前回、つぎは蟹工船と海軍について書くと書いた。蟹工船のストライキを船団護衛の駆逐艦が鎮圧する場面は最後の10ページくらいしかない。前回、ここを読んで初めて高校時代に読んだことを思い出したと書いた。それだけひっかかるところが当時もあった。
たしかにその通りなのだが、実際に書くことはあまりない。というか難しい。つまり理解してもらう様に書くことは難しいということである。
この小説は共産党、プロレタリア文学の指導者(たとえば蔵原惟人)の指導のもとに書かれたわけで、はっきりとした構図と言うか枠のなかで書かれている。だから問題は主義者、活動家達が帝国軍隊をどう捉えていたかということである。
意識してだか無意識なのか分からないが作者自身も曖昧なところがある。具体的な叙述に即して言うと、ストライキをした連中は海軍が鎮圧に駆けつけるとは予想していなかった。うっかりしていたのか、国民の軍隊であるいわば仲間が鎮圧するとは大部分のストライキ参加者が予想していなかった。着剣した銃をもった水兵が乗り込んで来ても「まさか」と言っている連中もいる。かれらは帝国海軍の艦艇は操業を妨害するソ連(ロシア)から守ってくれる存在で自分たちに向ってくるとは考えていなかったのである。
そうかと思うと「しまった、もうだめだ」という「理解力の早い」一部の首謀者もいる。この種の運動の活動家、理論家は労働者階級の敵は資本家だと思っている。そしてその手先は警察であり、特高である。彼らが実際の敵である。軍隊は労働者階級と同様啓蒙すべき対象と考えているのではないか、と思われるふしがある。
徴兵された兵隊はもとより、若い士官達には貧農の次男三男が多い。いくら貧農でも一家の跡取りである長男を軍人にすることなどありえない。次男三男なら頭が良ければ学費も出してくれ運がよければ末は大将かと期待して陸軍士官学校や海軍兵学校にすすむものが多い。つまり彼らの多くは労働者階級と同じ出身なのである。実際わずか10年後に起こった315や226事件の首謀者である下級将校には東北出身の若者がおおい。そして同じ問題意識を持っていた。共産党はむしろ軍隊を啓蒙の対象とかんがえていたのではないか。具体的には労働運動弾圧の暴力装置として機能することが多いということも十分に認識していただろうが。
こういう事情がこの小説の最後の10ページの様々な反応に現れているのではないか。とにかく蟹工船は思想小説としては軍隊を一方的に断罪していないというのが読後感で、この辺が昔読んだ時にも割り切れないところだったのだろう。
おことわり:割り切れないというのは、図式小説としては矛盾していると感じたということで、自分の考えと違うとかそういう意味では有りません。