穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

蟹工船における帝国海軍観

2015-02-19 22:10:04 | 小林多喜二「蟹工船」

前回、つぎは蟹工船と海軍について書くと書いた。蟹工船のストライキを船団護衛の駆逐艦が鎮圧する場面は最後の10ページくらいしかない。前回、ここを読んで初めて高校時代に読んだことを思い出したと書いた。それだけひっかかるところが当時もあった。 

たしかにその通りなのだが、実際に書くことはあまりない。というか難しい。つまり理解してもらう様に書くことは難しいということである。

この小説は共産党、プロレタリア文学の指導者(たとえば蔵原惟人)の指導のもとに書かれたわけで、はっきりとした構図と言うか枠のなかで書かれている。だから問題は主義者、活動家達が帝国軍隊をどう捉えていたかということである。

意識してだか無意識なのか分からないが作者自身も曖昧なところがある。具体的な叙述に即して言うと、ストライキをした連中は海軍が鎮圧に駆けつけるとは予想していなかった。うっかりしていたのか、国民の軍隊であるいわば仲間が鎮圧するとは大部分のストライキ参加者が予想していなかった。着剣した銃をもった水兵が乗り込んで来ても「まさか」と言っている連中もいる。かれらは帝国海軍の艦艇は操業を妨害するソ連(ロシア)から守ってくれる存在で自分たちに向ってくるとは考えていなかったのである。

そうかと思うと「しまった、もうだめだ」という「理解力の早い」一部の首謀者もいる。この種の運動の活動家、理論家は労働者階級の敵は資本家だと思っている。そしてその手先は警察であり、特高である。彼らが実際の敵である。軍隊は労働者階級と同様啓蒙すべき対象と考えているのではないか、と思われるふしがある。

徴兵された兵隊はもとより、若い士官達には貧農の次男三男が多い。いくら貧農でも一家の跡取りである長男を軍人にすることなどありえない。次男三男なら頭が良ければ学費も出してくれ運がよければ末は大将かと期待して陸軍士官学校や海軍兵学校にすすむものが多い。つまり彼らの多くは労働者階級と同じ出身なのである。実際わずか10年後に起こった315や226事件の首謀者である下級将校には東北出身の若者がおおい。そして同じ問題意識を持っていた。共産党はむしろ軍隊を啓蒙の対象とかんがえていたのではないか。具体的には労働運動弾圧の暴力装置として機能することが多いということも十分に認識していただろうが。

こういう事情がこの小説の最後の10ページの様々な反応に現れているのではないか。とにかく蟹工船は思想小説としては軍隊を一方的に断罪していないというのが読後感で、この辺が昔読んだ時にも割り切れないところだったのだろう。

おことわり:割り切れないというのは、図式小説としては矛盾していると感じたということで、自分の考えと違うとかそういう意味では有りません。

 


不徹底な蟹工船

2015-02-19 08:40:37 | 小林多喜二「蟹工船」

昭和初頭に書かれたこの本はプロレタリア文学の代表作、傑作、金字塔なのだそうであります。したがって主義者文学なのであります。描写力はありますが、共産主義のためという目的がありますから、はっきりとした枠と言うか、構造というか、制約があります。

これは今で言うとノンフィクション・ノベルとでもいう趣きでありますが、どの程度実際の取材に基づいているのかな、と思いました。もっとも当時は取材の自由等思いもよらなかった時代ですから、そこは斟酌しなければなりません。 

作者小林多喜二は小樽かどこかの銀行員だったわけで、蟹工船に乗り込んだ人間から取材をしたのか、なにか当時でもルポルタージのような参照できる文書があったのか。いわゆる種本でありますが、この点は作者も文庫の解説者もまったく触れていません。現代的感覚で言うと妙な感じのする所です。 

蟹工船というのは、読んだ所では(別に他の資料をあたったわけではありませんので)、操船をする船長、船員、船大工(修理工)、漁師(実際にカニを捕る人)そして船上で漁獲した蟹から蟹缶詰を作る労働者の一群ということになる。この労働者たちが描写の中心で、ま、船の上の工場労働者というわけです。

この労働者達はぽん引き(風俗業のではありません、当時は炭坑とかこういう船の労働者を、甘言を持って連れて来て口銭を貰う人間をぽん引きといった、夏目漱石の坑夫を参照)、に連れてこられた連中で様々な経歴の人間達です。もと炭坑労働者、学生、北海道の奥地(当時北海道は奥地だったらしい)で鉄道施設の過酷な労働をしていたもの、東北の貧農の次男三男とさまざまです。

そして非常に重要な役割を小説で果たすのが浅川「監督」であります。これは水産会社?商事会社?(多喜二の表現では「丸の内」)に傭われた労務監督であります。かれが「労働者」と直接対決してかれらを「虐待、使役」するわけで、小説は、もっぱら丸の内の手先である浅川と缶詰工の間の緊張を描いている。この辺は「シー・ウルフ」のウルフ・ラーセン船長と似ているが、ラーセン船長ほど知性がある訳ではなく、複雑な性格をもっているわけではない。

浅川は資本主義、植民地搾取(これは多喜二の言葉だが何故植民地云々が出てくるのか分からない、むりやりに小説作成を指導した共産党幹部の指示と思われる*)の手先であり、労働者に取っては資本主義の権化として描かれている。この辺は小説のなかでは最後は資本家の機械的な操り人形として描かれているわけで、欠点(一般的にいえば)であり、プロレタリア文学の立場からすれば小説のキモということになるのでしょう。

*  文庫の後書きを書いた人物はたしか当時の共産党幹部で多喜二も執筆の途中で上京して訪ねて指導を受けたり、手紙、はがきで度々指示を仰いでいたことが「後書き」にも出てくる。

ついに我慢出来なくなった労働者達は団結して浅川に抗議します。浅川は労働者達が予想していた様に激高することもなく、いつも振り回していたピストル(今の表現では拳銃というのかな)を撃つでもなく、ただ穏やかに「いいんだな、後悔しないな」と言う。怒った労働者は彼を殴り倒す。そこへ船団を護衛していた日本海軍の駆逐艦が近づき、首謀者達を逮捕する。浅川は無線で反乱鎮圧を駆逐艦に打電要請していたのであります。

それで反乱もシュンとなる。ところが後日談があって、反乱を起こさせた監督不行き届きで浅川は丸の内から解雇されてしまう。ようするに浅川監督も所詮は丸の内の雇われで身分は保障されていないということになっているが、小説としてはどうかな、不徹底じゃないかな。最後まで虐待の王として君臨させておかないとインパクトが弱くなると考えるがどうだろう。

しかし、カニ缶詰工の悲惨な有様は迫力をもって描かれているから普通の読者(プロレタリア文学が対象とする)はそんなことには気が付かないかもしれない。十分に宣伝啓蒙効果はあったのだろう。

そういえば、この小説を高校時代に読んだのを思い出した。海軍駆逐艦の護衛付きでカムチャッカ、樺太(サハリン)沖で漁をしていたというくだりが記憶を蘇らせた。次回は海軍と蟹工船の関係について触れたい。今回はまた長くなったのでここまでにする。

&  補足:岩波文庫の解説者は蔵原惟人という人で、新潮文庫の解説もこの人が書いていますね。

確認したい点があって書いた後でインターネットでしらべたのですが、蟹工船は2008年に若い人たちの間でちょっとしたブームになったそうですね。知りませんでした。それなら、あまり詳しく粗筋を紹介する必要もなかったのかも知れません。すっかりマイナーな本だと思ったので詳しく書きすぎたかな。

 

 


シー・ウルフから蟹工船にとぶ

2015-02-18 21:44:49 | ジャック・ロンドン

 芥川賞を取り上げたので間が空きましたが、前々回触れたジャック・ロンドンの「シー・ウルフ」の続きです。これは一種の監獄物だな、とまず感じたのであります。

小説の出だしはこうです。サンフランシスコ湾を渡るフェリーが霧で視界が悪く他の船と衝突して沈没します。その乗客が紳士(つまり生活のために仕事をする必要がない人)で文芸評論等を一流雑誌(アトランティック)に発表しているディレッタントです。

彼が他船に救助されます。この船が日本近海にアザラシ(の毛皮)を取りに行く船で救助された文芸評論家35歳は、ちょうど良い所に来たというので、陸地に送り返されるかわりにコックの下働きにされてしまいます。

彼ハンフリー・ヴァン・ウエイデン(オランダ系らしいからワイデンと発音するのかな)は千ドルやるからサンフランシスコに戻してくれというが相手にされない。救助された場所がサンフランスコのすぐ近くなのにです。サンフランシスコに戻る船ともすれ違うような場所です。絶望的になった彼は海上で相手の船に救助を求めますが相手にされません。

こういうことが19世紀の末(多分)に通用するなら絶妙な舞台が設定された訳です。船の中は一種の強制収容所と変わらない訳です。

私はこの小説は何々ものだなと思うと、それに関連して似たような小説を思い出して比較したりします。小林多喜二の「蟹工船」を思い出した訳であります。監獄物と言えばドストエフスキーの死の家の記録とかソルジェーニーツィンの「イワン・デニソビッチ」などを思い出しましたが、どうもタイプが違うようです。

そこでかすかに記憶に浮かんで来たのが「蟹工船」であります。これは読んだような読まないような曖昧なのであります。読んだとすれば高校時代ですが、内容はまったく記憶にありません。それでわざわざ岩波文庫で買いました。読者の皆さんはご苦労さんと呆れるでしょうが、わたしの読書(書評)はつれ読みであちこちにいつも跳ぶのであります。私に取って読書とは暇つぶしですから、かえってあちこちふらふら跳んだ方が時間をつぶせるという訳です。

そこで蟹工船を読んだ印象を書こうと思ったが前置きだけで長くなってしまった。次回にまわします。


「九年前の祈り」小野正嗣

2015-02-14 17:59:15 | 芥川賞および直木賞

久しぶりに芥川賞受賞作を取り上げた。大分前に、西村賢多氏が授賞した時に、その経歴の特異性にひかれて書評をこのブログで試みた。ニュース性のみではなく、内容も興味が持てたのでかなりの回数アップした記憶が有る。

その後、惰性で二、三回受賞作を取り上げたが、つまらない物ばかりで書評のために読むのが苦痛になったので、やめてしまった。

さて、今回小野氏の『九年前の祈り』を取り上げたのは特別の理由があるわけではない。ちょうど端境期で種切れということもあり、枯れ木も山のにぎわい、というわけである。

時間の扱い方がモディアノそっくりだね。真似たかどうかはわからない。氏はフランスに8年間留学していたそうだから、手法を真似した可能性は高いと思う。過去と現在の叙述が切れ目無く継ぎ合わされているわけだ。読んでいてすぐに分かる訳だが。この辺がモディアノに比べて工夫がないというか、芸がないとも言える。

もちろん、肌合いとかテーマ、質感は全然ちがう。肌合いという点で言えば、モディアノはさっと水彩画で一はけ書きしたような印象だが、上野氏はべっとりとした感じである。

叙述力、比喩力はあるようだ。

最後の何行かは不要である。これがあるためにハッピーエンドになっているが、どうも唐突であるし安っぽくなる。もっともこの「おち」がないとタイトルの「九年前の祈り」と繋がらない訳だが。最後の十二行を削除して、タイトルも別のものを考えたら良かったのではないか、と思う

選者の一人である山田詠美氏の評ではこう表現されている。「この作者は、彼女を生まれ変わらせる。その静かな再生の気配に寄り添えるのか、否か。私は残念ながら後者だった。」さすが山田さん、うまいね。

 


ジャック・ロンドン「The Sea-Wolf」

2015-02-10 10:38:17 | ジャック・ロンドン

これは見っけものですね。全部で38章、まだ第三章の途中ですが。ロンドンの小説を読むのは三冊目です。白い牙、荒野(野生)の叫び声は文庫本がありますが、シーウルフが無いのはどうしたわけでしょうか。

随分昔に海狼という題で翻訳されたことはあるようですが、今では絶版のようです。アメリカで十回以上映画化されている人気の作品なのに日本で翻訳が出ないのはどういう訳でしょう。

あと「ロンドン」物ではロンドン(地名)の最貧街のルポが岩波にあるようですが、これは読んでいない、読む気もしないがシーウルフのほうが先じゃないかな。

20世紀の始まり頃の物語りのようで日本近海にあざらし猟にいく船の話で、まだそこまで読んでいないが、作者のロンドンは日露戦争を取材しようとして日本軍に勾留されたことがあり、日本蔑視や人種差別的な発言があるのかもしれない(これから読む所に)。それで翻訳は敬遠されているのかな。


「かもめのジョナサン」名字考

2015-02-02 06:55:14 | かもめのジョナサン

カモメのジョナサンの原題は「JONATHAN LIVINGSTON SEAGULL」である。日本風に言えば姓はSEAGULL、名はJONATHAN、名乗りはLIVINGSTON、近くば寄って目にも見よ、とでも言うところだ。

このシリーズの第一回で述べた様に、この寓話は飛行家としてのリチャード・バックの体験(異常感覚、神秘体験、さとり)がもとになっている。このことは作者自身がどこにも述べていないかも知れないが。

作者の経歴は元ジェット戦闘機のパイロット、退役後曲芸飛行をしながら全米各地を巡業していた。したがって、寓意を表現するのに鳥を主人公にしたのだろう。この小説の一つのテーマは自由である。我々は魚を見て、水中を自由に泳げてうらやましいな、とはまず思わない。しかし、鳥が頭をかすめて飛び去ったりすると、コンチクショウと腹がたつ。空を自由に飛べることを嫉妬するわけである。

大方の飛行マニアの心理もそんなものであろう。この小説でも航空機の操縦術に関する用語がふんだんに出てくる。なかには一般用語になっている失速とか急降下などの言葉もある。

この作品は1970年に発表されたらしいが、それで思い出してヒッチッコック監督の「鳥」もその前後ではないかな、と調べたら1963年発表だった。映画の方は何らかの理由で発狂した(行動が非常に凶暴になった)カモメが人間を襲う話である。現代なら環境汚染物質の影響だとか、遺伝子操作だとかいろいろこじつけて物語を作るのだろうが。

それにしてもこの映画も主人公はかもめである。それだけ人間に身近な、都会でもよく見かける鳥であるということだが、それだけでもあるまい。そこで「カモメ考」」である。

小説の一つの核は「群れる」対「自由」ということである。都会、すなわち人間の近くでよく見かける群れる鳥というと、からす、かもめ、鳩であろうか。雀も群れる。そんなことを言えば鳥というのは大体群れるものであるが。都会的な鳥と言えばやはりからす、かもめ、はとであろう。もっともカモメは川や港の近くでないと見かけないが。

そこで作者は考えた(と思う)。物語は一種の昇華、自由がテーマである。邪悪の化身のようなカラスはまずペケである。色がまっくろというのもテーマにそぐわない。鳩はどうか。鳥の中でこれほど自由のイメージに遠い鳥はない。みじめったらしい。餌を求めて馴れ馴れしく、ずうずうしく人間にすり寄る。およそ、自由や高貴というイメージからは遠い。それだけに安っぽい「平和」のシンボルなのだろう。

消去法でカモメに落ち着いたわけである。それが社会一般、読者一般のイメージとも一致したのである。

カラスや鳩は人間の生活圏を侵す。カラスは人間に嫌われながら。鳩は人間に媚を売りながら。かもめはその点では人間の近くに棲みながら人間とは一線を画している。漁船の周りに群れて網からこぼれた魚に群がることはある。あるいは隅田川の遊覧船の馬鹿な客が空中にパンをばらまくと集まってくることはあるが。

そろそろこのシリーズも終わりにするかな。

おっと、もう一つ書いておこう。そもそも、これを書き出したのはジョナサンという名前に作者はなにか意味をもたしているのかな、と調べようとしたことがきっかけだった。ヨナタン(ジョナサン)というのは旧約聖書に出てくるダヴィデを救った友人の名前であるが、物語とは関係ないようだ。そういえばリビングストンというのは何かにひっかけたのだろうか。アフリカ探検家として有名な人物がいるがこれではなさそうだ。 終わり ご退屈さまでした。

 


かもめのジョナサン、第四部と最後の言葉

2015-02-01 19:21:35 | かもめのジョナサン

Part FourとLast Wordsまで読みました。パート4は羽化登仙したヨナタン後のかもめたちの物語。その後二百年の間にヨナタンが神格化され、彼の教えは形式化、儀式化されるという話、そのなかで少しましなアンソニーが自殺ダイブをすると、どこからともなくヨナタンが現れて救ってくれるところで終わり。

Last Wordsは昔の原稿発見と出版のいきさつ(理由)が簡潔にかつ適切に書かれている。第四部は著者もいっているように、あってもよし、なくてもよしである。五木氏の言う様に第四部を読んで第三部までが初めて納得したというのはどうも感心しない。

短いが腹ごたえのある作品である。

 


創訳「かもめのジョナサン」のあとがき

2015-02-01 07:48:44 | かもめのジョナサン

良心的できめ細かなフォローアップをモットーとする当ブログである。前回五木寛之氏の後書きに法然のことが出ていたとチョコット触れたが文章はまったく読んでいなかったので念のために読んでみた。といっても買った訳ではない。わざわざ書店に出向き立ち読みしたのである。J書店さんありがとう。

私は五木氏の文章を一行もよんだことがない。小説もエッセイのたぐいも。この後書きが最初に接した彼の文章である。したがって五木氏の作品云々を論じることは出来ないが、この後書きは相当ひどい。 

法然が出てくる前後を読むが、なぜ法然が出てくるか分からない。小説の第四部に関係するらしいが、法然が彼の死後彼の意図に反して神格化されたのと比較しているらしい。まだパート4は読んでいないから分からないが、ヨナタンも4部で死んで神格化されているのかな。

法然の思想となにか関係があると思ったが、全然関係ないようだ。それとこの後書きが滑稽なのは、小説の内容に立ち入らず、周辺というか社会現象として理解しようとして五木氏が力んでいるところだ。

ひとつは、ヨナタンが「風とともに去りぬ」の販売部数を上回ったのはなぜかと不思議がっている。「風とともに」より売れて今までのベストセラーだというのは他の何処かで読んだ。インターネットだったかな。だから本当なんだろう。もっともS・キングとかバカ売れしている作家も他にもいると思うが、本当なのかな。ハードカバーの売り上げでは、と何処か他の所では書いてあった。キングのはペーパーバックの売り上げも含んでいたのかも知れない。

こんなことはこの本を読んだり、書評したりすることとは関係ないが、このナゾを五木氏が解こうとしてウンウン唸っているから紹介しておく。こんなことは出版屋に分析を任せておけば良いことである。 

もう一つは、上と関係するが、映画イージーライダーとか、ピッピー文化とかと関連させてアメリカの社会現象として「分析」しようとしている。的外れと言わざるを得ない。もっとも、五木氏も解答が見つからなくて不思議がっているだけだが。 

ま、創訳は買わない方がよさそうだ。

思い出した。もう一つ書いておこう。五木氏はヨナタンや悟りをひらいた(高いステージに達した)カモメが何故純白に輝くのか分からないと首をひねる。

かもめはもともと真っ白でしょう。純化の方向として輝くような白になるというのは自然の発想じゃないかな。そう難しくひねくり回す必要は無い。紫の先に紫外線があるように、白の先に白外線があるなら、それは輝くような透き通るような純白に違いない。ごくプリミティブな発想じゃないかな。