相変わらずヘーゲルの精神現象学でご機嫌を取り結びます。
前半の目次に感覚的確信というのがある。またその次に自己自身の確信の真理、続いて理性の確信と真理という見出しがある。
論証はない。ここで「跳べ」というわけである。「信じるものは救われる」と言っているのである。ドイツの田舎、シュワーベン地方、アメリカで言えばdeep southの神学校出身者らしい言い方である。もっとも、シェリングもヘルダーリンも同級生だったのだから、大した神学校であったにちがいない。シェリングとはルームメイトだったらしい。
確信というのは論証なしにすすめ、ということ、ここを超えないと先へはすすめない、ということである。ここを飛び越えられない人は「不幸な意識」を持つことになる。なぜ不幸な意識なのかは説明がない。不幸な意識とは「懐疑主義」と「ストア主義」であるそうだ。いかにも神学生出身らしい「信じるものは救われる」的な考え方である。
第五章には理性の本能という言葉もある。当時のレベルでの自然科学の方法論を扱った「自然の観察」というところである(5-A-a)。
人間の理性にはぎりぎり考えて行くと一挙に飛び越えて確信に至るという性質があるらしい。もっとも、ラッセルもどこかで認識論を論じているところで「本能的信念」と書いていたのを記憶しているが、人間の書くことだ、正反対の主張の哲学者が結論では驚くほど同じことをいっていることがある。逆にそういう部分は信じてもいいのかもしれない。
しばらく前に科学哲学について書いたが、理論物理学などの物質の根源を探る学問は究極のところでは現代でも形而上学的前提に立脚している。重力とかエネルギーという概念は形而上学的概念で、ここで跳べ、というターニング・ポイントである。ここで飛ばないと気違い扱いされることは間違いない。
見方を変えると、「人間」という機械は「ここがロードスだ」という本能で一致する場所があるらしい。なにももっともらしく「共観性」などと事新しく言う必要はない。
しかし、ここで跳ばないでじっくりと考え直さないと、科学のコペルニクス的転換はあり得ないのかも知れない。学生諸君は(私の言うことを)信じてはいけませんよ。もっとも「統一理論」という難物も一挙に解決出来る可能性もあるのだが。
やはりヘーゲルは腹応えがいいな。
前半の目次に感覚的確信というのがある。またその次に自己自身の確信の真理、続いて理性の確信と真理という見出しがある。
論証はない。ここで「跳べ」というわけである。「信じるものは救われる」と言っているのである。ドイツの田舎、シュワーベン地方、アメリカで言えばdeep southの神学校出身者らしい言い方である。もっとも、シェリングもヘルダーリンも同級生だったのだから、大した神学校であったにちがいない。シェリングとはルームメイトだったらしい。
確信というのは論証なしにすすめ、ということ、ここを超えないと先へはすすめない、ということである。ここを飛び越えられない人は「不幸な意識」を持つことになる。なぜ不幸な意識なのかは説明がない。不幸な意識とは「懐疑主義」と「ストア主義」であるそうだ。いかにも神学生出身らしい「信じるものは救われる」的な考え方である。
第五章には理性の本能という言葉もある。当時のレベルでの自然科学の方法論を扱った「自然の観察」というところである(5-A-a)。
人間の理性にはぎりぎり考えて行くと一挙に飛び越えて確信に至るという性質があるらしい。もっとも、ラッセルもどこかで認識論を論じているところで「本能的信念」と書いていたのを記憶しているが、人間の書くことだ、正反対の主張の哲学者が結論では驚くほど同じことをいっていることがある。逆にそういう部分は信じてもいいのかもしれない。
しばらく前に科学哲学について書いたが、理論物理学などの物質の根源を探る学問は究極のところでは現代でも形而上学的前提に立脚している。重力とかエネルギーという概念は形而上学的概念で、ここで跳べ、というターニング・ポイントである。ここで飛ばないと気違い扱いされることは間違いない。
見方を変えると、「人間」という機械は「ここがロードスだ」という本能で一致する場所があるらしい。なにももっともらしく「共観性」などと事新しく言う必要はない。
しかし、ここで跳ばないでじっくりと考え直さないと、科学のコペルニクス的転換はあり得ないのかも知れない。学生諸君は(私の言うことを)信じてはいけませんよ。もっとも「統一理論」という難物も一挙に解決出来る可能性もあるのだが。
やはりヘーゲルは腹応えがいいな。