川端康成「踊り子」、川端の代表作は何なんだろう。我々みたいな素人の耳に入ってくるのは「雪国」と「踊り子」だろうか。岩波文庫は現にこの二冊しか入っていない。もっとも「踊り子」はほかに数編の短編が入っている。
前回、雪国の島村は永井荷風のカリカチュアだといった。これは訂正しないが、川端の執着するパターンでもある。それが「踊り子」を読むと分かる。
一方に別カーストの女がいる。他方にその女が憧憬を持って見るインテリがいる。雪国では、男は無為徒食の高等遊民であり、文筆の徒である。女は温泉芸者。
踊り子では男は一高の学生、それをまぶしく見るのは下層カーストの遊芸クラスターの旅芸人の少女。
いずれも視点は相手が自分を神様のように慕うさまが男の側から描かれる。確かに文芸評論家なるものが言っているように抒情小説であり、それなりに泣かせる。新潮文庫の雪国の解説、ちょっと待って、伊藤整だ。彼が絶賛する
「雪国は、川端康成においその頂上に到着した近代日本の抒情小説の古典である」とさ。いくらなんでもほめすぎだろう。
村上春樹は井戸が好きだそうだが、川端康成はトンネルが好きだ。
雪国、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」
踊り子、「「暗いトンネルに入ると、冷たいしずくがぽたぽた落ちていた。南伊豆への出口が前方に小さく明るんでいた」
両小説とも、インテリの中年男や高校生(旧制)を神のごとくあくがれる女の風情、心情を冷徹に観察叙述したものだ。たしかに筆致は抒情的だがわたしはこの冷たさは好まない。
それと岩波の踊り子短編集には「十六歳の日記」というのが入っている。これがちょっと面白い。
どうって、いうのですか。川端の生い立ちは非常に興味をひかれる。運の無くなった家庭というのはいつの時代でもあるパーセンテージであるものでわずかの間に家族のほとんどがなくなるという環境だ。川端がもっとこの問題を掘り下げるとよかったと思うがね。
あれ、また女がおれを神様みたいに慕っているなんて言うテーマは普通は恥ずかしくて何回も書けないんじゃないのかな。