穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

村上春樹氏とノーベル賞

2021-10-08 08:49:17 | ノーベル文学賞

 このブログの書評は小説の場合は「なぜ売れるか」が軸になっている。小説として、あるいは文学としての価値評価が書評に取り上げる基準ではない。村上氏については丁度IQ64がバカ売れしたころから取り上げた。なぜ売れるのか。結局どうしてか、よくわからなかった。では内容の評価はどうか。小説、創作については評価を控えた。少なくとも積極的に評価はしなかった。一方そのころ、レイモンド・チャンドラーの作品の翻訳を始めていて、こちらのほうも毎作取り上げたが、感心することが多かった。とくに巻末に毎回載るあとがきは面白かった。彼はスリラー以外にも米国の作家の翻訳が多いようだが、こちらのほうはあまり読んでもいないし、面白かった、よかったという記憶はない。

 さて、ここ数年、あるいは十年以上?彼は世評では有力なノーベル文学賞候補である。なにやらカフカ賞と言うのを受賞してからの現象らしい。世間の、というか「熱狂的なファン」のお祭り騒ぎが面白くみていたが、なにか違うんじゃないかなと感じていた。昨日落選後のインターネットの投稿を見ていたが、潮目が変わったのか、がっかり、とかナゼダ??調のものよりザマーミロというのが多いようだった。

 ノーベル賞の各分野で文学賞と平和賞はいい加減なものだが、日本の小説は北欧の選考委員にはよくわからないのではないか。勿論英語をはじめ欧米語の翻訳はあるが、日本の小説を評価する自信がないように思われる。その一例が芥川賞の受賞者を一つの目安としているらしいことだ。日本でもっとも受け入れられている芥川賞(もっともこの賞は完成した作家に与えられる物ではなく、いわゆる伯楽的なもの、つまり新人発掘、先物買い、という感じが私はしているが)のなかから選んでおけば日本人からの反発も出ないだろうと選考委員は安易に考えているのではないか。

 勿論これだけがすべてではないだろうが、村上ハルキの場合は一つのふるいになっているらしい。

 


ジョイス・キャロル・オーツはノーベル文学賞をとれるか

2020-01-17 20:05:02 | ノーベル文学賞

 オーツという作家はよく知らないのだが、最近書店で目の止まって読んでみた。河出文庫の「とうもろこしの乙女、あるいは七つの悪夢」というタイトルである。

 というのは、彼女の名前が記憶に残っていたからなのだが、早川から出た村上春樹訳の「ロンググッドバイ」の後書き解説で村上が難しいことを書いていてオーツのチャンドラー評を紹介していたのが記憶に引っかかっていたのである。それに近年彼女がノーベル文学賞の候補にあがっているとの記事も見かけた。てなわけで書棚で目についたわけなのだ。

 短編集なのだが、ジャンルやテーマに関係なく文章がうまいことは間違いない。これくらいうまい人はめったにいない。最近文章がうまいなどという小説家は絶無といってもいいから強調してもいいだろう。

 こういう本は数ページずつ読むといい。プロットに魅せられたとかいって、ページターナーとか、徹夜で読んでしまうなどというキャッチコピーがいい小説のようにいうが、全然違うね。ワン・シッティングで数ページづつちびちび読んでも興趣が失せないというのが本当はいい小説なのである。もっとも私の意見を信じる必要はありませんよ。少数意見ですから。

 作家が書くスピードと読者が読むスピードはあまり乖離しないほうがいいというのが私の考えである。もっとも相手(作家)にもよるが。少なくと遅読に耐えられる作品が優れた作品であることは間違いない。

 彼女はものすごい多作家らしいから短編を数作品読んで彼女の作品のジャンルは、などとは言えないが、該作品はホラーっぽい、あるいは異常心理を扱ったものかな。それも家族内の葛藤を画いたものが多い。しかも双子の間の相克を数作品で取り上げている。あまりない設定ではないかな。

 さて、彼女が下馬評どおりにノーベル文学賞を受賞するかどうか、だが分からない。ノーベル賞の選考委員にはすこしエンタメ色が強いと感じるのではないか。ただ高齢であるので受賞の可能性もすこしはあるかも。最近のノーベル文学賞の受賞者は高齢者がおおそうだし。村上春樹もそろそろ高齢者の基準だけからいえば圏内かもしれないが。

 

 

 


文学の好む病気

2018-02-27 07:22:26 | ノーベル文学賞

 文学の「好む」病気というのは時代を反映する。ドラッグ中毒なんてのは現代風だ。もっとも麻薬がらみの小説は昔からあるが。うつ病とか引きこもりなんてのも現代風かな。比較的時代を問わないのには精神病(質)なんてのがある。

 二十世紀中葉まででいうなら間違いなくベストテンに入るのは肺結核だろう。別に根絶された病気ではないが、現代の日本や欧米では小説の主人公としてはそれほどポピュラーではない。治療薬もあるし、予防策も完備?している。しかし一昔前までなら肺結核文学は一大ジャンルであった。

 不治の病とされたが病状の進行は緩慢である(例外はある)。微熱があり、顔は赤みを帯び一見健康そうに見える。熱があるから瞳には潤いがある。意識は最終段階まで変わりがない。結核菌は性欲中枢を刺激するものらしい。これは小筆の見聞した場合でも例外がない。どうしてだろう。不思議である。異性の看病から恋愛は定番である。ということで結核文学は多かった。

 ところで、唐突だが歴代のノーベル文学賞受賞者の作品でももちろん結核が重要な骨組みとなっている小説がある。トーマス・マンの「魔の山」もそうである。たしか彼は1929年の受賞者でこの小説が書かれたのは二十世紀初頭だろう。長い小説で途中で読むのをあきらめたが。

 アンドレ・ジッド(ジイド)の「背徳者」もそうである。最近ようやくの思いで読み切ったので少し触れたい。彼は自伝的作品が多い。これも二十世紀初頭の作品である。彼は1947年にノーベル賞を受賞している。彼の作品の女性は主人公の男性が、その前に跪拝すれども触れずというタイプが多い。ジッド自身もそうであったらしい。肉体的欲望は同性愛と娼婦でまかなっていたらしい。作品においても実生活においても。

 さて主人公は幼馴染の女性と結婚してきわめてプラトニックな結婚生活を送る(やかましい読者のためにいうと一回だけ情交があって妻を懐妊させる。その胎児は流産する)。新婚旅行に北アフリカに行く。ここで彼は結核を発症し、喀血する。しかし、アラブ人(ムーア人?)の美少年たちに囲まれているうちに健康を回復する。今度は看病していた夫人が感染する。彼女の病状は彼と違い不可逆的に進行する。

 ジッド自身は結核にかからなかったのか、あるいは知識が全然なかったらしい。夫人の病状ならサナトリウムにいれて絶対安静にすべきところを二度目のアフリカ、イタリア旅行に連れまわす。各地に二、三日滞在すると暑いの寒いの、湿気があるなどと苦情を言って移動する。これほど結核患者に負担をかけるものはない。まるで殺しにかかっているようなものである。

 作品の出来栄えはどうか。取り立てて言うほどのものではなかった。ちなみにローマ法王庁は彼の作品を禁書にした。当然といえば当然である。

 


文学にもっとも裨益した病気は?

2018-02-26 20:35:22 | ノーベル文学賞

 今日銀座を通りかかったが相変わらず中国人の観光客が多い。ところが閉店している店が何軒かあった。26日、27日は閉店なんて張り紙のあるビルがある。なんなんだろう。年度末の棚卸でもあるまいに。銀座はあまり行かないが日曜以外は休むことが多いのかな。

  さて、歴史的に小説に裨益した病気にはどんなものがあるでしょうか。うつ病、恋の病いかな。言い換えれば病気の特徴が状況設定のキーになっているというか。消耗性、軽度の神経興奮、病状の不可逆的進行(悲劇の構成要素、全部ではない、統計的に)、若年者にも多い(つまり小説の主人公年齢に適当)。消耗性疾患のわりに性欲が亢進するなど。メタボじゃないな。私小説では淋病何てのが多いが、やや特殊な分野だしな。

 


カズオ・イシグロのクローン人間はホルモン異常

2018-02-13 20:37:49 | ノーベル文学賞

 カズオ・イシグロ氏の作成したクローン人間にはホルモン異常があるようである。アドレナリンとノルアドレナリンの分泌異常がある。だから人間に本来ある反抗攻撃本能と防御逃避本能がない。

 クローンも古臭い言葉でいえば人造人間である。人造人間の作り方による分類ではクローンはコピー型である。コピー型でほかに有名な小説はオルダス・ハクスリーの「素晴らしき新世界」がある。いろいろな型があるが、型のはなしはわきに置いておくとして、人造人間小説で必ずベストテンに入るであろう小説にフィリップ・ディックの「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」というのがある。

 この小説はだいぶ前に読んだことがあって、内容は忘れていたがタイトルにアンドロイドとあるから人造人間の話であることは間違いないと思い、改めて読み返した。人造人間の種類からいうとディックのアンドロイドはどの範疇に入るのが読了したがわからない。ようするにはっきりとは書いていない。ちらちらとそれらしき記述もあることはあるが。だいたい彼らが有機物でできているのか判然としない。精巧な機械であるような記述もあったりする。しかし、人間の男と女アンドロイドは性交もできるし、惚れたはれたもあるらしい。ようするによくわからん。

 そういえば、長い間に漫然と読み散らかした「人造人間」小説は結構ある。「モロー博士の島」もそうだし「フランケンシュタイン」もそうだ。「私を離さないで」を除いていずれの場合も人間が使役目的、あるいは利用目的、あるいは純然たる学問的興味から作り出した人造人間がやがて人間の脅威になる。本来人間固有の二つの情念(攻撃反抗と防御逃避)を作者は彼らにも当然のこととして与えている。だから彼らは二つの情念に駆られて人間と対抗し、人間の脅威となる。小説では、結局人間が人造人間を滅ぼしてその脅威を除くと、まあ、判で押したようなものだ。ところが「私を離さないで」はほかの小説と違い、人造人間が持つようになる「攻撃、反抗」と「逃亡逃避」という二大情念を示すところが全くない。

 もっともトミーは冒頭部分ではアドレナリンの過剰分泌がみられるような描写があるが成長するにつれてすっかりおとなしくなる。当初のトミー・パートを工夫発展したら小説はもっとメリハリが出たような気がする。終章部分でトミーの激発をちょこっと描こうとした部分もあるが尻切れトンボになっている。惜しむべし。

  小説というものはもともと不自然なものだが、それにしてもあまりに不自然ではないかと思う。これは個人的感想である。個人的と断るのはほかの読者はだれもそういう違和感を持たないようだからである。

 もっとも、イシグロ氏のインタビューによると、「逃亡は描きたくなかった」とあるからイシグロ氏の設計図では意図的に省かれていたのだろう。

 追記:オルダス・ハクスリーだったら、奉仕階級であるクローン人間は受精卵の段階か細胞分裂の初期段階でDNAに化学的処理がほどこされてアドレナリンとノルアドレナリン分泌機能が不機能化されるということになるのだろうが。

 

 


強制的臓器摘出手術に猶予期間はあるのか

2018-02-02 08:37:55 | ノーベル文学賞

 いよいよ「私を離さないで」の最終パートです。クローン人間飼育農場のクローンの間でひそかに語られている「うわさ」がある。臓器提供義務が三年間猶予される場合があるというのである。「うわさ」では男女のペアだけに与えられる。その条件はふたりが「まじめな人間で本当に愛し合っている」場合というのである。どうして愛し合っているペアだけなのか。理由はない(小説内では説明されない)。またまじめな人間の判定基準は彼らがヘールシャムの学校で書かされた絵である、というのである。いずれも荒唐無稽なはなしだが、イシグロ氏はそういうのである。説得力はない。

 ヘールシャムはその後世間の風潮があって、閉鎖されてしまった。キャシーとトミーはうわさを確かめて(その特典にあずかろうと)閉鎖された学校の保護官(先生)たちを探し当てて尋ねる。もちろんそんな噂は本当でないと教えられた。

 之によって此れを観るに、クローン牧場の連中は第三の道があるとかすかな希望をいだいていたのである。介護人か提供者になるほかに第三の道があるとすがるように思っていた。これは抵抗でもなく反抗でもなく逃亡でもない。いわば消極的だが合法的な逃げ道があるのではないか、と考えていた。イシグロ氏の前提にかすかな揺れがある。

 この小説にはオチがある。オチがあるのは大衆小説(探偵小説などの)であるが、シリアスな小説にオチがあるのはどうなのか。

 曰く、愛は死を克服する。愛はクローン人間の悲しみを救える。トミーは四回目の「提供」の予後が悪くて死ぬ。しかし、彼の記憶は恋人キャシーの記憶のなかに生きている。うまくまとまりましたでしょうか。

 


Don Ishiguro, donorという言葉を使ってはいけない

2018-02-01 07:08:01 | ノーベル文学賞

 「私を離さないで」第三部になります。

 さてコテージで二年ほど過ごすとクローン達はいよいよお役目を果たさなければならない。一般の社会でいえば就職するわけです。道は二つある。臓器提供者になるか、彼らの介護人になる。介護人はクローンがやるというところがイシグロ氏の趣向です。原文を見ると介護人はcarerとなっている。これは、まあ、よろしい。臓器提供者はdonorという言葉を使っているが、これはイシグロ氏らしくない。

 ドナーの語源はサンスクリット語のダーナである。恩恵的に与えるもの、金主(特に宗教寺院への寄進者)、スポンサーの意味である。与えるという意味のラテン語のdonもサンスクリット語からきていることは間違いない。

 この言葉は日本に渡来すると旦那という言葉になる。寺院への寄進者ということである。寺院を支える在家のスポンサーを檀家というのも同じ語源である。二号さんにお手当てを与えるものもダンナという、おなじ機能を果たしているからである。

 この与えるという機能は自発的に恩恵を与えるという場合に限られている。一般に臓器提供者をドナーというのは、彼ら本人が自発的に提供するか、家族が提供に同意する場合のみであるからドナーという言葉の使用法の限界を超えていない。しかし、本書の場合は自発的、恩恵的ではない。強制的、運命的である。正確に言えば「無償で強制的に臓器を提供させられる者」である。

 日本語でも訳者のように「提供者」と訳すのはドナーよりはましだが、正確に言えば「無償で本人の意思にかかわりなく強制的に臓器を摘出、提供させられるもの」である。英語でいうとどうなるのかな「free (of charge), obligatory supplier」かしら。つたない英訳で申し訳ない。昔の日本語で供出ということばが一番近いのかもしれない。この言葉を若干修飾するのがいいのかもしれない。現代日本でいえば、NHK視聴料の強制徴収を考えればわかりやすいかもしれない。

 贅言であるが、スペイン語のミスターにあたるドンもダンナという意味ではないか。「ドン イシグロ」といえば「イシグロの旦那」ということだろうか。

 次回は最後になると思います。(どうかな)

 

 


「私を離さないで」の評価理由

2018-01-31 08:21:22 | ノーベル文学賞

 これは伝聞で確かではないが、「私を離さないで」は彼の著書で一番売れたそうである。英文でも日本訳でも。私は先に書いたようにこの小説を途中で投げ出してしまった。この辺の受容のギャップが気になっていた。あれこれ考えたのであるがそのことをすこし触れる。

最初は、映像化の影響が大きいのではないかという疑問である。もっとも小説がベストセラーになったから映像化されたという経緯ならこの仮説は成立しない。その辺の事情は私にはわからない。とにかく映像化されれば、それを契機に本の読者は増えるという循環になる。映像化されやすい理由として考えられるのはテーマの衝撃度である。臓器提供者を育成するクローン人間の飼育というのは映像制作者の食欲(?意欲)をそそるだろう。しかも大変わかりやすく映像化しやすい。

 この仮説を裏付ける(それほど大げさではないが)理由として、インターネットで検索すると映画化されたものやテレビドラマ化されたものについての記事が圧倒的に多い。また、映像化されたものをベースに原作に触れるものがわずかにある程度である。それと、この本の批評に専門家すなわち文芸評論家の書評が見当たらない。あるのは哲学研究者、倫理学研究者、脳医学者、心理学者などの縁辺分野の専門家が多い。SFファンや勝手連の投稿も散見されるが文系評論家の書評には気が付かなかった。これが意味するのはテーマについての興味が主で小説としての月旦ではないということである。

 もう一つの理由は一般読者に評判がいいのは彼の文章が素晴らしいのではないかということである。これは日本訳には当てはまらないが原文(英文)の質に原因があるのではないか。そこで原文の洋書を買った。ところがこれが(出版社はfaber and faberのペイパーバック)ものすごい細字なので、通読できない。それで拾い読みをしたが、彼の文章は流麗、平明でかつ端整である。これは処女作以来のことであろうが、彼の成功の重要な理由の一つと考えられる。完全なネイティブではないが、外国系でも完全な英語を書く人は英米圏でも尊敬される。書く言語というのは往々にして外国系の人の場合のほうが優れている場合がある。もちろん、少数例であるが。

 とくにこの才能は読書人の間では高く評価される。話すほうではいくら流暢でもそうは評価されない、通訳猿としてかるく見られる。ミーハーにはともかく読書階級には。

 


「私を離さないで」の書かれざる前提2

2018-01-30 10:55:34 | ノーベル文学賞

 15,6歳になるとヘールシャムを出て「コテージ」に行く。コテージというのは外部世界の近縁あるいは真ん中にあり、クローンたちは一般商店にも行けるし、そこらあたりをドライブできる。それは卒業後に備えた予備校のようなものらしい。ここでヘールシャム出身の彼らはほかの養殖農場からきた少年少女と一緒になる。ここでヘールシャムの特徴をいうと、一種のNPOによって運営されている優良牧場でほかの農場と比べて生徒たちはよい教育と待遇をうけている。一般社会と同じような教育を受け、スポーツも楽しんでる。ということはほかの農場はかなり劣悪な飼育するだけといった場所であることを暗示している。

 この段階に来ると彼らはクローンであることを自覚するようになり、自分たちの将来を理解する。何回かの臓器提供を行ったあとで、早いものでは二十台、だいたい三十歳までに死ぬということもわかるのである。しかし、彼らは一般社会に逃亡しない。理解できないが、逃亡しないというのが「暗黙の前提」なのである。一般社会の人たちと親しくなることもないし、恋愛したりセックスをすることもない。ちなみに農場経営者側は一般人とのセックスを禁止していない。クローンは生殖能力がないから妊娠する、させる心配がない。ただ、将来の臓器提供にそなえて、健全な臓器を提供できるように感染症などにかからないように注意されるだけである。しかし著者は一般人とのセックス場面は描いていない。

 当然に制度として、全国的に臓器農場を管理する組織が前提とされる。例えば農林省とか厚生省とかね。しかし著者は一切それらのことには触れていない。どこかのインターネットのサイトでどうして彼らは海外に逃亡しないだろうか、と疑問を呈していた。多分、彼らには身分証明、日本でいえば戸籍がないのだろう、したがってパスポートも取得できない。ま、これは余談だが。

 


「私を離さないで」の書かれざる前提

2018-01-30 07:18:05 | ノーベル文学賞

 これがクローン人間の養殖農場の話であることは、読む前から、たいていの読者の耳(あたま)に入っている。改めて早川文庫のカバーを見るとクローンなんてことは一語もないが情報社会である。その程度の情報は読者間に流布している。帯はなくなってしまったが、おそらくオビにもクローンの字はないだろう。ネタバレという語感の汚い言葉があるが、まさかネタバレを隠しているのではあるまい。

 イシグロ氏の執筆にはいくつかの語られざる前提がある。それらは一般読者が読んでいれば自然に分かるというものではない。これが厄介なところである。小説は猿飛佐助のようにいろいろな時系列を飛び回るが、物語は少年少女初期(12,3歳ころまで)の追想から始まる。読んでいてまず不思議に思ったのは、この養殖農場(ヘイルシャム)は盆地の中にあるがまわりに塀や有刺鉄線があるわけではない。外部の人間も中に入り込んでくる。小説や詩も授業で教える。小説や詩は外部の、あるいは全体の世界がわからなければ理解できない描写に溢れている。たしかテレビも見られたのではないか。当然幼い子供といえども外部の世界に強い興味を持つはずだ。そして子供の常として外部の(一般)社会に行きたい、見たいと思うはずである。ところがそういう自然な自発的な行動は小説の中では全くない。ありえないことだ。

 イシグロ氏はあるインタビューでこの自作を解説して、子供というものは、大人が与える情報の枠の中でしか考えず、行動しないからと、この記述を正当化している。そうだろうか。読者を納得させるように言うなら「そういう前提で書いている」というべきではないか。それなら作者の自由だから問題はないまもしれない。

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カズオ・イシグロ四作品軽読のまとめ

2018-01-29 06:54:53 | ノーベル文学賞

「私を離さないで」(私を)をようやく読み終わりました。途中で挫折して「遠い山並みの光」(遠い)、「浮世の画家」、「日の名残り」と読み、再び「私を」を読んだわけです。「私を」以外は比較的早く抵抗もなく読めましたが「私を」はちょっと時間がかかった。

 四作品の感想を順不同に述べます。メモしておかないと忘れてしまうので。「遠い」と「浮世の画家」は日本の家庭が舞台ですが、一部の評論家の言うような違和感は感じなかった。とくに「遠い」は日本の作家の作品と言われても不思議ではない。

 浮世の画家では大家の画家が朽ちかけた別荘で弟子たちとの共同生活をしている描写は「どうかな」と思うところがありましたが。家族の会話も普通の家庭とは違うようだが、これはおそらく彼の家庭の記憶がもとになっているのでしょう。祖父は戦前上海で会社を経営していたというし、長崎では三階建ての洋館に住んでいたというが、そういう生活をしていれば、やや標準とは違う家族の会話もありそうに思われる。育った家庭や家屋というものは作品に反映されやすい。前の記事で家族の概念がないと書きましたが、これは「私を離さないで」について述べたものですから念のため。

さて、日の名残りと私を離さないでとのあいだには16年の開きがあります。その間に「充たされざる者」と「私たちが孤児だったころ」が書かれています。いずれも未読ですが、「日の名残り」と「私を」のあいだにはかなりの変化があるようです。しかし、これまでに読んだ四書のうち「浮世の画家」、「日の名残り」と「私を離さないで」の三作品の間には共通点があります。いずれも奉仕者と奉仕されるものの関係です。そしていずれも奉仕するものが、その体制を否定、反抗するのではなくて、「奉仕するもの」と「奉仕されるもの」の社会的枠組みに順応して生きていく様々な人生を描いていることです。

「浮世の画家」では戦前の社会のムードのなかで、「日本精神」運動を主導した老画家の戦後を描いています。ここでは「奉仕されるもの」が人間集団ではなくて「世間の風潮」です。山本七平流に表現すれば「世間の空気」です。「日の名残り」では奉仕するものは執事であり、奉仕されるものはその主人です。「私を離さないで」では奉仕する者たちは臓器提供者になるように育てられたクローン人間であり、奉仕されるものは臓器提供を受ける「一般の」人間たちです。

 

次回:「私を離さないで」での作者の意図


カズオ・イシグロの「日の名残り」にみる英国執事のモラル・コード

2018-01-22 07:12:52 | ノーベル文学賞

 全体の半分強を読んだところで感想を。執事という「英国特有の」職業倫理を極端に戯画化するまでに描いた小説でしょうか。連想するのはレイモンド・チャンドラーの描く私立探偵の硬直したともいえる職業倫理でした。

 主人公である語り手のスティーブンスによると、執事というのは英国特有の職業です。ほかの国、フランスやアメリカでは召使しかいない。ちょうど武士が日本特有の職業というか身分であるように。そういえば、チャンドラーに出てくる富豪の依頼人の執事は英国人でした。執事を雇うなら英国人を、とアメリカ人も思っていたようです。ちなみに、村上春樹氏によるとイシグロ氏もチャンドラーの愛読者だそうです。

 筆者によると執事という職業は消滅したらしい。名前は残っているかもしれないが。小説を書くにあたって筆者が取材した材料はなんだったのか。一つはかっての名執事の回顧でしょうが、イシグロの二世代前に消滅したらしいから、かっての名執事の妻や、娘への取材だったと推測する。この本は献辞に「ミセス・リノア・マーシャルの思い出に」とある。小説中に伝説中の名執事として名前の出ているマーシャルの縁故者でしょう。

 イシグロ氏は長編第一作の「遠い山並みの光」で王立文学協会賞を受賞。第二作「浮世の画家」でブッカー賞の最終候補、本作でブッカー賞受賞ということですが、三作品を比較するとやはり「日の名残り」が一番でしょう。その次が「遠い山なみの光」だと私はおもいます。「浮世の画家」が最後までブッカー賞を争ったというのは意外です。英国受けのする要素があったのかな。

 執事道とは隠密同心風に言えば「お役目いかにしても果たすべし」とでもいうところか。

「葉隠れ」の大英帝国版というべきか。構成も巧みだし、筆力もさえてきています。

 


カズオ・イシグロの手法はStripteaser的

2018-01-20 08:09:02 | ノーベル文学賞

 「私を離さないで」を三分の一ほど読んで挫折したことは書きました。その後処女作(元服後、あるいは成人式後の処女作ともいうべき)「遠い山並みの光」と第二作「浮世の画家」を軽読しました。

 私は成人式後の処女作を(つまり習作期間中の作品ではなく)を重視するものですから、処女作からシリアルに読み始めたのです。彼の手法的な特徴というのか(内容ではなくて)、なんというのかテーマというか謎というか、展開すべき着想というのでしょうか、それを最後まで明らかにしないということに気が付きました。もっとも、だからと言って途中で本を投げだすということもなくて最後まで読ませる筆力はあります。最後に至っても、通俗小説のようなテーマの明示はないのですが、それでも読後の、なんというか、充足感はあります。やはりその辺が力量でしょう。

 ストリッパーが一枚一枚脱いでいって最後にいたっても全部脱がないというのに似ていますね。それでも十分にお客を満足させる芸になっている。全部脱がないとブーイングが起こるのは場末の、あるいは歓楽地の温泉街の小屋ぐらいのものです。

 


カズオ・イシグロ氏自著解説

2017-10-29 08:44:01 | ノーベル文学賞

PHP新書で「知の最先端」と大げさに銘打った大野和基氏のインタビュー集がある。そのなかで40ページほどカズオ・イシグロ氏とのインタビューがある。話題の大半が「私を離さないで」である。

 ああいう記述というかスタイルをとった目的は著者としては意識的ではっきりとしているらしい。しかしこれを念頭に入れて「私を」を読み返す元気はまだ出ないが。

 彼の小説はこれだけを半分ほどかじっただけで、全般的な評価はできないが、よく比較される村上春樹に比べてシリアス調であることは間違いないようだ。ノーベル賞選考委員はシリアスなものが好きらしいから、今後も村上氏の受賞は難しいかもしれない。

 イシグロ氏は村上春樹をリアリズムの外で書いて成功している作家としている。こういうスタイルで書いて成功する作家は少ないとも。このような作家としてカフカとかガルシア・マルケスを挙げているが村上春樹にはカフカのようなシリアス感がないように私は感じる。


テーマがないというより具象化されていないといったほうが

2017-10-24 06:56:30 | ノーベル文学賞

カズオ・イシグロ氏の「私を離さないで」の映像化について

22日のアップでテーマが画然としない、と書いたがテーマの具象化に成功していないといったほうがいいかもしれない。

これはイギリスでも映画化されたらしい。日本でもテレビドラマになっている。ということは大衆分かりのする具象化をしているのでしょう。見ていないから原作の敷衍なのか映像化作者の独自の解釈なのかわからないが。

たしかにイシグロ氏が漠然と整理しないまま提示している問題は映画作者あるいはテレビドラマ制作者が自分なりにいじくりまわす余地が大いにあるようです。映像化作品を見ていないのでこれは推測ですが。


日本でも類似のSF小説もあったようですね。