穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

失われし時を求めて 8

2022-06-28 07:38:21 | 小説みたいなもの

 スズメの寿命って知ってますか。ある年寄りの回顧談を聞いて今朝調べた。例によってインターネットであるが。これがはっきりとした記録がないらしい。一年と言うものもあり、運がよければ十年以上生きるという説があるようだ。寿命と言うよりも大体一年以内に天敵に食べられてしまうらしい。
 最近は市街地でもスズメを見かける。人のすぐそばまで来る。一メートルくらいまで近寄っても逃げない。どうもここ数年のことのような気がしていたら、町の手配師をしている老人が「昔は町ではスズメなんかいなかったし、すぐ逃げてしまう」と言った。
* 図々しい「生活保護者」みたいな鳩と違ってスズメは独立心が旺盛なのだろう。*
*この一行差しさわりがあれば削除してください。プログ担当者殿。
 たしか一茶の句に「われと来て遊べや 親のないスズメ」なんてあったと思うから江戸時代には人懐っこかったのかな。
さて、くだんの老人の話であるが、戦後の一時期の話らしい、食糧難の日本ではスズメを見るとみんな目の色を変えて捕まえて食べてしまったらしい。スズメ焼きなんてのもあったね、いまでもあるのかしら。最近は日本も豊かになったからスズメを捕まえて食おうとする人もなくなった。
 数年前まで、つまり戦後の超食糧難が去ってから何十年もたってもスズメは人間になじまないのはどういうわけだ、と考えたね、これは前世の記憶だね、きっと。「人間は怖い、捕まえられて食べられるから、人間を見たら逃げろ」とスズメの親から子へ、子から孫へと遺伝情報が伝達されたのだろう。それが長い間残っていたが、最近ようやく消えたということだ、ネ。
 つまり父母未生以前の記憶の世代間伝達なのである。これも使えそうなネタだ。

 


失われし時を求めて 7 

2022-06-27 06:35:21 | 小説みたいなもの

 なぜ今頃、西田幾多郎に手を出したか。遅ればせながらベルクソンを調べたからである。なぜベルクソンか、プルーストの失われた時を求めて、を齧ったからである。なぜ、もういいよ、やめろと言われそうだが、Buried Giant もとえ、埋もれた記憶についてチト書いてみたいと思ったからである。それで参考書をピックアップしていると上記のようなメニューになったというわけである。
 ところでプルーストはベルクソンと遠い親戚だったらしい。初めて知ったのだが。プルーストの略年譜によると二十一歳の時にベルクソンの結婚式で付き添い役を務めた。遠縁にあたるらしいが、確認できなかった。ベルクソンは十二歳年上だがほぼ同時代人だ。おたがいの著書に相互参照はないようだが、全部読んでいないので確認できない。
 いずれも記憶にこだわるところは共通している。ベルクソンは1927年にノーベル文学賞を受賞している。彼は哲学関係の論文以外に小説や詩は発表していないようだが、ボブ・ジュランだっけ、歌うたいで文学作品も書いていないのに文学賞を貰っている例もある。もっともプルーストは1922年に死亡しているのでいずれにしてもベルクソンかプルーストかという選択はノーベル賞選考委員たちにはなかったが。
 ベルクソンの授賞理由は明晰な文章云々だったらしいが、読んでみると全く混乱しているような印象だけどね。もっとも日本語の翻訳の印象だが。彼は父がユダヤ系フランス人で母親はイギリス人である。そのせいか、彼の英文のほうは明晰なようだ。これは彼が英文で書いたという「物質と記憶」の序文の日本語訳を読んだ印象である。
 カズオ・イシグロの小説ではないが、ベルクソンは二十世紀を通じてburied giantという感じだ。
二十世紀の後半になって若干の再評価の動きがあるようだが、フランスでも忘れられた存在、傍系の哲学者というところだが、ハチャメチャなところが読んでみると面白い。
 カントやフッサール、ハイデガーの系列ではなくてヘーゲルとアルゴリズムが似ていると言ったら言い過ぎかな。主観としても彼岸としても超越論的存在を認めないこと、二元論から一元論に流れ込むところ、時の流れの中ですべては潜勢力として存在し続けるところ、などヘーゲルの発想と類似性がある。
 ベルクソンにはミナ・ベルクソンあらためモイナ・メイザースと言う、すごい超能力者の妹がいた。「猫使いの黒魔術師」としてダイアン・フォーチュンに恐れられた。イギリスのオカルト結社「黄金の夜明け」のメンバーである。黄金の夜明け集団のリーダーであるメイザースと結婚した。
 ダイアン・フォーチュンの「心霊的自己防衛」はその辺の心霊戦争の経緯から書かれたらしい。フォーチュンはいまでも「精神世界フリーク」の女性には人気のある作家である。書店の精神世界コーナーには今でも著書が置いてある。
 そういうわけで、埋もれた記憶という地雷を掘り起こすのにはまだ時間がかかりそうだ。現在有力な手掛かりは禅の公案で夏目漱石を悩ませた『父母未生以前の本性の面目は如何』だったかな、あたりが気になっている。

 


失われし時を求めて 6 

2022-06-26 07:09:06 | 小説みたいなもの

 今回も「善の研究」関連なのだが、前回なぜもっとも影響を受けたと思われるベルクソンの著書に西田が触れていないのか、と疑問を呈した。若干筆者の見解を述べる。推測である。
 善の研究初版が出たのは明治44年である。日本にはベルクソンはまだ紹介されていない。西田はベルクソンを英訳で読んだと、どこかで読んだ記憶がある。日本の論壇や哲学界にはまだ知られていない哲学者であり、フランス語でなくて英訳で読んだという経緯が出典としてベルクソンをあげるのを躊躇した原因である可能性がある。   確かの職業的哲学者としてベルグソンの英訳の何ページ云々と言うかたちの文献参照はメンツから行ってもしにくかったであろう。
 さて、大正時代に入るとベルクソンの一大ブームが日本の論壇、哲学界で巻き起こる。「早もの食いで手の速い」小林秀雄などもブームに乗ったほうである。ところが、ブームはあっという間に短期間で終息した。十年も続いたかどうか。ある論文によると、これはラッセルがベルグソンの根本概念の一つである『イマージュ』という言葉が曖昧で間違った使い方をしていると批判したのがきっかけだそうだ。
 善の研究はその後版を重ねているが、西田は再版後もベルクソンへの言及をしていない。否定的な流れでブームが否定されたので「知らんぷり」をしたのだろう。日本でベルクソンが細々と復活したのは戦後、しかも最近のことである。したがって善の研究のベルクソン・パートは西田の独創として受け取られ続けたのだろう。日本人はベルクソンを否定しても、その原因など知らなかったのだ。西田は独創的な日本独自の哲学者として認められ続けた。
 断っておくが以上は西田哲学の形而上学的部分である。道徳論、宗教観では日本独自のものがあるのかもしれない。その辺は読んでいないから判断できない。

 


失われし時を求めて 5 

2022-06-25 07:45:27 | 森鴎外

 この本の惹句は、出版業界、哲学界をとおして、日本で初めての「西欧哲学」の本格的な本である、という。期待して読んだが、どこに西田幾多郎の独創があるのか発見できなかった。
 Wジェイムスおよび先行の心理学者や哲学者についてはかなり引用されているから、彼の発想が奈辺からきているかはわかる。内容を読むと、ジェイムスとほぼ同時代のフランスのベルクソンの影響も相当(決定的に)あるようだが、ベルクソンの名前は一度も出てこない。もっとも西田には別に「フランスの哲学」というエッセイがあって、昔からベルクソンは読んでいたとあるが。
  そこで、この本の第一編と第二編であるが、西田独自の思想がどこにあるのか曖昧である。すべてジェイムス、ベルクソンの二家の見解を持ってきたように読める。所々でヘーゲルや古代インドのウパニシャッドの『アートマン=ブラフマン』思想を述べている。それは間違いではない。
 勿論、この本は西田のデビュー作であり(単行本としては)、その後、多数の論文や著書を発表しているから、そちらのほうに独創的な哲学があるのかもしれない。しかし『善の研究』には彼独自の思想がどこにあるのか、分からなかった。
 それと、失礼ながら記述はうまくない。先行の哲学者の考えを祖述しながら叙述に滑らかさがない。ジェームスやベルクソンを読んでいる人には分かるだろうが、初めて読む人に抵抗なく読めるだろうか。唐突に、とびとびに、いきなり結論が出てくるところが多い。そうして繰り返しが多い。繰り返しは否定しないが、それはさらに読者の理解を深めるための工夫でなければならないが、相変らず唐突に命題だけが飛び出してくる。
 西田幾多郎は三木清の師匠であったから、三木清が書く文章には師匠をほめちぎっているが何となく不自然である。三木は文章家でジャーナリスティックなセンスのある文章を書く人だけに妙な気がした。

 


失われし時を求めて 4 

2022-06-25 07:09:07 | 小説みたいなもの

 西田幾多郎の「善の研究」を読んだ、半分ほど舐めただけだが。いままで一ページも西田幾多郎を読んだことが無い。いわゆる食わず嫌いだろう。タイトルがよくない。「善の研究」というから抹香臭い倫理学と言うか道徳論だろうと敬遠していた。「膳の研究」なら多少は自炊の参考になると、読んだかもしれない。
 哲学といってもいろいろな分野がある。どんな学問領域でも原論的な部分と各論がある。哲学で言えば、原論は形而上学とか第一哲学と言われる分野だろう。論理学もそのうちに入るかもしれない。各論としては、哲学では、倫理学、宗教学(論)、美学、法学(法哲学)などであろうか。

 私はどの哲学者のものでも各論には興味がない。これは長年の読書経験から来たもので、まあ、簡単に言い切れば、たわいのないものが多いというか、面白くない、無味乾燥なものが多かったからである。各論の中でも倫理学は特に苦手である。そんなことは自分で考えればよろしい。誰が考えても似たような結論になっている。
漫才哲学師として哲学に淫するのはその「奇想の系譜」を辿る楽しみである。形而上学でなければならんわけである。
 さて日頃の選書基準を無視して、なぜ『善の研究』を選んだか。こういうわけがあったのである。ある書店で本棚にない本の在庫があるかどうか店員に調べてもらった。親切な店員でほかの階まで在庫を探しに行ってくれた。随分長いこと待たされたので、そのあいだ、手持無沙汰で手前の平積みの台にある該書を何気なく手に取った。パラパラとめくると目次に「純粋経験」なんてある。おやW ジェイムスかベルクソンと関係あるかなと註をみるとジェイムスのことらしい。現在『記憶』という厄介な問題をテーマに書こうかなと調べていたのでチョイと読んでみるかな、と言う気になった。
 豪勢な内容の本でわずか300ページ余りに原論、倫理学、宗教学が詰まっている。勿論倫理学や宗教論は読まなかった。だから最初の半分くらいしか読んでいない。


失われし時を求めて 3 

2022-06-22 06:35:46 | 小説みたいなもの

 さてプルーストの該書であるが、ポジションリポートは相変わらず第一巻180ページである。前回以降、1ページも進んでいない。ウクライナ戦線のように膠着している。
 この「回想記」が何歳ごろから始まったのか。プルーストによる「ポジションリポート」はどこにも見当たらないようだ。恐ろしく不自然な感を受ける。そのほかの記述が微に入り際にわたっているわりには、極めて重要であると思われるところが抜けている。敵もさるもの、意図的なのだろうか。
 前後の記述の推測からすると十歳ころからと見える。それと不自然なのは友達の話が全然出てこない。子供の回想としては極めて不自然である。彼(主人公)は小学校に行ってはいなかったのだろう。当時の慣習として貴族とか富裕なブルジョワの子弟の初等教育は家庭教師によるのが普通だったらしいから。それにしても家庭教師の話も出てこない。裕福な家庭では親が直接初等教育の手ほどきをしていた可能性もあるが、その記述も皆無である。たとえそうであっても、遊び友達はいたと考えるのが普通だが、そういう人物も全く出てこない。ほかの家族などの描写が馬鹿に詳しいのに比べて不自然の印象は否めない。
 これはまだ小説では読んでいないが、第一巻の巻末にあるプルーストの略年譜によると、十一歳で高等中学校に入学している。やはり初等教育は何らかの形で家庭で行われたようだ。此の部分をなぜ完全オミットしたのか分からない。
 これは読む前に高望みをしたようだが、「失われし時を求めて」というタイトルからもっと幼児からの記憶を思い出して書いたものと期待していたので失望した。十歳ぐらいのことは断片的であっても誰でも記憶しているものだ。あるいは時に触れて、別にマドレーヌの匂いをかがなくても思い出すものである。
 それに、フロイトではないが、幼児の「喪失した記憶」あるいは「抑圧された記憶」のほうが、将来はじけた時にはダイナマイトのような衝撃力が秘められている。わたしの早とちりのせいでいささか失望した。


失われし時を求めて 2 

2022-06-18 07:12:12 | 小説みたいなもの

 プルーストの「失われし時を求めて」の岩波文庫本の1と14を買った。何しろ全部で14分冊もある。とても全部は読めないだろうとはじめと終わりを買ったわけだ。1の180ページほど読んだが平板で退屈だね。記憶の戻ってくるのは訳者によれば「無意志的記憶による過去の再生」なんだそうだが、これは『記憶の無意志的な再生(想起)』とすべきではないか。そうしないと訳が分からない。
例の「紅茶に浸してトロンと柔らかくなったマドレーヌ(菓子)を口に含んだら昔のことを自然に映画一巻分くらい詳細に思い出した」という有名な(どうして有名か分からないのだが)記述もあった。とにかく記述者は臭覚あるいは味覚が記憶再生の入り口らしい。
 また、起きた時の反覚醒状態で今までに住んでいたすべての家の寝室の情景をことごとく思い出す、という記述も趣向なのだろう。寝起きは意識がはっきりしないし、思い出そうという意志も発動していないからね。
そういう断りをいれてこれから書くことは無意志的記憶ですよ、と延々と記述が続く。記述は時系列でやけに細かい。描写にひねりや変な加工はないようだ。極めて現実的、写実的で伝統的な記述方法である。ユダヤ系のブルジョワ大家族の地方都市やパリでの生活が延々と記述されている。
 時はナポレオン三世の後の第?共和制の十九世紀世紀末のことだ。どうもこの時代背景は我々にはすっきりと入ってこない。ちなみにプルーストの生没年は夏目漱石と重なる。幕末明治初期に生まれ大正時代に無くなっている。小説の背景に描かれている社会は漱石のほうがずっと現代の日本に近い印象を与える。
 と言うわけで、「失われし時を求めて」の内容はあまり参考にはなりそうもない。


失われし時を求めて 1 

2022-06-14 08:18:14 | 小説みたいなもの

 「失われし時を求めて」という有名な小説があることは知っている。しかし読んだことはないのである。したがってこれから漫然と描き続ける事柄は題名のパクリではあるが内容のパクリではない。もっとも、今回の執筆を機会にプルーストの小説を読もうと思っているので、内容までがパクり気味になっていく可能性は大いにある。
 さて記憶と言うものは在庫管理の用語で言えば、「後入れ先出し」だと思うのだ。したがって古い記憶は脳底の古層に堆積する。もっとも、これは記憶が何らかの形でいつまでも保持されるとの仮定によるものだが。記憶の保持力の強さの問題のほかに正確さの問題点がある。つまり記憶はビデオテープの動画のように再生されるのか、歪んで変形されて引っ張り出されるのかという問題である。人によってはこれを「屈折されて」と表現する。
 これはシロかクロかの二分法で両断できるものではない。両断できるとするのが刑事法廷での幼稚な大前提ではあるのである。
 古い記憶と言うのはなかなか再生が難しい。いくつかの理由があるのだが、経験、あるいは体験が前にも述べたように記憶として堆積していく過程で「後入れ先出し」、つまり逆に言えば「先入れ後出し」だから普通はなかなか出てこない。記憶には二種ある。再生したくない記憶がまずある。誰だっていやなことは思い出したくない。あるいはまずいことをしたな、とか罪悪感が伴う記憶と言うのは思い出したくない。当たり前のことである。逆に言えば楽しい経験は意識の表層に浮かび上がるのに何の苦労もない。
 また、後入れ先出し、つまり「先入れ後出し」の結果として古い記憶は新しい記憶の底で上からの圧力で浮かび上がることが難しいという当然の理がある。地下深くに埋もれたものが表層に浮かび出て日の光を浴びるのは、通常大雨の後の大規模な地滑りでお天道さまを拝む場合である。あるいは大地震や大地殻変動で古層がむき出しになる場合である。
 記憶の場合で言えば、表面の層が破壊された場合である。それは大病で意識の上層が破壊されてぽっかりと穴が開いた場合である。また、強烈なショックを受けて表層が崩れ落ちた場合である。

 


イシグロ「忘れられた巨人」読了

2022-06-04 06:55:06 | 書評

 十日ほどかかった。230ページ当たりからハカが行くようになった。テーマはわりとはっきりしている。寓話だね。かなり応用範囲が広い。アカハタにも否定的ではない書評がのったしね。
 もっとも私は雌龍のクリエグは「戦後民主主義者」と取ると分かり易いと思う。日本全国に臭い息をまき散らして正常な記憶力、判断力を破壊した「功績」は大きい。メス龍クリエグの寿命も最近の日本では尽きかけている。
 ガマ顔の大江健三郎氏をはじめとした戦後民主主義者もようやく世代替わりをしたようだ。メス龍の嫡子である日教組もあまり聞かなくなったし(効かなくなった)ね。
 しかしこれは小説である。テーマが分かったからと言って小説として分かったことにはならない。テーマを小説としてどう料理したかという所を賞味しなければならない。一週間足らずで一応読了したからと言って不十分である。

この作品は「私を離さないで」刊行後十年で完成したという。ま、十年間毎日24時間執筆にかかっていたわけではないが、卵を孵すように十年間抱いていたわけだ。つまりグロスでは十年かけたわけだね。ネットでは二、三年かもしれないけど。読者としても十日間じゃなくて、もっと時間をかけて読まなければいけないだろう、作者に対する敬意として。
 おりから岸田首相も世論を背景としてクリエグ退治に乗り出したようだ。
おっと、小説としての技巧なのか、そうでないのか一つ気が付いたことがある。この作品が発表されたのは2015年だから、たいていの作家は「コピー、切り取り、ペースト」が自由自在のパソコン搭載のワープロを使っていただろうが、石黒氏はどうだったのか。この作品を読んでいると思いつくままに叙述が前後入り乱れている。慣れないと何が何だか分からなくなった、最初のうちは。
 それで、ひょっとしたらイシグロ氏は昔ながらのタイプライターを使っていたのかと思った。タイプライターなら、思いつくままタイプして、後から時系列を整序するのは大変な挿入や打ち直し、あるいは切り貼り、糊付けの作業になるからね。どうなんだろう。意図的に手法としてああいう書き方をしたのかな。そういう作家もほかにもいるからね。この小説は最初から最後まで、時間軸が錯綜しているから意図的のようにも考えられる。効果のほどは?? 読者個々に任せるしかない。

 


「忘れられた巨人」は最後まで読まないと分からないのか

2022-06-01 07:18:04 | 書評

 とすると途中書評を得意とする拙ブログでは慎重を期さなけらばならないことになる。というのは例の小川榮太郎氏が「作家の値打ち」で99点をつけている該書の批評を改めて確認したせいだが。
 いま、ようやく200ページまで読んだが、とりとめのない記述で印象がまとまらない。この本の書評を見てみたが、日本人の書評屋はみなもっともらしい解釈をしているところを見ると小生の解釈力が欠如しているらしい。
 しかし、海の向こうの評判を見ると、小生の印象と合致するのがある。ニューヨーカーに載ったジェームス・ウッド氏の書評によると「小説の設定が弱く、、迫力に欠け、、比喩もよくない、、」とある。大体小生と同じ印象であった。すこしホッとした??
 イシグロの作品はこれまで数冊を一応読了しているが印象に残っているのは「私を離さないで」くらいである。あとはかすかにテーマは何だったのかというのが記憶に残っているが、これは読後の記憶と言うよりか、出版社がつけた帯の惹句からきているらしい。日本の書店のコピーライターはうまいからね。