穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

比喩と六番目

2013-01-25 09:04:18 | 書評
まだグレート・ギャツビーです。

文章を充実させるのに、チャンドラーは人のまねの出来ない独特の比喩を使う。フィッツジェラルドは奇妙な単語の使い方をする、ということかな。

辞書の六番目以降の語釈を多用する。あるいはまったく辞書にないような語の選択をするのがSFである。すべての文章でそうである、というのではない。しかし、私感を述べればいささか多用しすぎる。

しかし、構成は驚くほど緻密なのに改めて気が付き、感心した。これが28歳の作者の作品とは驚く。技術というよりかはインスピレーションという言葉が頭に浮かぶ。

数学のように緻密な構成と魔法の呪文のように強力な文章の組み合わせがこの作品と言える。

そしてミューズの恩恵は二度と作者には降りてこなかったようだ。占星術風にいえば水星、天王星、月、太陽が二度と無いような角度を彼のホロスコープに作ったのだろう。

現代の大量生産作家、そして自らも自分の作品の行商人をかねる流行作家には思いもよらないことだろうが。





ギャツビーの「オールド・スポート」

2013-01-23 07:25:05 | 書評
グレート・ギャツビーで頻出する「オールド・スポート」というニックへの呼びかけ、新潮文庫の野崎孝役では「親友」になっている。たしかにこれでは全然感じが出ていない。

ほぼ同年輩の「俗物」の友人という設定が語り手のニックである。彼が闇世界の人間らしいギャツビーに対置されているのがこの小説での仕掛けである。これが成功している。ニックは証券、債券市場を『勉強』して、その世界でやっていこうという俗物である。

しかし、純なところもあり、おなじ米国中西部だっけ、の旧家の出として、同じようなバックグラウンドの超俗物というべきブキャナンという友人よりも上流階級の倫理を体現しているようなところもある。

そして父親の教訓というのが冒頭に出てくるが、これが見事な伏線をなしている。何事も偉ぶらないで相手を思いやるところがあり、それがギャツビーのような『危なっかしい』キャラクターを学生時代からニックに引きつけている。と誠に流れるような設定である。

"Gatsby, who represented everything for which I have an unaffected scorn."

なんてところもある。しかし、ギャツビーの純愛にほだされて情事の仲立ちをしたり、彼が死んだときに誰も弔問にこないので、葬式の手配を自分一人で引き受けたりするところがある。

二人の関係は友情ではない。駄目なヤツ、変なヤツだがどうも気にかかる、放っておけないという関係だ。これはチャンドラーのロング・グッドバイでのマーロウとテリーの関係のようなものだ。これを友情などという安っぽい中学生言葉で呼ぶとたちまち臭気を放ちだす。

でもって、「オールド・スポート」であるが、当時の英国の大学辺りで使われたらしい言葉で、劣等感を隠しながら虚勢をはるギャツビーが使いそうな言葉である。オールド・スポートは年の割には老成したニックをからかう言葉として選ばれたのだろう。

スポートには相手をからかう意味があるらしい。プレーボーイという意味も有る。これは堅物のニックに対する反語ともなる。

このオールド・スポートというのは、そう言う意味では、クリーン・ヒットだ。さて、訳となると村上氏の言うようにむずかしい。

若旦那、変だな、ご老体(同年輩の老成した友人に言うときにはほぼ意味が合致するかもしれない)、旧友(old chap、これはちょっと弱いな)、my friend(野崎訳の親友に近いかな、dear friendか)。

私だったら、ご老体にするかな。

&: もっともギャツビーは仇敵のトム・ブキャナンにもオールド・スポートを使っているから口癖かな。トムの場合は女遊びもするからスポートでも遊び人という含意のほうが強いのかもしれない。






グレート・ギャツビーと村上春樹

2013-01-22 21:51:47 | 書評
前にも書いたが、村上春樹に興味を持ったのはここ数年でチャンドラーのロング・グッドバイの翻訳が読書界の大きなニュースになってからである。このブログは『ニュース』になった作品を扱うという方針なので彼の翻訳を手に取り、興味を憶えその後出てくるチャンドラーの翻訳を読んできた。

で、彼の後書きに何回も出てくるグレート・ギャツビーにもようやく手が回ってきた。チャンドラーはすでに英文や他の翻訳で読んでいるのだが、フィッツジェラルドについては一つも読んでいないのでまず村上訳を読んだ。平易で分かりやすい。

村上春樹の感情移入にはいささか持て余し気味であるが、そんなにすばらしいものなら原文でと誘われたのだ。いま半分ぐらい読んだ。大分種々の点で印象が違う。

私の英語力は大したことがないということを考慮しても、フィッツジェラルド(S・F・)の文章、言葉の選択は非常に特異ではないか。別言すれば、非論理的、飛躍的、意味不明、美言すれば詩的、ペダンチック、「純文学的」である。特に地の文において。

これは英米読者が読んでもそうだと思う。とすると、翻訳で村上氏のようにすらすらとつっかえずに読めるように、説明的にしてしまうのはどうだろうか、と思う。

読者をつっかえさせ、反発させ、場合によっては本を途中で放り出させ、そしてやっぱり味が有るわいと読者が再び本に戻ってくるような翻訳にすべきではないのか。

表現は適切ではないが、岩波少年文庫に翻案された「名作」を読むような気がする。

村上春樹氏が30代のころから60になったら訳せるようになるかな、と思ったのはそういうSFの原文の味を生かして日本語にして、なおかつ好事家を唸らせる翻訳術の熟成を待つという意味だったら分かるのだが。

SFの文章は天性の発露であろうが、きわめて人為的ではないかという疑念もある。ウィキペデアを読んだら、今ではアメリカの代表的作品と受け入れられているが、発表当時、「流行作家が純文学作品を気取った作品ではないか」と批評されたとあるが、そうだろうなという気もする。






チャンドラーとスピレーン

2013-01-10 22:59:59 | 書評
チャンドラーのプレイバックを読んだ。

前にも書いたが、死の前年たしか69歳の時の作品だが、かなり日本では読まれているようだ。版の重ね方を見るとそう思われる。英米ではどうなのか知らないが。

よく言われるように他のチャンドラーの作品に比べてセックス場面が非常に多い。描き方も直接的だ。若返り術としてセックス描写に力を入れたか、なんてね。

そう言えば、谷崎潤一郎が鍵なんてエロ小説を書いたのもよぼよぼになってからじゃなかったかな。分かるね。

一つ年譜的なことを、

ミッキー・スピレーン 1947年 I, The Jury
  ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 
     同     1952年 Kiss Me Deadly

言わずと知れたミッキー・スピレーンのマイク・ハマー シリーズが猛威を振るった時代である。

そして 1958年 チャンドラー プレイバック

彼も一世を風靡したスピレーンのセックス過剰小説を見て、取り入れなければいかんと思った可能性がある。

村上春樹が彼の女性描写はどうもね、というのはどの小説のことを言っているのかな。プレイバックのことなのか、他の小説のことなのか。もっとも、ロング・グッドバイのリンダ以来おかしくなりだしたのかも知れない。







一つの依頼と四つの殺人事件

2013-01-09 20:47:33 | 書評
チャンドラーの高い窓を読み終わりました。少しだれたところはあったが持ち直した。しかし終わりはよくなかった。

一つの依頼と四つの殺人事件の話だが、(おわり)となって一件も(五件のうち)解決していないという珍妙な終わり方なのである。

依頼の筋は希少価値のある金貨の紛失事件なのだが、これは途中で金貨が戻って落着してきたことになっている。しかし、最後まで読むと戻ってきたのは偽物であることが警察のその後の調査で分かったとある。そしてマーロウは依頼主にそのことを報告していない(おそらく、というのは何も書いていないから)。

そして依頼主の希望で調査は極秘に行われたので偽金作りの犯人がコピーを作ったのはその依頼主が所有する金貨だったということを警察は知らないから、依頼主は警察からも連絡が無い。(帰ってきた金貨はオリジナルから模造された金貨ということ)

もっとも、これは業界では有名な金貨らしいから調べれば警察には簡単に分かる筈なんだが、そんな批判をしてはいけない。チャンドラーがすっとぼけているのだから、読者がいちゃもんをつけて、ことを荒立てることは無い。

金貨盗難事件を調査するうちに四件の殺人事件に出くわす。最初の二件は金貨模造に関わるものでマーロウの推理は最後のところで披露されるが警察には報告されない。なぜならそれは依頼主の要求に入っていないからである。

三件目の殺人は依頼主の息子が母親を脅迫していた男を殺害した事件で、マーロウに追求されて息子は白状するがマーロウは警察に報告しない。

四件目の殺人は8年前に依頼主が夫を高い窓から突き落として殺害した事件である。脅迫者は偶然そのときに撮影した写真をネタに8年間にわたって彼女を脅迫し続ける。息子はその事実をしらないが、別の関係で、偽金模造事件の共犯者として脅迫者と知り合っている。そして話のもつれから脅迫者を殺した。しかしマーロウは警察に報告しない。

最後の謎解きの部分は記述流麗ならず。つまりチャンドラー節は鳴りを潜めている。一部には誤訳(あるいは本文の誤植)ではないか、と思われるところがある。

総評:全体として玄人好みの渋い佳作である。終わりの数章は読まなくていい。大体私のハードボイルドの定義は最後の数十ページが落丁していても読む価値があるのがハードボイルド小説である、というのである。

あと、プレイバックも買ってきてこれから読む。遠い記憶ではこれもでだしは軽快というより軽快すぎるが結末にかけてもたついた印象だが、いずれ再読した上で書きたい。

チャンドラーで結末までストトンと胃の腑に落ちるのは結局三作品だ、すなわち大いなる眠り、さようならかわいい人、それにロンググッドバイだ。それぞれ良さの種類はまったく異なるが。

本作はマーロウの職業倫理がきわだってキャラをたてているところであろう。

筋がややこしいから、最後のところで、この書評で謎解きの謎解きをしなくてもすむように、工夫をすればすばらしい作品になったであろうに、残念である。










黄色いスカーフを巻いたマーロウ

2013-01-08 09:24:31 | 書評
チャンドラーの高い窓を読んでいる。ほとんど処分してしまったのでこの間買いなおした。書くとなると若干の責任も感じるので読み返すことにしたのだ。

さて、湖中の女は読み終わったが、やはり質からいくと高い窓、湖中の女の順だな。この分だとプレイバックも買い直さないといけないわい。終わりの方でマーロウが依頼者のスカーフを巻いて(目印にして)金を届けるところがある。湖中の女でね。

描写が何カ所かあって一応後で読み返すと、その時々の状況に合わせて書いてある、別のいいかたをすればヒントをばらまいている。ま、推理小説の手法なんだろうが、マーロウにはこういう辛気くさい持って回ったやり方は似合わない。眠くなるだけだ。

しかし、退屈とはいえ、この三冊で何日かの冬の夜長の無聊はしのげるというわけである。

高い窓、三分の一ほど読んだ。でだしは好調だったが急速に失速したね。やはり村上春樹がこれらの翻訳を後回しにしたのは正解だ。本当に翻訳するのかな。

大いなる眠りが四番目に来たのは、創元社との関係かもしれない。唯一早川が版権を持っていなかったものだろう。もっとももう著作権は期限切れかな。英米の法律はどうなっているのだろうか。もっとも翻訳にも著作権があるなら創元社の方は切れていないのかな。

それと、大いなる眠りだけが創元社のつけたタイトルと同じなんだね。この辺のことで土壇場になって創元社がクレームでも付けたのかな。書店への並び方の跛行性を見て素人が考えたわけであります。









警察と仲のいいマーロウ

2013-01-06 07:26:53 | 書評
湖中の女が卓絶して他の作品と隔絶しているのは、マーロウが警察に協力的なことだ。

依頼人の秘密をペラペラと聞かれもしないのに話してしまう。他のマーロウものにはないものだ。

依頼者は警察に頼みたくないから私立探偵に頼む。マーロウは警察から脅迫、暴行を受け、探偵免許の取り消しで脅かされても抵抗すして依頼人の情報を守る。そういう場面がチャンドラーの小説の売りの要素なんだがね。

湖中の女は何から何まで卓絶しておるわい。

一言で言えばマーロウのキャラがたっていない。映画化してもマーロウを画面に登場させられない、カメラアイとして以外には。

話の進め方から、意図的に協力的になっているとの強弁もなりたつが、こういう小説を書くこと自体が、小説そのもののキャラを消していることになる。




業界のスタンダードに近い「湖中の女」

2013-01-05 18:35:58 | 書評
最初に読んだときから、どうしてなじめない、違和感を感じるところがあった「湖中の女」であるが、前回話したような経緯で読み返して、気が付いた。これはこの種の小説の業界スタンダードに近いつくりなんだな。チャンドラーもおそらく、何かの考えがあって意識してつくったらしい。

だから文章は別として、つくりにチャンドラーらしさがなくてわざわざ読まなくてもいいような印象がしたのだろう。

ロスマグは最初のうちはチャンドラーをまねしていたというが、湖中の女なんかは一番真似しやすかったんじゃないだろうか。

順序は逆なんだが、なんだかロスマグみたいだなとふと思ったことから上のことに気が付いた。

やけに詳しく細かく、部屋の捜索の様子を長々と描写したり、探偵が教科書通りあちこち嗅いでまわる。チャンドラーらしくない。マーロウらしくない。これが映画化されたときに、マーロウはカメラアイのようにあちこちしていて、肝心のマーロウは画面に登場しない独特の手法だったらしいが、それが一番ふさわしいかな、というような記述が続く。

おそらく、何かの思惑があって意図的にやったのだろうが、やっぱり塩梅よくねー、というので止めたようだ。他には類似の手法の作品はなかったと思うが。



クイズ

2013-01-04 21:21:55 | 書評
クイズといっても自問自答なんだが。

村上春樹のチャンドラー翻訳もあと三冊か。そこで次に何を訳すのか予想してみた。他愛のない話だ。

高い窓、湖中の女、プレイバックが残っている。大いなる眠りのあとがきによると短編は訳す気がないようなので後三冊ということになる。

プレイバックはどうかな、晩年の作で質的に問題だという意見もあるようだが、そのぶん、分かりやすい。どういうのかリニアで単線という感じだ。これはロンググッドバイでもそうなんだがね。

そんな訳で書店でみたらプレイバックって結構版を重ねている。これも対象に入るかな。

湖中の女と高い窓はそんなに売れてないみたいだ。高い窓は金持ちの老婆がトラウマを抱えた娘をあやつるという、なにかその当時はやりだした精神分析の流行を取り入れたみたいな小説でわりと印象がはっきりとしている。

私としては次はこれじゃないかなと思うが、村上春樹はロンググッドバイの後にフェアウェル マイ ラブリーを訳して、それからリトル シスター、その後でようやく本命とも言うべき大いなる眠りを訳しているから、ちょっと予測がつかないところが有る。

湖中の女は印象が残っていない。正月に、それで清水俊二ではなく、Vintage Crimeで改めて読んでみた。この際予測のために。そんなに悪くない。これも次回候補たりうるかな。

とにかく分かりにくい。別の言い方をすれば入り組んでいる。その程度が他の作品に比べて強い。文章を読む分には場面場面ははさらさらといくが、さて推理小説として筋を追って考えるとまるで取り留めが無い。

これはまず最後の数章の種明かしを読んでから、そこまでの持って行き方がどんな出来映えかなと、後で最初から読むといいかもしれない。確たる証拠もないのに、心理的に犯人を罠にかけて行くというものだが、これはロンググッドバイで取っている手法だ。

村上訳には手品師みたいなところがあるから、案外この妙な小説をあっと言わせるような別の料理にしてしまうかもしれない。それも楽しみだ。

要するに結論として、何が次の訳になるか分からないということ。以上





「大いなる眠り」おまけのおまけ

2013-01-01 09:33:34 | 書評
チャンドラーの小説は「こみいっている」と言われることがある。そんなことはない。脱線が多いからそう取られるのだろう。

チャンドラーはまたプロットに弱いと言われる。彼の長編は前に書いた短編を組み合わせものが多い。「おおいなる眠り」も「雨の殺人者」と何かを組み合わせた者である。また、希代の文章家であったチャンドラーは興に任せて筆があちこちの飛ぶ。そんな、こんなで筋が複雑に見える、あるいは分かりにくくなる。

村上春樹がチャンドラーの翻訳を続けるのも彼の文章に魅力があるからだろう。ある評論家が(そういうのが複数いるらしいが)、文章がうまいのは重要ではない、と馬鹿なことを言って業界を指導しているらしい。そんなところがあるいは日本のミステリー業界のレベルなのかもしれない。

ロング・グッドバイは別にしても、改めて読んで、「大いなる眠り」はチャンドラーの作品の中でも一、二を争うものだ。文章に私がもっとも重視するツヤがある。

ロング・グッドバイについても一言:マーロウとテリーの友情物語というのが定説のようだが、違う。マーロウから見てテリーは「どうも気になる男」なのである。

「気になる男(第三者)」にこれだけかかずり合うという強情さの可笑しみが味なのである。

この設定を受け止めないとロング・グッドバイは味読できないのではないかな。友情などという少年小説みたいな捉え方が一般的(日本でもアメリカでも)のようだがね。すくなくとも「ハードボイルド」の傑作としては。





「大いなる眠り」おまけ

2013-01-01 08:37:22 | 書評
村上春樹訳発売から半月ほどたったか、ブログにもぼちぼち記事が出始めた。そこで教えられたりしたことに触発されて新年おまけ号を発行する。

この本、書店によって陳列数が跛行しているね。ぎょっとするほど平積みなのを見かけたのは一書店だが、あとは数冊とか見かけない書店も有る。早くも売り切れたのか、出足が遅いのか。なにかわけがあったのか。ま、これは余談だ。おまけの余談なんてしまらないが。

映画化のはなしで1940年のモノクロの「三つ数えろ」のことを書いたが1978年にロバート・ミッチャム主演で再映画化されているらしい。あるブログの記事を読んで思い出した。たしか劇場で見たね。ガイガーの家でのおどろおどろしいエロ写真撮影の現場のシーンをかすかに思い出した。しかし、印象は薄れている。

1940年の映画化の際はフォークナーがシナリオ作成に関係していたらしい。テイラーという運転手が殺された脇話があるが、フォークナーだか誰だかが、テイラー殺しの犯人は誰だとチャンドラーに聞いたら冗談めかして「知らない』と言ったという。この話は村上春樹の後書きにも出ているが、オイラの読後印象だと、ジョー・ブロデイに殴打された後遺症で交通事故を起こしたとしか読めないんだけどね。チャンドラーがむかっ腹を立てたんじゃないかな。

パトリシア・ハイスミスの見知らぬ乗客の脚本にチャンドラーがかかわったというが、今回のフォークナーのかかわりでも、どうも作家の才能とシナリオ・ライターの才能とはシンクロしないようだ。

まだおまけのおまけがある。それは次号で。