穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

チャンドラー「カーテン」

2014-09-22 08:23:53 | 書評
気温も下がり晴れた日が続くようになったので蔵書の虫干しをしている。誤解の無い様にいうと量的には「蔵書」と言えるが膣的もとえ質的にはとても蔵書と言える者ではない。

機械的にやっているとおかしくなるので、時々中身をのぞいたりする。でチャンドラーの短編「カーテン」をパラパラとやった。前に読んだ時に分かりにくいな、と思った記憶があるので内容を確認しようとしたのだろう。

チャンドラーの短編には非常に意味(すじ)を取りづらいというか分かりにくいものがままあるがそのひとつである。作品としても大したことはない。当時書き込んだメモによると冒頭の俳優崩れの男は「長いお別れ」のテリーの原型だと書いてある。

前回書き込みをしなかったが、後半の相当部分は「大いなる眠り」の原型であることにも気が付いた。金持ちの死にかけた老将軍の娘婿の失踪を調べるのは同じパターンだし、娘婿の夫の愛人という「シルバーウィグ」を郊外の怪しげな自動車修理工場に訪ねて行き、車のタイヤがパンクするところなど、こちらは細部にわたるまで、【大いなる眠り】にそのままコピペされている。

彼の処女長編で、ある意味では彼の作品でもっとも艶とインパクトのある代表作とも言える「大いなる眠り」と文句なしの代表作「長いお別れ」の二つに共通する人物、情景、すじが含まれているということは、チャンドラーが書きやすいキャラクターや情景が凝縮されている(まだ発酵していない子宮内の胎児)のような作品と言える。

かれがそれらのキャラをどう発展させ、変化させていったかを観るという意味では一読の価値が有る。

もっとも、原型テリーはあっさりと数ページしか書かれていない。一方老将軍の娘の方も、彼女の夫を殺したのが「大いなる眠り」の場合、妹だったのに対して、「カーテン」では彼女の息子になっている。これは妹にしたほうがいいみたいだ。

さて、書きたかったことが一番最後に来てしまった。題名の「カーテン」だが、どうしてこのタイトルにしたか理解出来なかった。カーテンという語は作中一回しかでてこない。第七章の終わりで、
“The curtained roadster stood just where …”

創元文庫の稲葉明雄訳では「カーテンをおろしたロード・スター」になっている。
これまでにマーロウが乗ってきた車がなんであったかの記述は無い。「カーテンをおろした」ってどういうことだろう。「幌をおろしたロード・スター」ならわかるんだけどね、馬車時代の人間である私にはね。

一応辞書を調べたがcurtainにはいわゆるカーテンしか意味は無いんだな。幌を比喩的に表現したのか。当時のスラングだったのか。自動車関係者なら知っているかな。あるいは幌なんかと全然関係がないのかも知れない。

それにこの言葉をタイトルにする理由がわからないんだね。

虫干しというのは大変な仕事だよ。本につもったほこりや塵が飛び散るし、部屋は脚の踏み場も無くなるし、再度整理して書棚にしまうのも大変だ。



壁にかけられる絵「老人と海」再読

2014-09-06 03:24:57 | 書評
いろいろとヘミングウェイの作品を読んだついでに、ずいぶん昔に読んだ「老人と海」を読み返した。なぜこれがノーベル文学賞を受賞したのだろうか。

あやふやな記憶だが、ノーベル賞の受賞理由に純文学(ポライト・ノベル? シリアス・ノベル?)が対象だと何処かで読んだことが有る。たしかに「老人と海」では通俗小説のように、あるいはヘミングウェイの他の作品でのように、セックスによる精力の濫費、不自然な大量飲酒、無意味な暴力場面などはない。

そういう意味では受賞理由を満たしている。必要条件としては。もちろん十分条件ではない。どうも冗談めかした記述で申し訳ない。

そうそう、もう一つ思い出した、誰かの受賞理由として、小説作成上のテクニックが革新的であるとか、技術的な新基軸があるかどうか、とかが重視されると言っていなかったか。

「老人と海」の登場人物は年老いた漁師と彼を慕う少年のふたりだけである。しかもその八割がたは一人で漁にでた老人のモノローグである。小説の始めと終わり2、30ページのみに少年との簡潔な会話がある。およそ、ヘミングウェイらしくない構成である。

もっとも小説は150ページほどの(日本語訳で)中編である。彼の会話部分が下手というか興趣がないというか、問題があるということは何回か述べたが、芝居でいえば独白とト書きでぐいぐい押し切っていくテクニックはすごい。

小説のトーンは彼の他のキューバ時代の作品とおなじく「くらい」と言えよう。明るいキューバの自然とは対照的である。これは自然環境の影響と言うよりも、中年から老年にかけてのヘミングウェイの鬱的精神状況の反映ではないか。

推敲を重ねるという彼の作品らしく、文章は読みやすく分かりやすい。

冒頭の設問に戻るが、ようするに若い時パリで彼の女師匠であったスタイン女史に言われた様に、「客間の壁にかけられる」絵になったのがノーベル賞を受賞した理由かも知れない。



ヘミングウェイがパリで交遊した人たち

2014-09-05 02:41:33 | 書評
「移動祝祭祭」には当時ヘミングウェイが交わった作家、編集者、評論家のことが出てくる。空間作家ヘミングウェイらしく画家との交遊もある。この本は全部で20章あるが、単発で出てくる人物あり、何回かにわたって出てくる人物がいる。

そんな一人が彼の最初のスポンサーと言うか師匠というかガートルード・スタインという年上の女性である。最後にはヘミングウェイ夫妻と交際が絶えるのだが、その理由がぼかして書いてあってよく分からない。彼女がくだらない男(
レスビアンの彼女だから女?)との交際でごたごたしたので嫌気がさしたようなことらしい。

出てくる人物はほとんどが奇人、変人として描写されている。年長の作家もあり、また彼と同様に出世前の作家などである。好き嫌いのはっきりしたバイアスのかかった記述が多い。

異例の詳細な扱いを受けているのが三章にわたって、いくつかのエピソードが描かれている年長の流行作家スコット・フィッツジェラルドである。夫人のゼルダとともに完全な変人として扱われている。

また、パリにあったシェイクスピア書店というアメリカ人だがイギリス人の女性の経営する店のことも複数の章で描かれている。修行中のあまり懐に余裕のないヘミングウェイに店の本を無制限に貸している。新刊本の書店らしいから、お客さんに売る本を貸本の様に、しかもただで貸すというのは感心しないが、金のないヘミングウェイは多いに助かったと書いている。

大体彼は女性のスポンサーに恵まれていたらしい。スタインにしろシェイクスピア書店の店主にせよ。また二番目の妻の実家は大変な金持ちで相当な援助も受けていたというし。シェイクスピア書店で借りた本にロシアの作家の翻訳本が出ている。ヘミングウェイは意外にもロシアの作家が好きであったようである。

文体のまったく違うドストエフスキーに感心しているのは意外だった。もっとも読むのに大分苦労しているようだ。「難解だがまた挑戦してみる」と友人に語っている。

トルストイの「戦争と平和」の戦闘描写に最高の賛辞を送っている。また、ツルゲーネフのことや、チェーホフの短編小説を絶賛しているのもちょっと意外だった。ま、若い彼は大変な読書家でもあったらしい。

書かれている交際していた作家には現在でも著名な大作家が多く、彼らの裏話として読んでも面白い。とにかく、バイアスのかかった書きかたをしているしね。



ヘミングウェイ「移動祝祭日」

2014-09-04 08:59:35 | 書評
けなした後に褒める、書評の定石である。前回書いた様に「誰がために鐘が鳴る」の冒険小説ぶりに嫌気がさして投げ出してしまったが、表題の本をそのかわりに読んだ。これがなかなかよろしい。

執筆に二、三年かけて死の前年に完成した、ヘイングウェイが25、6歳のころのメモワールである。「はじめに」で書いているように、フィクションのようなノンフィクションのような回想録である。

晩年のこの頃にはヘミングウェイは肉体的衰えのみならず精神的にもかなり酷い状態にあり、原稿をまとめるのにも若い助手に頼らなければならない状態であったらしい。

それにしては大変よい出来映えである。本は死後出版されたもので、夫人等が整理し削除した部分もあったという。それを割り引いてもかなりな水準である。彼の処女作「我らの時代」と対をなすといえる。もっとも内容的にというのではなくて、出来映えとしてはということだが。

パリでの彼の修業時代の回想で、まだ作家としての地位を確立する直前である。1925年頃のパリの様子も興味が深い。パリには何回か行ったが、いつも短期の滞在か通過のためのショートステイだったので、パリがこんなに坂の多い町だとは気が付かなかった。

90年くらい前の時代だから、まだ19世紀の面影があったのだろうが、早朝羊飼いが犬と羊達をつれてパリの場末か下町にミルクを売りにくる。ミルク売りの振る鐘の音を聞いてアパートの主婦がバケツだか容器をもってミルクを買いに降りてくる。羊飼いは直接連れてきた羊の乳房から客の持ってきた容器に乳を絞る。他の羊達がバラバラにならないように犬が羊達を見張っているなんて情景の描写も印象が深い。

彼が執筆をするのは早朝から昼までで仕事場の部屋かカフェである。この辺の描写もうまい。そこへ行く道筋の描写も、前に書いた様に、彼の得意である。散歩の様子、古本屋の店先等の描写はうまいと思うだけでなくて、事情を知るだけでも興味深い。

また、彼のアパートにはトイレがないということも印象的なエピソードとともに書いている。勿論風呂も無い。

競馬場に通い詰めた話も面白い。事前のデータの分析、いわゆる「情報」集め、パドックでの下見、レースの観察など今の日本の競馬狂の生態と変わらないが、これをやっていると小説を書く時間がなくなる。そうだろう。

当時はドーピング検査等なかったそうで、いわゆる噛まされた馬のみわけかたなんていうのも書いてある。それにしても、儲かってしょうがなかったそうだ。ほんとかな、と思う。そんなに時間を費やして狂った様に競馬にのめり込んでも勝てないのが競馬であるのだが。

欧米の、その頃の競馬は日本より単純だったのだろうか。それとも、ヘミングウェイの負けず嫌いの虚言癖なのだろうか。 つづく



冒険小説ヘミングウェイの「誰がために鐘は鳴る」

2014-09-04 08:11:50 | 書評
まだ最後まで読まずにほっぽり出してあるが、これは通俗冒険小説だろうな。冒険恋愛小説だ。

だいたい、冒険小説というのは好まない。山でもない小山の連続で読者をひっぱっていくのが冒険小説だが、少年時代ならいざ知らず、こういうギミックには子供でなければワクワクしながら付いていけないものである。