穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

浅井リョウ「何者」はシャドウ・アカウントの名前

2015-12-13 08:02:03 | サリンジャー

ネタバレという田舎者センス丸出しの言葉がある。作家を物書きという表現とともに正調日本語から追放すべき言葉と思われる。 

のっけから青臭い議論で申し訳ない。

さて、「何者」を読み終わりました。アメリカ留学帰りの女性リカさんが突如般若の面を被って終盤あらわれます。般若というのはいささか現代の若者にはイメージ喚起力が弱いからゾンビとでもいいますか。

リカさんがゾンビに変わる予兆はないのでありますが(それだけ効果があるのかもしれない、作劇術上は)、登場人物のひとりニノミヤタクト君に襲いかかるのであります。

「何者」というのはタクト君のシャドウ・アカウントであります。最後の2、3頁に内容が出ていますが、さしたる毒のある内容ではないが、就活中のリカさんがこのアカウントをタクト君に結びつけて激怒するわけです。ま、これがネタバレね。

従来型の小説構成では、なかよく就活をしていた仲間の一人が、他の連中を冷たい視線でみていて、それを匿名の手紙とか陰口で触れ回っていた、ということになります。

それをツイッターという若者文化で作劇したという所が新しい(といえば新しい)。

これは作品の感想とは関係ないが、毎年ある時期になると街にネズミの大群が現れる。男ならダークの背広、茶髪は脱色し、女性ならおなじダークの所謂就活スーツ姿でビジネス街を埋め尽くす。異様にして不愉快な現象が現れます。若者の結局は付和雷同性がもろに感じられて不快なものです。学生時代にはいい加減な生活を送って来たのに一変する。そうして運良く採用されるとあっという間に特徴のないサラリーマンに見事数年のうちに変身する。

ま、めくじらを立てるほどのことではないが、これからの日本は若者の活躍にある、なんて本気では云えませんね。

 


解釈過多の「サリンジャー戦記」

2015-12-08 08:45:52 | サリンジャー

150頁ほど読んだがほとんどキャッチャーの話らしい。フラニーについての村上春樹氏の褒め方に違和感を覚えてもう少し詳しく解説を読んでみたいと買ったのだが早とちりだったようである。

で、キャッチャーのはなし。村上春樹氏と柴田元幸氏の対談が中心のようだ。不審なのはキャッチャー(以下C)が1950年代の若者を取り巻く状況を反映しているというところだ。この主張は本書のベースになっているし、相当部分を占めている。1940年代でもない、1960年代でもない、という。

16歳のミスター・ホールデン(16歳でミスターというのは変だが、当該書籍に倣う)の突っ張りは1950年代のアメリカの「転換期の」閉塞状況を反映している、という説(私はそうとりました)。

私は主人公の突っ張りには時代も何も関係ないと思います。でなければ今読む意味も無い訳だ。16歳で生意気な知恵のつき始めて戸惑う若者なら何時の時代でもああいうのがいる。それをうまく表現しているというだけだ。

ところで、サリンジャーの原書がないという話をしたが、別の書店にいったら、安っぽい活字の細かい、粗悪な紙に印刷された(いかにもフォトシュタットからおこしたような)小型本がありました。4作とも平積みでやんした。前回の記事を補足しておきます。

Cが時代を反映しているのではなく(時代の産物ではなく)て、1950年代の若者の読者にアピールしやすかったという表現なら分かります。真偽は判断出来ませんが、文章としてはスジがとおる。

両氏の主張の背景にはアメリカ文壇(批評界)で確立しているそういう見方があり、それにそった意見とは思いますが、それも含めて理解しにくいところです。

この書は村上氏が主張して、柴田氏が聞き役という印象です。

注:サリンジャー戦記 文春新書330 村上春樹・柴田元幸

 


楽譜と演奏

2015-12-07 19:50:09 | サリンジャー

解説を読まずに直接作品に当たれと云う人がいる。どうだろう。未成年の場合は(岩波少年文庫読者層みたいな)は変な解説でバイアスがかからない方がいいかもしれない。 

解説あるいは批評にもろに暗示を受けたりする人は直接作品に当たった方が良いかも知れない。 

批評にもひどいものが多いのも事実であるが、参考になるときもある。音楽に例えると生の演奏会でも演奏者の解釈が原作(楽譜)に加わっている訳である。ほかに、レコード、CD,BRDもある。またFM放送等もある。いずれにしても原石からの光は屈折して最終鑑賞者には届く訳である。

小説の場合の翻訳、解説、批評などもある意味では原作の屈折である。ときには拡大鏡の役目をはたす。なにしろ商売にしている専門家の解説である。針の穴をつつくような細かいものがおおいが、一般読者が読飛ばしてしまう所をくどくど解説している場合など、そうかそうして見るとなどと、一時停止すると感興がわくときもあろうというものである。

解説、批評を読む楽しみは論駁する楽しみである場合もある。そうかなあ、そうじゃないだろうというわけである。次回は村上春樹・柴田元幸氏の「サリンジャー戦記」をあげつらってみよう。

 


フラニーとズーイの突っ張り合戦

2015-12-06 17:40:39 | サリンジャー

 ようやっと読み終わった。といっても最後の2、30頁は読んでいない。読むに耐えない。サリンジャーはライ麦畑とこれしか読んでいないが、突っ張り小説しか書けないのかな。ライ麦畑より兄と妹はそれぞれ10歳ほど年上だ。もっともライ麦畑の兄弟がそのまま成長した訳ではない。名前が違うし。

突っ張り小説という点では同じだ。それもきょうだいの場面だけで。よほど何かがあるのかな、特殊な状況設定を繰り返すのは。さてこの本の兄の方は25歳くらいの役者である。妹は20歳くらいの大学生。すべての知り合いをくさしているのはライ麦と同じ。ライ麦のときは高校生だから突っ張りも面白みがあったが、良い大人がこれじゃ興ざめだ。

この本についての、どの評論でも宗教がらみ(特にインド、日本の、仏教や禅の)の屁理屈を深刻に受け止めてまじめに研究している。評論家の中には大真面目で頭をひねっている人もいるらしい。笑うべきことである。

村上春樹氏の解説によると、ライ麦畑に続きニューヨーカー誌上に掲載された本書も大変うけがよかったという。ニューヨーク知識階級のハイブラウぶり(間抜けぶり)に敬意を表しておこう。

サリンジャーは本書を最後に擱筆したというが、これじゃ書き続けられないだろうなと思う。精神病院にでも隠遁しない限りこの延長線上の作品はかけないだろう。

 


fz at 153p

2015-12-05 17:20:41 | サリンジャー

フラニーとゾーイを153頁まで読む。ショウペンハウアーが良い小説というのはどうでもいいことを長々と書くことだと書いていたのを思い出した。勿論肯定的な意味でね、なぐさみものとしての小説として。彼の念頭にあったのはかの「トリストラム・シャンディだったらしいが。

ところでサリンジャー戦記で村上春樹がしきりに文体文体というので原文を買おうと思ったが手に入らない。東京で一番品揃えがいいと思っている書店にいってみたが、サリンジャーの本は一冊もなかった。

村上訳は、それはそれで彼の訳だから、それなりのまとまりを見せて入るが、何カ所か一体原文はどうなっているのだ、と疑問に思う所がいくつかあったものだから原著をあたろうとしたのだが。