四海貴司は地表に這い出ると近くのコンビニに入り夕刊タブロイド紙を買った。一面には毒々しいカラーインクでサッカーワールドカップの記事が躍っている。家に帰ってから読めばいいのだが、こういう記事を見るとすぐに読みたくなるものだ。そのコンビニはイートインになっていたのでカウンターに座るとタブロイド紙を広げた。一応読み終わると、新聞を畳みながら彼はさっきの地下での珍事を反芻した。
何故だろう。相手が狂人であることは間違いないようだが、狂人の発作的行動にはそれなりの理屈はあるはずである。そう考えると最近の似たような経験が思い出された。似ているかどうかは、彼の印象に過ぎないが、ライプニッツの充足理由率の信奉者である貴司はそのように思い出した。それは池袋西口でのことであった。彼は雑踏の中を前の男にぶつからないように距離を取って歩いていたが、そのルンペン・アーティスト風体の男はいきなり振り返ると「なんだ、この野郎」ととびかかってきたのである。
後ろからぶつかったわけでもない。足が相手の踵を踏みつけたわけでもない。相手は白髪が混じる油気のない、櫛も入れずに頭の周りに広がった髪の毛の頭の大きな、背の低い中年のおとこであった。茶色のくたびれたジャケットにジーパンと言う格好である。貴司はたしか西口にある芸術劇場?とかで働いている、その他多数のアルチザン気取りの男かもしれないと思った。 男は徹夜明けのような疲労して濁った眼で睨んできたが、そのうちに自分の間違いにはっと気づいたのか、くるりと前を向いて歩み去った。
なんにも「表面的には」理由もないのに被害者面をして向かってくるところはさっきの地下鉄事件と共通点がある。根が徹底的に反省的に出来ている貴司はその原因を深堀りした。ショーペンハウアーは充足理由率に四つの根を与えた。四つ目は、いわく、動機である。狂人にしても、徹夜明けのルンペンアーティストにも四海に向かってくるのは彼らなりの動機があるのだろう。彼の意識には思い当たることはないとはいえ。
彼は自分の下意識を深堀してみた。地下鉄の狂人の場合はどうか。下意識で一瞬でも何かがうごめいたのか。座禅のときに下意識に下りていくよう深呼吸を数回してから、かれは自分の下意識の空間を点検した。あるいは一瞬狂人の横に席を空けてやったのに彼がそこに荷物をどさりと放り投げた時に無作法な奴だという想念がよぎった可能性がある。それを彼がキャッチしてキレタ可能性はあるな、何しろ相手は正常ではない。常人が感じとれない、かつ四海本人も気が付かないそういう想念をキャッチしたのかもしれない。
そうすると、池袋の場合はどうだ、と考えた。あの時に彼は前方の相手がどんな職業の人間だろうかと相手の蓬髪を見ながら考えたようだ、勿論無意識のうちにナノ秒ほど。それが相手に捕捉されたのか。両方の場合、相手の感度が異常に高かったのだろう。一方四海のほうでも本人が気が付いていない下意識の動きが「漏れ出した」のかもしれない。
どこかで前にニーチェだったか「自我のダダ漏れ」ということ書いていたのを聞いたことがある。自我と言うものは細胞膜のようなもので、必要な情報は選別して取り入れ、また細胞膜から情報を目的に応じて選別して外界に出している。とすると最近の彼は自我の細胞膜が正常に機能していないのかもしれない。要すれば自我の細胞膜と言う関所が機能しなくなることがあるらしい。入り鉄砲に出おんなという譬えもあるからな、と彼は独り言ちたてコンビニを出たのである。