穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

哲学用語翻訳経緯辞典の必要性(4)

2018-12-30 08:59:41 | 妊娠五か月

  これまでの若干の例示によっても明らかであるが、翻訳された哲学用語の原語と日本語の対照表が必須である。できれば現在「業界」で通用している日本語が何時ごろから誰によってどういう翻訳の中に現れ定着していった過程も分かるようなものがいい。一部は岩波の哲学思想辞典で分かるものがあるが、専門の辞典が必要である。

  日本の哲学翻訳書には索引がないものがほとんどである。索引は必須である。これが有るかないかで翻訳書の質が判断できる。事項索引、人名索引とともに用語の対照表が索引に入れられるのがいいだろう。欧米の哲学書には索引が必ずある。日本の場合はどういうわけか、たまたま索引があるとほとんどが人名索引だけである。この辺も理解できない。おそらく人名索引なら作成が簡単であるという理由なのだろうが情けない。

  欧米言語同士の翻訳書でも用語の言語別対照表は大抵ある。似ている同種の言語同士でも用語の対照表はあるのに、日本語のように全く西欧語と違う言語なのに対照表もつけずに済ましている(澄ましている)のはどういうつもりなのか。

 


哲学翻訳用語の問題点(3)、措定2

2018-12-29 10:48:57 | 妊娠五か月

 * 円環するもの(エンチクロペディー)の結節点としての措定 *

  措定は断定でもない。勿論証明でもない。自然科学での仮設のようなものである。なぜそのようなものを議論の出発点あるいは基礎にするのか。

  幾何学の公理のように万人がそれ以上は証明不要で自明なものとして受け入れる公理は哲学にはない。自然科学では仮説は観察データあるいは実験データで検証を試みることが出来る。そして検証可能性が理論の正当性の客観的根拠となる。哲学では自分のたてた措定をもってまわって、ぐるぐると回ってうまく説明できれば成功なのである。うまくいくとは一見無矛盾で網羅的包括的かつ説得的に説明できるということである。

  したがって哲学にはいくつもの説があるのは当然である。ヘーゲルがスピノザの哲学を批判する人に向けて言っている。スピノザ哲学の前提(論拠、措定)の外から批判しても意味がない。

  スピノザは彼の措定から出発して立派な説を打ち立てた。ただその結果のレベルが低いだけである(もちろんヘーゲルの哲学に比べて)、とヘーゲルは言っている。つまりスピノザの哲学にはまだ弁証法的に止揚の余地があるということである。

  上記の理由から、自然科学ではいまだに成功していない統一場理論のようなものが哲学では容易に唱えられる。うまくいく措定の組み合わせを考え出せばいいだけである。

 


哲学用語「翻訳経緯」辞典の必要性2、措定

2018-12-28 19:38:54 | 妊娠五か月

 措定という言葉がやたらと出てくる。普段見かけない言葉だ。古代漢籍に出典があるのかどうか、寡聞にして知らない。もしあったらご教示を乞う。もっとも清朝時代の役人が朝鮮蛮族との取り決めでこの言葉を使った例があるようだが、「こういう風にとりあえず(仮に)決めておこう」といった意味だったらしい。

  ある和英辞典を見ると措定はsuppose あるいは assume とある。上述の意味に通じる。これは手元にある和英辞書にはないが措定は英語でpositと表現されることもある。Positはモノを置くという意味で「一応こう仮定してみよう」というように転用されたのだろう。Positはラテン語が語源でドイツ語でもpositという同義の言葉がある。Positionも同じ語源から来ている。

  ヘーゲルなどはsetzenという単語を使っている。これはゲルマン語源でやはりものを置くという意味である。誰が「置く、仮定する、想定する」のか。勿論著者である。たとえばヘーゲルである。

  上記の意味であるから英語に訳す時にはestablishとされる例もある。ようするに著者の主張であるのだからいちいち措定すると断るまでもないのである。翻訳では一切訳さないほうがいいような気がする。つまり「なになにと措定する」ではなくて簡単に「なになにである」とするほうがすっきりとする。

 あるいは、せいぜい「なになにと想定(仮定)する」とすべきだろう。読者が違うと思う場合もあるだろう。不審に思う場合もあるだろう。それでいいのである。いちいち「これは俺の想定だからね」と断りを入れなくても実害はない。それで、それが普遍的で瑕疵のない無謬の真理だと騙されるようなら哲学書を読む資格がないのである。

 

 


哲学用語「翻訳経緯」辞典の必要性1

2018-12-26 07:28:32 | 妊娠五か月

 ここでは西欧語からの翻訳について考える。哲学翻訳書を読むときに躓きの石となるのは其の珍妙な訳語(日本文)であるのは言うを待たない。原文(英独仏など)の哲学書で原著者が採用するのは古代ラテン語経由(スコラ神学などキリスト教の伝統的な神学で採用確立した用語法、古代哲学など)、古代ギリシャ語経由(スコラ神学など伝統的なキリスト教神学で採用されたものや古代哲学など)、西欧土語(ゲルマン語、ケルト語、ロマン語など)に語源のある日常語である。

  とくに問題があるのは近代の哲学書である。このころから土語に語源を持つ自国語、(すなわち英独仏、蘭語など)で執筆する著者が多くなり、その日本語への訳語に珍妙なものが多い。これらの言葉を日本語に翻訳する場合にはいくつかの方法がある。

  一つは古代漢籍に出典を求めるものか、あるいは漢語による訳者独自の意訳がほとんどである。この場合明治中期までの翻訳者は江戸時代から続く漢文の素養があったから「さまになっていた」がそれ以降は珍妙なものが多い。また、仏教哲学用語を準用する場合もあったようである。

  しかし、この方法が一応さまになっていたのはせいぜい20世紀初頭までであった。それ以降はろくに漢籍の素養がないものが漢字をあてるから妙なことになる。つまり具体的に言うと現象学とかハイデガーとかフランスの現代哲学の翻訳書である。なかには訳しかねてフランス語の音をカタカナで表記するものがある。なにをかいわんや、である。


レストランのコンサルタントします、抜粋

2018-12-11 09:25:45 | 妊娠五か月

「サービスというのはチームワークだね」と高梁は感じのいいウェイトレスの後姿を見ながら話した。そろそろ席の空いてきた駅ビルの定食屋で久しぶりに平島に会った彼は話した。「レストランでもウェイトレスが感じがいい店は全員が感じがいいだろう」と高梁は続けた。

「そんなものかな」とあまりそんなことに気が付かない平島は答えた。

「裏方の料理人、食器洗いの担当、会計、ウェイトレス、ウェイターがチームとしてまとまらない店はどことなく違和感がある。従業員の表情にとげがある。俺なんか店に入ってしばらくすると感じるね」

「なかなか敏感なセンスを持っているな」

「いや、そうでもないんだ。会社にいたころね、組合がいくつもあって、同じ職場で対立する組合員が混在している状態でね」

「君のいた会社のことかい」

「そうだ、それで外部のコンサルタントに頼んだことがある」

「へえ、そんなこともコンサルタントはするのかい」

「問題が会社の存立にかかわるようになってきたからね。べらぼうに高いコンサルト料を払って頼んだのさ。おれがその時にコンサルタントとの折衝をしたんだが、彼らの理論というのが意表をついていたんだな」というと彼は鶏のから揚げをつついた。

 「彼らの職業上の秘密の一端に触れたことがある。分かってみると他愛のないものなんだ。彼らと一緒に作業したから分かったのだが、彼らは一つの先行する研究によるモデルがあってね。なんだと思う」

「さあ、見当もつかない」

「第二次大戦中の爆撃機の搭乗員の研究なんだ。同じようなミッションに携わっていても出撃から生還できるものと撃墜されて生還できない機がある。あるいは途中で不時着する。その違いが偶然だろうか、というわけだ」

「そのコンサルタントというのは日本の会社なのか」

「いやアメリカだ。それで研究したのだが、撃墜される機体と生還できる機体には搭乗員のチームワークに違いがあるという結論なんだな」

「チームワークというのは相性ということか」

「それもあるし、リーダーの資質ということもあるらしい。それでね、爆撃機の搭乗員の研究が普通の会社に適用できるのかと疑念を抱いて、おれも聞いた見たんだよ。そうしたら工場なんかの組織では十分適用できると自信満々に言われて驚いた。実際第二次大戦中の爆撃機内の搭乗員の間のチームワークの研究から導き出した規則を民間会社に適用して成功してきたというんだな」

「マックなんかもそのコンサルタントに頼んでいたのかな。なるほどね、レストランなんていわば密室で相互に密接に関連した流れ作業の仕事で全体が構成されているわけだから、なんとなく分かるね。それでこの店はどうだ」

「まあまあだな」

  食事が終わりウェイトレスが汚れた食器を片付けると彼らはコーヒーを注文した。平島はわきの椅子の上に置いたショルダーバッグから紙包みをとりだすと「これなんだけどね、例の話したやつは」と言いながらA4用紙にプリントアウトされたものを取り出して高梁の前のテーブルの上に置いた。差出人不明の人物から編集部経由で送られてきたそうだ。平島の近著「動機無き殺人に対する一考察」への感想が記されているという。

 


キルケゴールのおちゃらけ

2018-12-02 08:15:18 | 妊娠五か月

 岩波文庫でキルケゴールの「不安の概念」を眺めた。あまりキレの無い(洒落っけを感じさせない)おちゃらけの連続である。もう記憶がはっきりしないが、まえに同氏の「死に至る病」を眺めたときにはおちゃらけはあまり感じなかった。この著書だけなのかな。

  この時のキルケの気分によるのか。あるいは「検閲対策」のために演じているのか。19世紀の前半のデンマークでは検閲は相当に厳しかっただろう。お茶らけていれば検閲官も危険思想の本とは思わないかもしれない。

  一般に、私は専門家ではないが、検閲対策としては文章を分かりにくく韜晦する方法がある。カントやヘーゲルがそれである。あるいは匿名出版する。カントやヘーゲルにも若い時の著書には匿名のものがある。まだヘーゲルがフランス革命に酔っていた時のものである。

  「不安の概念」をはじめキルケは匿名のものが多い。これは検閲対策のほかにも理由があったようであるが。

  検閲対策には外国で匿名で出版するという手がある。スイスが検閲が緩かったらしくスイスでその種の出版が行われたようである。

  全然傾向は違うが、キルケとならんで実存主義の淵源といわれるニーチェの著作は青少年にも人気があるほどわかりやすい。彼の著書のほとんどはスイスやイタリアで出版されたのではなかったか。それにキルケの50年ほど後のことで検閲も緩くなっていたのかもしれない。

  以上寺男さん(キルケゴール)の「不安の概念」偶感である。キルケとは教会、ゴールとは庭というデンマーク語だという。日本語で言えば寺男ということだろう。日本にも寺内さんという姓があるが同じ系統だろう。キルケは祖父まで寺男だったが、父がデンマークに出て商人として成功、寺男ではまずいというのでeの一文字を入れたという。一昔前までは日本でもキェルケゴールと表記していたようだ。

  ちなみにハイデガー家もドイツ寒村の寺男だったらしい。ある本では聖器具管理人と気取っていたが寺男のことだろう。子供の時にはしっこかったのを見て牧師が金を出して神学校に入れたそうである。