歴史的にみれば事実として言える。現代では違うようだ。認知科学だとか精神医学では多少相互交流は有るようでは有るが。
別の言い方をするならば、哲学的な手法では行き詰まったというからに過ぎない。別の考え方、手法、データが集まる様になって新しいパースペクティヴが開けたからにすぎない。したがって哲学が自然科学、人文科学の受胎分娩に寄与したという名誉は与えられない。
哲学は諸科学(既存、或はこれから勃興するであろう)に対して過去の様にオルガノンとして寄与しうるか。出来ないだろう。科学の創造性や生産性はそういうくびきを脱した所にこそある。いわゆる科学哲学とか分析哲学、言語分析は諸学のオルガノンたらんとしているようだが、到底達成出来ない目標であることは当ブログで前に説明したところである。
しからば哲学は諸学の総合であるか。総合というのは荘厳すぎる言葉である。寄せ集めというべきだろう。これは新興宗教がよくやる手口である。新興宗教はこの手法で世界観という見世物小屋のテントをはる。
総合に意味があるのか。ないと言える。情けないのは20、21世紀の哲学者なるものの大部分はハイデガーの「存在」という神についてフッサールの「現象学的手法」や「志向性」をベースにして、さらに自分の都合の良い様に新興諸科学のつまみ食いをしてお化粧をしている。それ以上のものを現代哲学に見いだすことは出来ない。
ところでE・レヴィナスの「存在の彼方へ」を10ページほど読んだ。講談社学術文庫の翻訳だがひどいものだ(翻訳がひどいのか原文がひどいのかは分からないが)。
まさにこの本は上述した現代諸人文科学の現時点(20世紀中葉)の成果を牽強付会して自らを高くしている。ということは将来まったく顧みられることは無く、将来は将来でその時の諸科学の成果を適当に寄せ集めたものが出来上がることになる。
弁解:それでは何故この本を買ったのか。目次に騙されたのである。
該書第一章「存在することと内存在性からの超脱」
これを早とちりした。ハイデガーの「存在という神様」に疑問を投げかけているのかと勘違いした。現在では無謬、不可侵の概念として「存在」と「志向性」という怪物が哲学界を徘徊している。これに対して反省を加えているなら面白い、と早とちりをした。
該書第二章「志向性から感受することへ」
これを現代哲学界が無批判的に当然のこととしている無謬の「志向性」に根本的な批判を加えていると勘違いした。
もっとも、「梗概」の数ページを読んだだけだから辛抱して最後まで読めば何かそのようなことでも書いてあるのかも知れないが。