まだ、インターネット検索しか使っていない。そんでもって、成功したのは3,4例。
それなのに、メモリーが足りませんだと、耳をいや、目を疑ったね。そんな売り方があるのか。
まだ、インターネット検索しか使っていない。そんでもって、成功したのは3,4例。
それなのに、メモリーが足りませんだと、耳をいや、目を疑ったね。そんな売り方があるのか。
パソコンについてもいえることだが、メニューかなっていない。
メニューは系統樹のように整理配列してあるのが理想である。スマホはこの点が
なっていない。これは大なり小なりウィンドウなどのパソコンについて言えるが、
PCは自分の領域に習熟すればあまりメニューをたどっていくのに苦労はしない。
スマホにも慣れで問題はあるいは解決するのかもしれない。しかし、まだ乏しい経験からすると
それは「しちゃかめちゃか」である。
それとやたらとソフトのダウンロード画面があらわれる。ある程度特殊な場合はしょうがないが、
スマホでは何かやろうとすると「ソフトをダウンロードしろ」と画面が出る。パソコンにはこういう画面が出てくると、用心して一切応じないのだが、スマホでは素直にダウンロードしないと
そこでスタックする。馬鹿にするなよ。こういうご時世でそんな誘いにひょこひょこ乗れるか。
また、ちまたにはスマホの解説書が溢れているが、この混乱を助長するばかりだ。こういう解説本は買ってはいけない。全然助けにはならない。
性悪女を小突きまわしてそのうちに偶然あたりがくるようなものだ。
だからスマホに習熟するには、とんまな悪性女を小突きまわして、そのうちに勘所を見つけるしか方法がないのだ。嗚呼。
ところでアップルのスマホはどうなっているのかな。
相変わらず指入力かな。入力というが、実際には出力ね。情報が入ってくるのが入力とすれば、情報を送るためにmsgなどを作るのは出力といわなければならない。そうだべ?
入力と出力はその重大性でおなじ比重を持つ。とすればだ、いくら入ってくる情報が増えてもかたちんばだ、
おっといけない。禁止用語を使ったかな。
アップルのスマホはどうなんだ。やはり指入力なんだろう。こういうところはすぐ真似をするからな。真似をしないところを見ると「指入力なんだ」
スマホはすり養成機械だぜ。もっとも指先を訓練すれば、おんなタラシのためにもなるかな。
どうりで最近、達者な若い女が増えたね。
補足訂正 十月四日
スマホにもquery入力という選択肢があるんだね。実際には小さくて使い物にならない。
それに説明書には書いていない。画面を注視していたら見つけた。ようするに実際には無いとおなじであある。うるさい人がいるといけないので補足しておく。
スマホを持っていないと損をしそうな世の中になった。錯覚かもしれないが。
それで安いスマホを買った。一万五千円。馬鹿に安いので「腰が引けた?」、最初から疑念をもった。
それで早速失望した。相変わらず親指入力だ。この入力方法が進歩しない限りスマホの
進歩はない。あまり安いので量販店で故障した中古を売りつけられたと思った。いろいろ能力は付加されたが、一番肝心な入力方法が十年、あるいは二十年以前から進歩していない。
また、マニュアル通りにやっても途中でスタックする。
日本では小説(アニメ原稿でも)募集要領に、公募原稿は返却しないと一方的に書いてある。
京アニの犯人の不安にも一理ある。自分の原稿が記憶の中にしかないならあんな風に考えやすい。
アメリカでは公募原稿は落選であっても必ず筆者に送り返す。それもコメントをつけて返すのが普通の礼儀である。日本の高飛車な業者特権をかさに着た公募要領のほうが異常である。
誤解に無いように言っておくがね、「不安」が理解できるというので「放火」が理解できるというのではない。日本ではこう分かり切った「ことわり」を入れないと何が起こるか分からない後進性があるのでね。
読者の側から新聞界の変化を総括しよう。
まずハードウェアから:
指にインクが付かなくなった。進歩
紙の質がなよなよして腰がなくなった。昔は新聞紙はパリッとしていてめくりやすかった。それが期待感にもつながった。今は腰がなくておまけに神と紙がくっついて容易にめくれない。退歩
値段が理解できない。高すぎて、ちゃんとした理由があるのか。
三面記事がなくなった、つまらなくなった。いわゆる社会面というか、あまり高尚ではないが、新聞の特徴だった。現代ではテレビ、週刊誌に完全にさらわれてしまった。いま、社会部記者なんて種族がいるのかな。
広告;値段の上がる割には広告紙面がお粗末で汚らしくなった。朝日新聞の唯一の取り柄は広告のきれいなことだったが、最近はアサヒもひどい。スーパーのチラシと同じだ。
記事内容について、言わないほうがいいだろう。ハードウェアの低下以上である。
%% サイレント・キラー = 歩道走行の自転車
%% リンリンザウルス = 歩道の肉食小恐竜、女性や若造が漕いでいることが多い。
%% 二輪(フタワ)ザウルス = 同上
歩道走行を認める場合は自転車に騒音発生機を装備すること。時速を4キロ以上でないように作る(低速で安定走行できるように改良する)。歩行者追い抜きはいかなる場合にも禁止。呼び鈴の装着禁止。
自転車には外れないように、使用者特定タグ(電子デバイスが望ましい)を固定すること。事故の際の責任の追及。当て逃げ防止対策。自転車利用者の体に装着する器具とペアにするといい。
自転車の前に衝撃緩衝用のバンパーを装着させる。
%% 悪女 = ugly women 倭読み 「しこめ」(醜婦)、ブス
注:悪女 X=X 毒婦
大学入試で悪女の意味を次の二つから選べ、という問題が出る。
1.悪い女、毒婦 2.醜い女、ブス
1を選ぶと大学センター試験に落ちますから気をつけるように。
悪女とは容貌の悪い女ということです。
%% ジゴロ = 女を歩くATMと思っている。金が思ったように出てこないとATMをひっぱたく。
%% 毒婦 = 男を歩くATMにする。
もっとも、この定義を採用すると毒婦という概念はすべての女性を内包する恐れがある。さらに検討必要(審査員講評)
むかし、旧制高校の生徒が歌ったざれ歌がある。デカンショ節という。
>>デカンショ、デカンショで半年暮らす・・あとの半年寝て暮らす、だったかな。
デはデカルト、カンはカントそしてショはショーペンハウアーだ。哲学をやるならこれで間に合うということだ。最近書物のセンチメンタル・ジャーニーが哲学書にも及んで拾い読みしているが、まさにつぼをおさえているね。
この歌が明治に出来たのか、大正時代か知らないが昔の読書人、その卵である学生の適切な選択には驚く。
古代ギリシャ哲学や中世スコラ哲学がすでに精緻を極めた問題を、ことさらに新しい言葉で飾り立てたものが多い、書店に並ぶ現代哲学の本を出るそばから追いかけるのは大本を見失うおそれがある。
このごろは怖くて外にも出られない。遠出をすれば戻ってこれなくなる可能性もある。エレベータが止まると33階までのぼるのも大変だ。第一乗っているときに停止でもしたらどうしようもない。だから管理人のいない休みの日は一日中家の中にいる。
それで319頁を一冊読んでしまった。普通はワン・シッティング20ページくらいのペースなので300ページくらいの本だとボチボチ読んで3,4日というところなのだが、一日中家にいたので読んでしまった。
戦前の昭和、東京西郊の新開地(田園調布みたいなとこころかな)、の家庭にいる女中(サン)の視点で描いたものと言うので、資料になるかな、センチメンタル・ジャーニーのよすがになるかなと思って大分前に買ったのだが、今日初めて読み始めて思わず最後まで読んでしまった。
この(小説)の家では女中の名前をさん付けで呼んだという。タツという名前ならタツさんといったというのだが、ヤをつけて呼んでいたところもあったようだ。この場合ならタツやで、由紀子なら由紀やとか。ちがったかな。ま、いろいろだったのだろうが、このころの若奥様は女学生言葉の人がいたらしいから。
ノンフィクション風の詳細なインタビューをもとに集積した資料をもとにアレンジしたうえで書いたようだ。時間を追ってリニアに淡々と進行する叙述はそつがない。考証もよくなされているようだ。
冷蔵庫も電話もない新興企業の常務宅の描写はかくばかりかと思われる。当時は電話のなかった家が多かった。都心ではそうでもなかっただろうが、新宿から西は相当な家でも電話がなかったのだろう。冷蔵庫もあるにはあった。氷を使う。毎日リヤカーを曳いた氷屋が来て、大きなのこぎりで氷を切り分けていたものだ。
この小説には冷蔵庫場面がないから冷蔵庫はなかったのだろう。これも時代考証としては破綻がない。全体に矛盾する記述もなく丁寧にまとめられている。
注釈なしで分かるかなとおもうような言葉もある。御用聞きなんてわかるかな。岡っ引きじゃないよ。ねずみ入らずなんてね。
最終章だけはリニアモードから外れて分かりにくいが、これは意図的なものか、破綻かよく分からん。
143回直木賞というと前回かな。当たり年だったらしい。
私のハードボイルドの定義は「犬も歩けば棒にあたる」。
池上冬樹氏によれば「私立探偵小説は、事件の捜査が、一人の証言から手掛かりを得て、また別の証言者へと向かう巡礼形式をとる」
じゃによって私によれば、ハードボイルドは内容がよほど、どぎついか煽情的でない限り読者を得られない。あるいはその文章が水準を相当抜いているかどうか、が成功を左右する。前者の例がミッキー・スピレーンである。後者の例がチャンドラーである。
スピイレーンが現在読まれないのはその当時のどぎつさがこんにちのレベルではちっともどぎつくないからである。
池上氏は続ける。前記の巡礼方式をとるため、「小説が往々にしてパターン化してしまうことが多い。よほど技巧とプロットに長けていないかぎり、マンネリ化は避けられない」、、「そこで作家たちはマンネリ化を避けるために、、、主人公の私生活を綿密に描くようになった。、、、私立探偵小説の私小説化」云々
上記はクラムリーの「さらば甘き口づけ」(ハヤカワ文庫)への池上氏の解説の一部である。氏の解説の続き、「しかし、ほとんどの作家の作品では、あくまでもメインは事件であり、作家の私生活は脇筋なのである。しかし、クラムリーは違う」などなど。
池上氏は「私小説化」というが、いわゆる私小説とは違う。作者が作った探偵の私生活であり、一人称一視点で語られることが多いために、いかにも「私小説」めいて見えるということだ。
日本の私小説でも、どこまでが作家の実生活の露悪なのか疑問がある。ま、作りごととホントが半々というところだろう。しかし、叙述のスタイルではいわゆる私小説とハードボイルド御三家のチャンドラーおよび一部の継承者のスタイルとはたしかに類似がある。
御三家の中でこういう視点が入るのはチャンドラーだけのようだ。だから村上春樹がロンググッドバイの解説で触れているように彼も戸惑うのだろう。もっとも村上氏の捉え方はどうかと思うが。そこにチャンドラーに対する奇異の感を見るのは鋭い。
私にとってキングというのは厄介な作家である。というのは世評からすると素晴らしいエンターテーンメント作家らしい。しかし私にはどうしてだか理解出来ないという点で。人がいい、いい、と言うのに理解できないというのは教科書を自分だけが理解できないのかと不安になる気持ちと似ている。
あれだけの大量生産作家であるから、そのごく一部した読んでいないが、勿論なかにはそのテーマとそれをどう処理しているか理解できる作品もある。初期の作品あるいは彼としては比較的短い作品にはそういうのがある。
あの冗長性がいいというのだろうが、辟易する。悪霊の島は長い作品に入るだろう。なぜ、それならキングを読むのかという疑問はもっともである。あとがきに引かれてとしまらない理由からである。
散歩の途中で本屋による。昔は適当なところどころに喫茶店なるものがあって疲れるとちょっと小憩したものだが、最近はマクドナルドとか画一的なチェーン店が多くなって、とてもゆっくり休めない。また、コーヒーも大分不味くなった。健康志向とかで細いスティックで砂糖が出る。三グラムしかない。最低6グラムはないとね。
それに街中で安心して散歩出来る道はほとんどなくなった。細い道は込み合っている上に自転車にぶつかられる危険性が高い。広いゆったりした道で通行人が少ない道がいいかと言うと、とんでもない話である。女や業務用の自転車がとんでもないスピードで飛んでくる。なかにはスポーツ用の自転車を歩道で全速力で走らせるバカがいる。
てなわけで散歩の途中で本屋に寄ることが多くなった。大きな書店だと一回りすると結構な散歩になる。中には3フロアもある本屋がある。で店内をぶらぶらしながら、棚から本を取りだす。だいたい、あとがきを見るね。それでオイラはバカだから、解説や訳者あとがきにスゴイことが書いてあると買ってしまうのだ。
悪霊の島の訳者あとがきにはしびれた。アメリカでベストセラーで売れに売れているというのだ。アメリカ・ホラー作家協会の最優秀長編賞を受賞したというのだ。書評やインターネットでの評判もすごい、というのだ。
それと技法と言うか、テーマと言うか解説されていることにちょっと興味をひかれたものでマンマとセールス・トークに引っかかってしまった。
以下次号
無聊を持て余して本棚をのぞく。そしてあまり厚くない小説を引き抜く。この頃の小説はバラ肉を売るみたいに目方で勝負をする。やたらとページ数が多い。肉屋じゃあるまいし、そういう本はお呼びではない。ドストエフスキーやディケンズは別だがね。
そこで雪国。川ちゃんはどうも肌に合わない文章なんだが、最初のほうをパラリとめくっていると布石が墨東奇談(略字でごめん、ワード一発変換しないのでね)に似ている。それで少し興をそそられて80ページほど読んだところだ。
「無為徒食」の正体不明の西洋舞踏評論家の島村と山奥の芸者駒子のおはなし。無為徒食と言うのもいかにも芸の無い大学生言葉だ。もうすこし工夫があってしかるべきだろう。
荷風の奇談は深夜治安のよくない下町をうろつくときに警察官の不審尋問対策に、いつも保険証書、戸籍謄本と実印を財布に入れて持ちあるく大江老人と玉野井の酌婦雪のはなしだ。
類似はそこまでなんだが、これはパロディだな、と直感。どっちがパロッテいて、どっちがパロられているか、それが問題だ。
そこでちょっとクロノロジーした。奇談は昭和11年11月脱稿、朝日新聞に連載開始したのが12年四月、完結が同年六月。
雪国は12年7月らしい。わずかの差しかない。早業だ。しかし随所に大江というより、当時マスコミのゴシップ欄で攻撃されていた荷風のパーツがあるようだ。
川端康成は荷風が嫌悪した文芸春秋のお抱え文士。こりゃ、ぱろったのは川端のほうだろう。
キャラは違う。同じ苦界の泥水をすする女にしても雪は文明(荷風が嫌悪した西洋模倣の世相)に毒されていない、無知で健全なおんな。
駒子は神経衰弱気味のサイコ。80ページまで読んで一番感じた相違は雪国の島村のキャラがまったく、今風にいえば、キャラがまったく立っていない。ここは作者の意図としても島村と駒子をくっきりと対比したいのであろうが、筆力がついていっていない。
それと駒子の会話部分だ。二通りある。一通りは温泉芸者の地言葉だ。これは自然だ。もう一つは東京のインテリ島村と素面で会話する時の女学生言葉、これがなんとも不自然。当時の女がどういう会話をしていたかしらないが、こんな話し方をしていたのかね。
80ページ以降読んで感興が湧いたら随時アップ。
& お約束通り150ページあたりまで読んだポジション・レポート、あと20ページほどだ。
温泉街の女で正体不明の葉子と言うのが出てくる。『トンネルを出ると雪国だった』汽車に乗っていて島村が窓ガラスと戯れた女だ(この場面有名らしいね、どうも感心しないが)。
この葉子もサイコだ。最後にどうなるのかな。ま、駒子、葉子の最後がどうなるか期待をつなぐ筆力はある。
さて、島村が永井荷風のカリカチュアとして始まったことは間違いないようだ。だが、いかなるモデル小説も書いているうちに登場人物が自律運動を始める。言いかえれば当初のもくろみどおりに操り人形として動かなくなる。
それでも予定通り推し進めることはできるが、ま、それなりの筆力のある作家は作品としてまとめるためにはオリジナル・アイデアには固執しないものだ。
川端も同じだ。この辺が島村のキャラが結局はっきりとしない所以だろう。
*「無為徒食」の資産家で西洋の芸術を知ったかぶりで書物を通して得た知識でひけらかす、文壇、文芸春秋ゴシップ欄の見方だ。
*女をだます気などさらさらないが、結果的に芸者、私娼、酌婦の心理をもてあそぶインテリ、これも文芸春秋ゴシップ欄の見方だ。
こういう悪意に満ちたモデル感で始まったことは見て取れる。しかし、さすがに週刊誌のネタのようにそれで最後まで押し通すのは無理があったということだろう。
菊池カンやつるんで飲み歩いていた文壇仲間との雑談、噂話からモデルが選ばれたのだろう。
最近キングのシャイニングを再読した。しきりにポーの赤死病に言及している。前に読んだ時には気にならなかったが今回はポーを読んでみる気になった。
たしか前に岩波で読んだが本棚にない。そこで数年前に買った英文で読んでみたが確かにゴシック小説の傑作だね。今日、本屋をぶらついていたら新潮文庫にも翻訳がある。立ち読みだから冒頭、結末夫々一ページほどながしたんだが、あまり原文を読んだ時に感じた迫るものがない。まあまあの翻訳だとは思うが。
それで思い当たったのだが、短編はその文章の結晶度が当然に高いわけで翻訳はなかなか難しいのだろうということ。森鴎外みたいに原作より数段優れた翻訳になることもあるが之は例外だ。
この前読んだ新潮文庫のジョイスのダブリナーの翻訳はひどい。英語的には問題がないのかもしれないが日本語としてなっていない。本人はジョイスの雰囲気を出そうとしたらしいが、とんちんかんなものに仕上がっている。これは原文が手元にないのでちくま文庫の翻訳を買ってあらためて読み比べた。
結論からいうと、ちくま文庫の翻訳は新潮よりはるかにいい。日本語のセンスの有無もあるが、短編の翻訳は訳者によって大きな差が出る。
話は飛ぶが、ハードボイルドでも言えるかな。チャンドラーやハメットの短編の翻訳も水っぽいのが多いのは同じことなのかもしれない。