そういえばショペンハウアーもヘーゲルを講壇哲学者とののしったではないかと言われそうです。
ののしり方にもおのずから隠そうとしても隠せない品格があるんですね。ショーペンハウアーのは、江戸っ子が啖呵を切るようなスカッとしたところがありますね。成島柳北の戯文みたいにね。
ハイデガーのは土方がどろんこの農道ですごんでいるようなところがありますな。この辺がののしっていてもおのずから品格、素性が現れる所以でありましょう。
そういえばショペンハウアーもヘーゲルを講壇哲学者とののしったではないかと言われそうです。
ののしり方にもおのずから隠そうとしても隠せない品格があるんですね。ショーペンハウアーのは、江戸っ子が啖呵を切るようなスカッとしたところがありますね。成島柳北の戯文みたいにね。
ハイデガーのは土方がどろんこの農道ですごんでいるようなところがありますな。この辺がののしっていてもおのずから品格、素性が現れる所以でありましょう。
別にヘーゲルと比較する必要もないのだが、最初に念頭に浮かんだので引き続いて。
あと、際立って異なるのは引用の仕方だね。ハイデガーはいかにも知識の切り売りが命の哲学教師というかんじだ。引用が浮き上がっている。博覧強記ぶりを誇るかの如く、である。彼のは引用していると言うよりかは自分の書いていることに箔をつけるために著名な哲学者の文章をふんだんに盛り込むという臭みが抜けない。引用というより援用という感じだ。
それと、普通引用したら、その文章を批判するなり、解説するなり、問題点を指摘するなりして自分の学説の説明につなげていくのだが、ハイデガーの場合は引用すると役割は終わりなんだね。
それと、頻繁に多数の学者の文章を次から次へと繰り出す。一つ出しておけば十分なのに芸もなく羅列する。多々益々弁ず、というか枯れ木も山の賑わいと言うつもりらしい。
ハイデガーのような書き方は若い時の学位審査論文とか教授資格審査論文には有効だと思う。いくつになってもやっているのはどうかと思う。
この特技のおかげでハイデガーはナチス政権下でマールブルグかどこかの大学総長になったわけだ。
ヘーゲルの著作では逆に引用がしばしば正確でないことが指摘される。しかし、それはヘーゲルがどう受け取ったか、どう記憶して論評しているということだから、瑣瑣たる小事である。論文で一番大切なことは自分の考えを相手に伝えることだからね。
講談社学術文庫に渡辺二郎編「ハイデガー存在と時間入門」というのがある。どうしてこんなものを読むようになったかというと、充足根拠率を現代において精緻化したのがハイデガーという記事を見たので、ハイデガー全集26巻を読んだが、これがひどいものだ。
日本語のせいか、それともハイデガー哲学プロパーに関係するのか。と考えていたものだから書店で目に飛び込んできた該書を買ったわけだ。
創文社のハイデガー全集第26巻は講義録なんだが、これを読んでヘーゲルの講義録と比較した。ヘーゲルの文章が悪文で韜晦していて、翻訳が見識張っていて分かりにくいのは定説であるが、講義録は分かりやすい。
講義録と言うのは学生のメモをもとにして大体作成されるわけだ。ヘーゲルは学生に講義するときには分かりやすく、サービス精神旺盛で、比喩や例示が適切である。つまりメモを取る学生は内容を理解しているということだ。
対して、ハイデガーは講義録でも何をいっているのか、ジャーゴン満載である。女子学生が速記者のようにわけも分からず記した速記録をそのままおこしたもののようである。
それと言うことが品がない。なかでもショーペンハウアーを口汚くののしっている(文字通り)、理由も示さず。論難するというわけでもなく。これはハイデガーの素性にも関係するようだ。
彼はどこかの寒村の教会の堂守の息子と言う。日本で言えば寺男というところだ。かの地においても堂守というのは被差別階級ではないのか。
もっとも、渡辺二郎さんは旨い事をいっていたな、教会の「聖祭器具管理人」だそうだ。なんだが物々しい仕事みたいに聞こえるね。ものは言いようだな。つづく
とうとうミレニアム3眠れる女と狂卓の騎士、上巻を読み始めましたよ。いま280ページあたり。
ザラちゃんはリスベットの父親ですが、娘を撃ち殺し穴に埋めます。この時に使ったのが22口径の拳銃。ザラチャンは旧ソ連からの亡命スパイで暗殺の専門家だったかな。さすがにプロ中のプロですから22口径を使用する。それはいいが年をとったせいか、病気のせいか三発も撃ってしかも致命傷を与えられない。
もっとも、この作者はあまり拳銃の知識はないようだから、単にリスベットを殺さないために、「おもちゃのような」22口径を使わせたのかもしれない。
しかし、この後でザラを利用してきたスエーデンの公安警察は警察仕様のたしか38口径の弾をザラの頭に三発撃ち込んだのに相手は死なない。作者の書くことは滅茶苦茶だね。
公安というのはデウス・エキス・マキナだ。無理な筋をうまくつなげてしまう。
火と戯れる女(下)ハヤカワ文庫401ページ。
出撃する彼女が二つの拳銃から選ぶところがあります。ここに出ているコルト1911ガバメントは45口径。クリントイーストウッドがド田舎の淫売宿兼営のバーでよくぶっ放す大砲です。
サランデルが小女であることがキャラの売りです。身長150センチ、体重40キロ。また彼女はボクシングのジムに通っていたことがありますが、蚊のようなパンチであったことが書いてあります。パンチと握力は直接関係しませんが、相関は強いでしょう。それに拳銃の反動をコントロールするには上腕の筋力も重要ですから彼女には扱えるはずか無い。
彼女は結局ポーランド製のp-83を持っていく。之は口径9ミリ、たしか38口径に相当する。ヨーロッパはミリで表現するわけですね。口径が7.85でも相当強力でたしかナチス陸軍の制式拳銃にもありました。45口径よりは小さいがとても彼女が扱えるはずがない。
この作家はハッカー情報にもうんちくを披露していますが、こんなところを読むとこの方面の知識もインチキではないかと思います。
探偵小説を書こうと思ったことがあってね。古い言い方かな、推理小説とかミステリというのだろうが。なにしろ銃を撃ったことがない、いや、あったかな。記憶がはっきりしなくてね。記憶が片っ端から蒸発するわけ。だからメモを書くようになったわけだ。ブログにアップするのも同じ理由。
そんでね、(つまり探偵小説を書くものの常識として)銃のことを書いてあるものを注意して読んでいたことがある。
女が持つファッショナブルな拳銃は22口径か25口径という相場らしい。一名売春婦の拳銃と言われる。要するに婦人の携帯する拳銃だ。その上と言うと32口径だが、これは立派に業務用になる(つまり警察官も携行する)実用品だ。すこし非力ではあるが。
普通は洋の東西を問わず38口径というのが相場らしい。適当な威力もあるし、携行しやすく扱いやすい。45口径と言うのはその道の人間にとってもかなりはみだしたものらしい。だからリザベット・サランデルには扱えない。
もう探偵小説を書いて儲けようという気もなくなったから、全部教えるが、22口径はか弱い女性用であると同時にプロの殺し屋が愛用する定番らしい。
一発で適切に仕留めるには威力の小さい銃ほど達成感があるらしい。もっともプロの22口径拳銃は火薬の多い薬莢を使い、銃身も長いものらしい。
プロの意識をくすぐると同時に小さいことのメリットもある。まず音が小さい。豆鉄砲のような音しか出ない。だから犯行が気づかれにくい。マンションのドアの外には音がもれない。
分解して携行するのに、隠しやすく、見つかりにくい。殺し屋向きだろう。
大砲をぶっ放したような音のする45口径などプロの美意識に反するわけだ。
それとプロはオートマチックを使用しない。薬莢が飛び散るからだ。大藪晴彦と言う作家がいたが、これがいつもオートマチックなんだね。それでやたらに弾をばらまく。そんでもって、仕事が終わると地面に這いつくばって落ちた薬莢を拾いまくる。暗闇の土手の雑草の中でもモク拾いみたいにやる。
これが大藪氏にはイキに見えるらしくて、彼の小説にはかならず薬莢拾いの場面が長々と出る。銃に関して美意識なんてあるものかどうか知らないが、大藪晴彦はとんでもない田舎ペイと言える。
以上おわり。これだけタダで教えちゃうとミステリー作家としては食っていけなくなるな。
上巻終りのほうに三つの(三人の)射殺事件が出てくる。凶器はマグナム45。45口径の拳銃を使う女の殺人者を好んだのはミッキー・スピレーンだった。大口径45口径の反動の大きい銃は女には扱いにくい。その常識(銃になじんだアメリカの読者には常識だろう)を逆手にとったわけだ。
スピレーンは前のほうで、女にしては手の大きな、とか握手をするとその圧力に驚いた、などの伏線を張っている(いわゆるフェアプレーの原則ね)。
サランデルは150センチ、40キロの女と言う設定だ。この身体に対して掌が以上に発達していると言う記述は、これまで(ドラゴンタトゥーの女を含めて)出てこない。
一体にラーソンは明らかにおかしく、伏線でつじつまを合わせておくべきところも平気で無視して話をすすめるところがほかにもある。それでも並みの読者には抵抗感なく読ませる筆力もあるのは事実ではあるが。
しかもこの部分は警察官と言う専門家も登場させているのだから、この問題に警察がなんの分析をしていないのは非常識である。
この小説の三人の射殺事件は叙述から見ると極めて正確な射撃である(室内の至近距離からの発砲であるにしても)。あきらかにサランデルには出来ない設定だ。
でまだ上巻しか読んでいないが、犯人はサランデルではない、となるのだろうが、それまでの間にこういう射撃はサランデルには不可能であるということは即座に明確になる筈なのに口をつぐんで話を引っ張るラーソンはこすからいと言われてもしょうがない。
さて、ラーソンの「ミレニアム2」上巻(ハヤカワ文庫)だ。中間印象も百ページくらいは読んでからとおもったが、どうも退屈。いま50ページ読んだところだ。非常にダル、だれるね。
どうしてかと思ったんだが、ミレニアム2は20パーセントかた、嵩を増やしている(ページ数を)。それで水っぽくなっているのが一つだろう。
それと50ページまで、もっと続くようだが三人称だが、サランデル視点なのがいけないのだろう。
リスベットはロボコップじゃない、ロボット・リサーチャーだ。前にいったように。SFだよ。彼女は眺められる存在で彼女の視点で語るのでは面白さ、魅力が台無しになるせいじゃないかな。
うまくまとめたね。リスベット・サランデルがうまく作れてる。サランデルはサラマンダーのアナグラムかとおもったが、字足らずかな。次も読まなきゃ。
不可能なことがないハッカーという設定なんだが、そんなことはあり得ない話だ。しかし、あいたい((相対)の話だからね。ハッキングというのは。相手が抜けてれば完勝だ。この仮定が成立しないとうまくいかない。
それと解像度10000 X 10000の目(カメラアイ)ね。そういう意味ではSFとも言える。
ラーソンのドラゴンタトゥーの女、下巻の半分ぐらいまで読んだ。上巻の終わりごろからの古写真を元にした時系列追跡のあたり、ミステリとしても読める。ただし、そのころのカメラに撮影時間まで写しこむ機能があったかな。
フィルムカメラの時代にもデート写しこみはあったが、いくらプロのカメラマンが使うものとはいえ、1960年代にそんな機能があったのか、もうすこし後からだったような気もするが。
それで或る人物にたどりつくまではいい。ただし動機に説得力がないし、描写が急に乱暴になる。映画を見たときにも、そのことは感じたが、ま、いい。
あと150ページくらい残っている。もうひと山位はあるのだろう。
ハヤカワ文庫の「ミレニアム ドラゴンタトゥーの女」上下、上巻の途中まで読んでいるところだ。
「何でもないことを長々と書くのがいい小説だ」とはショーペンハウアーがトリストラム・シャンディーを評した言葉だが、そんな感じ。
若干ショウペンハウアーの言葉を補足すると、読者に困難、退屈を感じさせずにそうするということだ。何でもないことを長々と書いてある小説は大量にあるが、さいごまで楽々と読ませるものはごくわずかだ。
少なくとも提灯屋亀吉、亀子(出版社お抱えの評論家諸氏諸嬢という意味)が必死になってヨイショする最近のアメリカのクライムノヴェルよりははるかにいい。訳者もいいようだ。
なぜ、一部を読んだだけで断定するか、だって??
それは映画「ドラゴン・タトゥーの女」を見たからだ。もし、結末が映画と同じなら、そこまでどうもっていくか、が興味の中心になる。映画でもオチは大したことはないんだが(というよりか肩すかしだ)、何箇所かフォトジェニックな箇所があり、原作ではどうなっているかな、という興味から買ったのだ。
上巻を読めば、結末への伏線がどう張ってあるか、分かる。どの程度の技、力量か判断できるというものである。
それにしても、北欧系の名前は区別できないね。ロシアの小説も最初はどうにも誰が誰だか区別出来ないものだが、やはり慣れかな、スウェーデン人の名前は皆同じに見えるのには弱ったよ。
ついでにいえば、こんなに登場人物を増やす必要はなかった。なにか別の目的で書いた原稿をそのまま生かして流用したせいだろうか。
ペースについて;映画に比べてゆっくりと地味に流れる。メディアの違いで当然と言えばそうだが。