穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

うつ病には何歳からかかるか

2011-07-27 18:38:37 | 本と雑誌

さる書店、某日某時、どう見ても10歳以下に見える真っ黒に日焼けした、細い脚をした少女が背伸びをして書店の本棚から取り出した本のタイトルは『うつ病の治し方』。

後ろを通りかかったアタイは思わず彼女の顔をみたね。見たところ普通で、『カルトの子』っぽくない。

こうなると、アタイは見届けなくては気が済まない。あんまり傍に立っているわけにもいかないから、大きな書店を一回りして家庭医学のコーナーに戻る。まだいる。三回ぐらいチェックしたかな。次に言った時には少女はいなくなっていた。

妙な風景だと思いませんか。なに、ブログに書くほどのことはない。そうですか。


十二:ドストエフスキーにおける「少無適俗韻」の系譜

2011-07-12 07:59:26 | ドストエフスキー書評

陶淵明流に言えば「若きより俗に適うの調べなく」(少無適俗韻)という性格の人物がドストエフスキーの多くの小説の主人公である。その形態は頭の使いすぎ、本の読み過ぎだったり(女あるじ、罪と罰)、引きこもり(女あるじ、地下室の手記、罪と罰、二重人格)である。『白痴』の場合は精神疾患ということになっている。

そういう人物が「世間」という百燭電灯のもとでストレスにさらされ、多くの場合に恋愛というイベントで精神に変調をきたすというパターンがほとんどといっていい。その場合女は幻と言うか幻想というか、現実というか曖昧模糊としている。しかし、白痴の場合は他の作品に比べて非常に現実感を伴っている。

ようやく最後まで読了した。最後は見事にまとめているが、これは相当注意して読まないと「何が何やら分からない」小説である。ラストのまとめを別にすれば、この欠点は次の要因によるものであろう。

タイトルの白痴は非常に間違った先入観を与える。物語はムイシュキンが精神疾患と精神疾患再発の間の正常な状態の時のことである。ただ、「俗に適う調べ」が極端にないことが特徴である。白痴ではない。これが非常に読んでいてちぐはぐな感じを与える。

タイトルは変更すべきだったろうが、連載小説と言う性格からあとで変更できなかったのだろう。この連載小説であったこと、そしてドストの場合でも極めて精神的に不安定な時期にしかも色々と不如意な外国で執筆を継続したということが様々な読みにくさの原因であろう。

ナスターシャが主役であり、アグラーヤが準主役であり、ムイシュキンとロゴージンは形而上学的操作子であるという布石で再構成すれば非常に迫力のある、息もつかせぬ作品になったように思われる。


十一:ドストエフスキーにおけるテーマ

2011-07-09 09:39:34 | ドストエフスキー書評

ドストを思想家として評価するのは割と一般的らしい。平凡社だったかな、思想家叢書みたいなシリーズでドストが入っている。もっともこの双書、妙な人物がほかにも思想家、哲学者として入っているから何でも入れちゃうんだろうが。

思想家、哲学者としてのドストは評価できない。それは、長編を書くときにはテーマが必要だから思想らしきものがある。粘土などで大彫刻を制作するときに最初に骨組みと張りぼてを作る。素材は廃材でも、ぼろきれでも、古新聞でもいいわけである。ドストの思想と言うのはそんなものだろう。

私はドストは何回も読むが、思想を読むわけではない。シェークスピアを読むときに、あるいは観るときに思想なんて貪るように吸収するかね。「生くべきか、死すべきか」なんて思想でも何でもない。それだけ。だけどシャークスピアは偉大だ。

ニーチェがドストを読んでいたそうだ。原典が不明だが、どうも鋭敏、詳細、異常な心理描写に引かれるものがあったようで、思想的にどうのこうのというのではなさそうだ。

もっとも私の定義ではニーチェも哲学者ではない。思弁的心理学者とでもいうべきだろう。じゃジムクンド・フロイトは何だって、そうねえ、通俗的思弁心理学者とでも言うのかな。

前回、イポリートの長々とした告白のことに触れたので、前から一言補足しておきたかった「思想家としてのドスト」について述べた。極言すればドストはテーマ作家として偉大なのではない。これは膨大な「作家の日記」を通読すれば分かることだ。思想家の側面があることは間違いないが、偉大ではない。


十:ドストエフスキー『白痴』

2011-07-08 08:43:56 | ドストエフスキー書評

ポジション・レポート下巻186頁:イポリートの遺書読み上げ。

最初に述べたことに戻るが、この小説は退屈な部分が多い。だから、最初に読んだときに印象に残らなかったわけで、今回の書評では印象に残った部分は忘れないように途中であっても随時記録している。

これまでのところ、いいなと思うのはナスターシャの家での夜会、ムイシュキンがロゴージンの家を訪ねるところぐらいだ。脇筋では隠し子の遺産分け前騒ぎをさばくところもテンポがいい。

再読するきっかけとなった講談社学術文庫の中村健之助『ドストエフスキー人物事典』についても補足しておこう。良書ではあるが、彼の主張の半分以上は賛成できない。

いま読みかけのイポリートの告白も感心しない。ドストは死にかけた未成年を書くのが好きだ。それに仮託していろいろと脇筋のテーマを語りやすいのだろうが、いずれの場合も冗長ではあるが、ドストの最大の特徴である冗長性と緊迫性の渾然一体感がない。

言ってみればベートベンの第五フィナーレのくどい良さがドストの最大の売りである。

ドストは手紙、告白、懺悔にかこつけて思想を開陳することが多いが感心しないものが多い(下手である)。

世間ではカラマーゾフの大審問官のくだりに感嘆するものが多いようだが、どんなものだろうか。あるいはスタヴローギンの告白とか。


九:ドストエフスキー白痴

2011-07-05 07:52:12 | ドストエフスキー書評

ムイシュキン公爵は白痴ということが本屋の売りになっているが、どうしてどうしてそうではない。

ドストエフスキーの小説は犯罪で味付けするわけだが、脇筋で上巻585ページあたりからかなりながい挿話がある。ロシアの天一坊事件ともいうべきブルドフスキー詐欺事件である。

大金の入ったムイシュキンを騙して金を取ろうと言う輩のグループの物語だが、ムイシュキンはどうしてどうして鮮やかな手並みで彼らを撃退する。代理人を使って調査を行い詐欺事件の真相を暴きだし一味を撃退する。

ムイシュキンがばかであるという設定からすると違和感がある部分である。ドストは最初、大金の転がり込んだ知能のたりない、すぐに人に金を恵んでしまう公爵が事件に巻き込まれるところを書きたかったのだろうが、筆が走って見事詐欺を暴きだす物語を書いてしまった。本来なら詐欺の被害者になるところを書きたかったのだろうが(白痴を強調するために)、出来あがったのが見事な出来栄えのためにままよ、とそのままにしてしまったのであろう。 連載ものであり、締め切りにも追われていたに違いない。

この部分はなくても一向に差し支えない部分である。

さすがに、腕力のあるドストであるから、後へはうまく続けてはいるが。


ナスターシャは女優I.A.さんみたい

2011-07-04 20:04:24 | ドストエフスキー書評

日本の大女優に、ロケなどでストレスが高まると、宿泊している旅館の自分の部屋の壁やふすまに自分の排便をなすりつける奇癖を持った人がいた。

ドストエフスキーの白痴のなかのナスターシャと同じだ。どう同じだって。考えてください。

ところで第二編にムイシュキン公爵がロゴージンの陰気な家を訪ねる場面がある。ここも筆がさえるところだが、場面の主役はナスターシャである。ムイシュキンとロゴージンがナスターシャのことを話すところで、ナスターシャはいないのだが、それでもこの場面の主役は彼女である。


感情移入すべきはナスターシャ『白痴』

2011-07-03 14:22:39 | ドストエフスキー書評

第一編読了すなわち一日目まで、あるいは新潮文庫ドストエフスキー『白痴』上巻400ページまで。

前回読んだときに索莫とした印象を持った原因をほぼ特定した。主人公をムイシュキンとして読んだために面白くなかったのだ。主人公はナスターシャであり、ムイシュキンは操作子にすぎない。ロゴージンすらナスターシャを照明する操作子である。

再三評論家諸子や出版業界の惹句として言及される「キリストのような善意の美しい人ムイシュキン」に視点を当てて読むとまったく興趣が湧かない。

各種ドスト資料で言及されるように作者がムイシュキンを主人公にしようと書きはじめたことは間違いないが、結果として出来た作品ではナスターシャが主人公となっている。そして大成功。そういう思わぬ成り行きと言うのは創作活動ではよくあることでしょう。

罪と罰以降の長編ではドスト作品の魅力はピエロを演じる酔っ払いの長広舌である。少なくともこれが無くては私はドスト作品の読むところがない。

最初印象が薄かったのはこのピエロの演出に冴えが見られないことであった。今回再読に当たっては注意して読んでいるが、その役割はイヴォルギン将軍、あるいはロゴージンにつきまと言う小役人のレーベジェフというところだろうが、他の作品のようなキレがない。

しかし、よく読むと、今回はナスターシャがピエレットも演じている。これは大成功、第一編最後の彼女の自宅での夜会はまさにこれである。

第二編以降はこれから読むわけだが、この点を抑えておけば興趣湧くが如しであろうよ。

なお、ナスターシャをどう見るかだが、「女性」性の本質的穢れを正直に聡明に勇気を持って認めた素晴らしい知性の人とする。おいおい読み進めて肉付けをしたうえでナスターシャ論については稿を改める予定である。

私事になるが、大昔、まったく同じ文句で振られたことがある。392ページ参照「公爵、これでいいのよ。ほんとにいいの。たとえ結婚してもいずれは、あたしをさげすみだして、とてもあたしたちは幸福になんかなれやしなくてよ」

その時はうまい文句で体よく振られたと思っていたが、そうではなかったのかな、なんてね。後悔先に立たず。


「白痴」試薬としてのムイシュキン

2011-07-02 08:49:52 | ドストエフスキー書評

p303における仮説::ムイシュキン公爵は美しい人、純真な人、キリストのような人ということになっている。

公爵は主人公であるとともに、ナレイターであり観察者である。また、測深器でもあり、試薬でもあり、触媒でもある。自分自身は変わらず、他の材料に投入した途端に物体を変化させる。隠れた物質の本質を色分けする。

試薬はそれ自身は不変でなければならない。すなわち「空気が読めて」自分自身が変化しては話にならない。てなところがドストがムイシュキン人形を操作するために固定した役割ではないか。

この仮説のもとに読み進めたい。この仮説に立つと、ムイシュキン公爵は主役ではなく、一貫して舞台に立つ黒子である。属性を持たない、述語を持たない絶対者に近い「概念」となる。


白痴『譬ならでは語り給わず』

2011-07-01 20:14:28 | ドストエフスキー書評

ドスト白痴一気に190ページ、精読に値する。いや前回はどうしたのだろう。中村健之助氏の評が的をついていたのかな。ちょっとしたことで見方を変えるとぐっと迫ってくることがあるからね。

ただ、書評家の意見が参考になることは滅多にはないのだが。このブログでも芥川賞選考評の批評をしているくらいでプロの書評家という、別名ランターン・ベンダー諸君の書評が参考になることはないのだが、これは例外だ。

ドスト氏はムイシュキン公爵でキリストをイメージしたというが、威厳なきキリストと言うところもある。ムイシュキンが初めてエパンチン将軍家の夫人と娘三人に会う場面がある。そこで色々な話をさせられるように持って行くところがあるが、その話の一つ一つが新約聖書のキリストの説教の譬えのような趣がある。おそらく意識的にドストが行ったものだ。

表題の「譬えならでは云々」はマルコ伝4-34にあるものだが、この部分を読んでいてキリストの説教を思い出した。

こんな文句ではじまる挿入もある。「ここでしばらく筆を休めて、この物語のはじめにおいてエパンチン将軍一家がどんな事情と関係におかれていたかについて直截正確な説明を試みることは、この物語の鮮明な印象をそれほど傷つけるものではないであろう」

複雑な多数の登場人物の錯綜する超長編を読者に分かりやすくするために手探りをしている様子がうかがえる。


天使の辞典3

2011-07-01 08:56:36 | 社会・経済

%% サイレント・キラー = 歩道走行の自転車

%% リンリンザウルス = 歩道の肉食小恐竜、女性や若造が漕いでいることが多い。

%% 二輪(フタワ)ザウルス = 同上

歩道走行を認める場合は自転車に騒音発生機を装備すること。時速を4キロ以上でないように作る(低速で安定走行できるように改良する)。歩行者追い抜きはいかなる場合にも禁止。呼び鈴の装着禁止。

自転車には外れないように、使用者特定タグ(電子デバイスが望ましい)を固定すること。事故の際の責任の追及。当て逃げ防止対策。自転車利用者の体に装着する器具とペアにするといい。

自転車の前に衝撃緩衝用のバンパーを装着させる。


天使の辞典2

2011-07-01 08:16:26 | 社会・経済

%% 悪女 = ugly women 倭読み 「しこめ」(醜婦)、ブス

注:悪女 X=X 毒婦

大学入試で悪女の意味を次の二つから選べ、という問題が出る。

1.悪い女、毒婦  2.醜い女、ブス

1を選ぶと大学センター試験に落ちますから気をつけるように。

悪女とは容貌の悪い女ということです。


ドスト『白痴』ポジション・レポートp80

2011-07-01 08:05:22 | ドストエフスキー書評

新潮文庫で80ページまで読んだ。前回までの書評を訂正しないといけないようだ。

読む前に書評をしたり、途中まで読んで書評をするからたまに訂正をする。滅多にそういうことは無いのだが。

それとも一わたりセンチメンタル・ジャーニーでドストを読み返してきたから印象も変わってきたのかもしれない。


天使の辞典1

2011-07-01 07:05:02 | 社会・経済

%% ジゴロ = 女を歩くATMと思っている。金が思ったように出てこないとATMをひっぱたく。

%% 毒婦 = 男を歩くATMにする。

もっとも、この定義を採用すると毒婦という概念はすべての女性を内包する恐れがある。さらに検討必要(審査員講評)