第一編読了すなわち一日目まで、あるいは新潮文庫ドストエフスキー『白痴』上巻400ページまで。
前回読んだときに索莫とした印象を持った原因をほぼ特定した。主人公をムイシュキンとして読んだために面白くなかったのだ。主人公はナスターシャであり、ムイシュキンは操作子にすぎない。ロゴージンすらナスターシャを照明する操作子である。
再三評論家諸子や出版業界の惹句として言及される「キリストのような善意の美しい人ムイシュキン」に視点を当てて読むとまったく興趣が湧かない。
各種ドスト資料で言及されるように作者がムイシュキンを主人公にしようと書きはじめたことは間違いないが、結果として出来た作品ではナスターシャが主人公となっている。そして大成功。そういう思わぬ成り行きと言うのは創作活動ではよくあることでしょう。
罪と罰以降の長編ではドスト作品の魅力はピエロを演じる酔っ払いの長広舌である。少なくともこれが無くては私はドスト作品の読むところがない。
最初印象が薄かったのはこのピエロの演出に冴えが見られないことであった。今回再読に当たっては注意して読んでいるが、その役割はイヴォルギン将軍、あるいはロゴージンにつきまと言う小役人のレーベジェフというところだろうが、他の作品のようなキレがない。
しかし、よく読むと、今回はナスターシャがピエレットも演じている。これは大成功、第一編最後の彼女の自宅での夜会はまさにこれである。
第二編以降はこれから読むわけだが、この点を抑えておけば興趣湧くが如しであろうよ。
なお、ナスターシャをどう見るかだが、「女性」性の本質的穢れを正直に聡明に勇気を持って認めた素晴らしい知性の人とする。おいおい読み進めて肉付けをしたうえでナスターシャ論については稿を改める予定である。
私事になるが、大昔、まったく同じ文句で振られたことがある。392ページ参照「公爵、これでいいのよ。ほんとにいいの。たとえ結婚してもいずれは、あたしをさげすみだして、とてもあたしたちは幸福になんかなれやしなくてよ」
その時はうまい文句で体よく振られたと思っていたが、そうではなかったのかな、なんてね。後悔先に立たず。