穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

ハロウィーンの仕掛人が成功した訳

2015-10-31 13:09:07 | ハロウィーン

キリスト教の祭りは伝統的に日本でうける。その割にはキリスト教に入信するものは少ないようだ。前からこの対照には気が付いていたのだが、昨年あたりからのハロウィーン騒ぎでなるほどと思った。

ハロウィーンの起源はキリスト教ではないな。先住民族のケルト人、ゲルマン人の土着の宗教ドルイド教を習合したものだろう。欧州の蕃地にキリスト教を普及するために。

仏教でも普及の過程でインド南部の土着の神々、そしてその祭りを習合し、土着の神々を仏教のヒエラルキーに取り入れて土着民に受け入れられやすくしたものである。

だから、こういうお祭りは同じ多神教的な日本人にぴったりと合う。復活祭やクリスマスもあのゴテゴテした雰囲気はドルイド起源で間違いあるまい。クリスマスはキリストの生誕を祝うというが、そもそもイエスの誕生日は不明なのである。おそらく、土着のケルト人が、それぞれの季節に行っていたその時期の祭りを取り入れた物だ。

クリスマスの樅の木を立ててゴテゴテ飾り付けるのはドルイド教そのものだろう。「これが俺の誕生祝いか」とイエス・キリストは驚き給う、わけだ。

さて、一神教でももっとも原理主義的なフイフイ教(イスラム教ともいう)には先住民族の土着の、多神教的な要素を取り入れた祭りはないのではないか。これはわたしの推測だけどね。

勿論回教(イスラム教)でもいろいろ祭りはあるようだが、全然詳しくないが、ニュースでたまに流される映像は聖人(つまりマホメット死後の人間)にちなむ物で、自分の体を鞭でたたいたり、大声で喚いたりするもので日本人は祭りだけ真似する気にはなるまい、ハロウィーンのようには。

またぐるぐる回ってトランス状態に入る祭りもあるようだが、子供の遊園地の飾り付けのようなクリスマスやハロウィーンと違い、とても渋谷の交差点で真似するに気には日本人の若造や小娘はならないだろう。

 


 訳者あとがきの作法

2015-10-27 20:34:41 | モディアノ

本屋でノーベル賞作家モディアノの翻訳で「パリの迷子」(と記憶、正確ではないが)というのを手に取った。私は巻末に解説とか訳者後書きなんかがあると、まずそこを立ち読みする。 

このパリの迷子には訳者あとがきがあるが、これがひどい。うっとりしたような感嘆詞の褒め言葉の羅列だ。これでは解説ではないだろう。しかも、おれの(わたしの、だったかな)訳した本はこんなにすごいんだぞ、と言っているようなもので、興ざめである。

訳者とは違う評論家とやらの感嘆詞だけの解説があるが、これも解説になっていない。しかし、訳者ではない解説者のものは、単発でいくら(の原稿料)だからまだ罪はかるい。訳者の自己陶酔はそれで売り上げが増えると思っているのだろう、翻訳だと部数で収入印税が決まるとしたら、後書きはセールス・コピーにすぎない。

勿論、その本は買わなかった。

めくるめく文章なんて言われても行商人のそらぞらしい言葉を聞いているようなものだ。時制の使い方がすごい、なんて翻訳でどう工夫したかを書いたほうがよっぽど気が利いている。

前にも書いたことがあるが、村上春樹訳のチャンドラーの解説は良い方の見本である。解説を読むのが楽しみでもある。そういえば、村上春樹訳の「キャッチャー・イン・ザ・ライ」には現著者の意向で解説は入れられないと書いてあった。どういういきさつがあったのか、現著者が生きているとこういうケースもあるのだろう。

たしか、村上春樹の文庫本には解説のついているのは無かったような。これも例外的なものだろう。サリンジャーにも文句を言えないな。

 

 


「村上春樹 なぜノーベル賞を取れないのか」

2015-10-23 21:04:16 | 村上春樹

今朝の産経に黒子一夫氏という文芸評論家が書いている。黒子さんという人は全く知らない。したがって読んだこともなかったのであるが、読んでみた。 

村上氏がノーベル賞をとれないのはメッセージを内包していないからだそうである。この人、文章の印象からはレフティというかピンキィという印象であるが、川端康成や大江健三郎にはメッセージ性があるらしい。川端にメッセージ性があるのだろうか。大江は筋金入りのレフティだから分かるが。

村上が毎年下馬評にあがるきっかけはカフカ賞を授賞したからという。たしか2001年に創設された賞で、村上が授賞する前に授賞した二人が同年立て続けにノーベル賞を取ったから、相関があると思う向きがあるらしい。しかし、15年で二人しかいないのに相関があるのかね。しかも彼らはカフカ賞から時を置かずにノーベル賞を取っている。そう言う点では2006年カフカ賞を貰った村上は賞味期限切れとみていいだろう。メッセージ性があるとかないとか、曖昧な理由はよく分からないが。ま、ないんだろうな。最近すけべ根性が出て来て、もがいているようだが、所詮後付けで選考委員の心証はあまりよくないだろう。一生懸命村上氏をフォローしていたとしたらだが。

村上がカフカ賞を授賞した理由はなんだろうね、その辺もいまいち分からない。日本人で授賞の可能性があるのは林京子だそうだ、黒子さんによると。この人は全く知らない。第一海外に翻訳されているのかな。

カフカ賞は変身の印象が強かったので、村上が選ばれたのはファンタジー性かとおもっていた。ところがwikipediaで賞の目的をみると必ずしもそうではないらしい。そうすると何故村上がカフカ賞に選ばれたのかも首をひねるところである。

 


村上春樹のマーケティング・センス

2015-10-21 08:22:27 | 村上春樹

といっても、数量解析とか多変量解析ではない。カンというかセンスというか。 

また、『職業としての小説家』で開陳した日本マーケット5000万人説を認める訳でもない。彼の成功の非常に多くの部分がマーケット指向のカンによるものであるということを、この今朝の目覚ましアップで簡単に述べたい。

主として現在読んでいるノルウェイの森の例で述べる。おっとポジション・レポートを忘れていた。現在地は「ノルウェイの森」文庫版上の297頁である。

前回説明した「ワタナベ君」電動こけし説の続きとも言えるわけであるが、インターネットの反響を漁ったところからも、女性に非常に受けているようである。それもノーマルな、つまり平均的な女性に。

彼の相手の女性はみんな精神薄弱者(この言葉がプレスコードに引っかかるなら後刻訂正します)あるいは強硬症的な女性である。渡辺君が攻撃的、積極的な性格なら、女性読者も受け入れないし、批判もあるだろう。それでは近年マスコミを賑わしている、施設の入院患者を襲う看護師になってしまう。

受動的だからこそ女性は心行くまで楽しめるのである。村上氏の全作品を読んだ訳ではない。せいぜい4、5冊だが、そして大部分は忘却の彼方であるが、ノルウェイの森には上記の特徴が顕著に現れている様に思う。1Q84の青豆の相手もそうだったような記憶がある。海浜のカフカもそうではなかったかな。

ノルウェイの森は「リアリズム小説」だし、上記の特徴が顕著に現れている様に思われる。

村上氏は作品の記述で政治的歴史的な点で中国、韓国に関する部分で恐ろしく気を遣っている。これは或は編集者の配慮でもあるのだろう。ようするに、市場に悪影響を与えることを恐れながら書いている様に思われる。

 


ノルウェイの森の「僕」は電動こけしか

2015-10-18 16:05:14 | 村上春樹

ノルウェイの森は文庫上巻186頁だ。随分遅いようだが、読めば10頁や20頁はあっという間であるが、他に何もすることがなくてどうしようもないという時にちょこっとちょこっと読んでいるからまだ186頁だ。 

この小説は短編集にしたほうがいいんじゃないか。いろんな女子学生とセックスをしました、ハイ終わりという話が女の名前を変えて延々と続く。

セックスは句読点だね、村上小説ではそれ以上の意味はないようだ。大体おなじパターンを辿る、別の言い方をすれば構造は同じである。「僕」は常に受け身である。女に引き回されて最後になんとなくセックスをする。それで第X話は終わりとなる。

そして大きな特徴の一つは性愛が愛憎問題として絶対にあとをひかないのである。便利なものである。これなども女性に受けるところではないか。

彼の小説はインテリぶったというか、自意識の高い女に人気がある仕掛けがいくつかある。村上氏が意識的に行っているかどうか不明であるが、とにかく毎回同じだからいやでも気が付く。以下順不同で行く。

セックスから始まる小説もあるが、彼のはセックスで終わるのである。セックス場面の描写も長くはない。せいぜい一頁というところだ。

しかし表現が非常に露骨で不快でなじめない(変ないいかただが)。何故だろうと思っていた。ポルノ小説というジャンルがある。村上氏の小説を読んでいて初めて気が付いたのだが、世に言うポルノ小説というのは若い(4、50歳くらまでの)男性を対象としているようだ。

村上氏の小説はそういう意味ではポルノではない。しかし表現は非常に直接的で露骨で生理的な反発を(男性には)感じさせる。そうか、これは女性同士が行う耳を覆いたくなるような露骨な猥談そのものではないか。村上氏が女性マーケットを意識してやっているなら「あっぱれ」マークを貼ってあげよう。

マーケッティングはうまくいっていると思う。つねに、女性がリードして女性の気に入るエロ表現で各挿話をしめる、そして後をひかない。妊娠もしない。理想的である、女性にとっては、というのが受けるのではないか。これはノルウェイの森的な小説のみでなくて、カフカとか1Q84とか村上作品のなかでもシリアスな作品についても同じだと思った。大分読んだ記憶は薄れているが。

さて、ノルウェイの森であるが、小説の作法からいくと最終章で直子再登場となるのだが、実際はどうなっているのかな。

繰り返しになるが彼の描く男女関係には納豆菌がまったくない。ようするにあとをひかないのである。これら諸々のことは女性が常に願望しているところなのだろう。村上氏の作品はドンピシャでインテリ30おんなのご要望に応えているのである。たぶん、この解釈は間違いではないだろう。

 


昔、むかし、その昔

2015-10-15 19:45:31 | 村上春樹

夏休みを田舎の親戚で過ごしたときのこと、物置に菊池寛全集があるの見つけて読みました。そのほとんどは所謂大衆小説というかメロドラマでしたが、ノルウェイの森を100頁読んだあたりで、そのときの感触を思い出しました。これは彼の菊池寛バージョンだなと。

ノルウェイの森はなかなかのもので売れる筈だと感じた次第。読み進むうちに人気流行作家だった菊池寛を思い出した。 

村上氏が偉いと思うのは売れる大衆路線を一作で思い切り以後まじめな?路線に精進したこと。毎日走りながら体調を維持して。

ただ、その成果については評価が分かれるようです。文体はゴツゴツしているし。

もっとも、ノルウェイが体調体力のピークで文章の張りが一番あったが、その後は文章の艶が維持できなくなって、いずれにしても乙女の紅涙をしぼるような作品は書けなくなったという解釈も成り立つような気がします。

 


村上春樹の文体

2015-10-14 07:13:11 | 村上春樹

文体というのは大げさだがその謂いは文章の印象というほどの意味である。

ウィキペディアで村上作品の一覧を調べた。「職業としての小説家」を読んで、なかに色々自作のことが出て来たので、どんな作品があって、それぞれ何時頃書いたのかな、と作品の前後を確認しようかな、という気をおこしたわけである。

かれは多作家だ。私の読んだ本はそのごく一部にすぎない。最初に読んだのは数年前馬鹿売れした1Q84だった。このブログでは世間で話題になった本を取り上げるとアクセス数が増えるかなという下衆な考えでベストセラーを、それも社会的なニュースになるような作品を時々取り上げる。

私の癖で、一冊読むとその作家のほかの作品も取り上げる癖がある。それで短編集も含めて3、4冊も取り上げたであろうか。

ウィキペディアによると、風の唄を聞けとか19**のピンボールかコリントゲームというのは長編だそうだが、あれは中編という範疇じゃないかな。で彼の初期中編やカンガルー日和のような短編集は読みやすいし、さらっとしていて読後感がよかった。

それにくらべると長編はどれもごつごつしていて、前期の作品は発展途上の生硬さというかゴツゴツした感じがあった。また後期の1Q84やたざきつくるなどはなんだかおじさんがバイアグラを飲んでがんばっているようなやはりゴツゴツした印象を持ったのである。「職業としての小説家」はもっぱら彼の長編の自作解説だが、長編は「つくる」という意識、「構成する」という意識が強いことが「ゴツゴツ感」を生んでいるのだろう。

ウィキペィアの作品リストを見てその長大なるのに感心して、一番売れたというノルウェイの森を50頁ほど読んだ。この文章は平明である。褒めれば流麗とも言える。のどにするりと入る感じである。それが通俗小説というか大衆小説というか、大変に売れた理由なのかも知れない。

ほかの私が読んだ前期後期の作品は読む(咀嚼する)のに相当でかい歯がいる。例えれば生ゴミ収集車の回転歯のようなごつい恐竜のような歯でばりばり噛み砕かないと喉を通らない(私の場合ですよ)。であるから、これらの作品がおおくの読者に読まれているのがある意味で不思議なのだ。

村上春樹殿、お許しあれ。

 


職業としての小説家:最終章「物語のあるところ・河合隼雄先生の思い出」

2015-10-12 09:46:09 | 村上春樹

「物語」という言葉は便利安直な言葉で広く流通している言葉かもしれない。そうでもないかも知れない。物語という言葉は躓きの石である。つまり理解できない。説明がない。説明というのは定義でなくても比喩としての説明を含みますが。 

これまでにも物語という語は村上氏の文章に頻出するのだが、理解不能である。村上氏は書く。物語という言葉の理解を共有したのは河合氏のみである。現在に至るまでだれもいない、河合先生以外は。彼の言葉を引用すれば

「物語という言葉は近年よく口にされる様になりました。しかし僕が物語という言葉を口にする時、それをそのままの正確な形で**僕が考えるそのままのかたちで**物理的に総合的に受け止めてくれた人は河合先生以外にはいなかった」

冷静で正確な観察だと思います。わたしなんかに分かる筈もないのであります。滑稽なのは世に雲霞のごとく群れて村上文学をなで回している評論家のひとりとして「分からねえな」と言わないことです。

物語がどういう意味か分からなくて当然ということが分かって一安心であります。そこでこの本を離れて連想法で精神分析(心理療法)についてきわめて素朴な、かつ重要な疑問を一、二述べてみようと思います。

最近本の虫干しをしていて買ったまま目を通していない本を見つけました。岩波文庫シュミッソー作「影をなくした男」です。薄っぺらな文庫本で他の本の間に紛れ込んで忘れていたようです。

あやふやな記憶ですが、河合隼雄氏の著書か、あるいは誰か別の人の本でこの本を精神分析の理解に役立つ文献のように紹介していました。影というのは潜在意識だという主張だったと理解します。それで村上氏の著書に河合隼雄の話が出て来た読みました。この意見は河合氏の独創とも思われない。多分ユングなどの説でありましょう

読んでみると、影を無意識の寓意と捉えることは100パーセント的外れです。この本は軍務の余暇に作者が近隣の子供達におとぎ話を作ってやったものだそうです。

しいて、このメルヘンに理屈をつければ影とは無国籍者となっていた作者にとっての国籍のようなものでしょう。作者はフランスの貴族でフランス革命によって貴族の地位を剥奪されてドイツに逃れ、そこで文筆活動をしていたという。国籍がないと色々不都合がある、ドイツ人に虐められる(在日のように?)、ということを表しているとはとれますが、所詮後付けです。

小説の後半で、古道具屋で買った靴が一歩7里歩ける魔法の靴で自由に国境を跨いで世界中を自由に旅行できる様になるが、これもパスポートなしにどこにでも行ける様になるという願望を表しているととることが出来ます。無理のない解釈です。

ついでに、河合先生のみでなく、すべての精神分析家、それに影響を受けた哲学者、評論家の過ちをもうひとつ。

エディプス・コンプレックスというのが精神分析学の商品の一つですが、彼らの意味では幼児期の経験から息子が母親に対して性愛的欲求を感じることをいう。言うまでもないがこれはソフォクレスのオイデプス(エディプス)王という悲劇から名前をつけている。命名者のフロイトはソフォクレスを読んでいないようだ。そして世界中の追随者も。

ギリシャの原作では、その生い立ちからオイデプス王は父親も母親も知らない。偶然の機会から旅行中に父親を殺し、その妻(つまり自分の母)と結婚して二人の娘を生む。街が悪疫の流行におそわれ、神託をもとめると「けがれ」が原因であるという。

そこで種々手を尽くして、証人を探し調べたらなんと自分の結婚した相手は母親であったことが分かる。王は自分の目をつぶしギリシャ中を放浪する。というスジです。全く知らずに母親と結婚してしまった。そして、事実が判明すると自傷発狂する。母親に性的欲求を持つ等というフロちゃんのいうおぞましいところなど全くない。悲劇ですからね。フロイトの解釈は児童ポルノだ。

大体、精神分析というのは詐欺科学ですが、名前の付け方一つをとっても無学者の集まりです。

 


職業としての小説家 第十回および第十一回

2015-10-12 07:09:35 | 村上春樹

10と11をまとめます。両方とも読者論というか業界論というかマーケット論です。第十回が国内、第十一回が海外となっています。

258頁に国内ではメデイアに登場しないことや、サイン会等をしないことを述べていますが、海外ではわりとこの点でマメなことを弁解している。「ただ外国では公演したり、朗読したりサイン会を開いたりする」・・・「これは日本の作家として責務でやらなければならない」と思っているそうです。はなはだ説得力のない弁解ですね。だれも村上氏に日本の作家を海外で代表してもらいたいとは思っていないのではないですか。利口な彼だ、この点は触れなかった方がよかったのではないでしょうか。

第十一章は海外へ進出して行った経緯をわりと正直に(?)書いている。小さな指摘をひとつ。269頁で小会社とあるのは子会社の誤植ではありませんか。「講談社のアメリカ子会社」ということらしい。それとも小会社がただしいのかな。


「職業としての小説家」第九回 「どんな人物を登場させようか」

2015-10-11 07:09:31 | 村上春樹

 この章は自作解題のようなものです。主として人称の問題について自作の変遷を回顧している。人称、視点などは小説を読めば分かるわけですが、あまり彼の本を読んでいない人にとっては、要領よくまとめてあるので、便利です。

最初は「僕」の一人称、「僕」と「私」の使い分け、「僕」と三人称の併用、名前なしの(一人称、三人称)、名前ありの三人称で一歩一歩自覚的に記述法の技術を向上させたというわけです。

あと、モデルの有無とかキャラクターの形成など。こうした技術的で手法的な解説の他に、自動書記的に物語が動き出す経験など、この経験は小説家にとってはよく知られた現象ではありますが、自作「たざきつくる君」の例で述べています。

これなど解説されてああそうなの、という所が多い。本当は解説されなくても直ちに読者に了解させるのが小説家の腕と思いますが、私等今更ながら「ああ、そうだったの」と思うのは鈍いからなのかな。

 


「職業としての小説家」第八回 学校について

2015-10-10 07:44:43 | 村上春樹

これは本書全12章のうちで最低の章でしょう。村上春樹氏が社会問題(学校教育制度)や政治問題(福島事故など)について幼稚な珍説を開陳しています。小説家が政治問題や社会問題あるいは時事問題について意見をのべることは間々見かけますが餅屋は餅屋というか、水準以下の議論が多い。 

もちろん、小説家、文学者でインパクトのある、発信力のある発言をするひとも中にはいます。洋の東西を問わず、主張の方向を問わず。日本では石原慎太郎等が該当するでしょう(眉をしかめないこと)。

村上氏が自分の学校時代の思い出を語っているところは「なるほど、なるほど」と思って読めます。

福島の原発事故は効率優先のためだと言う。それを言うなら短期的な効率優先視点というべきでしょう。村上先生が「クリーンエネルギー」主義のドイツの今回のフォルクスワーゲンの詐欺行為をどう論評しますかね。これはやがて明らかになるでしょうか、メルケル政権とドイツ自動車産業の官民談合詐欺ですよ。世界中にこの手の弊害は掃いて捨てるほどあるでしょう。すくなくとも「日本の教育制度の欠陥」に主要原因があるがごとき幼稚な議論を展開すべきではない。

あまりにも単純化した幼稚な感覚で、まるで民主党や社民党の公約のコピペのようなことを言うべきではない。恥ずかしいことです。

他の箇所で「いじめや登校拒否」の問題を論じている。たしかに、彼の言う様に昔(曖昧な表現でごめんなさい)はこんな現実はなかった(目立たなかった)し、こんな言葉すらなかったように記憶しています。

この傾向の原因は村上氏によれば停滞段階に入った日本社会の変化に教育制度がついていっていないということらしい(私の意訳です)。ことはそれほど単純化できるとは思えない。いじめとは本来外部に向けられるべき人間が本来持っている攻撃性が集団内部に向う攻撃性であり、家畜の群れによく見られる現象です。

家畜とは外部(人間)に管理される集団であり、人間の飼育規格にあわない個体は淘汰されるようになっている。そして人間の意志を体現するために内部管理者のような個体(番頭みたいなものですな)があらわれる。つまり平均的な規格にあわない個性の強い個体は家畜のなかのリーダーの音頭でいじめを通して淘汰される。

戦時中でも捕虜収容所で捕虜の中から取り締まりや監視の手先を採用するのが普通です。ソ連による日本兵のシベリア抑留に豊富な事例が見られます。

学校でのいじめにはこの例の方がよく当てはまるでしょう。いじめということば、あるいはそれに類似する事例は戦前から戦後にかけてあまり報告されていないと思います。

つまり極めて現代的で日本特有の現象のようです(私もここで村上流の断定口調となる。ご容赦を)。

さて口直し、次の章はもっとマシなようです。請うご期待を。

 


村上さくら開かず

2015-10-09 09:02:17 | ノーベル文学賞

村上サクラ別働隊の奮闘むなしく落選でした。ネットで知ったのですが、ノーベル賞発表の前に期間限定のサイトを村上氏が開いたらしい。そこで英文、日本文で質問を受けて村上が人生相談よろしく発言するという趣向とか。今のネット上に、この滓(カス)は残っています。つまり「皆様有り難うございました。当サイトは終了しました」といった閉店ご挨拶文があるだけ。内容も残しておかないのはどういうことだろう。

これに対する反応はネット上でいくつかあります。そうとう無神経で露骨なことを言ったらしく、2チャンネルユーザーを怒らせたらしい。メッセージが溢れています。どこが怒らせたのか原文を村上側が隠しているから私には分かりません。

また、「韓国には向うが要求するならいつまでも何回でも謝罪しろ」と発言したらしい。これは大喜びの韓国サイドの引用言及記事があります。ま、これで大体想像はつくわけです。

時期といい内容といい、英文と日本文でやったことといい、明らかに「政治的発言をしている」というノーベル委員会へのアピールでしょう。すくなくともそうとられても仕方がない。内容もさることながら、表現の仕方もこの種のものにはあるまじき野卑下劣なものであったらしい(村上回答側で)。

この短期サイトがあったということは、ノーベル賞を貰うための「工作マシーン」がある証拠です。

村上ファンというのは、私の目には、「自分はミーハーだと思っていないミーハー族」見えますがさぞ皆様ご落胆でございましょう。

村上短期サイトの投稿者のほとんどはサクラだったのでしょうが。想定問答集もあったような気がする。少なくともこのリップサービスによって、中国、韓国マーケットは維持できたわけだ。

 

 

 

 


村上春樹ノーベル文学賞を逸す

2015-10-08 21:56:50 | 村上春樹

皆様すでにご案内のところでありますが、今年も授賞しませんでしたね。大体候補には入っていたのかな。ブックメーカーは勝手にオッズを作るのでしょう。芥川賞ではあるまいし、ノーベル賞委員会は候補作を絞って(大体そういうことをしているのかどうか)、その候補作を事前に公表しているのですか。 

マスコミが事前にワイワイ騒ぐのはかまわないが、その辺の周辺事情も併せて報道すべきじゃないかな。

もし、授賞したらどうなるだろうかと予想を楽しんでいたことがあります(結局授賞しなかったから関係なくなったが)。第一に安倍首相がお祝いの電話をかけるのか、かけるところをマスコミに撮らせるのか。これが一つ。

第二に村上氏が首相の電話をマスコミのカメラの前で受けるのか。大体いま彼はどこにいるのかな。芥川賞の発表前にはファンと一緒に候補者が写っているがね。

かれは生活の本拠地が海外らしい(これも例の「職業としての小説家」から仕入れた知識です)から、それを理由にしてマスコミの前に姿を現さないでしょう。

この辺がどうなるか、興味があったんですが、授賞が前提ですからね。

彼が授賞したら、ノーベル賞委員会はどういう理由を付けるかな、これを考えるのも一つの楽しみというか暇つぶしです。百年前にはさかのぼらずともここ十年くらいの授賞理由を読めば大体分かるでしょう。それで村上春樹の場合のコピーを作ってみるのですよ。おそろしく難しいのではないか、と思います。

 


職業小説家のお手入れ(エステ)法

2015-10-08 08:02:28 | 村上春樹

職業としての小説家(村上春樹)の7回目です。初回だったかに述べた様に「職業としての」小説家というタイトルがこの本の芯柱です。つまり長い間多産的な活動を行って行くためには、というtipsを村上春樹流に述べている。 

彼が繰り返し、述べているようだが肉体の維持(そうして出来売れば強化)が重要である、職業的小説家には。さして異論のあるところではあるまい。

彼の場合は毎日走るという日課である。この章は作家稼業の倫理学であり、心構えを説く章である。

この章だけでなく、何回も彼は意識の底に降りて行くということを語る。これが最終章にある心理学者河合隼雄との付き合いにもなるのであろう。上るか下りるか二つの道がある。宗教の道は大体上るのである。あるいは中世的な精神世界では。

つまり天上界、星空、アストラル界への上昇が精神生活の目標である。村上氏は地中深く潜るのである。彼の好きなイメージに井戸があるのもそのためだろう。地下深くでは他人の意識(国民、世界の意識)は未分化で一つのプールになっている。ここまでいくとユングの集合的無意識だな。

ここをヒットすれば、大衆の心を掴む。要するに意識の底では人類皆兄弟である。つまり読者の大いなる共感を呼ぶというのだろう。彼の、洋の東西の読者の声を聞くと、どうもそういうことがあって、村上氏の作品は非常に共感を呼ぶらしい。

つまり巨大なマーケットを得た(ベストセラー作家となった)という事なのだろう。

さて、上るがいいか、潜るがいいか、それが問題である。さて、今夜の発表がどうなりますか。興味がありますね。

 


村上春樹の長編小説制作法

2015-10-07 07:44:58 | 村上春樹

第六回は村上長編小説制作アトリエの公開であります。説明は平明軽妙、さすがに語り口は手慣れている。

内容に奇を衒ったところはない。大体この種の解説(書)に書いてあることと大きな相違はない。違いと言えば書き直し回数が多めだなという印象です。アドバンスを採らない(つまり出版社に完成期限を約束しない)、雑誌の連載をしない(これも期限に追われます)、いわゆる書き下ろしでしか長編小説をかかないという村上氏の方針が気が済むまで書き直しをすることを可能にしているのでしょう。

最後に知人など第三者に読んでもらって意見を聞く。村上氏の場合は夫人。これも大体だれでもとっているプロセスでしょうが、面白いと思ったのは、意見や批判が出た箇所は必ず見直す、書き直すということですが、意見が出た方向と反対の方向に書き直すというところ。

第三者がここはどうも、とか書き直した方がいいというところは、小説として読者がなにか引っかかる所があるから見直した方がいい、それは素直でいいが、書き直す方向が意見と反対側にするというところで、これは案外有効な方法ではないか、と思いました。勿論、第三者の意見に従う方がいいと思えばそうするのでしょうが。

編集者に渡したあともゲラで何回もやり取りして書き直すというところも、村上氏のような出版社にとっては大事な存在であるから出来るのでしょうが、これも相当回数ゲラが行き来するらしい。羨ましいと言えば羨ましいが。あんまり売れない作家だと、編集者に怒鳴られそうだ、しつこくゲラの訂正をすると。