「鮮やかな手並みですね」と三四郎は言った。その男と話すのは初めてなのだがあまりに見事な技に思わず感嘆の声をかけてしまった。おとこは文庫本をテーブルに置くと「なに、まぐれですよ」とその消費者金融の取り立て課長のような幅の利いた顔を三四郎に向けた。難病治療などを売りにしている新興宗教の教祖等には「おさすり」とかいうのが有るらしいがそれなのだろうか。
「指圧のまねごとでね。おやじから少し教えてもらったことがあってね」
「お父さんは指圧師なんですか」
男は笑って「いやいやオヤジは医者でしてね。いまどきの日本の医者は断らなくても西洋医学なんだが、うちが代々医者でね、何代か前までは当然漢方医だったんですよ。うちのオヤジが祖父から言われたらしい。西洋医学でも鍼だけはやっておいた方が良いってね」というと男は飲み差しのコーヒーカップを取り上げた。
「ウヘッ、醒めちまった。冷えたコーヒーくらい不味いものはありませんね。ファストフード店のコーヒーみたいだ」
たしかにそうだ。コーヒーは舌が焼けそうなほうがいい。三四郎は猫舌だが、ちびちびと口に含んで適当に温度が下がったところでコーヒーを飲んでいる。最初から生温くては気持ち悪くて飲めない。
「もっともお茶は熱いのはだめですね。店によっては茶を注ぎ足す時にぬるくなるからと飲み残した茶を捨ててから熱いのを注ぐ店があるが、東北の田舎料理屋みたいでいやだな」
「たしかに、茶の適温はコーヒーより大分低い。熱い茶をふうふう息を吹きかけて一口飲むたびに大げさにハアハア言うのは東北のどん百姓だな」とおとこは頷いた。
「それであなたもお医者さんですか」と消費者金融風の男に聞いた。
おとこは慌てた様に手を横に振って打ち消した。「私は医者じゃない。オヤジは産婦人科の開業医でね。思春期の頃、診察室の隣から私はよく中を盗み見していてね。あれほど醜悪な風景はありませんぜ。あんなお世話は御免だってね。それで医者には絶対なるまいと思った」
おとこはコーヒーカップを脇にのけると「さっきに話ですけどね、オヤジからお前も鍼や灸を少しやっておけ、具合の悪いときは自分でやれば大抵の場合医者に行く必要もなくなるとオヤジに言われた。開業医らしくない言葉だが」というと口をゆがめた。「鍼はとても素人には無理でしょう。お灸も自分で据えるのは難しい。それで指圧でも習っておけとオヤジがいうんですよ」
「それでさっきのはその応用ですか」
「まあね、自分でもあまりうまくいったので驚いています」