穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

『白痴』再読前の仮説二

2011-06-28 19:43:16 | ドストエフスキー書評

再読するにしてもテキストをどれにするのか迷う。手元にあるのは新潮文庫木村浩訳なんだが、そのあとがきを読んで首を傾げるところがある。江川卓の岩波文庫もあるし、いっそ英訳のどれかを選ぶか、テキストの選択でかなり変わってくる予感がする。

木村氏の解説によると白痴はドストが最も『熱愛』した作品だそうだが出典が明記されていない。本当だろうか。テーマに意欲を持っていたことは確からしいが、問題はそれをどう具体化したかということに尽きる。本当に作者が熱愛するほどの出来栄えだろうか。

多数の登場人物、複数の視点での超長編の最初の試みであり、その後の長編に比べて技術的に問題があるという感想を前回書いた。

それと、この作品は4年にわたる海外生活で貧窮を免れるために執筆したという。海外逃亡は借金取りから逃げるためだったようだ。つまり極めて不安定な状況でしかも初めての手法で描いたわけで、技術的には今一つなのは当然のような気がする。

くわえて、この海外生活では妻の手記によると、つねに発狂の危険の自覚に脅かされていたと言う。精神的な執筆環境も良くなかった。

トルストイもこの作品を絶賛したそうだが、どうも理解できない。もっとも作家と言うものは、ライバルのいい作品を褒めることはない。そのかわり、これは大丈夫と思う作品はほめあげると言う「生存本能」がある。日本の作家の批評などそういうものが多い。

本当に自分の才能ではかなわない、下手をすると自分の存在を脅かしかねない傑作には口をつぐんでいるものだ。洋の東西を問わないのだろう。


再読前の仮説設定『白痴』

2011-06-28 07:48:13 | ドストエフスキー書評

ドストエフスキーの白痴、まだ本文に入らないのかよ、と怒られそうだが読前に仮説を立ててみたい。

長編と言うのはどのくらいの長さをいうのか、普通五大長編といわれて、罪と罰、白痴、悪霊、未成年、カラマーゾフの兄弟をいうが、たとえば新潮文庫で言えば二分冊ないし三分冊になる。

死の家の記録や虐げられた人たちも長編と言っても差し支えないが、区別しているようだ。ま、分量の問題で便宜的なものだからどうでもいい、と言える。いや言えない。これからの仮説設定では。

長編では複数視点の問題が重要になる。死の家の記録では観察者の一人称視点だから登場人物は多いが内容の緊迫性は損なわれていない。虐げられた人たちではやはり観察者の視点ではなかったかな。それに登場人物もそう多くない。イベントの同時進行、輻輳も少なかったと記憶する。

罪と罰はラスコリニコフ視点だからドストエフスキーの大きな魅力である冗長性と緊迫性が矛盾なくいかされている。白痴から登場人物たちが勝手に動き出すのだが、最初の試みであるこの小説では技術的に未完成だったのだろう。それがかって読んだときに散漫な印象を与えたらしい(再読の際に検証する仮説になる)。

悪霊は複数視点と言えるが観察者を膠として黒子として入れてあるし、技術的にも二作目で深化した(進化)と言える。

未成年で再び一人称視点に戻る。、この小説はかなり散漫だが、一人称視点のおかげで印象に残るものが多い。

カラマーゾフでは技術的に進化していて、何が何だか分からないという混乱は少ないが、惜しむらくはドストエフスキーの寿命と関係あるのだろう、文章に潤いが少ない。表現に類型的なものが多い(だから分かりはいい)。


ドストエフスキーの白痴

2011-06-25 09:30:02 | ドストエフスキー書評

何故小説を書くか:::Anti-Aging Pastimeである。老人のアンタイ・エイジング・パスタイムと言うと俳句とか川柳なんだろうが、これは群れて楽しむものだ。小説は一人で書ける。あるいは盆栽か、これはベランダ、縁側、一坪の庭もないから出来ない。

文学創作などと言うものは春秋に富む若者が求道者的精神でウンウン唸りながら書くものだという常識からすると冒涜も甚だしかろう。あわよくばそれで飯を食っていこうと言う青年諸君からは営業権の侵害と文句もでよう。なるだけ若鳥から仕上げてたくさんタマゴ(作品)を収穫しようという出版社、編集者諸君の思惑も分からないではない。

純真な評論家諸君は自分の「ひいお爺さん」のような年齢に驚いて飛び退る(とびしさる)。畏れ敬して原稿を遠くに取り除ける。そこまで遠慮せんでもいい。その儒教的精神はよろしいが。

何故書評を書くか:::感傷旅行である。この頃は目に優しい活字の大きい本が増えたのでセンチメンタル・ジャーニーをする機会が増えた。

この欄の書評でドストエフスキーを取り上げたことは多い。その中で白痴はどうもつまらない、と触れなかった。訳がまづいのか(ロシア語が読めないので)、本当に内容がつまらないのか結論を下せなかった。

ところが、あるきっかけで白痴を読むことにした。まだ読み返しを始めていない。だから今回のは映画の予告編みたいなものだ。そういえば、数ヶ月前に久しぶりに映画館に行ったが相変わらず余計で音ばかりうるさい予告編を延々とやっている。こんな時代遅れで観客に失礼な商習慣はとっくに前世紀で終わっていると思っていたのであきれた。

映画館は予告編が始まると場内を暗くして本編が始まるまでそのままだ。だから観たくなくても予告編の前に着席しないと他の客に迷惑になる。いい加減に予告編と言う悪習をやめろ>映画館主。

なぜ白痴を読む気になったかというと、中村健之助氏のドストエフスキー人物事典(講談社学術文庫)を読んだからだ。なぜ白痴がつまらないか、気になっていたので、まず白痴の項を読んだ。おやと目を啓らかれたね。それで読みなおす気になった。幸い、本棚を探すとまだあった。

他の章は読んでいないが、この本はなかなかのようだ。本場のロシアでも翻訳されたそうだ。それだけの内容があるのだろう。それに、ドストエフスキーの死後ロシアは天地が二度ひっくり返っている。現代のロシア読者には今の日本の若者が鴎外などを読むのより分かりにくい状況だろう。こういう本が日本語からロシア語に翻訳される事情があろう。

予告編だからここまでね。内容は後便にて。


七漱石つれづれ

2011-06-10 08:48:41 | 書評

ハイキング登山が出てくるとまたか、と思う。使いまわしは一向に構わないが、漱石には山登りが書きやすいのかな。二百十日、草枕、虞美人草。

そして登山が出てくるとやたらに漢語を披露する。もっとも漢詩は自然しか歌わないからそうなるのか。人事の漢詩もあるが、ほとんど左遷の鬱憤をはらすものだ。

前にも書いたが、漱石の漢語は知っているぞ、と誇示しているだけで文脈にマッチしているようには思えない。もっとも、こちらの漢語に関する知識がないだけか。

ここで三人の年齢比較。明治元年をゼロとするとそれぞれの生年は、

森鴎外 マイナス6歳、夏目漱石 ゼロ歳、永井荷風 12歳。

明治の作家は皆漢文の素養があったから他の作家も比較する必要があるのだろうが、いくらか読んだのが上の三人なので。

うまいのは鴎外と荷風だろう。しかし、鴎外の格調は現代の無学なものにはなかなか分かりにくい。荷風はこなれているというか、工夫がある。センスなのかもしれない。

年齢からいくと、漱石は鴎外よりこなれていてよさそうだが。


本屋が熱い

2011-06-09 09:59:19 | 本と雑誌

節電の影響で本屋が熱い。外は涼しくても中は人の集まるところは37度という発熱体が多数あるから温度が上昇する。外がまだ我慢できる気温であるから大きな人の集まる建物に入ると非常に熱く不快になる。

節電で送風もしていないことが多い。またデパートや大きな書店があるビルでは外気から密閉してあるからよけいに熱くなる。発熱体が女であると余計不快になる。デパート、女性客の多い書店など。

いまは昔、新入社員のころ、生まれて初めて通勤の満員電車にのって不随意にかつ不覚にもボッキして慌てたことがある。高卒の若い女性新入職員で地下鉄の車内は四月と言うのに異常高温。二、三度は体温が違うね。

もっとも、最近は高卒の女子職員なんていないから婆ばかりで車内温度はそんなに上がらなくなった。不思議なんだが、女性も年をとると、また体温が上がりだすんだね。デパートなんかおばさんが群れて蒸れてしまう。

おれは冷たい女が好きだな。ひやっとしてこれからはいい。


六漱石つれづれ

2011-06-04 20:36:07 | 書評

『彼岸過ぎ迄』、ようよう150ページまで読んだ。この本で注目すべきは漱石のまえがきだ。これは岩波文庫にも新潮文庫にもついている。『彼岸過ぎ迄について』という四ページほどの短文。このシリーズの何回目かでふれたが漱石の特徴は新聞小説作家であり、朝日の長期契約社員であったということだ。それと漱石の律儀な性格から作品の特徴が生まれる。

このまえがきで朝日の契約社員として自己の心構えを読者に述べている。是非読むべき文章である。

150ページまで読んだところでは、これは全くの娯楽小説として読者のご機嫌をうかがったらしい。素人探偵ではないが、人に頼まれてある人物の張り込み尾行をする描写が150ページまで続く。いやまだ終わっていない。今後どう持っていくかわからないが、イギリスで当時はやりの探偵小説を試みたのかな。

当時の新聞小説というのは、毎回どのくらいの分量だったのだろうか。今はどの新聞も大体長さが決まっているようだ。それと毎日欠かさず掲載したのだろうか。もし当時現代風の体裁だったとすると、毎回短い文章である程度のまとまりを持たせ、かつ小さな山場を毎回作らねばならないから、どうしても単調平板になる。

まれに作者が調子がいい時は別としてわりと退屈平板なものになる運命にあるような気がするが。そうして半分以上とはいわないが、漱石のかなりの小説がわりと淡々としているのはその辺に原因があるのではないか。


五漱石つれづれ

2011-06-04 20:19:30 | 書評

それから漱石徒然はどうなったかって。だから『それから』さ。これから始める。

この本は中学の時読んだね。朝起きたら枕元に椿の花が落ちてたという描写、何とも言えないね。その印象で覚えていた。今回最後まで読んだが中学の時は途中で投げ出したようだ。

漱石が椿を選んだのは意味があるのかな。椿はどさりと厚い花びらが落ちるさまが首をはなられたことを連想すると言うので武家では不吉な花とされていたらしいが、その後の代助を象徴しているのかな。それともそんなことは全然考えていなかったのか。

最初の大助はまるでユイスマンのさかしまのあれは、デゼッサントか、を想起させる。人工的に感覚が不自然に鋭敏になる、文明社会の遊民というやつだ。ただし、デゼッサントは自前の資産家で好きなように出来るが、大助(代理が出ないのでこれですます)は親のすねをかじりながらのものだ。だから後で親父から首を刎ねられてしまう(こずかいが出なくなる)。

後半は豚のしっぽを切って馬の尻につけたみたいでちぐはぐだ。あっと驚く純愛物語。こころもそうだったが、こういうところがどうも違和感を感じるところだ。

しかし、メロドラマとして前半と切り離してみれば、漱石は相当の手腕を発揮している。