「三百万円?!」と青山が突拍子もない大声を出した。毎日何億と言う金をペン先で扱っている経理部員としては驚くほどの金額ではないだろうに。もっとも通常の経理処理ではなくて個人的な金になると感覚が鋭くなるのかも知れない。
「元手はいくらです」
「百円」
「えっ」と驚く青山。
少し彼の驚きを軽減してやろうと付け加えた。「こんな超大穴馬券を一点で勝負するほど私は度胸がないから、色々幅広に百枚買いました」
「するってえと」と経理の専門家は頭の中でそろばんをはじいた。
「一万円が三百万円になった、」と大声で確認した。食事の終わったトレイを持って通りかかった総務課の鬼塚とん子が鋭く聞きとがめた。
「何の話なの」と青山さんに問うた。
「競馬で一万円を三百万円にしたと言う話をこれから聞こうと思ってね」
こうなると色と欲には滅法弱いOLの常としてとん子はトレイを机に置くと以下の隣に座り込んでしまった。
「競馬と言うのは推理するんでしょう。根拠があるんでしょう。よく見つけましたね。アインシュタインが相対性理論を発見したのに匹敵する」
「馬鹿を言っちゃいけません。根拠があってこんな馬券が買えるわけがない」
「するとイカさんはあてずっぽうで馬券を買うんですか」
「いや、何晩も寝ずに検討しますよ。普通はね。ところがたまには面倒くさくなってあてずっぽうに買う」
「へえ」と青山は狐に化かされたような顔をした。とん子の三角眼は異様な光を帯びてきた。
「その日はね、親戚の葬式があってね。馬券を検討している暇がない。本来なら馬券なんか買うべきではないが、毎週買う習慣が染みついているから買わないと落ち着かない。それでね、その日が十六日だったんですよ。十六番を単の頭にしてあとは適当に3連単を百枚ほど買った。葬式から帰ってきて調べたらそのうちの一枚が的中していた。三百万円ですよ」というと一仕事終わったようにつるりと顔を撫でた。
「本当に根拠がないの」とん子が追及した。「日にちが十六日だったというだけ」
「いやね、あとで考えるとないとも言えない」とイカは思い出しながら言った。
固唾を呑んで見守っている二人に話した。「その二、三日前にね。散歩をしていて民家の隙間に薄汚れたのぼりが風にはためいているお稲荷さんを見つけたんですよ。私はね、知らない神社の前を通り過ぎることはできない。それでね、道路から軽く拝んだんですよ」
「お賽銭はあげなかったの」とん子が咎めるように聞いた。
「薄暗い奥に賽銭箱はあったようだが、どうも中に入る気がしなかった」
「なんてお願いしたの、馬券があたるようにとか」
「いや、お願いなんて何も考えなかったな。ただ軽く頭を下げただけさ」
「それで」
「それでさ、何でもない。二人に根拠は何だと追及されてふとお稲荷さんのご利益かなと思いついたのさ」
とん子は意外に神妙な顔をして頷いている。「きっと、そこはパワースポットなんだよ」
「それで毎週お参りしているんですか」
「うん、二、三度通りかかったときにお辞儀をして敬意をというか敬虔の念を表したな」
「そのたんびにご利益がありましたか」
「ないない、最初の一度きりだよ。きっと最初の時にはお稲荷さんの出勤日だったんだろうな」
「出勤日とはなんです」
「よくお寺なんかボンさんが住んでいない寺があるだろう。無住の寺とか言ってさ。だから神社と言うかお稲荷さんでも神様が常駐していることはないんだろう。俺が行った時はたまたま受け持ちの勤務日だったんじゃないの」
「だから話が通じたのか」と青山が感慨深げに言った。
「そういえば、鉄道でも無人駅なんてあるわね」ととん子が関係があるような、ないような話をした。
「だからさ、お稲荷さんのご利益といってもタイミングやなんかいろんな条件があるのよね。たまたまそこにいらしたとかさ」
「それに沢山参詣人のあるところはだめだな。皆のお願いなんて聞いていられないだろう」と青山が混ぜ返した。
「神様にも好き嫌いがあるだろうしね、いやな参拝客だったら助けてあげないとかね」
おわり