Tは綾小路老人と別れて喫茶店を出た後で思い出したように携帯を取り出すと平敷に電話した。老人と話しているうちに友人が先日来取り組んでいるテーマについて思いついたことがあるので彼の仕事がどうなっているのか尋ねようと思った。
例の仕事は進んでいるかと言う問いに彼は「どうもうまくいかない。最近はほったらかして別の仕事をしている」と言う。Tは津山三十人殺しのことはもう調べたのかと聞くと、まだだというのでいま老人から聞いたことを伝えた。それからね、と付け加えた。動機不明という事件では人違いというケースがあるんじゃないかと思うんだ。動機不明と言うのは犯人と被害者が面識がないとか結びつかないということだろう。犯人が人違いをしていれば絶対につながりは出てこないわけだ。
「そうか、一度相談したいな。会おうか。今度は君のところを訪ねるよ」と平敷は言った。
「うちは来客仕様にはなっていないんだ。椅子も一つしかないしさ。床はいろいろなものが散らかっていて座る場所も無いんだ」
「なんだ、学生の下宿みたいだな」
「もっとひどいね。来客は想定していない仕様だからな」
「そうすると、どこかで飯でも食いながら会おうか」
「そうだね」
「しかし、資料なんかもあるからな。君の意見を聞きたいものもある。よければ場末の俺の仕事場まで来てもらうのがいいかもしれない。君さえよければ」
平敷は机の上から一冊の単行本を持ってきてTの前においた。
「Big Killの外国の例を調べようと思ってね。探したんだが、ほとんど見つからないね。この本はさっきの姪が見つけてくれたんだが、どうもピントが外れているんだ。訳の分からない屁理屈としか思えないようなことが書いてある」
タイトルを見ると「大量殺人のダークヒーロー」という書名である。
「なかにはね、やたらとフランスの哲学者の名前が出てくるんだ。そこで君に解説をしてもらいたいと思ってね。著者はフランコ・ベラルディというんだ」
「聞いたことのない名前だな」
「評論家なのかな。左がかった社会活動家でもあるらしい。イタリア人なんだがガダリとかいうフランスの哲学者の書生をしていたらしいんだ。ガダリというのは有名なひとなのか」
「まあね、有名だな。たしか精神分析の専門家で哲学者だったと思う」と言いながらTは巻末の参考文献リストを眺めた。やたらと小さい字で多数の文献が並んでいる。だいたいこういう本は内容がないことが多い。「おや、ウィトゲンシュタインの論理哲学論考がある。本の内容と関係があるのかな。およそ荒唐無稽でどんな関係が書いてあるんだい」
「さあ、読んだ範囲ではなかったな。パラパラと部分的に眺めただけだけどね」
「フムフム、なるほどありましたよ」
「なにが」
「ドルーズ、ガダリ(アンチ・オイデオプス)だとさ」
「有名な本なのか。君の口吻からするとそうらしいな」
「有名だね。この二人は有名なフロイト・フリークなんだよ。フランスの現代の哲学者にはどういうわけかフロイト・フリークが多い。ラカンとかたしかフーコーもそうじゃなかったかな。おれもその辺は詳しくないが」
「フロイト・フリークというのは何のことだ。フロイトというのは精神分析の創始者だろう」
「そう、フロイトの用語を使えば、フロイトの理論が固定観念として彼らに取り付いている人間だ。寝ても覚めてもフロイト大明神様さまというわけだよ。もっともこの書名アンチ・オイデプスは反オイデプスということだ。オイデプスでフロイトのオイデプス・コンプレックスにひっかけているわけだ。一見フロイトに反対のようだが、使っている思考の枠組みはフロイト理論だ。フロイト理論に絡みついている」
「フロイトは心理学者だろう。それがどうして哲学者に影響を与えるのかな」
「そこが現代の七不思議さ。フロイトは哲学者でもなければ科学的な心理学者でもない。ポッパーが指摘したようにね。せいぜい思弁的心理学者にすぎない。ところが不思議な妖気が彼の周りには漂っているらしい。好きになると四六時中固定観念として頭にこびりつく。天一坊のような男だ」