穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

村上春樹「カンガルー日和」

2013-10-20 10:27:31 | 書評

最後まで読みました。最後の二編はちょっと毛色が変わっている。

「サウスベイ・ストラット」はハードボイルドの最終章だけ書いたようなもので、どうしてこんなものを書いたんだろうというもの。「ためしに」書いてみたという感じだ。アメリカのハードボイルドもチャンドラーを訳しているから、手すさびに書いたのかな。もっとも、調子はチャンドラー調というよりミッキー・スピレーン風のノリである。

最後の「図書館奇談」、これはちょっと「世界の終り」につながりそうな調子で、文章も「世界の終わり」なみにごつごつしている。試作品かな。


へえ村上春樹ファンって

2013-10-19 09:59:18 | 書評

毎年ニュースでやるから目に入ってくるんだが、ノーベル文学賞発表の前夜バーだか、居酒屋にファンが集まって気勢をあげる。どうなんだろうね。奇異な感じがするだけだ。女性なんかオーバーサーティかミッドサーティの女性が和服なんか着こんでいる。

女性の和服姿というのはよほどTPOを考えないといい感じがしない。この女性ファンはそれほど嫌な印象をあたえないが、ちょっと妙だ。

それで思い出したんだが、日曜かな、TBSかな、朝のテレビの報道番組に大学教授とかいういい年をした女が毎回、白塗り、真っ赤な口紅、和服で出てくる。卑猥な感じがするだけだ。過激派がばあさんになったようなことを言うだけなんだがね。余計アンバランスがめだつ。

さてと、マクラが長くなりすぎた。村上受賞祈願前夜祭のニュース中継だ。ファンのひとりが村上春樹のおすすめベストスリーを発表していた。三位が「羊たちの冒険」だったかな。二位が「世界の終りとハードボイルドワンダーランド」でおやと思った。このブログで再三村上春樹でまあ評価できるのは「世界の終り」だと言っておいたので、おや、このファンはまともかも、と思った。

それで注意して聞いていると一位は「カンガルー日和」だというんだな。どうもまともなファンらしいから、それじゃ読んでみようと思った。未読なのでね。まだマクラだな。

ところが、この本は書店にまずない。よほど人気がないか、再版の間の端境期なのかな。ところがある書店で見かけたので120ページくらい、半分くらいまで読んだ。

初期の短編というか、むしろショートショートなんだが、たしかに悪くない。初期の短編の「風の歌を聴け」よりいい。なるほど、このファンの評価はまともである。

どうも村上春樹は俳句屋だな。短ければ短いほどいい。長編「世界の終り」はたしかに力作だが、ふうふう苦労しながら「作った」という感じで敢闘賞ものかもしれない。

そしてこれも何回も書いたが、その後彼の作品は劣化の一途をたどっている。うっかりノーベル賞の選考委員も授賞できない。権威あるノーベル賞作家が晩年駄作を連発する恐れがあっては、ノーベル賞の権威に傷がつく。まず、今後の受賞はないのではないか。

村上春樹は芥川賞を受賞出来なかったというのが、常に語られることだが、意外にも芥川龍之介に似ている。初期の作品に一番キレがあり、だんだん劣化する。俳句的な短編にすぐれているなどの点は芥川的である。


ノーベル文学賞と村上春樹

2013-10-12 10:39:59 | 書評

受賞作家の傾向を調べたことはない。もう百年前後つづいているんでしょう。傾向はあるだろう。もっとも選考委員は入れ替わるわけだから、それによっても選考方針は変わるだろう。

いま手元にないからうろ覚えだがたしか産経新聞に業界関係者のコメントを紹介した記事があった。それによると、ノーベル文学賞は純文学に与えられるそうだ。村上の小説は純文学じゃないという意見があるのだな。

何回もこのブログで書いたように村上の小説は、初期作品を除き、ジャンルのごった煮である。ホラー味、サスペンス味、ファンタジー味など。そして上位ジャンルでは純文学とエンタメ味でもごった煮である。おそらく読者マーケット極大化という商品戦略だと思う。

特に最近はエンタメ味が強い、と産経に答えていた人物はいっていた。もちろんファンの反対の声を産経は採録してもいる。ヘミングウェイも娯楽小説を書いたじゃないか、というんだな。珍妙な意見で反論にもなっていない。

ところで外国にも純文学なんて概念があるのかな、シリアス・ノベルとでもいうのかな、と辞書を引いたら「ポライト・ノベル」または「シリアス・ノベル」とある。ポライトってなんじゃらほい。セックス描写がないということかな。いやそうじゃない。小説家というのはシリアスであるか否かにかかわらずセックス・アディクトだからね。そうすると、セックス描写が即物的で露骨でないのが上品ということか。

それならわかる。村上春樹氏は芸がないというか、直接的な表現が多い。

ノーベル賞は高齢な人物に与えられることが多い。自然科学分野でもそうだ。山中教授など例外だ。

とすると作家は円熟期というか晩年の作品まで質を維持していたかどうかが評価のポイントになるのではないか。

これもブログで再三書いたが、村上は「世界の終りとハードボイルドワンダーランド」が頂点であとは文章もつやをうしない表現は露骨になり、マーケット・オリエンテッドな小説をまるで大量消費商品のように製造している。ノーベル文学賞の選考委員には受け入れられないのではないか。
もっとも来年のことがあるからあまり断定的なことを言うのはやめよう。

このブログで1Q84の書評をしたときに、ノーベル文学賞を狙うなら、1Q84が翻訳される前に獲得を狙うべきだと書いたがね。最新作の「たざきつくる君」はエンタメ色は薄れたが、文章、小説技法の劣化が著しい。来年以降受賞はないと予想するのが妥当だろう。

もし、受賞すれば初期の抒情的小品か「世界の終り・・・」が評価の対象だろう。

もうひとつノーベル賞の選考基準と思われることを記しておこう。これは文学賞に限らないが、その活動が商業的に莫大な利益もたらしてる人物には与える必要がないという基準があるようだ。

平和賞でもいえる。今回前評判の高かったパキスタンの16歳の少女マララさんが受賞をのがした。彼女の活動は全世界的な認知をすでにうけていてノーベル賞でわざわざ後押しするまでもないということではないか。村上春樹の場合と違い、商業的成功を収めているわけではないが、彼女の運動は将来への十分なモメンタムをすでに獲得しているということだ。


ノーベル賞

2013-10-12 07:59:00 | 書評

ニュース性のある話題を取り上げることにしている当ブログとしては、ノーベル賞について述べなければならないのだが、2009年書評を始めて以来一度も俎上にあげていない。怠慢と言えば怠慢である。

一つには受賞した作家を知らないからである。ノーベル賞を受賞したからと言ってあわてて書店に走り買ってくるほど勤勉ではない(馬鹿ではない)のである。また、マスコミの紹介を読んでも買いたいと思う作品はないこともあった。それほど一般青少年婦女子のように教養を気にするタチでもないのである。

しかし、ニュースとしては芥川賞作品については割と取り上げた。ノーベル賞に触れないのはやはり片手落ちだ。そこで最近の受賞作は一つも読んでいないので、毎年人気が高くて連続落選している村上春樹氏にからめて、ノーベル文学賞論をひとくさり陳述しようと思うのである。村上氏の作品については結構このブログにアップしている(アップのために読んでいる)のでね。

つづく