穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

ドストエフスキーの父

2009-07-31 07:20:08 | ドストエフスキー書評

ドストエフスキーの父は暴君だった。外向きには。小領主(父)の横暴を怒った農奴に父は虐殺される。ま、農民一揆で殺されたわけだ。外面的には、自分の領地の農民に対しては暴君だったことは間違いない。

家庭内ではどうだったか、やはりドメスチック・バイオレンス・パパだったのか。世の中には内面、外面ともに横暴なのがいる。そうかと思うと外面が暴君でも家庭内では徹底的に過保護で息子や娘がどんな法律違反をしても破廉恥なことをしても断固として擁護する父親もいる。

また、外面は柔和だが家庭内では鬼になるのもいる。じゃによって、ドストエフスキーの父は家庭内でも暴君だったか、どうか、問うのである。

ドストエフスキーについては自伝はないようだ。伝記はいくつかあるようだが、研究者向けで図書館か古本屋にいかないと見つかりそうもない、というのがインターネットで見当をつけたところ。

実物を一つも見ていないのでドストの父の家庭内での暴君性の有無は分からない。亀山郁夫氏はカラマーゾフの兄弟には自伝的要素が(一面で)あると書いている。江川卓氏も「謎ときカラマーゾフの兄弟」のなかで同様のことを書いている。DV部分のことなのかどうなのか気になるところである。

大体、自伝とか回想録的なものは晩年になってから、はじめて筆を染めるのが普通だから、ドスト最晩年の「カラマーゾフ」になって初めて書く気になったのかもしれない。

生意気な奴は30歳で自伝を書く奴がおるが。

もっともドスト氏が自分の家庭、父をそのまま小説に書くはずはない。そこは神話的構造変換をほどこすであろうがね。


ドストエフスキー深読み

2009-07-30 07:20:43 | ドストエフスキー書評

いわゆる「エディプス・コンプレックス」を母を確保するための父との争いと定義するならドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の長男ドミートリーの父に対する憎悪を世上職業文学者の言うようにエディプス・コンプレックスと解釈出来ないこともない、と小生一歩譲歩。

ただし、老父の執着する女グルーシェニカを実母と錯覚することが必要である。長男はそう短絡したと強引に解釈すればいい。実母は産後間もなく死亡して記憶になく、母が死ぬと父に放置されてよそにやられてしまう。

成年して家に来てみれば父は若い女に血道をあげている。この女を実母と同値して、父と争うというプロットは小説世界では構築しうる。しかし、注意深く「カラマーゾフの兄弟」を読んでも、そういう作者の意図は汲み取れないが。大作家だから読者に簡単に見破られるような隠し味ではないということかな。


オイデプス王と「カラマーゾフの兄弟」

2009-07-29 15:20:56 | ドストエフスキー書評

ソフォクレスの悲劇「オイデプス」によると、オイデプスは赤ん坊の時に父王から山中かどこかに捨てられる。

オイデプスは命を失わずに成人し、旅行中に実父とは知らずこれと争い殺す。そしてこれも自分の素姓を知らないまま、実の母と結婚する。のちにこの事情が明らかとなり、悲劇が始まる。

ソフォクレスの「オイデプス」の父は子供が将来自分の地位をおびやかすという予言のために、子供の死亡を予想して子供を遺棄する。

カラマーゾフのフョードルは赤子の段階から育児を放棄する。母親が死亡した子供たちは下男に育てられる。

成人した長男のドミートリーは父と金持ちの囲い者になっている女をあらそう。実の母ではないが父と子が同じ女を奪い合うという構造は同じである。

ドストエフスキーがオイデプスを読んでいたかどうかは不明、また、知っていて参考にしたかどうかも不明である。

しかし、構造的にはまったく一致する。はやりの構造主義者じゃないが、ここに勝利の方程式があるみたいだ。

以上はジムクンド・フロイトのいうエディプス・コンプレックスとはまったく関係ないから念のため。


ドストエフスキーとDV

2009-07-29 14:24:35 | ドストエフスキー書評

「カラマーゾフの兄弟」のなかで中盤の山場というか、人口に膾炙するというか、一般受けがいいというか、大審問官のくだりでイワンがロシアの家庭での幼児虐待の事例集を集めているとアリョーシャに話すところがある(ちょうどその頃、ロシアでも新聞が普及してきたのでね)。

大詰め第四部の終わり、父殺し裁判の最終パートでモスクワから来た弁護士が満場の傍聴人を圧倒する最終弁論がある。注目すべきはロシア現代(当時)の家庭論である。子供がしかるべき注意を払われず正当に扱われていないと弾劾する。

もちろんポリフォニー小説(小生も都合よく何度でも使っちゃうが)だからさまざまなテーマはある。大衆お好みは大審問官の部分でしかも「神がいなければ何でも許される」というイワンの無神論であることは説明するまでもない。

しかし、ドストエフスキーの主たるテーマは父殺しではなくて、ロシアの家庭における父子関係である。だからドミートリーは父殺しの冤罪を受けたことになっている。父殺しというテーマはアイキャッチングだし、犯罪小説家ドストエフスキーが意図的に作品に付け加えたお化粧であろう。

もちろん冤罪無罪にさせないのが作者の眼目だから弁護人の大演説も論理的なぬけをちりばめる。おそらく意図的にドストエフスキーが加減したものだろう。弁護士が勝って無罪釈放、大団円では風味がなくなるし、後が続かなくなる。

いずれ別稿で述べるつもりだが、ロシアと日本の状況は似ているところがある。ドストエフスキーの「悪霊」、「未成年」および「カラマーゾフの兄弟」は徹頭徹尾、父子問題が中心であり、日本の現代の家庭にそのパラレル・ワールドをみる。

すなわち、「悪霊」のステパンと「未成年」のヴェルシーロフは全共闘世代であり、子供は自由放任、またの言い方ではほったらかし、で大学紛争、東大安田講堂戦争やパリの五月革命解放区をじいさん、ばあさんになっても懐かしく回顧する。

「カラマーゾフの兄弟」の父親フョードルはもう少し時代が下って、今はやりのドメステイック・バイオレンス・パパである。

エピローグ最終章を飾るのは感動的なスネギリョフ一家と息子の物語である。そこには理想的な家庭がある、父子関係においては。しかし、その家庭は貧困、悲惨、病魔の地獄である。こういう環境の中にしかドストエフスキーが理想の父子関係を描けなかったのは一個のアイロニーである。

次回はオイデプ物語と「カラマーゾフの兄弟」の驚くべき構造的一致について


ドストエフスキーの子役

2009-07-26 16:03:00 | ドストエフスキー書評

ドストエフスキーのキャラの弱年齢化は作者の加齢とともにすすんでいるようだ。

未成年のアルカージー19歳から最終作カラマーゾフでは、脇役ながら14歳コーリャとかリーザとかだ。ドストエフスキーの特徴はどんなに年齢が若くなっても大人言葉をはなすことだ。

コーリャとかリーザのところは相当なスペースを占めるが、読んでいるとドストエフスキーの実験動物(ラット)を見ているようだ。

あるいはホムンクルスを見ているようだ。ホムンクルスとは錬金術に出てくる小人だ。人造小人である(近世魔術における試験管ベービー)。

年をとるほどこういう実験動物を書きたくなるというのは面白い。


ドストエフスキーにおけるPersonality Disorder

2009-07-24 08:18:39 | ドストエフスキー書評

ドストエフスキー作品に現れたパーソナリティ障害についての若干の観察:

これは彼の作品の特徴のようにもてはやされるポリフォニーとは違う。ポリフォニーなんて小説では当たり前だと思うのだがドストエフスキーの場合だけもてはやされるのはどういうわけだろう。あの時代では独創的というのか、特徴的ということか。バプチンの説明がよほど説得力があったのか。

パーソナリティ障害という言葉は心理学、精神病理学でやたらに多い新語の一つであって、原因からではなくて、いわゆる外面的な症状からクラスター化した「シンドローム、症候群」であり、言葉にうるさい下拙が使いたくない言葉なのだが。

ま、長いものには巻かれろというか、流行には乗り遅れるな、というのか小生も使用してみたわけである。

閑話休題:

ドストエフスキーの場合、比較的初期の作品からパーソナリティ障害的人物が出てくる。その名もずばり「分身(二重人格)」なんてのもある。罪と罰のラスコリニコフはまさに境界性ではなくて本物のパーソナリティ障害だ。

地下室の手記しかり。見方によっては「死の家の記録」もそうだ。流刑地における極悪犯罪人のうちにも聖性を見るドストエフスキーの観察はパーソナリティ障害の事例集とも言える。

さて、晩年の父子三大長編についてみると、悪霊は比較的キャラクターが単純パターン化しているほうだ。テロリストたちはあくまでテロリストだし、お人好しで感傷的な父親はあくまで感傷的だ。人格の不明瞭さという点ではスタヴローギンくらいのものか。

未成年ではパーソナリティ障害を見せるのは父親のヴェルシーロフだろう。息子のアルカージーもそうだが、これは人格の固まらない未成年時代の揺れにすぎないと見ることが出来る。

父子で関心を寄せるカテリーナはパーソナリティ障害の万華鏡である。この作品に限らずドストエフスキーの作品に出てくる女性はほとんどがパーソナリティ障害(境界性)である。これはパーソナリティ障害なのか、たんなる女性特有の性質をカリカチュアしているだけなのか、両方の見方があるだろう。

最後のカラマーゾフの兄弟では境界性パーソナリティ障害のオンパレードである。もっとも、陽性(明るいというのではなくて明確)なのはドミートリー。イワンしかり、カテリーナしかり。ドストで大体同じ役割をする女性にはカテリーナという名前がおおい。グルーシェニカとくにしかり。


父殺しは「カラマーゾフの兄弟」のテーマではないV2

2009-07-20 08:45:46 | ドストエフスキー書評

エディプス・コンプレックスなんて書けば恰好がつくと思っている連中が多い。職業書評家なんかにとくに多い。この言葉は商標登録「精神分析学」で商標権を主張している用語である。父殺し、ないしは母子相姦願望を言うとしている。

ジムクンドのフロちゃん(フロイト)が言いだした言葉だ。商標登録「精神分析」が詐術であることは繰り返し述べてきたところである。ユダヤ難民、賎民、背教者フロイトのユダヤ教割礼恐怖から発酵した奇想である。

エディプスとはギリシャの王子オイデプス物語から持ってきた言葉である。そもそもこの物語は父王の子捨てに始まる。子殺し、養育放棄のギリシャ番である。この捨て子が隣の国王に拾われ素性を知らないまま成長した王子が後年、道で出会った見知らぬ王を殺す羽目になる、もちろん実父と知らずにだ。

そしてご念のいったことには、後家になった母親と結婚するというものがたりだ。したがってこの名前を親殺しの代名詞に使うのはギリシャ神話を知らないもののすることである。

エディプス・コンプレックスとは、サル以来霊長類の人間が深く引き継いできた子殺し症候群に命名すべきものである。

ドストエフスキーの父子三大長編でいえば、悪霊のステパン・ヴェルホーヴェンスキー、未成年のヴェルシーロフそしてカラマーゾフの兄弟のフョードル・カラマーゾフにあてられるべき言葉なのである。

>> 何となく書いたことが記憶に引っ掛かっていたのでこの記事を読みなおしたんだが、オイデプスのことをギリシャ神話の神と書くのはおかしいね。古代ギリシャの伝承、物語あるいはそれに基づいてソフォクレスだったかユウリピデスだったかが書いたギリシャ悲劇「オイデプス」にひっかけて(間違ってフロイトが)命名したとでも書くべきだったのだね。

>> おっと忘れていた。ギリシャ神話でいえば天界の二代目大王クロノスが子殺しの常習者である。彼は生れてくる自分の子供を全部食べてしまった。最後のゼウスは母親がクロノスに石に産着をかぶせて赤ん坊とだましてクロノスにのみこませた。後に成長したゼウスが父親を退治して第三代大明神となったわけであった。

ところで神話なんてのはどこの国のも大体同じである。特に日本神話とギリシャ神話はよく似ているが、子殺しの逸話は日本神話にはないようだ。いやいやあったっけ、カクズチノ神だったかな。父のイザナギノ神が怒って三つにぶった切ったんじゃなかったけ。あれはちょっと性質がちがうんだよね。たしか、カクズチの出産のときにイザナミが死んだのを怒ったというんだから。ま、それでも今後の繁殖の道を断たれて逆上したというのだから同じか。

もっともその時に流れた血から様々な神が生まれた。性交が出来なくなったからクローン繁殖に切り替えたわけだ。関東制圧の功績で今でも香取神社の祭神となっている経津主神はカクズチの血から生まれたことになっている。


父殺しはカラマーゾフのテーマではないV1

2009-07-19 09:17:10 | ドストエフスキー書評

親殺しはドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の主要かつ唯一のテーマではない。それは落語でいうところの「オチ」である。あるいはプロット推進エンジンの一つにすぎない。

ゲーテの「ファウスト」第一部の子殺し、すなわちファウストに棄てられたグレートヒェンの子殺し、堕胎のように。

子殺しのテーマのほうが文学としてははるかに扱いにくい。そして人間にとっては親殺しよりもはるかに根源的なテーマである。子殺しをあつかうには高度のテクニックを必要とする。これがドストエフスキーが子殺しを正面から扱わなかった理由であろう。

もっとも、彼の父子三大長編(悪霊、未成年、カラマーゾフの兄弟)で子殺しのテーマが扱われていないわけではない。

子殺しが薄められた形で三大長編すべてで扱われている。すなわち、育児放棄である。薄められた子殺しである。ロシアの貴族富裕層では育児放棄が子殺しにいたらない。テテ親はヨーロッパ放浪に逃避する。資金力があるから、子供の養育を他人に託することが出きる。

これが現代日本では育児を他に頼む場所もなく、施設もなく、昔のように祖父母同居で彼らに面倒を見てもらうわけにはいかないから、幼児虐待、子殺しになる。

狭いマンションに押し込められる。昼は金稼ぎに働く。幼児は連れていけない。夜は幼児がセックスの邪魔になる。必然的に幼児虐待、子殺しが増える。

霊長類では子殺しが見られる、それは父親が母親を発情させるためである。幼児にかまけているメスは発情しない。あせって怒ったオスには子猿を殺すことが見られる。そうすると雌サルはめでたく発情するようになる。

霊長類の子孫たる現代の若者の遺伝子に同様のスイッチがあることは疑いをいれない。

つづく


道化としての父、ドストエフスキー

2009-07-18 08:13:40 | ドストエフスキー書評

長い作家生活でドストエフスキーは晩年の三作で初めて父親というキャラを描いたが、いずれも道化風味である。ドストエフスキーの実際の父親が道化的であったかどうかは分からない。

そもそも、父親役を晩年まで描かなかったところにポイントがあるようだ。

悪霊のステパンと未成年のヴェルシーロフは教養人として、ヨーロッパ放浪者、養育義務放棄者として、カラマーゾフの兄弟では肉欲、金銭欲の人として。いずれも道化の化粧を施している。

カラマーゾフ家でもっとも「カラマーゾフ」的な長男ドーミトリーもまた、ドストエフスキーが道化的描写をしている。

ドストエフスキーの評伝などによると実際の父は道化的ではなかったらしい。暴君であったようだ。ということは小説の中の父たちのモデルは実際の父ではなくてモデルが別にあったのか。あるいはまったくのフィクションか。

私の推測ではいずれでもない。実父の影を克服しようとして道化にしたのではないかと考えられる。それでドストエフスキーは父の重圧を克服したのか。したかもしれないが、カラマーゾフの兄弟を書いた彼は力尽きたように死んだ。実父との戦いのなかで。


ドストエフスキー三大長編における幼年時代

2009-07-17 09:56:31 | ドストエフスキー書評

トルストイとちがいドストエフスキーの小説には幼年時代、少年時代を描いたものが少ない。

三大長編(悪霊、未成年、カラマーゾフの父子シリーズ)でも幼年時代、少年時代の描写がある程度詳しく出ているのは未成年のみである。

もっとも、リニアな時系列描写ではなくて、未成年(19歳)である主人公の回想を彩るアネクドートとしてちりばめられている。しかし、分量にすると相当になるし、単に履歴書的、叙事詩的記述ではなくて、なんというか、ディケンズ的な迫力でたっぷりと描かれている。

未成年はよく教養小説といわれるが、わたしはむしろディケンズ風味の心理小説と言いたい。


ドストエフスキー三大長編、つけたり

2009-07-15 19:54:41 | ドストエフスキー書評

ドストエフスキーの三大長編小説とはわたしが勝手に選んだものである。悪霊、未成年およびカラマーゾフの兄弟の三つである。父と息子をその布置としていることで共通している。もちろん夫々内容は違う。

同じなら三つも書く必要もないわけだ。この三作の異同については前号で縷々述べたところであるが、こういう切り口からの分析はほかで見ないので、もうすこし付け足しておこう。

問題を出そう。悪霊とカラマーゾフで出てくるキャラで未成年で出てこないものは何か ?

答:青少年の教唆役というか、使そう者というか、青少年のこころに感染するウイルスのように気味の悪い影響力を行使する、優秀な頭脳を持った(ことになっている)無神論者。悪霊でいえばスタヴローギンであり、カラマーゾフの兄弟ではイワン・カラマーゾフ役が未成年では出てこない。

とくに悪霊のスタヴローギンは日本の読者、評論家に人気のあるキャラである。すこし重視しすぎるきらいがなきにしもあらずである。

また「未成年」のみが未成年アルカージーの一人称で述べられているのも特徴だろう。ドストエフスキーが悪霊、未成年、カラマーゾフの順序で書いた背景などを考えてみるのも面白い。

他の長編では父の影も出てこない。罪と罰では父親のいない母子家庭だし、白痴のムイシキンは孤児という設定である。


ドストエフスキー長編における父と子

2009-07-12 17:22:02 | ドストエフスキー書評

最近(といってもここ一年くらい前らしいが)復刻された新潮文庫の未成年を読んでいる。

俗に五大長編という呼び方があるらしい。罪と罰、白痴、悪霊、未成年、カラマーゾフの兄弟のことらしい。死の家の記録や虐げられた人々も長編だろうが、文庫本で二冊以上になるのを長編というならたしかに五大長編といえるだろう。

作家によって繰り返される状況設定に著しい類似が見られることがある。いわゆる五大長編(以降かっこ五大長編と書く)での共通点は父との青少年期における接触のなさ(皆無といってもいい)である。

「五大長編」においては、いくら佐藤優が解説で言うように当時のロシア貴族の家庭の特殊性があるにせよ、きわめて特殊で作家の強迫観念があるがごとく、である。

未成年はまえにどこかの文学全集の一冊として読んだのだが、よく覚えていない。今回初めて読むようなものなのだが、父と子の状況は極めて特殊である。

おやこ関係で「五大」のうち、とくに注意を惹くのは悪霊、未成年、カラマーゾフである。とくに悪霊と未成年は似ている。もちろん強烈なバリエイションをつけている。だから余計にめだつ。

いずれも多感な幼年期、少年期、青年期初期には産み落とした子供の養育を放棄したような父親である。もちろん経済的な扶育措置は知識階級、貴族階級だから講じているわけだが、他人任せでほっぽり出されている。

それが青年期に父親と再会して生まれて初めて父と子として接触するや、たちまち濃密、不自然ないかにもドストエフスキーらしいドラマがはじまるわけだ。

ここでは共通点の著しい悪霊と未成年を比較する。

子供の養育責任を放棄したような父親だが、両方の父親ともロシアだけではなくてヨーロッパでも最高の知性として描かれている。そしていずれの作品でも、父親は息子にたいして極めて感傷的である。(あるいは急にとってつけたように感傷的にふるまったというべきか)。未成年では最初は謎めいている父親だが最後は手放しで抱き合う。

違うところは、そして決定的に相違するところは、悪霊では息子のピョートルは父親ステパンを時代遅れの耄碌じいさんとして徹底的に馬鹿にしている。

未成年ではなみだなみだの感激シーンである。それだけに読者としてはあっけにとられて感情移入がしにくい。

しかし、放置された少年期の恨みやエピソードの描写では未成年の迫真力は悪霊よりはるかに勝る。

再会した父親との関係は悪霊も未成年もどことなく形而上的というか思弁的な風味が残っているがカラマーゾフでは親子関係は徹底的に形而下的である。

父親が形而上学的な(高邁な)高説を長々と披露することもない。ヨーロッパの精神的危機を説いて読者を退屈させたり面くらわせることもない。哲学的な長広舌を行うこともない。未成年もカラマーゾフも一人の女性をめぐって父と子が争う(この言葉は適切ではないが、他の言葉を思いつかないので)がきわめて思わせぶりな気取った描写があるだけだ。

おなじ状況はカラマーゾフにもあるがきわめて即物的な関係だ。ようするに同じ状況設定だがバリエイションに強烈な差をつけているということだ。

ドストエフスキーは色々試して最後に「決めた」ということだろうか。

>>

カラマーゾフを読んだのは大分前なので、念のためにチェックしたが上記の記述を訂正する必要はないようだ。カラマーゾフの父親は教養もない小才のきいた『こあきんど』上がりで金持ちの妻の持参金を元手になりあがっていく肉欲の強い男だ。戦後の日本に掃いて捨てるほどあった例である。お佐野賢治とかね。

ここが父親として、悪霊や未成年の父親が抜きんでた教養人であるところと違う。

悪霊ではテロリストの息子に対して徹底的に戯画化されているのが父親ステパンで、最後に父が家出をして旅先で死ぬあたりは、センチメンタルでおいらは大好きである。別の言葉でいえば涙が止まらんのである。

未成年の父親は日本でいえば全共闘世代みたいなサッカリンのような甘さが鼻につく。パリ・コミューンの武装蜂起を青春の懐かしい思い出として持っているところなど、東大安田講堂の闘争を青春の頂点として回想する全共闘おやじ、全共闘おふくろと同じである。ようするにオイラとしては好きになれない。

そういえば、父親の家出というか蒸発はドストエフスキーの定番である。悪霊の父は若い時はヨーロッパへの放浪生活者であり、ロシアに帰ってからは金持ち未亡人の居候であり、最後にはそこを家出して認知障害を発症して熱病で旅枕で死ぬ。

未成年の父ヴェルシーロフも青年、壮年時代はヨーロッパの各地を放浪する。帰国してからは居所不明者である(小説的には)。内縁の妻の家に「滞在」したり、息子のアパートに現れたりするが、どこに住んでいるか、あの長編の最後にならないと分からない。

そして彼も最後の痴情沙汰で拳銃をぶっぱなした後神経がプツリと切れる。認知障害を発症して内縁の妻に介護される、すっかりおとなしい好々爺になるのである。

最後には彼個人があるところに部屋を借りていてそこが住所らしいと分かるのである。これも妙な設定だ。もちろん作者の意図なのだろうが。