60:邪眼
「いきなり『触らないで』とどう採っていいのか分からない声をかけられてね」
「というと」
「こちらはその女の体に触れたわけではなく、触れたとすればこのバッグが当たったのかもしれないが気が付かなかった」
「触らないで、というのも妙だね。何するのよ、とか、失礼ね、とかならあるかもしれない。しかし、それでもおかしいね」と卵型頭(エッグヘッド、EH)が口を挟んだ。
そこへ女性が橘さんの注文したジンジャーエールで割ったウイスキーを運んできた。
第九が声をかけた。「ちょっと聞きたいんだけどね」
「何でしょうか」
「たとえば込んでいるスーパーとかでほかのお客さんとすれ違って体が触れることがあるでしょう。そういう時にどうしますか」
「別に、よくあることじゃないですか」
「それじゃ、すこし触れ方が強かった場合は、背中とかお尻に触られたとか」
彼女は変な顔をして第九を見ていたが、「そうですね、一応振り返って確かめるかな」
「なにか言いますか。何するのよ、とか失礼ね、とか」
「いきなりですか」
「そう」
「まさか」
「じゃあ触らないでなんて言わないよね」
「当たり前じゃないですか」
今度は下駄顔(ジャパイーズ・サンダル=JS)がクルーケースの男(CC)に向かって聞いた。
「触らないで、なんて水商売の女が客を挑発するときに使う言葉みたいだな」
「そうそう、触らないで、なんて言っても、その心は触ってもいいのよ、早く触って、だからな。そっちに気をとられていると注文もしない山盛りのオードブルが運ばれてきたり、ビールが何本も出てくるわけだ」
CCはうなずいた。「まさにそれですよ。おさわりバーの女のような、キャバクラの女のように調子をつけていましたよ。それでね、妙な女だ、どんな人間だろうと女の背後を通り過ぎてから振り向いて女を見たんですが、これがいけなかった」
「いい女でしたか」
「とんでもない。見てぞっとしましたよ。顔は土色、髪はざんばら、眼は二つの洞穴、鼻も二つの黒い穴です。薄汚れたコートをひっかけていてね」
「ヤク中みたいだね」
「ええ、それに目がすごいんですよ。明らかに正常な精神ではない。洞穴の奥でゾンビみたいに光っている。それが異常な眼力がある。それでね、ぎょっとして目が離せなかったのがいけなかったらしい。よく不良なんかが、なんだガンをつけやがって、ていうでしょう。その女も私の目線が気にいらなかったんでしょう」
「あの種の人間はそういうことですぐに興奮するからね。それでどうなりました」と橘さん。
「いきなり口汚くののしりだしたんですよ。このくそ野郎とかバカ野郎とか、ぶっ殺してやるとか言ってね。あとは意味不明でね。ところが罵詈雑言のボキャブラリーは豊富ではないらしい。おなじ言葉をくりかえしているんですよ。それで私もはっと我に返りましてね。逃げ出したんです。ところが、そうしたら女が私を追いかけてきたのには驚きました。気味が悪くてね、後ろも見ずにここへ逃げ込んだわけです」
61:プライバシーを安売りしちゃ駄目よ 一月二十一日
夜間晴れて冷え込んだせいか、午前十時を過ぎたのに筑波山がまだ黒々と山麓まで見せている。第九はこの一週間数軒の不動産屋をまわって集めたパンフレットを朝食の後を片付けたテーブルの上に並べた。彼の雇い主である洋美のご下命で引っ越しのためのファイナンシアル・プランの作成を命じられていたのである。
電源が停止使用不能になった武蔵境のタワーマンションに恐れをなした彼女は低層住宅への引っ越しを考え始めた。それで彼に市場の調査を命令したのである。といっても不動産屋を回って資料を集めるだけである。今どきこんな資料はインターネットで手に入りそうなものだが、彼女はインターネットでの資料集めを厳禁したのである。そんなことをするとDMの洪水に見舞われるというのである。クッキーをオフにしておけば辿られることはないといったのだが、マイクロソフトのソフトを全く信用していない彼女はダメだというのである。
「だいたいそういうサイトはクッキーをオンにしないとつながらないようにしているわよ。昔は(週刊住宅情報)とかいう厚い雑誌があったけど今でもあるかな」と彼女がいうので本屋で探したがそんな本は置いていない。インターネットの発達で紙の情報誌は消滅したらしい。そこで一軒一軒不動産屋をたづねたのである。
不動産屋に行くと大抵はアンケートというものを書かされる。彼女はそのことにも注意を与えた。彼女の指示にしたがって、彼は偽の住所と氏名を書き込むのである。ファイナンシアル・プランナーの彼女は同様の方法で収集した個人情報を自分の仕事には使うのだが、自分のプライバシーが使われるのは断固拒否するのである。「個人情報を安売りしちゃだめよ」と釘を刺されている。偽名を使うように厳命されているのだ。かれもうっかり本名を書いてあとで長期間散々強引なセールスに悩まされたことがあるから彼女の厳命を守っている。「ポイント狂いの中年のおばさんみたいなマネをしないでね」と彼女は諭すのである。
彼は氏名欄に山下太郎と記入する。住所はモトカノ(ジョ)の住所を書く。年齢は区切りのいいところでまあ見た目もそう変わらないように35歳と書くのである。職業は勿論会社員である。
彼女の指定は七階建て以下のマンションである。つまりエレベーターが止まっても階段で上り下りできるところである。そして出勤に都合のよいように新宿へタクシーで千三百円以下で行けるところである。そして山手線の内側でなければならない。
こんなところは都内ではあんまりなさそうだと彼は思った。エッチラ・オッチラ通勤電車に乗って郊外に行かないとなさそうだ。しかも彼女は中規模のマンションを指定するのである。33戸以下のマンションは対象外である。また118戸以上のマンションもダメなのである。気楽に住めるのは、彼女の主張ではその中間の規模である。
これだけ条件がきついとなかなかなさそうだと思った。その上築年数は10年以下、大規模修繕後なら3年以内というのがご指定である。分譲でも賃貸の両方で探してくれという。
「どうしてだ」と聞くと今のマンションが売れれば売却資金で分譲を購入してもよし、あまり良い値段で売れそうもなければ、今のところを賃貸に出して、ほかの賃貸に引っ越すことを考えているらしい。だから売れそうな値段と賃貸にどのくらいで出せるかとの兼ね合いなのだが、両方ともまるで分らない。それも市場調査をしろ、というのだが、なにもかもいっぺんには出来ないからまず買うほう、借りるほうから調べることにしたのである。
62:注文の多い女
机の上に並べたチラシの枚数は多いが内容のある資料は無いに等しい。あまりの注文の細かさに不動産屋のカウンターの向こうに座っていた女は濃すぎる化粧でくっつきそうになった目を、接着剤でつけた化粧の粉が飛び散るくらいに、不自然に広げて第九を見た。
「さあねえ、無理じゃないですかね」と面倒くさそうに言う女に頼んでとにかくいくつかの物件の資料を貰ってきた。どこの店に入っても反応は似たり寄ったりであったが、とにかくチラシの枚数だけはだいぶたまった。洋美が帰ってきて机の上にチラシが一枚もないと怒り出すに決まっている。
そういえば、部屋の向きについても注文しておかなければいけないのだった。南向きはダメと言うだろう。なにしろマリー・アントワネット風の天蓋対のベッドでマンションの部屋など一杯になる。枕もと、足元でもいいのだが、それはベッドの置き方によるのだが、窓からせいぜい三十センチくらいの余裕しかないだろう。南向きだとカンカン照りの日差しがベッドを痛める。西向きもダメだ。多分東向きもダメだろう。夏など四時過ぎには燃えるような朝日が無遠慮に入り込んでくる。「主と朝寝がしてみたい」などと言っている余裕がなくなる。それが彼女のほとんど唯一の楽しみだから大事にしなければならない。そうすると、現在のように北向きしかなくなるのだ。ベッドの搬入方法も確保確認しておかなければならない。なにしろ、現在のマンションの五十階にはピアノのように屋上からクレーンを下ろして部屋まで釣り上げてベランダから搬入したのだ。
いっそ骨董品みたいなベッドは処分すればいいのに、と彼は思った。しかし彼女がそんなことに同意するはずがない。
63:恐れ入谷のタマゴ飯
不動産屋のいんちきDMビラの整理に気が載らない第九は部屋を出ると五十階から二階までエレベーターで降りてメールボックスから朝刊を取ってきた。紙面は勿論新型コロナウイールスの記事がてんこ盛りである。テレビを視ても新聞を読んでも新型コロナの話ばかりだ。今日はとうとう日本で患者が続出し始めたという話題である。
「恐れ入谷のタマゴ飯だな」と呟いた。幼いころに彼のおばあさんがよく「恐れ入谷の鬼子母神」と言っていたが、彼はすこし歌詞?を変えてなにかあると意味もなしに節をつけて独り言に云うのである。
連想はカミュの小説ペストに飛ぶ。まるでアレみたいだ。致死率が違うだけじゃないか。それはそうなのだが、町中目に見えない微生物が飛び回っていて、誰彼構わず侵入する。この調子だと日本中に蔓延しそうだ。ペストはたしか細菌だったな、と彼は考えた。読んだのはたしか新潮文庫だったが、訳者の解説で「不条理人」という訳の分からない言葉につまずいたことを思い出した。大体不条理という言葉に非常に抵抗を感じた。要するにどうして不条理というのか訳が分からない。
彼はインターネットで検索した。彼の癖で外国語経由の翻訳語で彼の股間、間違えた、語感に抵抗がある場合は原語を確かめる癖が出たのだ。それによると、不条理というのはabsurdの訳らしい。フランス語でも英語でも同じである。したがってラテン語がオリジンである。
どう考えても不条理という訳はおかしくないか。Absurdというのは相手の行動、あるいは相手の言説を滑稽だとしてバカにした場合に使う。おろかな、とか、バカなというニュアンスである。
これもインターネット、たしかwikipedia(一分前に見たソースも忘れてしまうのだ)だったが、二世紀の神学者テルトゥリアヌスの言葉に Credo quia abusurdus
とうのがあるらしい。「不条理なるがゆえにわれ信ず」と訳すらしいが、この場合は不条理と訳しても違和感がない。その謂いは『馬鹿々々しいけど信じるしかない』という意味でキリスト教の信仰を堅持するためには、処女が懐妊したり、ましてその子が神の子であったり、だから当然最近のはやりの言葉で言えば「非濃厚接触妊娠」とか「非挿入妊娠」ということになるのだが(もっとも人工授精ということもあるかな)、そういう事実もありであると信じないといけない。そうしないとキリスト教の有難いご利益にあずかれない。
死後三日目に復活したという(事実)は信じるよりほかにどうしたらいいのだ。理解することは出来ない。信じることは出来る。理解と信念とは全くの別物であるとプラトンもアリストテレスも言っている。信じるということは世俗的な意味で事実を理解するということとは異なる。なかなか、どうして堂々たる意見である。
それと、いわゆる実存主義者とかカミュがいう不条理とはどういう状況をいうのか客観的に確定することは不可能であろう。彼の記憶ではカミュは不条理の定義を一度もしていない。これほど迂闊なはなしはない。
不条理というからにはなにが条理であるかが明確に誤解のないように確立され表明され、かつ他者から同意されなければならない。このようなことは一切なされていないというのが第九の見解のようである。
64:呪われた船
第九はテレビをつけた。ダイヤモンド・プリンセスというくだんのクルーズ船が大写しになっている。どうみてもその船体は異様な印象を与える。バベルの塔じゃないか。バベルの塔が五階建てだったかどうかはしらないが、まともなつくりではない。呪われた船だな、宿命の船だな、と彼は思った。
そういえば船長は一度も顔を見せないな、妙だなと思った。当事者だろう、船の最高責任者なら顔を見せるべきだろう。いるのかいないのかまるで分らない。
五十六か国の乗客がのっているそうだ。バベルだな。そういえばこの船は建造中から呪われていたのではないか。たしか、日本で建造された船だ。佐世保だったかな。施主はイギリスで同様の船を何隻か注文建造していた。その建造中にダイヤモンド・プリンセスは火災をおこした。納期に間に合わないというので同時に建造していてサファイア・プリンセスというクルーズ船を急遽ダイヤモンド・プリンセスと改名して納入したはずである。
火災が発生した旧ダイヤモンド・プリンセスはサファイア・プリンセスと改名した。こちらのほうは現在北米のほうでやはりクルーズ船として就航している。要するにだ、形状からしても、火災を蒙って急遽改名した経緯からしても、呪われた宿命を担った船なのだろう。
彼はテレビを消すと昼飯を食いに外出した。駅ビルであまり客の入っていないさびれた店を選んで中に入った。込んでいる店に入るのは危険だ。新型コロナに罹患する可能性が高い。これからは、流行が収まるまではなるだけ外食は避けたほうがいい。外出もしないほうがいいだろう。近所を散歩するくらいにしておいたほうが無難なんだろう。彼は昼は大体外で食事をしていたが、これからは昼も自炊したほうがいい。帰りに食材を多めにし入れよう。
メトロの駅を出るときに構内の無料印刷物のラックに「東京23区住み心地ランキング」という雑誌があった。さる不動産会社が発行していた。一冊取ってみると新規分譲住宅だけの特集らしい。まあ、何かの参考になるだろうと彼は一冊持って行った。
「ダウンタウン」に入ると気のせいかいつもよりか閑散としている。ウェイトレスは全員マスクをしていた。
65:チンパンジーからゴリラを作る
ダウンタウンのウェイトレスはみんなマスクをしている。客は常連の下駄顔が一人だけだ。寂しそうに座っている。コーヒー一杯千円と言う値段で普段から客が少ない店なのだが新型コロナ騒ぎで全然客が来なくなったらしい。
客がいなけれがコロナに感染する可能性もないわけだから好都合だと第九は肚の中で考えた。もっとも一杯二千円に値上げされると困るが。それよりか店をたたんでしまうかもしれない、と彼は考えた。
「引っ越し先は見つかりましたか」と下駄顔(ジャパニーズダンダル以下JS)が聞いた。
「なかなかありませんね。物件は腐るほどあるらしいけど条件にあったのはね」
「あんたのかみさんは注文がうるさいからな。そりゃ、何です」
第九がテーブルの上に投げ出した無料雑誌をみてJSが言った。
「地下鉄の駅の無料スタンドにあった雑誌でね。新築マンションの情報誌らしい」
JHは物珍しそうに手にとると「へえ、隔週発行って書いてあるな。いいのがありそうですか」
「どうですか、電車の中でパラパラめくってみましたがね。新宿からタクシーで千三百円なんてのは無いようです」
「そうでしょうな」
入口のあたりが騒々しくなったと思ったら卵型頭の老人と診療所から検査サンプルを集めて回っているCCさんが一緒に入ってきた。
「どうです。繁盛していますか。コロナ騒ぎだから検体が沢山あつまるでしょう」
「コロナウイールスの検査は特殊だからね、普通の診療所じゃ扱えませんよ。もっとも医院はどこも満員でね。ゴホンゴホン、ズルズルですよ」
「風邪の患者が多いんだろうね」
「風邪とインフルエンザね、もっともインフルエンザはその場で調べられるからこっちの商売とは関係がないけどね」
「そんなところを回っていると風邪がうつりそうじゃないか」
「ほんとですよ、風邪くらいならいいが、中にはコロナの患者もいるかもしれないからいやだな」
「コロナと言えばあの暴れ方は異常だね」と卵型(エッグヘッド、以下EH)が口を挟んだ。
「あの振る舞いはこれまでのインフルエンザと全然違うでしょう。天然由来なのかな」と第九が言った。
「天然由来というと」
「例えば最初は蝙蝠のウイールスだとか報道されていたが、最近は言われなくなったでしょう」
「それで天然じゃないというわけ」
「もともとは蝙蝠かなんかにいた天然のウイールスかもしれないが、人間が遺伝子操作を加えたという可能性があるんじゃないのかな」
「ふーん、ありうるかもな、変異するなんていうけど、フェーズが飛躍しすぎているよね。チンパンジーからゴリラをつくるような飛躍だものな。遺伝子操作の可能性があるかもしれない」とEHはつぶやいた。
66:バカボン(ばか・Bomb)
「あれはスマート爆弾じゃないかね」とJSは顎の無精ひげをこすりあげた。
「なんですか、スマート爆弾って」としばらく間を置いてからEHが反問した。
ベトナム戦争で米軍が使った精密誘導爆弾のことかい、と思い出したように確認した。
「いやいや」
「時限爆弾のことですか」と第九が別解を試みた。
「フム」とJSが唸った。それぞれが年齢によって連想することが違うね、と付け加えた。
ママのお使いで買い物に行っていたらしい長南さんが戻ってきた。コンビニの紙袋をママに手渡すと、我々が来ていることに気が付いて寄ってきた。好奇心旺盛な彼女は年寄り連中の昔話がためになると思っているらしく暇があると我々の話に加わるのである。なにしろ彼女は若き哲学徒であるので。
空いている席にどっかりと腰を落とすと、老人のようにさも疲れたような様子を見せてふくらはぎを揉みしだきながら左足を右の膝の上によっこらしょと言う風に直角に乗せた。おいしそうな太ももと膝が露出した。レジからこれを見ていたママが眉をひそめた。
スマート爆弾というのは、時限爆弾のことだよ、とJSは講釈を始めた。
早速長南さんが反応した。「時限爆弾ってテロリストが使う?」
「ははは、もっとも若い世代の連想はまた違うんだね」とJSは黒く変色した乱杙場を剥きだして笑った。「もっともアタシもその当時時限爆弾と言っていたかどうかはもう記憶にないんだが」と老人は続けた。
「大東亜戦争の時なんだが」
若き女性哲学徒が早速質問した。「大東亜戦争って?」
老人は長南さんを見て苦笑した。太平洋戦争のことですよ、といってからまだ怪訝な顔をしている彼女を見て、これもダメかとつぶやいた。「第二次世界大戦アジア戦線のことだわね」
もっとも欧州戦線でもほぼ同じころに使われ出したらしいがね、とJSは言った。「砲弾という言葉はわかるよね」と彼女を確認するように見た。「大砲からドンと打ち出すやつさ、これは欧州戦線でナチス国防軍が使ったらしい。日本ではアメリカ軍が市街地に無差別爆撃を加えた時に落とした爆弾にこういう仕掛けを使ったんだ。地上に落下するだろう、しかし爆発しない。それ不発弾だと駆け寄って弄り回しているうちに時限装置でドカンといくわけだ。子供なんかは不発弾なんて言うと戦利品みたいに夢中になるからね。それで大分死んだよ。そうそう、思い出した、たしか馬鹿ボンとか言ったと思ったがな、違ったかな」
そういえば、と人並み以上に連想力の発達した長南女史が独り言のように発言した。「天才バカボンっていう漫画があったわね。あれもそこからきているの」と無邪気に質問した。
「わたしゃそんなことは知らんよ」とJSは邪険に応じた。
しばらく一座沈黙。
そういえば新型コロナも似ているな、と言ったのはCCだった。「しばらく無症状、陰性でいきなり強烈な感染力を持つようになるのはバカボンの二十一世紀版だ」
「だろう?」ようやく皆に分かってもらえてJSはほっとしたようであった。
「しかも無症状期間が人によってマチマチなところなんかは兵器としては非常に完成度が高い」と誰かが感嘆したように言った。
67:コロナ・スペシャル・セブン
「もうちょっと完成度を上げないとね」といきなり横から半畳が入った。びっくりしてみんながそのほうを見ると、彼らが話に夢中になって気が付かない間に新しい客が横のテーブルに来ていた。年のころなら五十前後か、禿げあがった前頭部からトウモロコシのように黄色く変色したのか染色したのか、ナノミクロン級に細い貧弱な髪の毛を後ろで簡易ちょんまげ風に束ねている。鼻の下には田吾作みたいな隙間だらけの口ひげを生やしている。
一見アーティスト風のフリーターというか、テーブルの上にはA5サイズのラップトップ・パソコンを広げている。勝手に話に割り込まれるのが嫌いな長南さんは振り向いてギロリとその男を睨みつけた。
一座は彼の発言が話題になっていたバカボンと関係があるのかどうか判断が出来ないので、その男の次の発言を待っていた。
一見アーティスト風(以下A)が続けたのである。「完成度というか操作性の向上と言いますかね。マイクロソフトがよくやるように未完成の欠陥だらけOSを大慌てで売り出すようにね」
云えてるね、とCCが応じた。「あとでアップデートとか取り繕って糊塗しているね」
長南さんはブラウスの胸ポケットから葉巻を一本とりだすと、どうしたものかというように困惑した様子であった。皆様ご案内のように葉巻には(正統派のというか伝統的な葉巻には)吸い口を切っていない。初めて葉巻をやるらしい彼女はしばらく躊躇していたが、意を決したように一方の端を口に突っ込むと馬のような前歯で噛み千切った。そして噛みカスをペっとAのほうへ吐き出した。噛み滓は男のパソコンのキーボードの上に舞い降りた。おことは命より大切なパソコンを守るように慌ててそのカスを手で振り払った。
「コロナ・スペシャル・セブンだな」とそれを見ていたJSが言った。「たしか市販されていなかいはずたが」
「親父の書斎からくすねてきたのさ」と彼女は答えた。「親父は葉巻なんて普段は吸わないからどこかの晩餐会でお土産にもらったものらしいわよ。そんなに貴重なものなの」
JSは若干細身の樺色に緑色の斑の混じった胴体を見ながら、「南米の某国が独占しているらしい。外国の賓客用と聞いたことがあるな」
彼女は戸惑ったように葉巻を見ていた。CCが気を利かせてライターをとりだしたので彼女は葉巻を咥えるとライターのほうへ先端を近づけた。彼女は一口吸い込むと二秒ほど煙を咽頭部と肺の上部で味わった後、太い鼠色の固い柱のような煙をAに吹きかけた。びっくりしてアーティスト風の男は口を開けてみていたが、彼女の発射した煙の柱は彼の口の中に入り喉チンコに命中した。男は絞殺された豚のように咳込んで悶絶した。
68:自称フリーのノンフィクションライター
騒ぎに気が付いてママが飛んできて男に取りすがらんばかりに「竜ケ崎さん、竜ケ崎さん」と絶叫した。「どうなさいました!」
男は答えるどころではない。その顔は腐ったブドウのような暗赤色に変わった。顔の体積は120パーセントぐらいに膨らんできた。
『ママの亭主かな、それなら竜ケ崎さんなんて言うはずがない。パトロンなのかな』と第九は腹の中で想像をめぐらせた。
ママはレジの女の子に向かって「救急車を呼んで」と絶叫した。ママはそれからハッとしたように気が付いて「上の先生も呼んできて」と命令した。別のウエイトレスが部屋を飛び出していった。
「どうしたんですか」と彼女は一座に詰問した。JHが「どうも葉巻の煙に噎せたみたいだ」
彼女はまだ葉巻を咥えたままの長南を見た。彼女はなじるようなママの凝視線を浴びると我に返ったようにビクッと体を固くしたが、やばいと思ったのだろう、いきなり店を飛び出した。固い皮底の中ヒールが廊下の床を遠慮会釈なく叩きつける音が響いたがだんだん音が遠くなった。彼女はビルを駆け下りて道路に飛び出したらしい。阿部定のように太い葉巻を咥えて道路を疾駆する若い女に通行人は驚いたにちがいない。
まず診療所の若い先生が道具箱を携えて店に入ってきた。35歳くらいの男性である。悶絶する男を見た。「どうしたんです」というとママが葉巻の煙に急に噎せたそうですと説明した。医師はすぐに注射器を取り出してまず注射をした。そこに救急隊員がどかどかと入ってきた。
男の咳の間隔はだんだんと間遠になってきた。
顔色は今度は蒼くなった。膨らんでいた顔はしぼんできて猿のような表情になった。
救急隊の隊長らしいのが、どうしますかと医師に聞いた。
「大丈夫でしょう。しばらく休ませれば落ち着くと思います」
「搬送しますか」
医師はしばらく思案していたが、「いや上の診療所にベッドがあるからそこでしばらく休ませましょう。ストレッチャーを貸してもらえますか。まだ一人では歩けそうもないから」
竜ケ崎さんと呼ばれた男は救急隊員が持ってきたストレッチャーに載せられて運ばれていった。ママが付き添って上に言った。
戻ってきた彼女に「お知り合いだったんですか」とEHが聞いた。
「ええ、最近同じマンションに引っ越してきたかたです」
「なにか芸能界の人のようですね」とCCがいうと「いえ、軍事評論家だそうです」
皆が意外そうな顔をしたので、彼女は続けた。「なんでもフリーのルポライターだそうですよ。軍事関係のほうの専門らしいです。大変なことになってしまって。たまたまこのお店のことを話して近くをご通行の時にはお立ち寄りくださいってこの間ご挨拶をしたんです。早速来ていただいたのにこんなことになってしまって」と彼女は困惑気味につぶやいた。
69:生物兵器を研究している国は多い
ところで、と第九が中途半端になった議論を再開した。「彼がいっていた完成度云々とはどういうことですかね。彼の議論は新コロナは生物兵器だという前提らしいけど」
「それはどうかな、生物兵器とすれば完成度が低いという意味ではないのかな」とJSが
云った。
「なるほど、だとすれば、という前提があるわけだ。だから可能性としては生物兵器とそうでない場合と二つあるわけだね。夏目さんは生物兵器だという意見ですか」
「いや、そんなにはっきりした意見ではないけど、あの暴れ方をみているとどうしても天然じゃないと思うんですよね」
「変異ではないというわけ。従来のウイールスの?」
「そんな感じがするんですね。あまりに激しすぎるし早すぎる、変異の起こるのが」
「そういう感じはたしかにするね」
「流出経緯というか、散布経緯というか、それにも色々考えられるな。たとえば、意図的にばらまいたか、事故で漏出したのかでだいぶ様相が違ってくるでしょう」
「流出はもともいろいろ考えられるね。ある説に曰く、カナダの研究所から中国が盗んできたものが誤って漏れ出したという説もあるようだぜ。アメリカ由来という説もあるらしい。勿論中国が独自に開発していたものだという説も有力だがね」
「事故が意図的流出(攻撃的意図をもって)とする考えもあるしね」
「そうだとすると、これは大変なことですよ。まあ、事故説が一番ありそうだ」
JSが締めくくるように言った。流出元は中国というのが一般的だが、生物細菌兵器(ウイールスを含めて)の開発をしている国は十指に余るんじゃないかな。ほとんどは攻撃的な意図はないだろう。どんな兵器を相手国が開発しそうだとか、それを使われた場合はどう対処するかを準備するために研究する必要はあるだろうからね」
「例えばどんな国ですか」
JSは指を一つ一つ折っていった。「中国は勿論のこと、アメリカ、ソ連、イスラエル、イラン、北朝鮮、欧州でもいくつかあるに違いない。」
「日本はどうです」
「まずないだろうね。今回の対応の生ぬるさからみて」
「そうですよね、初動の生ぬるさから見て日本政府の危機感は感じられなかったものな、それに比べるとアメリカなんかは直ちに中国全土からの入国を躊躇なく禁止したでしょう。あれは知識を持っているからですよ」
話は戻るけどさ、とEHが気が付いたように言った。「逆に完成度が高いと言えるんじゃないかな」
皆は彼を驚いたように見た。
「たとえばさ、要人暗殺だよ。007みたいなエイジェントに感染させる。症状はしばらくでないが、感染力は強い。彼が相手国に要人に直接でも、あるいは側近にでも会って感染させるわけだ。そして自国にもどり治療薬を飲むわけだ」
「そうするともう治療薬は出来ているわけだ」
「もしかしたらね」
「それが効かなかったら」
「その場合は自爆テロになるね。よく使われている手だ」
「そううまくいくもんですかね」
「科学の進歩は恐ろしいからな」
ママが気が付いたように発言した。「60代以上は重症化しやすいというのも有力なスペックね。大体各国の有力者というのは60代以上でしょう」
一座は感心したようにママを見た。
「安部さんもやたらと握手しないことだ」