最近(といってもここ一年くらい前らしいが)復刻された新潮文庫の未成年を読んでいる。
俗に五大長編という呼び方があるらしい。罪と罰、白痴、悪霊、未成年、カラマーゾフの兄弟のことらしい。死の家の記録や虐げられた人々も長編だろうが、文庫本で二冊以上になるのを長編というならたしかに五大長編といえるだろう。
作家によって繰り返される状況設定に著しい類似が見られることがある。いわゆる五大長編(以降かっこ五大長編と書く)での共通点は父との青少年期における接触のなさ(皆無といってもいい)である。
「五大長編」においては、いくら佐藤優が解説で言うように当時のロシア貴族の家庭の特殊性があるにせよ、きわめて特殊で作家の強迫観念があるがごとく、である。
未成年はまえにどこかの文学全集の一冊として読んだのだが、よく覚えていない。今回初めて読むようなものなのだが、父と子の状況は極めて特殊である。
おやこ関係で「五大」のうち、とくに注意を惹くのは悪霊、未成年、カラマーゾフである。とくに悪霊と未成年は似ている。もちろん強烈なバリエイションをつけている。だから余計にめだつ。
いずれも多感な幼年期、少年期、青年期初期には産み落とした子供の養育を放棄したような父親である。もちろん経済的な扶育措置は知識階級、貴族階級だから講じているわけだが、他人任せでほっぽり出されている。
それが青年期に父親と再会して生まれて初めて父と子として接触するや、たちまち濃密、不自然ないかにもドストエフスキーらしいドラマがはじまるわけだ。
ここでは共通点の著しい悪霊と未成年を比較する。
子供の養育責任を放棄したような父親だが、両方の父親ともロシアだけではなくてヨーロッパでも最高の知性として描かれている。そしていずれの作品でも、父親は息子にたいして極めて感傷的である。(あるいは急にとってつけたように感傷的にふるまったというべきか)。未成年では最初は謎めいている父親だが最後は手放しで抱き合う。
違うところは、そして決定的に相違するところは、悪霊では息子のピョートルは父親ステパンを時代遅れの耄碌じいさんとして徹底的に馬鹿にしている。
未成年ではなみだなみだの感激シーンである。それだけに読者としてはあっけにとられて感情移入がしにくい。
しかし、放置された少年期の恨みやエピソードの描写では未成年の迫真力は悪霊よりはるかに勝る。
再会した父親との関係は悪霊も未成年もどことなく形而上的というか思弁的な風味が残っているがカラマーゾフでは親子関係は徹底的に形而下的である。
父親が形而上学的な(高邁な)高説を長々と披露することもない。ヨーロッパの精神的危機を説いて読者を退屈させたり面くらわせることもない。哲学的な長広舌を行うこともない。未成年もカラマーゾフも一人の女性をめぐって父と子が争う(この言葉は適切ではないが、他の言葉を思いつかないので)がきわめて思わせぶりな気取った描写があるだけだ。
おなじ状況はカラマーゾフにもあるがきわめて即物的な関係だ。ようするに同じ状況設定だがバリエイションに強烈な差をつけているということだ。
ドストエフスキーは色々試して最後に「決めた」ということだろうか。
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カラマーゾフを読んだのは大分前なので、念のためにチェックしたが上記の記述を訂正する必要はないようだ。カラマーゾフの父親は教養もない小才のきいた『こあきんど』上がりで金持ちの妻の持参金を元手になりあがっていく肉欲の強い男だ。戦後の日本に掃いて捨てるほどあった例である。お佐野賢治とかね。
ここが父親として、悪霊や未成年の父親が抜きんでた教養人であるところと違う。
悪霊ではテロリストの息子に対して徹底的に戯画化されているのが父親ステパンで、最後に父が家出をして旅先で死ぬあたりは、センチメンタルでおいらは大好きである。別の言葉でいえば涙が止まらんのである。
未成年の父親は日本でいえば全共闘世代みたいなサッカリンのような甘さが鼻につく。パリ・コミューンの武装蜂起を青春の懐かしい思い出として持っているところなど、東大安田講堂の闘争を青春の頂点として回想する全共闘おやじ、全共闘おふくろと同じである。ようするにオイラとしては好きになれない。
そういえば、父親の家出というか蒸発はドストエフスキーの定番である。悪霊の父は若い時はヨーロッパへの放浪生活者であり、ロシアに帰ってからは金持ち未亡人の居候であり、最後にはそこを家出して認知障害を発症して熱病で旅枕で死ぬ。
未成年の父ヴェルシーロフも青年、壮年時代はヨーロッパの各地を放浪する。帰国してからは居所不明者である(小説的には)。内縁の妻の家に「滞在」したり、息子のアパートに現れたりするが、どこに住んでいるか、あの長編の最後にならないと分からない。
そして彼も最後の痴情沙汰で拳銃をぶっぱなした後神経がプツリと切れる。認知障害を発症して内縁の妻に介護される、すっかりおとなしい好々爺になるのである。
最後には彼個人があるところに部屋を借りていてそこが住所らしいと分かるのである。これも妙な設定だ。もちろん作者の意図なのだろうが。