前に、ヘーゲルでまあ、興味を失われずに読めるのは「精神現象学」と「小論理学」くらいなものだと書いた。各論というか具体論に入るとばかばかしくなり興味が持てなくなる。具体論はヘーゲルの奇想を具体的に展開するものだが、ますます現実との齟齬が明瞭となる。これを書いたときには、具体論といっても「法哲学」「歴史哲学」くらいしか読んでいなくて大ぶろしきを広げたわけであった。
最近ヘーゲルの「宗教哲学」を読み始めた。これはどうにか読める。(講談社学術文庫)
勿論翻訳の評価も必要だが、そこまでは手が回らない。
各論と言うものは勿論総論を展開するものだが、総論で開陳した「論理学」の一大奇想が元になっている。その奇想のトリックになじんでいれば、つまり奇想との続きが滑らかならば、と言うことだが、読んでいて納得がいく。もちろん同意はしない。『なるほど、こう持っていくのか』とその手品の手並みを嘆賞出来るということではあるが。
お断りしておくが、現在でも、とくに日本の法曹界ではヘーゲルの「法哲学」は強固な地盤をもっているようだが、それとこれとは別である。
おもうに宗教と哲学とはほぼ同じ内容が対象であるためなのだろう。
さて次はやはり法哲学の序文の最後に出てくる「ミネルヴァのフクロウは黄昏がやってくると初めて飛び始める」(中公クラシックの訳による)である。これは文脈ではっきりとした解釈がヘーゲルによって与えられている。したがって両義的ではない、となるが敵はさるもの(ヘーゲルを敵と言ってはいけませんな)、裏の意味を持たしているのではないかと邪推するわけであります。
これがヘーゲルのオリジナルか出典が古代にさかのぼってあるのかどうか、つまりヘーゲルがどこからか引用したのか、ありそうだと思って調べてみたが分からなかった。ま、ミネルヴァのフクロウとはアテナイの知恵の女神であるアテーナーである。ミネルヴァはローマ読み。黄昏というのは一日のおわり、つまり物事を概念的に捉える哲学というのは現実の歴史がすべて終わってから出来上がるという意味だと、これはヘーゲルの注釈である。
これは事実の一面である。すなわち哲学というのは干からびた灰色なものである。これは一面の真実であると同時に当局に対して哲学というものはそういうものだから危険なものではない、と言っているのである。どうせ検閲官は序文しか読まないと思ったのだろう。
ところでほかの著作でもいえるがヘーゲルは序文では韜晦しない。本文に比べるとわかりやすい。おそらく検閲官対策なのであろう。
これからが小筆の憶測なのであるがヘーゲルの遊びとしてこういう裏解釈がありそうだ。本当の哲学はあからさまな文章では伝えられない。それは白昼の明るい光の下ではなく黄昏の暗闇(オカルト)の中で伝えられる。
黄昏の特徴は一日の終わりであるとともに、暗闇を意味することである。
それは当局の目をくらますためか、哲学の奥義はそう簡単に文章では伝えられないよ、ということかもしれない。日本語で言えば武道秘伝書、免許皆伝書の最後は必ず「以下口伝」とあり、白紙になっているのと同じだ。
あるいは禅で言う「不立文字」がこれに相当するかもしれない。つまり哲学の奥義はオカルテックに表現される(用心して)ものだという西欧哲学の一方の伝統であるESOTERICな表現なのかもしれない。
ところで、最近村上春樹の対談集で「ミネルヴァのミミズクは黄昏に飛びはじめる」というのがあるが、彼ら(村上、インタビュアー、編集者)がどういうつもりでつけたのかなな。また別の思惑があったのだろう。いずれにせよまだ70ページしか読んでいないからわからない。
ベルリン時代のヘーゲルを見ていると、第二次世界大戦前、日本の満鉄調査部で業績をあげた共産党員からの転向者を思い出す(スケールは小さいが)。ナポレオン失脚後のプロイセンでの最初の改革はある程度自由主義的であって、これはヘーゲルの提案が取り入れられたという。しかし、その後極右的国粋主義的な学生運動が勢力を伸ばすと政府を悩ませた。ロシア人刺殺というテロも学生運動家によって行われた。また学生運動の旗印の一つはユダヤ人排斥であった。
この学生運動対策として目をつけられたのがこれまたヘーゲルであった。その目的で彼はベルリン大学に招聘された。当時からヘーゲルは学生を手なずける才能が認められていたらしい(著書を通してではなく、講義を通して)。
しかし当局はヘーゲルには啓蒙思想に染まった一面は残っていると疑っていた。彼がベルリン大学総長になったあとも死に至るまでプロイセン政府秘密警察の監視下にあった。かれはコレラで死んだのだが、これが本当の死因だったか疑問視する向きもある。発病の翌日に死亡している。普通のコレラ患者と異なり病状の進行が早すぎるというのである。
ベルリン大学の学生たちはヘーゲルの葬送の行列に加わり行進することを計画していたが当局は学生たちの参加を禁止した。学生たちの参加がデモに発展し天安門事件のようになることを恐れたというのである。
かれは普通プロイセン政府の御用学者と言われるが、正反対の側面もあったのである。カール・マルクスはヘーゲルの鬼子であった。
ヘーゲルはあまり著書を出版していない。これは彼の用心深さの一面だ。出版してしまうと、それは動かせない証拠となる。危険思想だと当局から一方的に判断されることがある。いくら韜晦して書いていても尻尾をつかまれる恐れがある。
死後弟子や学生たちのメモから起こした講義録が多い。これはあまり韜晦していない。文章のような調子でやられては二十歳やそこらの学生は付いてこない。彼は大学教授でありベルリン大学総長になった人だから、私講師のように生徒の数で収入が左右されるわけではない。しかし、聴講生が一人とか二人だとやはり体裁が悪いし体面にかかわる。書いたものと違い、平易で気楽に話しているわけだ。
さて、彼の法哲学から二つほど両義性というか意味不明瞭というか有名だがわけのわからない文章を取り上げたい。法哲学は歴史哲学や宗教哲学とならんで当局や教会とフリクションをおこしやすい分野である。ところどころでヘーゲルの芸がみられる。
まず、序文にある「ここがロードスだ、跳べ」という文章だ。もとはイソップ物語だそうだ(私はもとの話を読んでいないが)。ある男がロードス島の競技会で大ジャンプをして優勝したと自慢した。嘘だと思うならロードス島に行って聞いてみろ」と言ったら「ここがロードスと思ってここで跳んで証明すればいいじゃないか」と言われたというのだな。
まずこの比喩というか引用は前後の文脈としっくりこない。それをヘーゲルはくどく、これはこう言いかえられる、と書いている。「ここにバラの花がある、ここで踊れ」という。いかにも前後がつながらない文章である。日本語で書くとさらにわからないが、ロードスとローズをひっかけているというのだな、ぽかんとする地口である。
後世のヘーゲル注釈者はいろんなことをいっている。秘密結社のバラ十字団のことだとか、ルターのバラと関係するとか。ヘーゲルはちらりと何か危険思想をほのめかしたつもりなのかもしれない。
なかにはロードスは棒だという解釈もあるらしい。この男の得意は棒高跳びという推定である。英語で棒はrodというがあるいはラテン語起源の言葉かもしれない。ヘーゲルの解釈には面白いものがある。この棒を使って飛んでみろという、意味だそうだ。しかしこの解釈だとますます文脈の中で浮いてしまう。
大分前になるが「カントの悪文を弁護する」という記事を書いた。いまでも細々とアクセスがある。悪文というか難解といえばヘーゲルにも触れなければならない。ゲーテが「ヘーゲルもいいが、あの文章がね」と言っていたという。
カントが悪文を書く様になったのは当局や教会からの迫害を免れるために韜晦したのが一つの理由であると上記のアップでも書いた。長年そういう配慮をして文章を書いていると、それが習い性となるというか、文体、スタイルとなる。そういうスタイル以外では書けなくなるのだね。たわいのない主題についても。
当局、権力、世間の圧力を考慮して文章を曖昧にしたり、もってまわった書き方をしたりするのは哲学者の常道であるというのを、プラトン、アリストテレスまで遡って現代に至るまで論じた人がいる。
とくに1789年のフランス革命を挟んだ18世紀後半から19世紀前半は哲学者にとって、かかせない配慮であった。カントは啓蒙思想が危険思想として地下深く蔓延し始めた時代から、フランス革命期の血で血を洗う革命勢力の凄惨な内ゲバ時代を活動期とした。あに用心深くならざるをえんや、である。カントの悪文の要因の一つである。かれは匿名で出版しなければならなかった本もあるし、晩年は宗教関係の著作を当局から禁止されていた。
ヘーゲルも啓蒙時代の子である。神学校時代から染まっていたらしい。彼はナポレオンを崇拝していた。イエナで精神現象学を書き終わったときにナポレオンの軍隊が征服者として街に入って来た。ヘーゲルは興奮して「今世界精神が馬上で街を通った」と上気したような文章を友人に送っている。ヘーゲルにもこの時代より少しまえ、家庭教師をしていたころに秘密結社的な思想を匿名で出版している。>>
ヘーゲルをボケ防止用に読んでるって話しましたっけ。
この書評ブログも10年近くやっていますが、取り上げる本にも大まかな種類がありまして、まずセンチメンタル・ジャーニーとでもいうべきもの。
前回取り上げたレイモンド・チャンドラーのような、かって読んだ本の再読もの。それからニュース性のある本の書評。これは週刊誌の書評欄で取り上げるような、芥川賞とか、何々賞をとったもの、発売ひと月で百万部突破とか一般のニュースになるようなものです。
ブログもアクセス数いのちというわけで、ベストセラーでも取り上げればアクセスが増えるかなとゲスな根性でとりあげるもの。さすがに最近これはしなくなりました。面白くもない下らない本をアクセ数売り上げのために読むのが苦痛でバカらしくなったためでもあります。
また、眠れない夜の睡眠導入剤として読む本、ボケ防止に読む本。哲学書なんかがそうですね。最近はヘーゲルを読んでいます。これは時間がかかって、単価の高い本が多いですが、ならすと時間当たり購入単価も安くなるというもので。
いま読んでいるのが長谷川宏訳のヘーゲル「論理学」(エンチクロペディー第一部)です。これが結構なお値段で消費税を入れると5千円を超えます。でまた例のスケベ根性が頭をもたげて、どうせ読んだんなら元をとろうとブログにアップしています。ブログにアップするともとが採れるのかな。自信がないが
最近も書きましたが、長谷川宏の訳は平易だとの評判ですが、どうも引っかかるところがある。些細なことかもしれませんが「媒介する」とか「媒介されて」という訳語が頻発する。どうも気になるということをアップしました。
その後「克服されて」という訳語が頻出する。これも違和感があって、前回書いた英訳本を参照しているが、実に様々な言葉に訳している。それも文脈から「克服される」よりも適切の様に思われる。
それと、もう一つ気が付いたのは、訳語の違いではなくて文章が全然違うというところが非常に多い。英訳は長谷川訳の気になるところだけ拾い読みして参照してみるだけで全体を読んでいないが、それでもこれだけ文章が全く違うところが出てくるというのはどういうことだ。いくら長谷川氏が凡例で意訳していると断っていても。
そこで、素人の身も顧みず文献考証的な考察を少々。
ちなみにこの英訳はOxford Press William Wallace訳です。この訳は百年以上前のものだそうで、1975年にOxford Pressからリプリント版が出ています。
長谷川宏訳はズールカンプ版ヘーゲル全集第八巻。おそらくズールカンプ版の方が新しいのでしょう。念のためにインターネットで検索するがズールカンプ版の出版時期は不明でした
検索の時にヒットしたほかのサイトをのぞいたのですが、ヘーゲルの著作は死後出版されたものは、夫人や特定の弟子によって改竄が加えられていると主張するサイトがありました。「論理学」は生前に改版もされていますから、大幅な変更あるいは改竄が版によってあるとも考えにくい。
もっとも論理学にも「口頭説明」なる部分が相当有り、これらは聴講した学生のメモを編集したものでしょうから、いくつかのバージョンがあるのかもしれない。
ま、その程度しか分からなかった。ドイツ語版が読めないので英訳と参照するしか無いのだが、少なくとも長谷川訳だけでは、どうかなと思います。