このブログの書評は小説の場合は「なぜ売れるか」が軸になっている。小説として、あるいは文学としての価値評価が書評に取り上げる基準ではない。村上氏については丁度IQ64がバカ売れしたころから取り上げた。なぜ売れるのか。結局どうしてか、よくわからなかった。では内容の評価はどうか。小説、創作については評価を控えた。少なくとも積極的に評価はしなかった。一方そのころ、レイモンド・チャンドラーの作品の翻訳を始めていて、こちらのほうも毎作取り上げたが、感心することが多かった。とくに巻末に毎回載るあとがきは面白かった。彼はスリラー以外にも米国の作家の翻訳が多いようだが、こちらのほうはあまり読んでもいないし、面白かった、よかったという記憶はない。
さて、ここ数年、あるいは十年以上?彼は世評では有力なノーベル文学賞候補である。なにやらカフカ賞と言うのを受賞してからの現象らしい。世間の、というか「熱狂的なファン」のお祭り騒ぎが面白くみていたが、なにか違うんじゃないかなと感じていた。昨日落選後のインターネットの投稿を見ていたが、潮目が変わったのか、がっかり、とかナゼダ??調のものよりザマーミロというのが多いようだった。
ノーベル賞の各分野で文学賞と平和賞はいい加減なものだが、日本の小説は北欧の選考委員にはよくわからないのではないか。勿論英語をはじめ欧米語の翻訳はあるが、日本の小説を評価する自信がないように思われる。その一例が芥川賞の受賞者を一つの目安としているらしいことだ。日本でもっとも受け入れられている芥川賞(もっともこの賞は完成した作家に与えられる物ではなく、いわゆる伯楽的なもの、つまり新人発掘、先物買い、という感じが私はしているが)のなかから選んでおけば日本人からの反発も出ないだろうと選考委員は安易に考えているのではないか。
勿論これだけがすべてではないだろうが、村上ハルキの場合は一つのふるいになっているらしい。