穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

11-3:ギリシャ悲劇を幼児ポルノ風に解釈したフロイト

2018-10-29 13:00:14 | 妊娠五か月

 フロイトは二十世紀を風靡した天一坊のような男、精神分析学の太祖であります。彼の学説で一番有名なのはエディプス・コンプレックス学説でしょう。これはギリシャ悲劇を無学の悲しさから幼児ポルノ風に解釈したものでした。

古代ギリシャ、テーベの王子オイデプス(エディプス)は生まれた時の予言で父を殺すと言われて山の中に捨てられました。しかし、親切な羊飼いに助けられ隣国の王の養子として育てられました。

成長したオイデプスは旅の途中で通行を巡っていさかいに巻き込まれて相手を殺してしまった。これが自分の実父だったというわけです(これは劇の最後で明らかになります)。当時テーベは困難な時代でしかもスフィンクスに謎をかけられて、それが解けないために亡国の危機にあった。オイデプスは立ち寄ったテーベでスフィンクスの謎を解いて人民を救った。そこで国民に推戴されて王となり、前の王の妃(つまり実母)と結婚するという悲劇ですが、フロイトはこの悲劇を読んだことがあるのかどうか、母親を性愛の対象とする性癖が人間に本来的にあるとこじつけてエディプス・コンプレックスとなずけました。これが無学な、とくに前世紀のフランスの哲学者たちに大うけとなりましたとさ(現代でもそうかもしれません)。

つまり実母に性欲を感じたのではなく知らずに結婚させられたのです。また父とは知らずに相手を殺してしまった。だからこそ悲劇のテーマになるわけですが、これをフロイト先生は自分の無意識の欲動からか幼児ポルノに貶めてしまった。

 


11-2:アンチ・オイデプスはパロディかと思った

2018-10-28 08:52:26 | 妊娠五か月

最初はフロイトのパロディかと思ったが、DGは大真面目らしい。

特にフランス人の(哲学者)にはフロイトというのは食いつきやすいらしい。

それにしても、奇矯な用語を量産するご両人である。定義の理解が難しければ、たとえや例示で

提示するのがマナーだろう。だれかが(そして多くの人が)言っているようにジャルゴン

(ジャーゴン)の堆積にすぎない。

少なくとも奇矯な用語をひねり出す必然性を納得させてほしい。

それとも奇矯な用語のほうがありがたみが増すのかな。特に日本のフランス哲学愛好者には。

原語も奇矯だが日本語に訳されると奇矯さがいや増すようである。


11-1:ジル・ドルーズ+ガダリはパラノイア類ヒステリー種

2018-10-27 08:10:43 | 妊娠五か月

ジル・ドルーズとガダリ(以下JD)の共著にアンチ・オイデプスというのがある。これを見るに彼らはパラノイア類ヒステリー種である。彼らの焚き付けの最大のものはフロイトのエディプス・コンプレックスである。そのほか、おびただしく引用されている小説家、著述家(ほとんど無学の私の知らない人物)の言説にまつわりついてめらめらと炎を這いあがらせる。

これらの引用援用をのぞいたら何が残るのだろうか。自分の考えを述べるなら引用は最小限にすべきである。膨大な引用は習慣になっているようだが学生の論文ではあるまいし、知性やセンスを感じさせない。特に哲学では。田舎っぽさを感じさせるだけである。ヘーゲルではないが哲学はその人がその人なりに吸収した過去の哲学や思想がすべてが含まれているのは事実だが、学生の論文のように全著が直接的引用で埋まっているのはいただけない。先行者の思想を批判的かつ完全に咀嚼していないと言っているようなものではないか。

高梁第七読書日記より

 

 

 

 

 

 


10-2:老人の示唆に驚く(第一部終わり)

2018-10-15 11:33:47 | 妊娠五か月

 囲碁大会の参加者の方角からは頻繁にチンチンという音がする。

「あれは制限時間の記録をしているんですか」

「自分の消費時間を記録しているんですよ。持ち時間は1時間でそれを過ぎると30秒以内に打たないと負けになる」

「NHKの囲碁対局みたいですね。どこでもそんなものなんでしょうね。それで持ち時間を過ぎると何回使えるんですか、その30秒を」

「五回らしいですよ」

見ると各テーブルにはちゃんと時計係がついている。新入社員かアルバイトらしい。あるいは碁会所がサービスで同業者の従業員から掻き集めてきたのかもしれない。壁に貼ってあるマトリックスを見ると六人の競技者で争うリーグ戦らしい。

「総当たりトーナメントらしいけど、一日で終わるんですかね」

「朝の十時からやっていますよ」と言って老人は顔をあげた。壁の時計を見上げると「もうじき終わるんじゃないですか。中には時間前に投了する人もいるし、早打ちの人もいますからね」

「もう二子で打てますね」と目を数えながら老人がいった。白の七目勝ちだった。

「もう一局出来そうですね」と老人が横を見ながら言った。「彼らの試合が終わると場所を変えないでここで表彰式とか納会みたいなことをするからそうなってはうるさくて碁も打てなくなるから」

  布石が無事に終わると老人が「さっきの話ですけどね」と言った。「死という集合で括れますね。自分の死と無関係な人間の死がね。そこから何とかなるかもしれませんね」

高梁は老人の意見に意表を突かれたが、『集合とはな、クラスといってもいいし、上位概念といってもいい。大げさにいえばイデアと言ってもいい。フム、スコラ哲学流に言えば≪事物の後に来る普遍≫かな。それとも≪事物の中にある普遍≫かな、≪事物に先立つ普遍≫ということはあるまい。おれは経験論者だからな≫と肚の中でつぶやいた。

  どうしました、と老人がじっと彼を見ている。つい考え事をしていて打つのを忘れていた。

「あ!どうも済みせません」と彼は盤面に視線を集中した。うわの空で石を置くと≪しかし、宅間も土浦事件の犯人も秋葉原事件の犯人も大して知性的な人間とは言えない。しかし、精神鑑定で精神は壊れていないと判定されている。とすればおれのモデルで言う基板は無事なわけだ。普遍とか概念とかいうのは基板レベルかな、基板と言うのはカント流にいえばアプリオリの機能に属するわけだ。じゃあどうして彼らだけがそういう概念というか集合のメンバーというかトークンを直結したのだろう。普通の人間はOSとかアプリケイション(文化)でマスクしている機能がOSかアプリケイションが壊れていて、もろに表面に出てきたということか≫と彼は思案した。

 「何だか変ですね、急に手がくずれてきた」という老人の声に驚いて盤面を見ると二、三手のあいだに局面の退勢が決定的になっている。かれは投了した。隣では試合が全部終わったらしく表彰式がにぎやかに始まっていた。

##  第一部 終わり  ##




 

 

 

 

 

 

 


10-1:囲碁大会

2018-10-14 08:58:57 | 妊娠五か月

 冷蔵庫を開けた。なにもない。ミルクもなければヨーグルトもない。卵もない。もちろんパンも切れている。土曜日である。明日は外出する時間がない。朝からG1レースの馬券検討で買い物に行く暇がない。二日間湿気たジャンクフードの残りと水道水で凌ぐ手もあるがぞっとしない。それで原則として家族連れで盛り場が雑踏する週末は外出しないのだが、買い出しに行くことにした。

  相変わらず盛り場は政府の子育て優遇政策のせいで乳母車(しつれい、ベビーカーでしたね)を押す二人連れが群れている。買い出しは帰りにすることにして碁会所によった。土曜日の午後と言うことだろう。どこかの会社の社内囲碁大会が開かれていた。トーナメント方式らしく壁に対戦表が張り出してある。若い社員から初老のサラリーマンまでが盤を囲んでいる。若い女性もいる。綾小路老人はいたが社内囲碁大会で相手がいない。高梁が部屋に入ると早速そばに来てやりましょうという。会場は貸し切りでもないらしい。

 「週末にお会いするのは珍しいですね」と老人が口元をゆがめて笑いながら話しかけた。

「週末には市中逍遥はしないことにしているんですがね、週末の餌がなくなってしまって買い出しに出てきたんですよ」

「なるほど、一人暮らしでは買い物は厄介ですね」と言うと無精ひげの生えた顎の下を撫ぜた。「だいぶ腕を上げられたから今日から二子で打ちましょう」

「大丈夫かな」と言いながら高梁は石を対角線上に置いた。

「ところでお友達のお仕事のほうは進んでいるんですか」

「いやどうもはかどらないようです。そうそう先日は津山三十人殺しのことでご教示を有難うございました。早速彼に伝えておきました」

「ははあ」と彼は手を止めた。相手が定石外れのところに間違って石を置いたのをみて考えていた。

「問題はなんですか。難問と言うのは」

「犯人の自殺願望がなにも関係のない人を道連れにして大量殺人に発展する過程が説明できないようです」

「ふーん」と再び老人は手を止めた。打つ手を考慮しているのか、彼の言ったことを考えているのか分からない。

 

 


9-6:ネーミング

2018-10-13 08:19:32 | 妊娠五か月

 平敷は作業机からハイライトのパッケージを持ってきて一本振り出した。

「禁煙したんじゃないのか、ここに入った時に煙草のにおいがしたが、てっきり麻耶さんのせいだと思っていたが君も始めたのか、つられて」

卓上ライターで煙草に火をつけると肺が一杯になるまで吸い込んで大量の煙を吐き出して彼は弁解した。

「それもあるけど、仕事がうまくいかなくてイライラすることが多くて、ついまた始めたんだろうな。君は相変わらず止めているのか。プロクシー・スモーキングも迷惑かい」

 「プロクシー」って。

「代理喫煙と言うか受動喫煙さ」

「相手によるな。君や麻耶さんならそんなに気にならないな」と苦笑した。

「本当かい。それならいいけど」

「さっきの君の話だけどいまいち理解できないな。どうも腑に落ちない」

「そうだろうな、僕も自信がないんだから」

「それでね、この間それぞれの事件にネーミングして見たんだ。どうも通底する理屈を思いつかないんでね。そんなことで暇をつぶしている」

「どんな風に」

「大阪の小学校襲撃事件は、やりつくし、もういいや犯行とかね」

あっけにとられて平敷を説明を求めるように見つめた。

「犯人の宅間守の経歴は驚くほど多彩だ。婦女暴行無数、転職無数、自衛隊にも入った。警察やヤクザから逃れるために何回も精神病院に隠れた。結婚は四回もした。もっとも彼なりのケチなスケールではあるがね。それで38歳になって先が見えたんだろうな。そこで派手にビッグ・キルを演出して幕を引いたのさ」

「いささか無理があるが面白い。で土浦の事件はどうした」

「ゲーム食傷による犯行だ。ゲームに飽きたという理由だな。犯人が生きている理由はただ一つだ。新しいゲームが発売されるのを期待するということだった。いくら若くても数年もゲームに浸かっている生活をしていれば、もう新しいわくわくするゲームなど期待できないということは分かる。それで最後に彼がゲームの主人公になったわけだ。生きがい喪失による犯行だな」

「面白い、前のよりは使えるぜ。秋葉原事件はどう始末をつけるんだ」

平敷は煙草の煙を吐き出すと唾液で唇にこびりついているハイライトを乱暴に引きはがすと灰皿に押し付けた。唇にハイライトの巻紙のカスが残っている。

「あれはだね、自己肥大化計画失敗による失望自殺だな」

「それだけじゃ分からないな」

「かれも年のわりには多彩な経歴でね。派遣社員だが多くの職場を渡り歩いている。最後にはインターネットの掲示板にのめり込んで自己の生きがいを確認というか確立したかったが、掲示板が炎上したり、無視されて頭にきた。それが即犯行につながるところが今一つ説得力がないがね」

「面白い。君の話を聞いてなんだか僕のアイデアと結びつきそうな気がしてきたぜ」

 


9-5:精神の三層構造

2018-10-12 13:41:28 | 妊娠五か月

 摩耶はあくびをかみ殺すと腕時計を見た。「コーヒーのお代わりをつくりましょうか」とT(高梁第七)に聞いた。

「いえ結構です。どうもありがとう」

「おじさんは」

「ぼくももういい」と平敷が断ると彼女は「どっこらしょ」と掛け声をかけると立ち上がり三人のカップを流しに運んだ。

「前にも話した記憶があるが、意識の三層構造と言うのがあってさ、パソコンに例えると分かりやすいが、基板、OS,アプリケイションとあるわけだ」

「そういう風に分けるのはあまり聞いたことがないな」

「そうだろうな、俺の独創だからな。だけど意識の下に(なんとか)意識があるというのは諸説があってね。無意識とか下意識とかエスだとか超自我なんてのもある」

「なんだかフロイトが言いそうなことだね」

「フロイト先生が言っているのさ、今の分類はね。仏教なんかじゃもっとすごいぜ。阿頼耶識(アラヤシキ)とか言ってさ、意識下の階層が何百とある」

「本当か」と平敷は疑わしそうな視線を向けた。

「ハハハ、それは大げさだが、とにかく沢山あるというのだ。無意識なんてフロイトみたいに簡単に片づけないところ仏教の貫禄だな。たしか七つくらい階層があったと思うな。それに特化した学問が仏教にはあってさ、唯識とかいうんだ」

 「それじゃお先に失礼します」と摩耶が挨拶をした。平敷が「ああご苦労さん」と答えると彼女はドアを開けて外へ出た。

 「君がいま調べている理由なき大量殺人だけどね」と高梁は続けた。「精神鑑定で壊れていれば現代の社会では責任能力がないとして訴追されない。そうだろう。だけど例の三つの件はいずれも犯人には責任能力があると精神鑑定の結果が出ている。これはもっとも政治的な判断だという説もある。責任能力なしとして精神病院に収容されてしまえば被害者の遺族は納得しない。責任能力ありとして断罪しないとおさまりがつかなかったという意見もある」

「なるほどね」

 「責任能力があるということは機械としては壊れていないということだ。そこでどのレベルでそう言えるのかということだ。少なくとも最下限の基板レベルでは壊れていないということになる。とすると壊れているのはOSかアプリケイションかということになる」

「それで君はどう思うんだ」

「特殊なアプリケイションの可能性がある。あるいはOSでプラグインのような付加的な部分だな」

「なんだか神秘理論みたいになってきたな」

「モーゼの十戒というのがあるだろう。そのなかに殺すなかれというのがあるのは知っているよね。ということはだよ、モーゼ以前には、殺すなかれ、なんていう戒律がなかったことだ。つまり家族部族を含めて人間を殺してはいけないということは原始的な基板にはなかったということだろう。仏教ではお釈迦様が殺生してはいけないと諭された。つまり原初の基板にはそういうことはプログラムされていなかったということじゃないか。つまりOSかアプリケイションでそう書き込まれたということだよ」 

 

 


9-4:ミスター・メルセデスは秋葉原事件のコピー

2018-10-11 08:01:38 | 妊娠五か月

「それで犯人の動機みたいなことはどう書いてあったんだい」と平敷は姪に聞いた。

 麻耶は思い出そうと努力しているように視線を天井に向けて泳がせていたが「さあよく覚えていないな。あまり印象が残っていないわね。そもそもストーリーそのものの印象も鮮明じゃないんだ。犯人はたしか母子家庭で母親とトラブルが絶えなくて、本人はゲーム・マニアというかインターネットばかりしているというようなことだったかな。あまり記憶に自信がないけど」

 彼女は二本目の煙草を口にするとにがそうに唇をゆがめたが、「たしかねえ、宣伝文句がキング初めてのミステリーとかいうのよ。覚えているのは犯人のことより、それを追い詰めていくというか特定していく退職刑事の描写のほうね」

「つまり二本立てで行くわけですか」とTは麻耶の顔をみた。「おたくのような犯人のストーリーと退職刑事の捜査とか二本立てで進行していくのかな」

「そうそう、そのとおりよ。あなたも読んだんですか」

「いやお話を聞くと大体そういう段取りで書いていると見当がつく」

 「だんだん思い出してきたわ。もっとも思い出したのが他の小説だったりして。ごっちゃになっているか自信がないけど。犯人は確か二回犯行を行っているのよね」と言うとなんとか思い出そうとするように煙草を挟んだ指で額をこすった。「最初にやはりどこかの会場で行列している人たちのなかにメルセデスで突っ込んで逃げおおせたのね。そうだわ、何かの就職説明会場だったかな。不況で失業者がどこかの就職説明会に殺到したとかいう話だったかな」と彼女は自分の記憶にまだ自信がなさそうにいった。「そして犯人はインターネットで挑戦状を出すのよね。またやるとか。犯人の挑戦的な予告が退職してヤキのまわりかけていた老刑事の使命感を燃え立たせるとか、そこをキングは決めようとしたのかな、と思ったわ」

 「じゃあ、犯人側の動機はくわしく書いていないんだな」

「さあ、記憶が薄いところをみるとたとえ書いてあっても印象的ではなかったということでしょう」

それを聞いて平敷はあまり参考にはならないようだな、とTを見た。

「そうだな。犯人の行動そのものは日本の秋原事件をコピーしたのだろう。群衆に大型車で突っ込むとか、インターネットで犯行を予告するというのは秋葉原事件の犯人とそっくり同じだ」

  平敷が思い出したという風でTに聞いた。「前に死は概念だとか言ったね。フィクションだとか。あれはどういう意味だい」

 Tは机の上にまだ放り出してある「大量殺人のダークヒーロー」を指さしながら「その著者が学恩をかたじけなくしたというガダリ先生によるとだね、そのドゥルーズとガダリの共著のアンチ・オイデプスによるとだが、人間も機械なわけだ。どういう機械かというのは彼らと僕とでは考え方は違うが、いつか君に話したかもしれないが、機械は壊れるものだろう。どのレベルで壊れているかが問題なんだな」

 


9-3:メルセデス

2018-10-10 07:19:08 | 妊娠五か月

 あちこちに散らばっていた書類を整理していた彼の姪が片付けが終わったらしく二人の傍にきて「コーヒーを飲む」と平敷に言った。「そうだな、頼む」と答えた。

「あなたは」とTに向かって問いかけた。言った。「は?」と言うと

「姪の摩耶がね、インスタント・コーヒーを買ってきたんだよ。向かいの喫茶店のコーヒーが口に合わないというのでね。濃すぎるというのだ。それで薄めに自分で調整できるからというので、インスタントを持ち込んだのさ。俺はいつもインスタントをスプーン一杯半にシュガースティック一本で作ってもらっているのさ。君はもっと濃いのがいいんだろう」と説明した。

「それではコーヒーはスプーン山盛り三倍に砂糖10グラムでお願いします」と頼んだ。

それを聞いて摩耶は目をむいた。やがてポツンと「砂糖10グラムというのは分からない。計量器もないし」

平敷が助け舟を出した。「そのスティックは細いからたしか3グラムだよ。見れば書いてあるだろう。3,4本をそのまま一緒に持ってきて」

  彼女は薬缶をガスレンジにかけた。食器棚を調べていたが三種類の違うコップを取り出して、それぞれに指定の量のコーヒーの粉を入れた。彼女は頭がいい。これなら各人の注文を間違えない。やがて薬缶がちんちんと鳴り出すと火を止めて熱湯を三つのコップに注意深く注ぎわけた。三人の前までトレイに乗せて運んできた。そして間違えないように注意しながらそれぞれのコップを各人の前においた。

大丈夫ですか、と彼女は心配そうにTを見た。Tと平敷は一口ずつ飲んで摩耶にうなずて見せた。Tのコーヒーは濃くいれてあった。

コーヒーも適当に冷めて二口三口飲んだところで摩耶が言った。

「この間買ってきた本は役にたたなかったの」とさっき脇で二人の会話を聞いていたらしくたずねた。

「そうだね、ややこしいことが書いてある割にはあまり役には立たないようだ」

「ごめんなさいね。よく分からなくて」

「いや、いいんだよ。おれにも分からなかったんだから。いまTに教えてもらって分かったくらいだから」

「そういえば、ねえ」と摩耶は埋め合わせをしなければいけないと思ったように話した。

「スティーヴン・キングのメルセデスっていう小説があるでしょう。読んだ?」

「いや読んでいないな。君はどうだ」とTに確認した。

「僕も知らないな」

「あたしが読んだ時にはこれは秋葉原事件を種にしているなと思ったのよ」

「ふーん、どうして」

彼女はバッグから煙草のパックを出すと一本振り出して火をつけた。うすい煙を口を窄めて細く上品に噴き出すと彼女は説明した。

「メルセデスってとても重い車らしいわね。二トンぐらいあるんですって。それを運転してアイドル歌手の講演会に入場しようと行列しているファンの列に突っ込んで大勢の人間をひき殺そうと計画して実行した青年のはなしなの」

 


9-2フロイト・フリーク

2018-10-09 07:41:56 | 妊娠五か月

 Tは綾小路老人と別れて喫茶店を出た後で思い出したように携帯を取り出すと平敷に電話した。老人と話しているうちに友人が先日来取り組んでいるテーマについて思いついたことがあるので彼の仕事がどうなっているのか尋ねようと思った。

 例の仕事は進んでいるかと言う問いに彼は「どうもうまくいかない。最近はほったらかして別の仕事をしている」と言う。Tは津山三十人殺しのことはもう調べたのかと聞くと、まだだというのでいま老人から聞いたことを伝えた。それからね、と付け加えた。動機不明という事件では人違いというケースがあるんじゃないかと思うんだ。動機不明と言うのは犯人と被害者が面識がないとか結びつかないということだろう。犯人が人違いをしていれば絶対につながりは出てこないわけだ。

 「そうか、一度相談したいな。会おうか。今度は君のところを訪ねるよ」と平敷は言った。

「うちは来客仕様にはなっていないんだ。椅子も一つしかないしさ。床はいろいろなものが散らかっていて座る場所も無いんだ」

「なんだ、学生の下宿みたいだな」

「もっとひどいね。来客は想定していない仕様だからな」

「そうすると、どこかで飯でも食いながら会おうか」

「そうだね」

「しかし、資料なんかもあるからな。君の意見を聞きたいものもある。よければ場末の俺の仕事場まで来てもらうのがいいかもしれない。君さえよければ」

 

 平敷は机の上から一冊の単行本を持ってきてTの前においた。

「Big Killの外国の例を調べようと思ってね。探したんだが、ほとんど見つからないね。この本はさっきの姪が見つけてくれたんだが、どうもピントが外れているんだ。訳の分からない屁理屈としか思えないようなことが書いてある」

タイトルを見ると「大量殺人のダークヒーロー」という書名である。

「なかにはね、やたらとフランスの哲学者の名前が出てくるんだ。そこで君に解説をしてもらいたいと思ってね。著者はフランコ・ベラルディというんだ」

「聞いたことのない名前だな」

「評論家なのかな。左がかった社会活動家でもあるらしい。イタリア人なんだがガダリとかいうフランスの哲学者の書生をしていたらしいんだ。ガダリというのは有名なひとなのか」

「まあね、有名だな。たしか精神分析の専門家で哲学者だったと思う」と言いながらTは巻末の参考文献リストを眺めた。やたらと小さい字で多数の文献が並んでいる。だいたいこういう本は内容がないことが多い。「おや、ウィトゲンシュタインの論理哲学論考がある。本の内容と関係があるのかな。およそ荒唐無稽でどんな関係が書いてあるんだい」

「さあ、読んだ範囲ではなかったな。パラパラと部分的に眺めただけだけどね」

「フムフム、なるほどありましたよ」

「なにが」

 「ドルーズ、ガダリ(アンチ・オイデオプス)だとさ」

「有名な本なのか。君の口吻からするとそうらしいな」

「有名だね。この二人は有名なフロイト・フリークなんだよ。フランスの現代の哲学者にはどういうわけかフロイト・フリークが多い。ラカンとかたしかフーコーもそうじゃなかったかな。おれもその辺は詳しくないが」

 「フロイト・フリークというのは何のことだ。フロイトというのは精神分析の創始者だろう」

「そう、フロイトの用語を使えば、フロイトの理論が固定観念として彼らに取り付いている人間だ。寝ても覚めてもフロイト大明神様さまというわけだよ。もっともこの書名アンチ・オイデプスは反オイデプスということだ。オイデプスでフロイトのオイデプス・コンプレックスにひっかけているわけだ。一見フロイトに反対のようだが、使っている思考の枠組みはフロイト理論だ。フロイト理論に絡みついている」

「フロイトは心理学者だろう。それがどうして哲学者に影響を与えるのかな」

「そこが現代の七不思議さ。フロイトは哲学者でもなければ科学的な心理学者でもない。ポッパーが指摘したようにね。せいぜい思弁的心理学者にすぎない。ところが不思議な妖気が彼の周りには漂っているらしい。好きになると四六時中固定観念として頭にこびりつく。天一坊のような男だ」

 

 


9-1:おさらい

2018-10-08 07:12:43 | 妊娠五か月

 平敷の仕事場のドアを開けたのは若いアイドル風の女性だったので部屋を間違えたのかと慌てたが、Tが名乗る前に女性は心得顔で「お待ちしていました」と彼を迎え入れた。中に入ると応接セットに座っていた平敷が二人の来客と応対していた。彼は振り向くと「すぐ終わるから座って待っていてくれ」と彼の作業デスクの前の回転椅子を指さした。

  応接テーブルの上にはなにやら書類が広げられていた。平敷は目を細めて仔細らしく書類を点検していたが「いいでしょう、ここにハンコを押せばいいんですか」とサラリーマン風のおとなしそうな男に聞いた。客は二人いてもう一人のほうは異相の女性であった。どこかで見たことのある顔だとTは思ったが、どこでだったかは思い出せなかった。

  書名捺印された書類を平敷が返すと男性は朱肉が乾いたのを確認して折り畳み大事そうに封筒に入れるとカバンにしまった。なにか平敷は不動産でも買ったらしい。二人は立ち上がるとドアに向かった。男のほうは前を通るときに軽く頭を下げたが、鼻の筋肉の発達した女はじろりと嫌な目線をTに注いだ。さきほどのアイドル風の女性が開けたドアを出ていくときに「どうもお邪魔しました」と言うと平敷も「ご苦労様でした」と返していた。

「待たせたな、紹介するよ。初めてだったね。彼女は僕の助手をしてもらっている。僕の姪さ」と言った。背の高さは165センチくらいでなかなかの美人である。年齢は二十歳前後と思われた。スタイルもいい。バストがセーターを押し上げるように不遜に上に突き出している。およそ、平敷に似ていない。こんな遺伝子が彼の血統の中に流れているとは意外だった。

「マンションでも買い替えるのかい」と席に着いたTは聞いた。平敷はきょとんとしていたが、「ああ、今の二人か。違う、違う。彼らは刑事だよ。さっきの書類はこの間聴取されたことを調書にまとめたものだ。忘れたころにいきなり押しかけてきてハンコを押せというんだ」

「なにか事件をおこしたのか。まさか痴漢でもしたんじゃないだろうな」というと姪の女性が見ているのに気が付いて「駐車違反とか交通事故でも起こしたのか」と聞いた。

「地下鉄で人身事故があってね。頭のおかしい青年が付き添っていた障碍者施設の職員を線路に突き落とした。その時に現場の近くで僕が監視カメラに写っているので目撃情報を調べに来たのさ」

「目撃したの」というと彼は否定した。その直前に、その頭のおかしい青年が俺に絡んできたんだ。事故は目撃していない。警察では前後のいきさつを全部調べるらしいんだな。それで俺のところにも来たのだ」

「君が自分で申告したの」

「まさか、駅の監視カメラを虱潰しに調べたらしい」

「しかしよく君を特定できたね。警察に君の記録があったのか」と前科がこの友人にあったのかと思って聞いた。

「それがさ、間の悪いことにその前に俺が財布をすられたか落として駅に遺失物届を出していたのさ。監視カメラを見せられた駅員がこの人は落とし物を届け出た人だとか思い出して届に書いた住所を調べたということらしい」

 


8-7:知的所有権の馬鹿々々しさ

2018-10-07 07:29:13 | 妊娠五か月

「ところであなたは何を書いているんでしたっけ」と老人がTの顔を見た。

「はあ?私は何も書いていませんが」とTは戸惑ったように答えた。

「そうでしたっけ、なにか書いているという話ではなかったですか」

「ああ、それは私の友人がノンフィクションを書いているというお話をしましたが」

 「そうか、お友達の話でしたね。失礼しました。あなたはなにもお書きにならないのですか」

Tは頷いた。「彼は通り魔というか、理由なき大量殺人について書く予定にしているようです」

「理由なき殺人と言うと、どういうことですか」

「動機がないというんですかね。まれにそうとしか思えない事件があるでしょう」

「なるほど、それで津山の30人殺しを調べていたんですね」

「ええ、しかしあなたのお話だと、あれは十分な理由のある話だそうで。これは彼にも話してやらないと。本人は理由なき殺戮と思い込んで調べるつもりのようだから」

「まあ、理由はあるんだが、八つ当たり的なところもあるし、ターゲットが拡散しているところもあるから調べるのはいいんじゃないですか」

「どういうことですか。拡散しているというのは」

「最初は犯人はあいつが憎いとか意地悪されたとかで復讐しようとしていたのだが、だんだん考えていくと、あいつも間接的に関係しているんじゃないかとか、こいつも裏で扇動しているだろうとか、疑念が拡散して結局全員を対象に殺人を実行するようになったんですよ。思いつめていくと全員から村八分にされた、と思うようになった。つまり個人が対象ではなくて集団が対象になったらしい」

「そういうことですか、なるほどね」

 彼が老人の話を反芻している間二人とも沈黙していた。

「ところであなたの最初のミステリーの懸賞応募作品ですが、どんなトリックだったんですか。いや私がアイデアを借用しようというのではありませんがね」

「いやいや全然かまいませんよ。もし今後あなたがなにか書くなら大いに利用してください。大体世間で盗作だとか著作権の侵害だと騒ぐのは滑稽でグロテスクですよ。自分のアイデアとか文章を模倣された人はおおいに得意になるべきなのに、飯の種を奪われたなどと騒ぐのはみっともない」

「お説の通りですね」

老人はコップの水で喉を潤した。「動機無き殺人と言う話がありましたが、私の作品もそういうものですよ」

「へえ」

「間違いの殺人とでもいうのかな。シェイクスピアにも似たような作品があったかもしれない。復讐の話なんだが、別人を復讐の対象と勘違いして殺してしまう。犯人も最後まで別人を殺したと思わないという作品でね。まあ工夫と言えばどうして間違えたか、という絵解きですね」

 


8-6:ポルノへひとっ飛び

2018-10-06 08:20:38 | 妊娠五か月

「で、ミステリーはやめたんですね」

老人はTを見た。

「それからポルノへひとっ飛びしたわけですか」

「そう軽業師みたいにはいきませんでしたがね。まあそういうことです」と言うと二日は剃っていそうもない顎のしたに伸びた髭を撫ぜながら続けた。「アンチエイジング対策で始めたわけだから、考えてみればミステリーをしんねりむっつり作っているよりかポルノのほうが効果がありそうでね」

「自伝的要素が多いんですか」と若い時はさぞ活躍したであろう老人の風貌を見つめながらTは問い詰めた。

「いや、これは恐れ入った。自分の経験したことを書いたって大したことはありませんよ。これは稀代のドンファンが書いたって同じことです。カサノバの自伝だって退屈で長たらしいのを見て分かるでしょう。想像ですよ。想像」と老人は続けて話した。「バイアグラを飲むつもりで書くんですよ。バイアグラは副作用がきつそうだしね。ポルノを書いている分には副作用もないだろうし」

「想像と言ってもタネが必要でしょう。どういったところからタネを探してくるんですか」

「たとえばジルドレの伝説とかね」

「ははぁ。それでどこかの懸賞に応募したんですか」

「冗談をおっしゃってはいけません。応募なんかできる内容じゃないでしょう。公序良俗に反するものを」

「それほど猛烈なんですか」

「まあね」と老人は面白そうに笑った。

「さっき言われていたジルドレというのは幼児を大量に虐殺した人物でしょう。しかしなかなかポルノ風には書けないような気がする。たいしユイスマンの(さかしま)が扱ってましたよね。しかし具体的には書いていなかったと思うな。想像力が足りなかったのかな」

「あなたに向かって口幅ったいことを申し上げるようだが、ポルノを書くというのも結構難しいものですよ」

「それじゃ疲れちゃってアンチエイジングどころじゃなくなるでしょう」

「そう、書くだけで、いやその前に想像するだけで疲労困憊することがありますね。腰が抜けたりしてね」

「本当ですか」

Tは老人の感想を聞くと本気で言っているのか自分が揶揄われているのか確かめるように老人の表情を観察していた。

Tは聞いた。「そうすると完成した小説はどこにも発表していないんですか」

「発表しなければ張り合いがないじゃないですか。アンチエイジングの効果も半減する」

「すると自費出版でも」

「いやいや、有料の読書サークルがありましてね。そういうところに卸すわけです」と老人は謎めいたことを言った。有料の読書サークルって何だろうとTは戸惑った。

 

 


8-5:痴呆症対策としての小説執筆

2018-10-04 07:47:54 | 妊娠五か月

「問題はそこですな。誰でも不思議に思うのは」と老人は眼を細めてTを見た。

「書く、つまり小説を書くというのは暇つぶしなんだが、もう一つ「ボケ防止」という目的があるんですよ。5年ほど前に始めたが、なにも小説である必要はない。とにかく何か書くというのはボケ対策として有効らしいとしきりに言われているんですが、日記なんてのでもいいが、まず誰でも思いつくのだろうが、日記なんて平凡な老人生活を送っていると一日一行で終わってしまう。ま、時には一ページぐらい書くことがあるが、これじゃあまり効果が期待できない。そうでしょう」と老人はTに同意を求めるように視線を向けた。

「そうですねえ、よく年をとってから自分史を書くといいなんて勧める人がいるようですね」

「自分史ねえ、まだ生きているのが多いから差しさわりがあるからね」と意味ありげにつぶやいた。「ま、人に見せなければいいのだが、それじゃ張り合いがないしね」

「ふーん、俳句なんてのはどうなんですか。年を取ってから始める人がいるでしょう」

「あれはいかにも年寄じみていますね。かえって逆効果でしょう」

「それは偏見でしょう。若い人でも俳句を作る人がいますよ」

「それはそうだが、老人たちが集まって茶でもすすりながらぼそぼそやる、というのがあたしの句会のイメージでね。古い人間だから、どうもそういうことが最初に思い浮かぶ」

「それでいきなりポルノですか。どうも飛躍しすぎるみたいだ」

「いきなりじゃなかったな。最初はミステリーをトライしたんですよ。いまさら深刻ぶって文学作品と言うのもおかしいし、エンタメ系ならミステリーだと思ったんですな。わりに簡単でしたね。それでね、一応のものが出来たから懸賞に応募した」

「ほうそれで」とTは相手を見た。

「一次選考、二次選考を通って最終の候補に挙がったが、そこで選考委員の安っぽい書評屋にケチをつけられた。小説家の選考委員は支持してくれたんですがね。その講評、合評と言うのですか、を雑誌で見て腹が立ってね。それで応募することはやめてしまったんです」

「また、あきらめが早いですね。毎年応募していれば受賞していたかもしれないじゃないですか。最初の応募で最終候補までいったなら。大体そういう過程をたどるらしいですよ」

「そうかねえ」と老人はちょっと沈黙してから「いやそうじゃないね。ようするにその時に分かったことは、ああいう賞は出版社がブロイラーを見つけるようなものですよ。自分の都合のいいように編集者が育てて言われるとおりに、内容や執筆のペースをコントロールできるようなブロイラーや卵をコンスタントに生み続けるめんどりを探す手段なんですよ。だから若くなければならない。作品の質なんて関係ないんですよ。彼らに取り入らなければならなんじゃないかな」

「それは穿ちすぎじゃないですかね」

「とにかく、(あに五斗米にために幼児に膝を屈せんや)注、ですよ。やってられません」と老人は断言した。

注:陶淵明「あに五斗米の為に郷里の小児に膝を屈せんや」とある。

「太宰治は簡単に膝を屈したんですな。あんな真似は出来ません」

 


8-4:老人は語り続ける

2018-10-03 08:21:32 | 妊娠五か月

 老人の意外な経歴について3秒ほどかけて考えを巡らしていると、老人が再び口を開いた。

「なんでこんな話をはじめたのかな」と自分でも戸惑っているらしい。「そうそう小説を書いているとお話ししたらあなたがあまりびっくりしたので、なにか説明しなければ、と思ったんです。マイコン趣味なんて何の関係も小説とはないとはいえるが、暇つぶしという点では共通しているんでね。マイコンいじりから説明しないといけないと自分でも思ったんでしょうね、ほとんど無意識に。大体が無趣味な人間でね、普通の人なら中学生とか高校時代に卒業するラジオ制作のような趣味になぜ中年になってからはまり込んだかと言うとですね、ひとつにはもともと無趣味な人間だったからです。それにラジオや無線機やオーディオ自作とは違って大変な可能性があるという予感があって興味を持ったんですね」

  老人は自分の考えをまとめるように自分の爪を一本一本調べるように見ながら考え込んだ。

「話が飛ぶんですがね、パソコン趣味と言うのは結構長く続いてね。とにかく進歩が目覚ましくて次から次へと新しい機種が出てくる業界でしたからね。退屈はしなかった。

 しかしさっきお話ししたように年齢とともに針仕事みたいな細かい作業が難しくなる。そこで本でも読もうかと方向転換したんですよ。私は本というものをほとんど読んだことがなくてね。普通の人間だと学生時代に手当たり次第に読書するのが普通でしょうけど、学生時代も本を読まなかったし、会社員になれば忙しくて本なんか読んでいる暇がなくなるでしょう。退職して時間が出来ると誰でもまた学生時代のように読書をしようと思うらしい。私の場合幸いだったのはこれまで本など読んだことがないから、読む本を探す必要などまったくなかったんです。なにも読んでいないに等しいから、読む対象は無尽蔵でしたね。質を考慮しなければね。しかし読書はマイコン趣味ほど続かなかったな。つまらない本が多かったし、それにさらに加齢すると文庫本なんかの細かい字を読むのも億劫になってね。

 一方でマイコンや初期のパソコンではワープロソフトがいくつもあったが、今ではワードなんかが寡占と言うよりか独占状態でしょう。以前は色々なソフトを試したりする楽しみがあったが、いまは全部お仕着せですからね。しかも私にはほとんど必要がないフリルが増えてくるばかりです。ソフトが重くなるし、やたらとバージョンが改定される。

  つまり(つくる)とか(いろいろ試す)という遊びもできない状態になっている。まえからワープロは色々使っていたが、ふと悪戯心で小説でも書いてみようかと思ったんですね。それで書いてみると意外な発見したんですが、(読む)ということが目に負担をかけるほど(書く)という行為は目には負担にならない。これは楽ちんだな、と(書く)派になったわけです」

  老人は今の要約でよかったのかな、と考え込んでいるようだった。

Tがなるほどねと言うと安心したようだった。

「しかしなぜポルノなんですかね」

「そうそう、そこを説明しなければいけませんね」と老人は笑って頷いたのであった。