穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

「かもめのジョナサン」名字考

2015-02-02 06:55:14 | かもめのジョナサン

カモメのジョナサンの原題は「JONATHAN LIVINGSTON SEAGULL」である。日本風に言えば姓はSEAGULL、名はJONATHAN、名乗りはLIVINGSTON、近くば寄って目にも見よ、とでも言うところだ。

このシリーズの第一回で述べた様に、この寓話は飛行家としてのリチャード・バックの体験(異常感覚、神秘体験、さとり)がもとになっている。このことは作者自身がどこにも述べていないかも知れないが。

作者の経歴は元ジェット戦闘機のパイロット、退役後曲芸飛行をしながら全米各地を巡業していた。したがって、寓意を表現するのに鳥を主人公にしたのだろう。この小説の一つのテーマは自由である。我々は魚を見て、水中を自由に泳げてうらやましいな、とはまず思わない。しかし、鳥が頭をかすめて飛び去ったりすると、コンチクショウと腹がたつ。空を自由に飛べることを嫉妬するわけである。

大方の飛行マニアの心理もそんなものであろう。この小説でも航空機の操縦術に関する用語がふんだんに出てくる。なかには一般用語になっている失速とか急降下などの言葉もある。

この作品は1970年に発表されたらしいが、それで思い出してヒッチッコック監督の「鳥」もその前後ではないかな、と調べたら1963年発表だった。映画の方は何らかの理由で発狂した(行動が非常に凶暴になった)カモメが人間を襲う話である。現代なら環境汚染物質の影響だとか、遺伝子操作だとかいろいろこじつけて物語を作るのだろうが。

それにしてもこの映画も主人公はかもめである。それだけ人間に身近な、都会でもよく見かける鳥であるということだが、それだけでもあるまい。そこで「カモメ考」」である。

小説の一つの核は「群れる」対「自由」ということである。都会、すなわち人間の近くでよく見かける群れる鳥というと、からす、かもめ、鳩であろうか。雀も群れる。そんなことを言えば鳥というのは大体群れるものであるが。都会的な鳥と言えばやはりからす、かもめ、はとであろう。もっともカモメは川や港の近くでないと見かけないが。

そこで作者は考えた(と思う)。物語は一種の昇華、自由がテーマである。邪悪の化身のようなカラスはまずペケである。色がまっくろというのもテーマにそぐわない。鳩はどうか。鳥の中でこれほど自由のイメージに遠い鳥はない。みじめったらしい。餌を求めて馴れ馴れしく、ずうずうしく人間にすり寄る。およそ、自由や高貴というイメージからは遠い。それだけに安っぽい「平和」のシンボルなのだろう。

消去法でカモメに落ち着いたわけである。それが社会一般、読者一般のイメージとも一致したのである。

カラスや鳩は人間の生活圏を侵す。カラスは人間に嫌われながら。鳩は人間に媚を売りながら。かもめはその点では人間の近くに棲みながら人間とは一線を画している。漁船の周りに群れて網からこぼれた魚に群がることはある。あるいは隅田川の遊覧船の馬鹿な客が空中にパンをばらまくと集まってくることはあるが。

そろそろこのシリーズも終わりにするかな。

おっと、もう一つ書いておこう。そもそも、これを書き出したのはジョナサンという名前に作者はなにか意味をもたしているのかな、と調べようとしたことがきっかけだった。ヨナタン(ジョナサン)というのは旧約聖書に出てくるダヴィデを救った友人の名前であるが、物語とは関係ないようだ。そういえばリビングストンというのは何かにひっかけたのだろうか。アフリカ探検家として有名な人物がいるがこれではなさそうだ。 終わり ご退屈さまでした。

 


かもめのジョナサン、第四部と最後の言葉

2015-02-01 19:21:35 | かもめのジョナサン

Part FourとLast Wordsまで読みました。パート4は羽化登仙したヨナタン後のかもめたちの物語。その後二百年の間にヨナタンが神格化され、彼の教えは形式化、儀式化されるという話、そのなかで少しましなアンソニーが自殺ダイブをすると、どこからともなくヨナタンが現れて救ってくれるところで終わり。

Last Wordsは昔の原稿発見と出版のいきさつ(理由)が簡潔にかつ適切に書かれている。第四部は著者もいっているように、あってもよし、なくてもよしである。五木氏の言う様に第四部を読んで第三部までが初めて納得したというのはどうも感心しない。

短いが腹ごたえのある作品である。

 


創訳「かもめのジョナサン」のあとがき

2015-02-01 07:48:44 | かもめのジョナサン

良心的できめ細かなフォローアップをモットーとする当ブログである。前回五木寛之氏の後書きに法然のことが出ていたとチョコット触れたが文章はまったく読んでいなかったので念のために読んでみた。といっても買った訳ではない。わざわざ書店に出向き立ち読みしたのである。J書店さんありがとう。

私は五木氏の文章を一行もよんだことがない。小説もエッセイのたぐいも。この後書きが最初に接した彼の文章である。したがって五木氏の作品云々を論じることは出来ないが、この後書きは相当ひどい。 

法然が出てくる前後を読むが、なぜ法然が出てくるか分からない。小説の第四部に関係するらしいが、法然が彼の死後彼の意図に反して神格化されたのと比較しているらしい。まだパート4は読んでいないから分からないが、ヨナタンも4部で死んで神格化されているのかな。

法然の思想となにか関係があると思ったが、全然関係ないようだ。それとこの後書きが滑稽なのは、小説の内容に立ち入らず、周辺というか社会現象として理解しようとして五木氏が力んでいるところだ。

ひとつは、ヨナタンが「風とともに去りぬ」の販売部数を上回ったのはなぜかと不思議がっている。「風とともに」より売れて今までのベストセラーだというのは他の何処かで読んだ。インターネットだったかな。だから本当なんだろう。もっともS・キングとかバカ売れしている作家も他にもいると思うが、本当なのかな。ハードカバーの売り上げでは、と何処か他の所では書いてあった。キングのはペーパーバックの売り上げも含んでいたのかも知れない。

こんなことはこの本を読んだり、書評したりすることとは関係ないが、このナゾを五木氏が解こうとしてウンウン唸っているから紹介しておく。こんなことは出版屋に分析を任せておけば良いことである。 

もう一つは、上と関係するが、映画イージーライダーとか、ピッピー文化とかと関連させてアメリカの社会現象として「分析」しようとしている。的外れと言わざるを得ない。もっとも、五木氏も解答が見つからなくて不思議がっているだけだが。 

ま、創訳は買わない方がよさそうだ。

思い出した。もう一つ書いておこう。五木氏はヨナタンや悟りをひらいた(高いステージに達した)カモメが何故純白に輝くのか分からないと首をひねる。

かもめはもともと真っ白でしょう。純化の方向として輝くような白になるというのは自然の発想じゃないかな。そう難しくひねくり回す必要は無い。紫の先に紫外線があるように、白の先に白外線があるなら、それは輝くような透き通るような純白に違いない。ごくプリミティブな発想じゃないかな。

 


「かもめのジョナサン」は宮本武蔵の五輪書である

2015-01-31 08:13:43 | かもめのジョナサン

先日書店の店頭で五木寛之「創訳」「かもめのジョナサン」完全版とかいうのを見かけた。装丁がなかなかいい。つまり買い気をそそった。手に取るとまず広告(帯)と後書きを見る、例のごとく。 

書店でめくったところで訳者あとがきの法然とか親鸞という言葉が目に入った(読んではいない)。短いし、大きな活字で100ページか200ページだろう。しかも大量にカモメのイラストページがある。正味は一合もないだろう(??)。

ちょいと腹がすいていた(つまり読書の端境期で読む物が無い時機)であったので買おうかなとおもったが「創訳」というのがひっかかって買わなかった。

その後別の書店の洋書売り場で

JONATHAN LIVINGSTON SEAGULL, The Complete Edition

というのを見かけて買った訳である。

全127ページで80ページまで読んだ。現在進行形の感想だが、要するに、熟練した飛行家の神秘体験と素人思想家の様々な読書の寄せ集めが渾然一体となったアマルガメーション(合金)だな。

何処かの解説か惹句に禅の影響をうけたとあるが、それをいうなら仏教というべきようだ。そう言う意味では五木氏のあとがきに法然、親鸞が出てくるのかも知れぬ。

しかし、そんなに一途で深いものではない。あきらかに新約聖書に出てくるキリストの行った奇蹟のような場面が度々出てくる。また本人が勉強したかどうかは分からないが、アリストテレスの幸福論に似たようなところもある。ようするにごった煮である。

特殊な技芸に蘊奥を極めた人間が修行の体験から会得したものをもとにしているという点では宮本武蔵が剣術の修行を経て得た悟りを描いた「五輪書」と同系のものである。

作者リチャード・バックの場合は飛行家としての経験に基礎を置く。だからカモメが寓意に使われている。

進行形書評ですのでまだ続きます。何回続くか分からない。