穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

「その女アレックス」文春文庫、書評

2015-05-30 20:04:27 | 犯罪小説

後書きで訳者が「サスペンスタッチの語りにも定評がある」と書いているが、描写力もすぐれ、相対的にいえば相当の筆力がある。原作の筆力がすぐれていても翻訳者の能力でつまらなくなる場合もあるが、この訳文はなかなかいいようだ。ミステリー翻訳界ではなかなか得難い才能である。

全体で三部構成だが、一部、二部は無難に来て第三部で最初はどうかな、やはり「まとめ」で破綻するかなと危惧したのだが、、、

狭義のミステリーではもちろんのこと、本書のような謎追いを物語の推進エンジンとしている犯人追い(マンハントじゃないウーマンハント)分野でも対読者のフェアネス(公正さ)が問題となることがある。第一部第二部では気にならなかった、つまり大体許容範囲だと読んでいたが、第三部でこれはどうかな、と思ったが、読み終わると杞憂だった(?)ようである。

第二部でアレックスが自殺する場面の描写があるが、第三部で警察の追求が他殺の線で行われ、おいおい、という感じであった。そして締めくくりは他殺で警察が処理する所で終わる。

で、上に述べてフェアネスの点だが、どうも自殺場面と違うな、と読み返したらうまくヒントがばらまいてある。たとえば、保存していた一本の頭髪を床に落とす所とか、ウィスキーのボトルを下着でくるんで持つところなどである。

つまり、アレックスが恨んでいる兄を他殺犯人に仕立てあげる細工をしたのだ、と読める。しかし警察はその筋書きを信じて兄を逮捕する。

これは趣向だね。新機軸だろう。ほかにも例があるかどうか。この種の小説はかならず警察とか探偵が真犯人を捉えて勧善懲悪が実現するのだが、その定石をふんでいない。しかも、小説で読んだことを記憶しているか、読み返して確認すれば誤認逮捕であるということが分かる様にしてある。おまけに予審判事に「大切なのは真実ではなくて正義だ」としびれるようなセリフを言わせている。大人のミステリーかな。現実にはどこの国の司法でも同種の事例があるような気がする。

さいごに、非情に、非常にかな、細かいことを、、377頁から378頁へ繋がらないようです。翻訳、編集、校正段階で数頁すっ飛ばしているのではありませんか。それともこちらの読解力の足りなさかしら。

377頁はトマの聴取、378頁はルロワの聴取では??

 


「その女アレックス」

2015-05-30 18:56:45 | 犯罪小説

今回はノワール系エンタメ本である。前回もそうだったか。私がエンタメ系を買う基準はまず文庫であることである。単行本を買った日には捨てる時に困る。それからよく売れていることである。もっとも新聞広告は信用しない。また書店が、あれはなんと言うのか小さな幟を立てているのは基準にしない。勿論帯の類いの文章も参考にしない。書評家の書評など論外である。

広告で一番不道徳、つまりお客を騙すのは出版業界が第一である。第二が不動産業、三番目が貸金業である。

 なにを参考にするかと言うと、刷数が多いこと、特に短期間に多くの版を重ねていることである。それから、出版屋や業界が挙行する何々賞受賞とか、第一位というのも全く信用しない。

刷数というのも、厳密に言うと信用出来ないのだろう。まず本当のことかどうか分からない。また一冊で何部印刷するかわからない。一回千部と一万部ではまるで違う。しかしそこまで突き詰めない。他に手がかりは無いからね。要するに売れていそうな本を買うという訳であまり高級な基準ではない。

もっとも、これはあくまでエンタメ小説のジャンルの話である。

そこで最近発見したのが、「その女あれっ!? X」である。何しろ半年の間に14刷とある。  ***


「カクテル・ウェイトレス」ジェームス・ケイン

2015-05-25 19:57:52 | ハードボイルド

書店でこの本に目をとめて買う気になった理由は二つある。『郵便配達は二度ベルを鳴らす』を二度ほど読んだことがあるが、興味を感じなかった。別にタイトルに義理立てして二度読んだ訳ではない。随分昔のことであるが最初に読んだ時にはまったく感興がわかなかった。しばらくして読み方が悪かったのかなと再読したが迫力を感じない(大方の世評はそのインパクトを買うのであるが)。で別の本の新訳が出たので(新潮文庫)、他の作品はどうなのかな、と思ったことがひとつ。

ケーンは1977年85歳で亡くなったそうであるが、この作品は83歳から85歳にわたって書かれ一応完成していたが出版されなかったそうである。それをある編集者(チャールス・アルダイ)が原稿を探し当てて編集し2012年に出版したそうである。 

犯罪小説らしい。毒婦ものらしい。83歳でどれだけツヤのある作品が出来るものか、と言う点にも興味があった。それなら、俺ももう一丁ポルノでも書けるかな、と色気も出るところである。 

上記のアルダイという編集者が解説を書いているが、ケーンはチャンドラー、ハメットと並ぶハードボイルドの大家だそうである。ケーンの文章についてはハードボイルドだという評価もあるようだが、チャンドラー、ハメットの範疇に入るというのは初耳だった。普通HB御三家というとチャンドラー、ハメットとロスマグということになっている。もっともロスマグはあとの二人に比べると大分小粒である。別にミステリーというか探偵小説に限らなければケーンも御三家なのかもしれない。

ケーンの小説では探偵の視点は物語を引っ張らない。あくまでも犯罪者の視点である。もっとも、読んだことがあるのは「郵便配達」と今度の『カクテル・ウェイトレス』だけだから他の作品がどうなっているのかは分からない。

一種の毒婦もの(訳者によれば悪女もの)である。叙述は彼女によってなされ(録音というかたちで)、自己弁護というか、一切犯罪を犯していないという弁明という形になっている。そして逮捕されるが法廷で無罪を勝ち取っている。しかし、妊娠中の彼女はサリドマイド(奇形児を生む薬害で有名)を精神安定剤として多用していることになっているから、作者はやがて彼女が待望する生まれてくる子供の不幸を暗示するというテクニックで彼女が毒婦であることをにおわせているようである。東洋風、古風にいうと「親の因果が子に報い、」というわけである。

そこで85歳の文章の艶はいかにというに、編集者の手も加わっているのであろうが、まあまあである。いささかバイアグラを服用して力んでいるような感じを与える所もあるが。


軍記ものに新内節が紛れ込んだらどうする ?

2015-05-20 07:02:56 | マルタの鷹

太平記の一節に新内節とか清元のような色っぽい小唄的表現が紛れ込んだらどう訳すか。原文が意図的に破調をねらったもので、それが決まっているなら翻訳も工夫しなければならない。 

そうではなくて、それがその作家の文章修行の過程でかぶれた、こった美文調が思わず露出したもので、前後と調和も無く、あえて意図的に破調を狙った者でなければ平凡に意訳するのもありかもしれない。

マルタの鷹第10章冒頭に

Beginning day had reduced night to a thin smokiness when Spade sat up.

(Vintage Crime)

とある。

こういう表現にはじめて出会った。わたしにはどうも典拠のある表現の様におもわれたのだが、あまり英米の小説をよんだことがないので普通の表現かも知れない。reduceにはたしかに何々になる、という意味も有るが。あまり見かけない。詩的というかひねった文章の様に感じた。ハメットのマルタの鷹の前後の文章からまったく浮き上がっている。英米文学の専門家なら典拠があるのか、ないのか分かるであろう。

第9章のおわりで夜も遅く、スペードのアパートでブリジッドとスペードが簡易ベッドのうえでギッタンバッコをした訳である。9章の記述から読むと、二人は謎のような、禅問答のような腹の探り合いをああでもない、こうでもないと延々とやっていたのだから床入りはもう早暁と言ってもいい頃であろう。 

霧のサンフランシスコでこの時期*何時ころ夜が明けるのか知らないが職業的探偵意識が彼の目をさましたのである。おそらく1時間か2時間しか寝ていないであろう。新内ならカラスの鳴き声に目を覚まされた、とやるところであろうが、霧のサンフランシスコではthin smokinessとなるのである。

*   この小説で季節についてはなにも書いてなかった様に記憶するが読落しているのかな。

参考に創元文庫と早川文庫の訳を示しておく。いずれも平板に説明的に訳しているが創元文庫の方がやや雰囲気を出している。

そこで、諏訪部氏が「マルタの鷹講義」でなにか触れているかなと思ったのだが全然言及がなかった。

創元文庫142頁

スペードが起き上がってみると、夜はすでに白みそめて、薄い朝靄がかかっていた。

早川文庫150頁

スペードが上体を起こすと、夜の闇は明け方の煙った薄明かりに変わっていた。

情事のあとの短夜を恨む表現は、泥棒の様にブリジッドのホテルの部屋に忍びこん家捜しするスペードの行動の表現としては原文でも浮き上がっているが。

 

 


いい女を犯人とするのは英米小説史上はじめて?

2015-05-19 08:52:20 | マルタの鷹

諏訪部氏「マルタの鷹22講」によると、ヒーローに愛される女性は善良である(悪事を行わない、犯人ではない)、というのは根強い通念であったそうである。大学で英米文学を講ずる先生であるから、少なくとも18世紀以降の英米小説はめぼしい所はすべて読んでいるだろうから本当なのだろう。 

だからブリジッドが犯人というのは新機軸だそうである。私が再三ブログで言って来たことだが、ハードボイルドの際立った特徴は良い女(すなわち魅力的な美女)が実は犯人であったという展開である。私はこれがハードボイルド小説の特徴であると思っていたが、別にHB作家の独創だとは思っていなかった。

ヒーローあるいは探偵に愛されるかどうかは別として、草創期のHBの代表作はすべてといっていいくらい、いい女>>殺人犯である。諏訪部氏の言う通りだとすると、HBを以後特徴付けるパターンは「マルタの鷹」が嚆矢となる。ハメットの作品でも他にはいい女=毒婦*という図式はない(私の記憶)からマルタの鷹は以後のHB(チャンドラー、スピレーン)の方向を決定した画期的な作品と言うことになる 

*  正調日本語のお勉強:

美女という言葉は明治の文士が作ったことばらしい。「いい女」という表現が日本語プロパーである。悪女というのはブスという意味である。現代日本語で使われている悪女という意味の言葉は正調日本語では毒婦という。ブリジッドは悪女ではない。毒婦である。また、毒婦の条件はいい女である。ブスでは男を手玉にとって悪事をはたらくことは難しい。もっとも木島某女のようにデブ系、ブス系でも毒婦がいるが、きわめて稀である。

 


 阿部公彦氏の「マルタの鷹講義」書評について2

2015-05-18 20:30:05 | マルタの鷹

阿部氏によると批評家に硬派軟派があるらしい。批評家というのは文芸批評家ということかな。硬派というのは阿部氏の書いてあることだけから理解すると一冊の本を一講義で数頁ずつ数年間にわたって行う人のことらしい。どうしてこれを硬派というのかな。

文章を読む時に特に引っかかるのは比喩が適切であるかどうかだが、阿部氏によると一個のハンバーグを細かく刻んで一日三食、何日間も食べるような者だという。アメリカ人はこういうジョークを言うというのだが本当かな。聞いたことが無いな。

比喩としてなっていない。こういうのがあると前後の文章すべてが疑わしくなる。唐突に「2時間のB級映画!」(何回も映画化されているがおそらく1941年のハンフリー・ボガード主演のものと理解したい)のマルタの鷹だという。映画はA級だろうとB級だろうと大体二時間前後だがね。とにかくわざわざ映画を持ってくる意味が全く理解不能だ。しかもエクスクラメーション・マーク付きとなるとね。

これは難癖をつけているのだろうが、書名に「講義」と付けているが印刷を目的として作成されたのではないか、という。たしかに講義録とつけたらすこし問題かも知れないが、書き下ろし、連載ものに「講義」と付けることはあるんじゃないの。まして、「マルタの鷹講義」は研究社のwebに掲載されたものだと当事者が公に断っている。悪質な因縁だろう。

あるところで阿部氏は「活動写真の弁士めいた語り口」という。いかにもケチをつけている語調だ。大体阿部君は活動写真を見て弁士の語りを聞いたことがあるのかね。どこからこういうたとえが出てくるのか。精神錯乱気味ではないか。

驚くのは3年前にアップされたこのみっともない記事が削除もされずに残してあることだ。東京大学の「Official Blog」なら誰かがなんとかしなくてはいけないのではないか。

随分難癖をつけまして申し訳ございません。しかしこれほど容易に難癖をつけられる記事というのも珍しい。

私は「マルタの鷹講義」に全面的には感心してはいないが、なかなかの労作であることは認めるものである。最初は私流に難癖をつけるつもりもあったが、阿部氏のブログを読んで急遽予定を変更したのである。

 


阿部公彦氏の「マルタの鷹講義」書評について

2015-05-18 08:12:37 | マルタの鷹

マルタの鷹あるいはハメットのハードボイルド小説は「今や、“ハードボイルドおっさん、のノスタルジアくらいにしか見られない」という。なるほど、そうかもしれない。市場ベースでみるとHB創業御三家のうち、活況を呈しているのは村上春樹訳で日本市場を確保しているチャンドラーくらいだろう。

早川文庫は近年ミステリー部門をリストラしているらしく、一部の作家達のシリーズ物しか書棚にない。クリスティとかチャンドラーとかパーカーとか。ハメットものはほとんどの書店においていない。編集方針の変更があったのであろう。

創元社は比較的ミステリー関連が以前にかわらず多い。早川と立場が逆転している。それでもハメットがある書店はきわめて少ない。御三家の一人ロスマグに至っては両社の本はどこの書店にも無い。もっとも洋書売り場にいくと比較的御三家の本はそろっている。アメリカ本土ではどういう事情か知らないが。

ところで阿部氏のブログには麗々しく「OFICIAL BOOK REVIEW BLOG

by Masahiko Abe」とある。おおげさな、オフィシャル・ブログってなんなの。しかもその上には大きな活字で阿部公彦 東京大学 (英米文学)と大書している。書くなら東京大学准教授と肩書きを書くべきではありませんか。

ブログ記事の日付は2012年4月16日となっている。書評の対象となっている「マルタの鷹講義」の発行日は2012年3月1日である。出版社の通例として発行年月日は先付けするようだから、おそらく書店に配本されたのは3月の末あたりではなかったか。

阿部氏は同僚にしてライバルである諏訪部氏の著書が刊行されるとすぐに入手してろくに読まずに書評を書いたのだろう。おおまかな印象で言うと、諏訪部氏の著書をちゃかし、けなしている様に読める。もしそうでないとしたら、私の印象が間違っているのか、あるいは阿部氏の文章に文徳が欠けているのであろう。

*  *

 


マルタの鷹講義、黄色は逡巡をあわらす

2015-05-17 10:21:53 | ハードボイルド

yellowなる語がもっとも頻出するのは終章である第20章である。警察に電話してスペードがブリジッドを警察に突き出す前に二人で会話するドラマチックな場面がある。

 

211: Spade’s face was yellow-white now.

211:His yellow-white face was damp so and so,

212:..and yellowish fixedly smiling face.

213:His wet yellow face was set hard so and so,

出典 Vintage Crime

 

スペードはアーチャー殺人の当初からブリジッドの関係を疑っていた。最初は無意識領域で、あるいは下意識で、そうしてやがてそれは半意識領域*にあがってくる。最後には意識内で断定する訳だ。

*お断り:心理学用語で半意識なる語があるかどうかしらない。しかし意味はわかるでしょ(うるさい読者がいるから一々断らないと)。 

性的関係を持った魅力的な女、愛したとは言えないが、強烈に性的に引きつけられた女(いわゆる惚れたおんな)を無情に警察に突き出すという決断に伴う苦悩であり、最終段階にあってもスペードの内面で矛盾した感情に逡巡するこころを表現したとも言える。 

では前回述べた第9章の黄色く燃えた目はどうなのか。これも逡巡、気迷いを表すとして意味が通る。黄色は逡巡を表すと同時に黄色信号(交通信号、アメリカでも注意信号は黄色である)である。胡散臭いひょっとしたら殺人犯かも知れない女と関係して自分に隙ができるのではないか、という職業的探偵の警戒心である。

いやいや、この女をたらし込めばひょっとしたら興奮したときに本当のことを口走るかも知れないという計算が一方に有ったかも知れない。翌朝にスペードのしつこい質問がそれを表している。

そういう諸々のスペードの心の動き、打算を「黄色」信号として表現したのである。現にスペードは相手が関係後の疲労で快い深い眠りに落ちている間に、彼女の鍵をハンドバッグから盗んで彼女のホテルの部屋の捜索を手早くすましている。

信号は黄色だ、渡れるかな、途中で赤にかわるかな、とあなたも逡巡することがあるでしょう。

最終章ではスペードは最後まで彼女を警察に突き出すかどうか、決めかねている。そのように最終章は読まなければならない。無理矢理に自分の気持ちをそう持って行くために彼女に非情にあたるのである。じっさい、彼女がガットマンやカイロと一緒に去ってしまったらスペードは彼女を止めなかったであろう。彼女は部屋に残ることによってかれを決断せざるをえない立場に追い込んだのである。

 

 


「マルタの鷹」黄色考

2015-05-17 06:32:18 | ハードボイルド

カポーティの「ティファニーで朝食を」では散々「mean reds」に悩まされた。村上春樹氏は簡単に「いやったらしいアカ」とすまして訳していたが、これじゃ同義反復で不得要領である。主人公の一人であり、ナレイター役の「僕」はangstのことか、と聞き返している。不安感とでもいうのか、実存主義かぶれ達が好んで使った言葉らしい。この辺の考察は以前にアップしたことがある。

さて、マルタの鷹に「きいろ、黄色」という単語が頻出するのだが、これがわからない。もっぱらスペードに関して出てくる。目の描写や顔色の描写として、である。スペードの内面を外形的に描写するつもりなのだろうが、これは一考を要する問題である。

色で情緒、気分、感情を表すことがある。ブルーなんてのは当代の若者でも使う。憂鬱な、というほどの意味である。その伝(デン)でいくと「きいろ」というのは卑怯とか臆病という意味になる。スペードもそういう気分になることもあろうが、どうもそれではスジが通らない。

例えば九章の最後の段落はスペードのアパートでいよいよブリジッドと性交する(村上、桐野流表現)場面であるが、His eyes burned yellowly. とある。

スペードがびくびくして、おっかなびっくり彼女にのしかかる、とは取りにくい。かれは「金髪の悪魔(第一章)」だから目が金色に怪しく光るのか。たしかにひとつの解釈かも知れない。しかし、これでは少年少女向けの劇画になってしまう。 

*   *

 


諏訪部浩一著「マルタの鷹講義」第15章について

2015-05-16 08:36:45 | ハードボイルド

研究社から出ている該書を買う気になったのは、原著第10章冒頭の文章をどう説明しているかを、あるいはなにか説明しているかを知りたかったためである。結果として諏訪部氏はなにも触れいない。少々がっかりしたわけである。このことについては別稿で述べたい。

今回は15章の解説が随分ピント外れなので、先にこの件について触れたい。第15章はスペードに比較的好意的な部長刑事と食事をし、そのあと地方検事の事務所に呼ばれて行くところである。

問題は地方検事とのやり取りに諏訪部氏が加えた解釈である。全くの見当外れといわなければならない。英文学評論の学究として博識な英米の文学理論を操ってマルタの鷹を解説しているのが本書である。しかし、所々でまったくおかしな解釈をしている。

警察あるいは検察と私立探偵(ハードボイルド小説に現れる)の対決を註釈している章はこの章の他にもあるようだが、両者の関係を公権力の腐敗とハードボイルド探偵の白馬の騎士的な対決という少年小説レベルの分かりやすい構図で押し切ろうとしている。まったく滑稽としかいいようがない。

たしかに、その面はあるだろう。ハメットでは「血の収穫」は一応そうとらえてもよろしい。チャンドラーの小説にもそういう面は有る。しかし、それは中心ではない。ハードボイルド小説で私立探偵と警察のなかが険悪となるのは「縄張り争い」である。

警察は探偵が持っている情報がほしい。逆に探偵は警察が持っている情報がほしい。そして地方検事や地方の公安委員は探偵のライセンスを取り上げる権限をもっている。(注:日本では探偵に免許は不要である)。理屈をつけて探偵を逮捕、起訴することも可能である。この立場を利用して探偵に圧力をかける。それに探偵が雄々しく耐え、抵抗する。ま、これがハードボイルド小説の一つの特色でもある。

探偵には依頼者の秘密保持の行動倫理がある(ことになっている)。この行動規範を取り去ると、探偵は単なる警察の手先となる。たれ込み屋と変わらなくなる。

地方検事が犯人についての仮説を述べる所がある。それを聞いてはハメットが茶々を入れる。諏訪部氏はこれを大真面目に受け取って検事の無能をハメットと一緒に成って嘲笑うかの様に解説する。そうだろうか。 

警察は依頼者がだれであるかの情報を持っていない。ハメットが教えない訳である。依頼者の指示で尾行をしていた相手が殺される。当然依頼者が事情を知っている。あるいは依頼者が関係していると考えるのが人情である。現にスペード自身も同様の疑念を持っているが、あまりにも突拍子もないし、証拠もないから結論はくだせない。そうだろうか、そんなことがあるだろうかと小説の終わりまで迷っているのである。 

警察が知っているのは殺害された人物がヤクザの親分のボディガードということである。また、その親分が賭博のトラブルでアメリカをふけたことも情報として知っている。とすれば、依頼者の情報をスペードが警察に開示しなければ検事の仮説はきわめて理論的である。あまり前である。それはスペードにも分かっている。茶々をいれて混ぜ返したのは、自分の情報や推理を隠蔽するためだろう。

そして鋭敏なハードボイルド読みには当初から気が付いていたろうが、大部分の読者がまだ気が付いていないポイントを検事の推理としてハメットがここで読者にはじめてサービスしたと考えられる。つまり依頼者を探れ、と。

それでも凡庸な読者は小説の終わりになってはじめて犯人がブリジッドだと教えられるのであるが。

 


マルタの鷹講義2

2015-05-15 20:11:38 | ハードボイルド

マルタの鷹の第五章の終わりのほうにスペードが

“What about his daughter?”

とカイロに聞く所がある。(Vintage Crime p50)

彼の、って誰の?てなものである。読んでいるほうではよく分からない。この種の誰を受けているのだか分からない人称代名詞があちこちに出てくる。これもリアリズムなんだろうな。つまりハードボイルドもの(HB)あるいはハメットの記述テクニックなのだろう。 

普通は読者の便を慮って、『スペードはひょっとするとカイロの話す依頼人(カイロに黒い鳥の彫像を買い戻す様に依頼した人物)に娘がいて(そんな話はここまで出てこないが)、それがブリジッドなのかな、と思って当てずっぽうにカイロに質問をぶつけた』とでも書く所かもしれない。

しかしHBである。探偵の心のうちは描写しない。そうすると「彼の娘はどうなんだ」というセリフしか読者には披露できない。 

ちなみに創元文庫では「あの男の娘はどうかね?」(81頁)と忠実に訳している。いっぽう早川文庫では『「あの男の娘の方はどうなんだ」とスペードがかまをかけた。』(87頁)と親切な注釈的意訳である。

もっともこれが作者の意を体しているかどうかは疑問ではある。早川の訳者は東大英文学准教授諏訪部浩一氏の指導を受けているようだから、諏訪部氏の意見が反映しているのかもしれない。

早川文庫の訳者小鷹信光氏は諏訪部氏の指導後改訳したそうで、其の前の版でどう訳しているか興味が有るが、そこまでは手元に旧版がないので紹介できない。

上記は一例でかなりの箇所で同様の突き放したような曖昧さがあるので、50頁を例にとって説明した。これがハードボイルド(HB)のナラティヴだということなのだろう。

 


マルタの鷹講義1

2015-05-14 15:50:09 | ハードボイルド

 これから何回か、マルタの鷹に限って文体の問題等を取り上げたい。マルタの鷹に限るのはたまたま再読しているという理由だけである。ほかの作品は再読するかどうかの予定は決まっていないので。

マルタの鷹は完成品ではないと書いたが、文体に関してもしかり、のようである。文章もごつごつしている。それが意図的かも知れないし、それはそれで瑕疵でもなんでもないことは言うまでもない。

心理的な内面描写をしないというのがHB文体らしい。この私の理解が間違っていれば以下は別様になる。この理解で進める。

気が付くのは異様に形容詞と副詞が多用されていることである。心理状態を表現したり、表情に注釈的に形容詞を至る所で付け加える。動作にいちいち副詞をつける。具体的な動作の表現や表情の形態を解剖学的にあるいは絵画的に表現するのがHBだと思っていた。評論家が書いているものを読むとそう取らざるをえない。

形容詞や副詞はステレオタイプの心理描写の典型である。マルタの鷹には、これとは別にまったく即物的な記述も多く(つまりHB的)、この二つの表現方法の混じり合わない異様さが気になる。

形容詞や副詞は作者が登場人物の心理状態の判断を一方的に読者に押し付けるものである。そしてその視点は三人称多視点あるいは神の視点(言い換えれば作者の視点)からなされる。

 


ハメットの文体

2015-05-11 07:39:45 | ハードボイルド

前回の様にハメットを数パラグラフで片付けては(決めつけては)大ハメット(ファン)には申し訳ない。そこで少々思いついたままに追加。 

というわけで買った。前に読んだ本はとっくに処分したのでvintage crime版を購った。最初の二、三章は快調だが読み進むうちに訳の分からない文章が出てくる。この版の誤植ということはないだろうか。前に読んだのは別の出版社のものだったのだろうか。ペンギンだとか。

ハメットの文体はハードボイルドの典型といわれるが、はなはだHB的でない文章が出てくる。大分前に短編を含めてかなりの作品を読んだ。その記憶も大分薄れているが、チャンドラーと違い、ハメットには様々な文体がある。ま、それが彼の作家修行の過程を表しているのだろうが。意外に思うかも知れないが、鼻持ちのならない美文調の作品もある。気取った文章もある。

前回マルタの鷹は完成品だと書いたが訂正する。比較の問題だが、彼の場合、完成品と言えるのは「ガラスの鍵」と「the shin man」だろう。余談だが後作を「影なき男」と訳すのはどういうセンスだろうか。

たしか、マルタの鷹では結末でオーショネシーという女依頼人が探偵スペードの相棒を闇討ちした、と判明することになっていたと記憶する。そこでそこへのハメットの持って行き方を注意して読んでいる。

 

手だれで尾行も専門の相棒が簡単に闇討ちされるとは考えられない、とスペードは最初から疑っていたわけである。したがって尾行している相手から返り討ちにあったとは考えられない。とすると尾行を知っているのは尾行を依頼した女しかありえない。しかし、それはあまりにも突拍子もない考えだ、とハナから金髪の悪魔スペードは女を疑っていたのであるが証拠がない。

この気迷いを三人称視点で仕草や表情で外面的に描くハメットの手腕が作品のキモとなる。でそこを第一章から注目して読んでいる。なるほどね、と思ってね。

なかなか考えてるな、と感心しているのだが、そのうちに誤植としか思えない文章が出てくる。前に読んだ時には気が付かなかった(と記憶している)のだが。 

ハメット自身の言葉として、一番気に入っている、つまりうまく書けた作品は「ガラスの鍵」だというのがある。たしかにヒントのばらまき方だとか「回収」の仕方など齟齬はないようだった。しかし、いかにも地味な作品である。

女(上院議員の娘だったかな)と探偵役のヤクザ(仕事師)との関係もステレオタイプで地味すぎる。一般受けはするまい。それに比べるとマルタの鷹のキャラ建ては受けるだろう。「ダイナマイト」であり「ワイルドキャット」でもあるオーショネシーなど独創的だ。

Thin Manはコメデイタッチでこれはハメット作品の中ではアメリカで一番売れた作品らしいが、連続大衆テレビ番組の脚本みたいな所があり、ハードボイルドの犯罪小説とは言えない。もっとも当時テレビは無かったがブロードウェイで上演されて大当たりをとったという。

マルタの鷹は完成品としては瑕疵があるが、HBのクライムノベルとしては限られたマニアのあいだでは一番好まれる作品なのだろう。

日本でもだれかマルタの鷹の新訳を工夫してくれないかな、翻訳ではなくても翻案でもいい、うまくいけば人気が出るかも知れない。

 


ハメット「マルタの鷹」

2015-05-09 11:43:07 | ハードボイルド

チャンドラーの短編には三人称視点のものがいくつかあった。記憶で言うと「脅迫者は撃たない」、「シラノの拳銃」、「スペインの血」や「ヌーン街で拾ったもの」かな。他にも有ったのかも知れない。

そこでふと思いついて、三人称視点だからピンとこないのかなと思って、検証しようと(物好きも昂じたものだが)拾い読みをした。印象から言うと、三人称視点だからということではないようで、一人称でも分かりにくい、つまり印象が薄いものはある。そうすると、短編時代は習作期間だったのかも知れない。

文章は出来上がっていても、小説の構成なんかではまだ慣れていなかったせいで読みにくいのかもしれない。

一語1セントの原稿料だったというから(いくら物価が違うといっても安価なものだ)あまり練らないで書飛ばしていたのかも知れない。やはり、村上春樹氏の評価はおおよそのところ当たっているのだろう。

そこで三人称といえばハメットだ、とハメットに飛んでしまった。わたしの読書対象のいうのはとんでもない所にとんでもない理由で跳ぶのである。マルタの鷹を読み始めたがさすがによく出来ている。完成品だな。

 

 


チャンドラー短編の評価

2015-05-02 08:41:12 | チャンドラー

村上春樹氏はチャンドラーの短編は翻訳する気はないと言う。「短編はどうもね」と何処かで書いていた。質が落ちるという訳である。

その理由は「ブラックマスク」誌の編集方針というか編集者の意向がはっきりしていたというのである。BM誌は扇情低級誌であった。犯罪小説は格好のジャンルであったが、しんねりむっつりでひとりよがりの「本格もの」はお呼びでなかったのである。

クライムノベルでも短編でも小説だから起承転結はある。しかし、紙面の制約からとにかく、活劇場面、猟奇場面が一応描かれていればイントロとか最後の謎解きは編集者に端折られてしまう。チャンドラーと編集者の関係も例外ではない。

BMはいわゆるパルプマガジンである。すなわち粗悪な価格の安い紙を使うからそう言われた。紙代までけちるのだから、小説の長さも「不要部分」は削る様に作者に要求する。これが作品の質に影響する。作者のフラストレーションになる。

最近大いなる眠りを読んだあとで、この作品の下敷きの一つである短編「カーテン」を再読したが、第一章は要領を得ない。初読の時の印象を思い出した。こういうことが他の短編でもあるのであろう。

チャンドラーはこれを嫌って、後半は長編に移行した訳だが、どうも私の観る所BM時代の影響習慣が長編にも残っているようである。よく言われるプロットがあまい、構成が甘い(齟齬がある)、などという批評はBM時代の習性がおのずから残っているのであろう。

チャンドラーの命は印象的なシーンである、それを的確に(相応の感受性を持った)読者に伝える卓越した文章力である。つまり、イメージ、場面優先の作家である。皮肉なことだが、BM誌の商業的な厳しい制約は、別の見方をすれば、チャンドラーの資質を鍛える役割を果たしたのではないか。