作品の骨組みが見えやすいということはその後の「幽霊」でも「鍵のかかった部屋」でも同じだった。骨組みが見えやすいというのは要約しやすいということだ。
彼の作品は時系列的に「孤独の発明」それからニューヨーク三部作(ガラスの街、幽霊、鍵のかかった部屋)と続くようだ。それ以外にも作品はあるのかもしれないが習作的な評価なのだろう。
ニューヨーク三部作もある意味で発展途上のものと言えるかもしれない。最初の「ガラスの街」は小説たらんとして、いささかシッチャカメッチャカになっている。二番目の「幽霊」は小説というよりも詩的韻文的でそれだけに「ただずまい」は整っている。三作目の「鍵のかかった部屋」は再び小説たらんとして第一作よりも小説らしくなってきた。これはその次の「ムーンパレス」においても引き継がれているようだ。
その後の作品は読んでいないが、彼の文章の特色は改行が少なく、会話を現代風にかっこに入れていちいち改行することが少ない。そういう意味では古典的というかドストエフスキーに似ている。村上春樹なんかと同世代だと思うが、この辺は全然ちがう。
村上春樹で思い出したが、彼の「多崎つくる君」では登場人物の名前がみんな色で出てくるが「幽霊」では登場人物全員が色で呼ばれている。偶然の趣向の一致かな。
特徴的なのはセックス描写で、「鍵のかかった部屋」と「ムーンパレス」には初めてセックス描写が出てくるが、改行なし、会話なし(擬音なし、うめき声なし、痴話なし)だから数ページで終わるが、迫力はある。オースター風というのだろう。
さて、「ガラスの街」と「幽霊」では、探偵が相手の行動に変化がないので、しびれをきらして(頭にきて)探偵本人が相手に接触していく。依頼人の同意もなしに。どうしても物語の転換場面でこのシーンをいれたいらしい。
作風に固定観念というのがあるかどうかしらないが、「ガラスの街」と「幽霊」には共通なところがある。また、鍵のかかった部屋とムーンパレスにもそういったところがある。
「ガラスの街」と「幽霊」はミステリーでいえば、尾行、張り込みものだが、「鍵のかかった部屋」は失踪人探しというミステリーの本筋だ。枠組みだけはね。
ナレイターで探偵役は失踪者の子供の時からの友人である。こういう指摘をする評論家はいないかもしれないが(というより居ないと確信するが)、この小説は失踪者の「表現欲」がテーマではないか。表現とは、とくに作家では自分を消して作品だけで表現したいというところに行きつく。実際の小説業界、出版業界ではそうもいかないのだが、この論理的必然を追求したのがこの作品ではないか。
失踪者ファンショーは失踪する際に自分の書き溜めた原稿を友人に渡してどう処分してもいいといい残す。本当は出版してほしいのである。また数年後友人に連絡してきて、自分に会いに来た友人にまたその後に書いた原稿を渡すが、自分の姿を見せない。つまり鍵のかかった部屋のドアを隔てて友人に原稿を渡すのである。これこそ究極の表現欲ではあるまいか。
そういえば、「ガラスの街」で探偵役を演じるクインはミステリー作家で、もちろんペンネ
―ムで執筆している。アメリカだから出版エージェントを使っているが、彼とは会ったこともない。つまりこれは後の「鍵のかかった部屋」のファンショーに通じるタイプである。これもオースターの隠れた固定観念の一つだろう。
上記で「幽霊」は「幽霊たち」とお読みください。
「孤独の発明」の次に書いたいわゆるニューヨーク三部作を読んだ。まず「ガラスの街」。
三部作全部についてだが、彼の小説は建物の骨組みだけが露出している印象である。構成というか趣向がもろに出ている。ちょっと読むと最初から分かってしまう。彼のその後の小説は読んでいないから、同じような性格があるのかどうかはわからない。
依頼人から私立探偵と間違えられた作家が、その間違いに乗っかって探偵に成りすまして依頼人のためにストーカー(なんとこれが父親である)を見張るという話だ。いかにもミステリー風だが、この小説は原稿をもちこんだ17の出版社に拒絶されたという。訳者はあとがきで「こんなに面白い小説がなぜ断られたのか」と不思議がっている。読むと分かるが不思議でもなんでもない。探偵小説を装って違うことを書いてもいけないという業界の不文律はアメリカでもないと思うが、趣向の変わった小説として先入観なしに読んでも叙述は退屈でごつごつしている。無駄が多い。もし当時採用されても編集者にカットされたり書き直されたりしたであろうところが多い。
訳者はあとがきで「圧倒的に惹きつけられたのは透明感溢れる文章」と詠嘆調で書いているが、そうかな。この小説が現在一応読まれるようになっているのは、その後の作品でオースターが読まれるようになって一応初期の作品にも読者がついたということだろう。こういうことは日本でもよくある。
オースターは詩人として出発したというから、文章には優れたところもあるのだろうが、詩というのは原文で読まないと評価できない。すくなくとも本書はそのような印象を与えない。あるいは英文で読めば違うのかもしれない。
ストーカーも自殺し、依頼人も失踪して、主人公もからかわれていたらしいと暗示している。まあどんでん返しとでもいうか。訳者の言葉を借りれば「伝統の転倒」ということになるのかもしれない。
著者の孤独に対する立場は中立的である。孤独を称揚するわけではない。読んで感じるのはむしろ孤独を脱しようとしている。ダニエル坊やしかり、Sまたしかり、などなど。しかし孤独を出発点として。オースターによれば「ライプニッツによれば各個人はモナドだからすでに全世界、全宇宙を個人の孤独のなかに包含している」注。等身大の狭い部屋に閉じこもっていても人間は孤独ではありえない。まあ、彼はそう考えるわけだ。孤独を忌避するわけでもないのだ。
(孤独な)自分を描写するためには自分の外側に出なければならない。目は外側しか見れない、とウィトゲンシュタインもいっていた(?)。オースターは書いている、そのままでは自撮り(ジドリ)はできない。自分の孤独を描写するためには自分の孤独な部屋から外へ出て、目を自分の外側に置いて観察しなければならない。この辺は弁証法的アクロバットといえるだろう。ヘーゲルの言葉でいえば、「自分のほうに折れ曲がる」わけだ。
さて原題であるが、The Invention of Solitudeのsolitudeはこれで片付いたわけだ。残るのは前置詞のofである。これはいわゆる出所、根源を表すofであろう。つまりタイトルの意味は「孤独を出発点として行われたさまざまな省察」とでもなろうか。
注:ライプニッツは宇宙の最小単位(原子)はモナドで、各モナドは全宇宙を包含しているといったが、各個人がモナドである、といったかは確認していない。
このタイトルは誤訳じゃないのかな。訳者は柴田元幸氏、現題はThe Invention of Solitudeという。Solitudeはまあ孤独でいいかもしれない。inventionを発明と訳しても意味をなさないのではないか。句として意味をなさないというのではない。内容とマッチしていないではないか、ということである。
カシオの電子辞書には発明としか出ていないが、シャープの電子辞書には四番目の語釈として「作りごと、作り話、でっちあげ」とある。また六番目の語釈には「修辞(学)で話の内容を決めること」とある。この二つのどちらかに該当するのではないか。内容をぱらぱら流し読みしてそう感じた。
念のためにOxford Advanced Learner‘s Dictionaryを見ると「act of inventing a story」というのがある。
新潮文庫の132ページにローマの哲学者、修辞学者のキケロへの言及がある。キケロにはde inventioneという作品がある。普通発想法について、と訳されるようである。
オースターは第二部記憶の書でルネッサンス期の記憶術の研究者ライモンド・ルルス、ロバート・フラッド、ジョルダーノ・ブルーノに言及している(122ぺーじ)
キケロにも記録術の論考があったと記憶している。だいたい、記憶術というのは演説(現代でいえば著述)の構成を考え、それぞれのパートでいうべき内容とその順番を記憶しておくための技術であった。例えば出だしの序の部分の内容は教会の入り口と関連して覚える。次に内容は教会のどこそこの回廊とかへ順番に内容をしまって覚える。最後のの締めくくり部分は祭壇と結び付けるとかね。そうしておけば原稿がなくても最初は入り口それから中へ入り教会の中を順番に思い出していけば流暢に効果的な演説ができる。つまり場所と記憶はセットなのだ。現代でいえばファイルのある位置と内容が建築のそれぞれの部分なのである。
オースターの書き方は孤独、あるいは記憶をテーマとした作品として小説として書くための材料を並べていくパートにあたるものが各段落のようだ。まだ順序はついていない。思いついたままに並べていく。もちろん自由書記だから脱線もある。そうするとinvention of solitudeは将来の著作のあらすじやパーツのつもりだったのではないか、というわけ。まだ全体の5パーセントも読んでいないが今のところそういう印象だ。これは第二部についてだ。第一部は父についての作品としてある程度すでに作品としてまとまっている。
したがって私だったら、タイトルは「孤独をテーマとした将来の仕事のための道具箱」とか「パーツ」とでも訳すかな。