は一カ所しかない。当然でミステリーの中で文学論をしてもはじまらない。 

それは「ロング・グッド・バイ」のなかで、マーロウは流行作家の看護人を頼まれる。例によってそんな仕事は嫌だというのだが、いつの間にかウェイド(そういう作家の名前だったと思う)のボディーガード兼看護人となる。

ボディーガードというのは妻にたいするDVの監視であり、看護人というのはアルコール中毒であるウェイドの監視である。

会話の中で、作家は執筆に呻吟する様になったらおしまいだとウェイドがいうと、マーロウが「フロベールは苦心して書いたが名作を書いた」と反論する数行の箇所である。これは勿論チャンドラーの意見に決まっている。

ま、そんなことでフロベールの名前を覚えていた。この度新潮文庫でボヴァリー夫人を読んだのだが、翻訳を通しても彼の文章が水準を抜いていることが感得出来た。

小説なんて文章なんてどうでもいい、という馬鹿な批評家が生きて行ける日本である。オペラは筋が深刻でテーマが奇を衒っていれば歌手がどら声、悪声でも良いなんていう低能児童いたいなものだ。

たしかにフロベールは一つの頂点である。頂点は複数あってもいい。勿論頂点が百も二百もあっては、もはやそれは頂点というものではないが。私の持論だがいかなる表現形式の芸術でもシュンな期間がある。西欧の小説は19世紀がシュンだった。フロベールはそれを代表する一つの頂点だろう。イギリスは欧州大陸より一ないし半世紀旬の期間が前になる。逆にアメリカ、東欧や中欧は20世紀前半までシュンの時期がずれる。

日本はどうだって、さあどうかな。