穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

うずくクリスティの親指

2011-09-17 08:38:30 | ミステリー書評

久しぶりのミステリー書評です。アガサ・クリスティの「うずく親指」

うまい文章家あるいは小説家のミステリーはかならず結末で破綻する。これは帰納的結論であるとともに演繹的推論であります。

クリスティ78歳の作品と言うのにも驚きました。文章に艶があって話の進め方は流れるようで職人芸がさえます。老いてますます円熟です。

うまい一般小説家がミステリーに手を染めると成功しないといいますが、おもしろく書いている話を質面倒くさい落ちでまとめる、これは矛盾です。出来るわけがない。また、ミステリー・プロパーの小説家でも結論まで『読ませる』作家はいません。説明口調で小学生の作文調になります(それなりに特殊なマニアを納得させる技はある)。

さすがにミステリーのプロだから説明に破綻はないが、そんなことは小説の面白さとは無関係です。というよりかは反比例でしょう。一部の篤志ファンにはそれでも満足なのでしょうが。

寡読のオイラが唯一思い出せる成功した結末はレイモンド・チャンドラーのロング・グッド・バイです。これがハードボイルドの小説家だというのも皮肉ですが。ペースはあくまでもゆうゆうと最後まで流れる。無理がない。それでいてひねりもある。十分にスペースを取っている。

断わっておきますが、チャンドラーも他の作品では結論は乱暴です。ロンググッドバイが唯一の成功例でしょう。ちなみにダシール・ハメットも結末部はお粗末です。本格的推理小説もお粗末ですが、言い訳的に叙述に矛盾しないように意識的に作業をしていることが違います。

それでも結末までの話が面白ければ「小説」として読んでなんら差し支えはありません。どうせそういうものしか市場(本屋の棚)にはないのだから。

クリスティの魅力も文章と言うことでしょう。昔何冊か読みましたがおぼろげな記憶で言うと結論は生彩がありません(文章としての)。ただ、若い時はミステリー作家としての『自覚』(責任感?)から生硬な結末部で一応つじつまを合わせて読者を納得させようとしています。

「親指のうずき」は成功せる老大家として(あるいは年を取って面倒くさくなっただけかもしれませんが)、最後の数十頁、中でも最後の十数ページはひどいが、エイヤとやっつけています。それまで面白く話を持ってきたこと、老大家の権威からして許されることなのでしょう。


芥川龍之介の江戸なまり

2011-09-06 08:27:43 | 書評

本所で育った芥川に江戸のなまりのあるのは当然である。「ひ」と「し」が逆になる。

ひつこい(しつこい)、しっきりなし(ひっきりなし)、ひちりん(七輪)なんて小さい頃は下町、場末から通ってくる家に出入りの職人の老人の口からなつかしく聞いたものだ。地方や在の出身の落語家がいなかった頃だから、噺家もみんなこんな具合だった。

芥川も話し言葉では当然こうだったろう。あるいは全国共通の書生言葉で「しつこい」だったかもしれないが、小説のなかでは「ひつこい」調で押し通している。ま、文体と言うやつだ。そのころの小説で江戸育ちの、たとえば谷崎潤一郎はどうだったかな。記憶にないから「標準語」だったのだろう。あまり当時の江戸出身文士でも見かけないスタイルじゃないかな。

ひらかなの場合はいいのだが、これが漢字の場合はケアレスミスで当て字になる。「必外の松を眺める」、なんてのがある。音で書けばひつがい(つまり室外)の云々となるところだろう。

もっとも漢文の達人の芥川だ。「必外」に上記の文章にしっくりする意味があるのかもしれない。それなら新潮文庫は注記して出典を明らかにすべきだ。新潮文庫は大体が不必要な注が多すぎるが、必外が必然なら当然入れるべき注がない。

この文章は「秋」という短編にある。作品は婦人雑誌向けの中間小説みたいなものだ。おおかた、婦人公論か主婦の友にでも載せたものとおもって、最後をみると「中央公論」に掲載したものだ。ま、婦人公論も中央公論も同じようなものか。


芥川龍之介の作品を標準偏差で見ると

2011-09-04 08:14:41 | 書評

前に紹介した米人編集の芥川短編集(新潮社単行本2007年)は適切な選択のようだ。その後新潮文庫でほかの作品をボチボチ読んでいるが、該アンソロジーのレベルより標準偏差は低い。

該書の中からさらに選ぶとすれば、羅生門、藪の中、地獄変だろう。編者は一編だけ後世に残るとすれば地獄変だろうと言うが。

ただ「大導寺信輔」だけはどうかと思うが、晩年の作品の出発点ということで入れておいてもいいかもしれない。

上にあげた三篇は初期の作品で、学生時代の作品もあるようだが、まさに前回で触れたように、芥川龍之介は白髪頭で生まれてきた男である。そして年を取るにつれて若くなる。(河童内の自己分析)

大導寺以下、河童、或る阿呆の一生などは文献的興味を催すだけだ。その鋭さを激賞するのが常のようだが、一括して「或る男の後日談、あるいはなれの果て」的な興味がある。

中期と言うか中間期の作品は器用に様々な「お色直し」をしているのには感心する。さすがは技巧派、感覚派、理知派と感心するものの、初期作品の切れ、艶は文章にはない。