穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

シェイクスピアをまとめて読む

2017-12-06 11:50:13 | 本と雑誌

 師走、年末年始はシェイクスピアを読むことにした。作品は沢山あるからもっと長引くかも知れない。悲劇と言われる作品は大昔に読んだから喜劇からはじめるか。もっともハムレット青年もマクベスなどもほとんど覚えていないから初読も同然ではあるが、ま喜劇と言われる作品はまったく読んでいないのでその辺からと思っている。

 ところでロミオとジュリエットは悲劇かね。新潮文庫で少女向きのピンクのカバーで出ていたので先日読んだ。初読である。本当の初読でね。むかしつまらない洋画で見たことは有るが。

 中野好夫氏によるとシェイクスピアは看るものというより聞くものである。同感である。私はさらに敷衍して読むものであるといいたい。エリザベス朝時代の劇場の制約から舞台装置、書き割りの類いはほとんどなく、舞台はシンプルで演出家が演出に凝る余地はほとんどない。また比較的小劇場であるからじっくりと話芸を楽しむ日本の寄席のようなものである。あるいは舞台が簡単なのは日本の能舞台のごとしという。

 それなら劇場に言って日本の俳優ががらんどうの大劇場でセリフと言えば興ざめでしかない「わめき」「どなる」のが演技と思っているさまに感興を殺がれることもない。みかんの皮を猿の様にこたつで剝きながら読んで可である。

 作品の数は多いが脚本は短い。200ページくらいだろう。最近は内外でも目方で売るせいか長い小説が多いが最後まで興を失わないのは稀である。正確には絶無と言っていい。私が分冊になっている小説で最後まで読めたのは、レミゼラブル、風とともに去りぬ、デイヴィッド・コパーフィールド、白鯨のみである。


イシグロ、ハクスリー二作品における家族概念

2017-11-24 11:02:03 | 本と雑誌

 両作品に『家族概念』は有りません。「私を離さないで」は暗々裏の前提として。「すばらしい新世界」では悪徳概念としての家族。

 すばらしい新世界では父、母、家族それに膣口からの出産は口にするのも汚らしい言葉であり、概念です。出産した女性は最大の侮蔑の対象となります。この小説ではリンダという人物が誤って従来型の膣口出産をした為に未開の隔離社会(高圧電流のながれる柵で囲まれた居留地というか流刑地)に追放されます。

 ではセックスはというのは、これは乱交OK、というよりむしろ倫理的に唯一の正しい関係である。乱交しなければならない。ここでよだれの垂れて来た現代女性はいませんか。ロメオとジュリエット型純愛は犯罪となります。ただ階級間での性交が認められているかどうかについては、明示的に小説の中で語られているかどうかは気が付かなかった。

  もちろんハクスリーは反語として言っているのだろう、多分。



安倍首相に勧めたい一書

2017-11-23 23:03:10 | 本と雑誌

 連想は「シリアスな作家の書いたSF」なんですがオルダス・ハックスリーの「すばらしい新世界」(光文社古典文庫)を読み「終わりました」。この前はカズオ・イシグロの「私を離さないで」をどうしても読み終われなかったが、シリアスな作家のSFッぽい小説でかねて書名だけは知っていた「すばらしい新世界」が市中徘徊中眼に留まったわけです。

 いろいろと盛りだくさんな、アイデア一杯の小説でこの辺も「私を離さないで」と違う。二書の共通点と言うと生理学というか医学系のSFということか。なかに一卵性多胎児というのがある。受精卵の早い段階で何回も受精卵を人工的に分裂させて多数の試験管ベビーを生産するというのがある。一つの受精卵から1000人の人間が生まれるというわけ。人口減少回避に釈迦力な安倍首相に勧めたい方法です。もっとも1000人ではなくて1024人というべきかも知れない。

 これなど山中教授の研究につながりそうだ。この小説は1932年の発行で医学的知識ではその後の現在の遺伝学とはかけ離れた所も有るが色々とアイデア沢山です。さらにハクスリーは未来でも単純労働者から高度の管理支配階級まで厳然とした階級制度を実現させる。いかにもイギリスの作家らしい。階級はアルファ階級が一番上で、ベータ、ガンマ、イプシロン階級などに細分化されている。階級間移動無し。なぜなら受精卵の時期にしかるべき化学的、放射線学的処理が施されて単純労働者に適した個体、支配階級に適した個体と理論的かつ理想的な比率で生産される。

 しかし、下層階級が上流階級を妬んだり、反乱を起こすことは有り得ない。なぜなら全員に麻薬(ソーマ)が毎日一定量配給されてどの階級の人間も一生幸せに自足して暮らせるからである。ハクスリーは薬物にこだわりのある作家で後に自らLSD服用体験記を書いている(知覚の扉)。薬物の効用が長々と紹介される所等いかにもハクスリーらしい。

 ようするに、アイデア小説ですな。とすると「私を離さないで」は何小説かな。

 


「銀翼のイカロス」の校正

2017-10-08 12:56:31 | 本と雑誌

 最近文庫になった該書を途中まで読んだ。この池井戸潤氏の作品ではたしか「下町ロケット」というのを読んでなかなか達者で町工場の人間がよく描けていると思った。この書評でも書いた記憶がある。さてイカロスであるが、十年ほど前に経営破綻した日本航空に政府主導の解体屋じゃない再建チームが入った話である。そして銀行に債権放棄を求める攻防だけに絞っている(ようだ)。モデルは日本航空と帯でも解説でも書いているがどの程度実際の経緯を反映しているかどうか疑問である。

 さて今回はモデル問題ではない。文言的に引っかかるところがたくさん出てくるのでいくつか取り上げた。小説では地の文というのがある。これには語法、語用で原則として間違えてはならない。

 ほかに会話の部分、登場人物たちのモノローグ、告白の部分がある。これは間違えてもよろしい。あるいは通用している語法でなくても構わない。それによってその登場人物の教養、育ち、性格がわかるわけで、作者が意図的に採用したものは生かすべきだろう。

 さて最初に取り上げるのは、銀行員の半沢という主人公に別の行員がいうセリフである。今度金融庁の調査が入り半沢と過去に因縁のある調査官が担当するというので、その情報を「悲報だ」と半沢に教える。これはせいぜい言っても凶報ではないか。ふつうは「厄介なことにその相手は黒崎だ」とか、「いやな相手になったな」というのが普通だろう。いっても吉凶の凶を当てるべきだろう。

 ところが私も念のために大辞林をひいたが、これらはひっくるめて類語となっているのには驚いた。類語というのはなんなのさ、同意(義)語ということかね。明らかにニュアンスが違い違和感がある。いつのまにこうなっちゃのかな。

 そんなことは実はどうでもいいのである。なぜなら行員のセリフだから彼の言葉遣いが幼稚だとわからせるように作者がつかっているならそれでいい。今の若い連中はこういう風に使うのだろう。それで思いしたが、会社の部長の奥さんが亡くなったときに、忠義なちょうちん持ちが率先して香典を集めようというのか、「凶報!!」(しかも赤の太字マジック)と書いてカラーコピーした紙を課員に配ったことだ。大辞林によると間違いではないらしい。こういう時にこそ悲報(悲しいお知らせ)とすべきだよ。ヤレヤレ。


蔵書処分

2017-09-24 09:37:09 | 本と雑誌

 よく泣く泣く蔵書を処分したという記事を見るが理解不能である。この間もタブロイド夕刊紙で花田氏がそんな話を書いていた。彼が前にも似たような文章を書いていたようだが、どうも理解しかねる。

 まあ、商売が商売だから私よりも蔵書の必要量は多いのは分かる。平安時代の古典籍を手放す話なら分かるんだけどね。大体理解できないのは花田氏に代表される蔵書家は本を読むときに書きこみをしないのだろうか。花田氏くらいになると古本屋も敬意を示すのだろうが、私など、書き込みが少しでもあるととんでもないと断られる。

 読書は対話というが、書き込みは対話の記録である。記憶力抜群なら何の印もつけないで読んでもどこに何が書いてあって、自分の感想意見はこうだったとたちどころに思い出すのだろう。

 私の場合、書き込みを基準に分類すると三種類になるかな。

1:まったく書き込みがないもの、ほとんどが最初の数ページを読んで箸にも棒にもかからないと投げだしたものである。

 2:書き込みがあるものA;つよい反論があるが一概に放擲できないもの

 3:書き込みが多く、内容的に印象を受けたもの(賛否に関係なく)

 1は言うに及ばず、2ないし3も本がたまってくれば処分しなければスペース的に余裕がなくなるが古本屋が引き取る(必ずではないが)のは1:のみである。

 3:については再び手にとってもなお、手元に置きたいと思うものは少ないが古本屋が相手にしないからごみで出すしかない。

 それから古雑誌の通しナンバーを古本屋から購入して大事にしているという話をする人がいるが、これは読書家というより蒐集家というべきだろう。

 


若いうちは本を読んではいけない

2014-11-22 19:28:08 | 本と雑誌

「若いうちは仕事に精を出して小説等を読んではいけない」と言ったのは永井荷風だったか。GOOブログは親切で一年前に自分が書いた記事を思い出させてくれる。昨年の11月22日に私が書いたそうだ。読み返してみると、夏目漱石の明暗の書評をしたなかで書いていた、「若いうちは本を読んではいけない」と。 

私の場合は荷風とはちょっと違った意味で、若いうちに本を読まないと年をとって暇が出来た時に読む本が沢山残っていていい、というほどの意味であった。漱石の明暗も恥ずかしながらそのとき初読であったのでそう書いたのである。

わたしの印象では小説家の作品は若いうちのもののほうが質がいいことが多い。加齢とともに技術はたしかにあがるが、質が劣化する、言い換えれば「読書興なし」といったたぐいの作品が多い。勿論例外はある。そういう人は大作家というわけである。

したがって、孫のような年の作家が書いた恋愛小説を読むことが多い。これは「小っ恥ずかしい」ことかも知れない。だけど本当のはなしです。

よくインスピレーションなんていうが、なにかが乗り移って宗教でいう「お筆先」あるいはスピリチュアルの世界で言う「自動書記」のようなものではないか、と思うのだ。

ミューズはどうも若い男が好きらしい。小説家が年をとってくるとミューズがこなくなるらしい。もっとも面食いではないようだ。そういうわけで、いまさらながらラディゲの「肉体の悪魔」を読んでいる。勿論初読である。いばることもないが。16歳の作品らしい。まさにひ孫の作品だな。16歳のガキが書いたと思えばバカらしくて読めたものではないが、詩神がラディゲに乗り移った自動書記だと思えば、それなりの興が湧くものである。

もっとも詩神はラディゲがことの他のお気に入りだったらしく二十歳で天に引き上げられたということだ。

 


ゴシック小説かな

2012-10-06 07:43:37 | 本と雑誌

このブログ、気が付いたらひと月以上ご無沙汰でした。怠けちゃいけません。いやいや二月以上だ。困ったものだ。

角川文庫、ダークブルーの背表紙が印象的な角川海外文庫。ルース・レンデル「ロウフィールド館の惨劇」
題だけ読むと、ゴシック小説みたいなんですが、推理小説なのかな。最初から犯人が分かっていてどう事件にいたるかという話。こういうのが好きなんですね。ドストエフスキー罪と罰系列。

昭和59年初版平成20年第20版、結構読まれている。地味な文庫だがそこそこ売れている。面白いですよ。主人公(殺人者は二人いる)。両方とも中年女(中年女という表現はプレスコードのひっかかるのかな)。

主役は今時珍しい文盲(これは明らかにプレスコードに引っかかるが書けば書けるものだ。憶えておいてオイラも使おう)、このキャラ設定を中心に話を組み立てる。うまくやっている。ドストエフスキーの白痴(これもプレスコードには引っかかる筈だが、岩波も新潮もそのまま)も仮説的人造典型を中心に据えているが、比較するのも妙だが、この小説の主人公の文盲も同様の役割で成功している。

彼女は文盲という以外は正常な機能を持っている。精神は邪悪、硬直的でも。そこがミソ、映像的記憶力はそれを補って人より優れている。この設定も可。

準主役はよくある新興宗教狂い、このコンビが大量殺人に至る。

準主役は交通事故で意識不明、主役は知恵を働かせて現場を糊塗し嫌疑がかからない。

最後に警察側の謎解きが入るがこれが退屈。推理小説の欠陥は謎解きである。小説としてはということだが。拙劣、退屈、説明ごたごた。

この欠陥を免れているミステリーは一万冊のうちよくて一冊だろう。

最後の最後はいい。ドラマチックな効果を出している。

つまらないことを書きました。このブログは個人的な備忘録を兼ねているのでお許しを。

申し遅れましたが、姉妹ブログに掲載途中の「指バラ色に」は大幅加筆中、最終章を追加して発表する予定です。

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現題はjudgement in stone,

stoneというのは文盲の中年女の内面をいうようだが、たしかに訳しにくい。しかしこの日本名は再考したほうがいい。

犬の動物検疫の話がある。ロンドンから70マイル(現場は)、そこから車で行けるところというとイングランドでなければウェールズかな。イギリスの地理はしらないが。しかし、そんなにロンドンの近くに動物検疫を必要とするところがあるのか。

この辺はあとがきで触れたほうがいい。あとがきはそういうことのためにあるのだろう。


うつ病には何歳からかかるか

2011-07-27 18:38:37 | 本と雑誌

さる書店、某日某時、どう見ても10歳以下に見える真っ黒に日焼けした、細い脚をした少女が背伸びをして書店の本棚から取り出した本のタイトルは『うつ病の治し方』。

後ろを通りかかったアタイは思わず彼女の顔をみたね。見たところ普通で、『カルトの子』っぽくない。

こうなると、アタイは見届けなくては気が済まない。あんまり傍に立っているわけにもいかないから、大きな書店を一回りして家庭医学のコーナーに戻る。まだいる。三回ぐらいチェックしたかな。次に言った時には少女はいなくなっていた。

妙な風景だと思いませんか。なに、ブログに書くほどのことはない。そうですか。


本屋が熱い

2011-06-09 09:59:19 | 本と雑誌

節電の影響で本屋が熱い。外は涼しくても中は人の集まるところは37度という発熱体が多数あるから温度が上昇する。外がまだ我慢できる気温であるから大きな人の集まる建物に入ると非常に熱く不快になる。

節電で送風もしていないことが多い。またデパートや大きな書店があるビルでは外気から密閉してあるからよけいに熱くなる。発熱体が女であると余計不快になる。デパート、女性客の多い書店など。

いまは昔、新入社員のころ、生まれて初めて通勤の満員電車にのって不随意にかつ不覚にもボッキして慌てたことがある。高卒の若い女性新入職員で地下鉄の車内は四月と言うのに異常高温。二、三度は体温が違うね。

もっとも、最近は高卒の女子職員なんていないから婆ばかりで車内温度はそんなに上がらなくなった。不思議なんだが、女性も年をとると、また体温が上がりだすんだね。デパートなんかおばさんが群れて蒸れてしまう。

おれは冷たい女が好きだな。ひやっとしてこれからはいい。


小論理学(下)のある書店

2010-04-23 09:10:06 | 本と雑誌

書店に個性のあるのとないのがある。前に書いた。店主、経営者、仕入れ担当の個性が感じられる書店と言うのは印象に残る。散漫な仕入れで印象の拡散した書店とちがい、統一があるし、きりっとした感じを与える。

岩波文庫の青帯(哲学)でカントは大体どこにでもあるがヘーゲルは意外に少ない。しかも大体おくものが決まっている。小論理学というのもまずない。版数を見ると結構最近まで相当回数版を重ねているが書店で並んでいることはない。

ところが、ある書店ではこれを常備している。しかし、いつも下巻ばかりだ。またこれがゆっくりとだがはけていくらしい。時々なくなる。売れない本を仕入れてしまった、と思っている経営者はこれで不良在庫がなくなったと清々しているかとおもいきや、しばらくするとまた下巻を仕入れて陳列している。

つまりわずかだが確実な需要があるということだろう。下巻しかないというのも理解しがたいところだ。小生なんか上巻のほうがおもしろいと思う。

もっとも、岩波文庫では読んだことはないから、岩波の上巻に相当する部分ということだ。理由はなんなのかな。上巻には決定的な誤訳があって、しかも訳者が死亡していて改訂の仕様がないのか。

あるいは、下巻部分には特定の主義者などの教科書として手堅い需要があるのか。分からん。

なお、その書店の立地であるが、もと場末、いまアッパーミドル用のマンションの林立する新開地である。ヘーゲルとは無縁のところのように思われるのも面白い。


古着はたたる

2010-04-08 08:53:56 | 本と雑誌

古着はたたる、なんてことをもうしますな、と志ん生なら言うところだ。最近は古着屋なんてない。いやそうは言わないと言うべきか。リサイクルショップかな。ジーンズなんか着古したものが高く売れるらしいが。

古着の話じゃない。このブログだから古本の話だ。ここまでは落語でいえばマクラだ。

おいらは古本を好まない。誰が読んだか分からない本は気持ちが悪い。それは古着は祟るとおなじ系統だろう。ブックオフなんかも同じだ。同じ理由で図書館へいくのも好まない。ま、マイノリティだろうね。超マイノリティでなければこのブログでは取り上げないんだから。

したがって新刊本を買うがたまる一方だ。これの始末がまた往生する。古本屋と折衝するのがこれまた不愉快な経験だ。どうせ金になる古典籍なんてないからいくらでもいい、持って行ってくれればいいのだが。そうも言えないから黙っていると

古本屋というのは、いちいちケチをつけながら値決めをしないとこけんにかかわると思っているのか、業界の知識をひけらかしながら、ねちねち、延々とやる。こっちはタダでもいいから早く持って行って清々したいというだけなんだが。

それに、携帯電話を買う時みたいに身分証明書を見せろというだろう。店頭に持っていく学生なら万引きを疑ってそういうことをやることも昔はあったが、カバーも帯もないし、赤線も引いてあるような本なのに、何のためにするのだろう。

古本屋なんて、職業に貴賎はないとは言うものの、こちらから見れば得体のしれない商売だ。ただでさえ、大企業でもうっかり個人情報を渡すとすぐに悪徳市場に出回る。古本処分のためくらいにそんな危険を冒すわけにはいかない。


万引き

2010-03-22 07:31:32 | 本と雑誌

前にあげた「本屋のビニール袋」という記事に割とアクセスがあるので、本屋ものをもう一つ。

万引きの被害が多いらしい。それで書店では万引き防止対策を店員に教育しているらしいが、とんでもない教育をしているらしいので注意しておこう。

立ち読みをしていると、後ろから足音もなく近付いて、いきなり「いらっしゃいませ」とか「こんにちわ」とか大きな声を出す。お客様の後ろから挨拶するのが無礼千万なことが分からないのかね。

挨拶は正対して行うものだ。客が入るとすぐに後ろをつけてきていきなり「こんにちわ」という。万引きを牽制するために効果があると思っているようだ。やみくもに声をかけるように教育されているのだろう。

このあいだ、店員を見たらちょっとかわいい女の子だったので「待ちなさい。客に挨拶をするときは正面から頭を下げてするものだよ。そういう風に教育をされていないのかね」とイチャモンをつけてやった。

美少女の女店員はパニック状態だ。「いったいどういう店員教育をしているのだ。すぐに店長を呼んできなさい」と追い打ちをかけるが美少女は金縛りにあったように動けない。あんまり品のない意地悪をしてもしょうがないかな、と考えていると目が覚めた。

あれは腹がたつものだ。おそらく入ってきたときから目をつけているのだろう。あるいは裏の事務所から隠しカメラで店内を監視しているのかもしれない。怪しいと思う客が入ってくると店内の店員に連絡がいくらしい。

そうすると、納得がいくね。オイラは疑われそうな格好をしている。どういうのが疑わしいと思えと教育されているのだろう。大きな紙袋を持っていることがある。あれは便利だからね。たくさん入るし、地面や電車で床に直接おいても汚れが気にならない。大体袋は消耗品だから何回か使えば捨てる。

それにああいう紙袋はよくくれるだろう。ほうっておくと家にたまってしまう。家に置いておいても場所をとるだけだから活用する。大きな口の大きな紙袋が万引きの目安になるのかな、と思い当った。

本屋業界共通の社員教育用の万引きマニュアルがあるのだろう。しかし、マイノリティだが常識的に、良識的に運用している書店もまれにある。そこでは後ろからいきなり挨拶とも思えない挨拶を客に浴びせて驚かせることもない。

書店業界にはいろいろ問題があるよ。衰退を嘆く前に良識をもって店員(ほとんどアルバイトなのだろうが)を教育したまえ。

思い出したから、もうひとつ書いておく。個人書店だ。棚から出して中身を確かめたが買うほどのことはないな、と元に戻したが、ぎちぎちに詰まっていて奥まで入らない。そこですこし端が飛び出したままにしておくと、口のひんまがった老人が飛び出してきてどなりだした。

ちゃんと戻せというのだ。しかし、固くて入らないよ、というとますます怒りだした。こんな男は珍しいのだろうが、大書店でも棚にギチギチに本をつめているところがある。これも万引き対策らしい。立ち読みをさせないためか、あるいは目立つためかもしれない。


小さな書店のメリット

2010-02-11 19:15:08 | 本と雑誌

*貨物自動車やダンプカーが疾駆する田舎の県道沿いにある書店、大きな書店や都会の書店ではとっくに返品されている数年前の買いそこなった本が砂塵にまみれた書棚にあることがある。

*大都市のビジネス街の中心にある規模の小さな書店はスペースがないために、陳列されている書籍は売れ筋が絞られている。それぞれのジャンルでどんな本が売れているか書棚を一瞥するだけで分かる。

中には書店主のセンスが現れていて、陳列されている本が厳選されている書店にぶつかることがある。こういう店ではあれこれ見ないで簡単にその分野で適当と思われる本が見つかりやすい。

これらが小さな書店のメリットである。時々はのぞくものだ。


本屋のビニール袋

2010-02-04 10:13:37 | 本と雑誌

本屋で本を入れるビニール袋のことだ。本は重量物である。それをあのビニールの袋に入れると取っ手のところに工夫がないから鋭くて細い切断面で長くぶらさげていると手が切れる。そこまでいかなくても痛くなる。スーパーの袋には工夫がある。持ち手は幅があり、手にやさしい。それから底部にも面積が広く取ってあり全重量が分散されて取っ手の一点にかからないようになっている。材質そのものも柔らかいようだ。揉んでみるとよくわかる。

書店で使うビニール袋は色や大きさは色々あっても上記のような欠点は同じで画一的だ。寡占的に書店に提供しているメーカーがあるのか。

あれなら、取っ手がなくても昔のような紙袋に入れてもらったほうが数段よい。もっともどの書店でも紙の大きな手提げ袋は置いてあるようだが、山のように本を買わない限りずうずうしく要求もしにくい。それに持って帰ってもあとで始末に困る。