西村賢太の小説を読んで、これは不愉快型私小説だなと思った。志賀直哉との類似である。志賀直哉はWIKIPEDIAによれば調和型心境私小説だそうだが、「不愉快」とことごとに腹を立てる気分が中心となっている。
志賀の場合は、すぐ、不愉快と書くがなんだかよくわからない。父親の態度であり、友人の態度らしい。西村の場合は縷々説明敷衍する癖があるからその点は判りやすい。
西村賢太の小説を読んで、これは不愉快型私小説だなと思った。志賀直哉との類似である。志賀直哉はWIKIPEDIAによれば調和型心境私小説だそうだが、「不愉快」とことごとに腹を立てる気分が中心となっている。
志賀の場合は、すぐ、不愉快と書くがなんだかよくわからない。父親の態度であり、友人の態度らしい。西村の場合は縷々説明敷衍する癖があるからその点は判りやすい。
私のハードボイルドの定義は「犬も歩けば棒にあたる」。
池上冬樹氏によれば「私立探偵小説は、事件の捜査が、一人の証言から手掛かりを得て、また別の証言者へと向かう巡礼形式をとる」
じゃによって私によれば、ハードボイルドは内容がよほど、どぎついか煽情的でない限り読者を得られない。あるいはその文章が水準を相当抜いているかどうか、が成功を左右する。前者の例がミッキー・スピレーンである。後者の例がチャンドラーである。
スピイレーンが現在読まれないのはその当時のどぎつさがこんにちのレベルではちっともどぎつくないからである。
池上氏は続ける。前記の巡礼方式をとるため、「小説が往々にしてパターン化してしまうことが多い。よほど技巧とプロットに長けていないかぎり、マンネリ化は避けられない」、、「そこで作家たちはマンネリ化を避けるために、、、主人公の私生活を綿密に描くようになった。、、、私立探偵小説の私小説化」云々
上記はクラムリーの「さらば甘き口づけ」(ハヤカワ文庫)への池上氏の解説の一部である。氏の解説の続き、「しかし、ほとんどの作家の作品では、あくまでもメインは事件であり、作家の私生活は脇筋なのである。しかし、クラムリーは違う」などなど。
池上氏は「私小説化」というが、いわゆる私小説とは違う。作者が作った探偵の私生活であり、一人称一視点で語られることが多いために、いかにも「私小説」めいて見えるということだ。
日本の私小説でも、どこまでが作家の実生活の露悪なのか疑問がある。ま、作りごととホントが半々というところだろう。しかし、叙述のスタイルではいわゆる私小説とハードボイルド御三家のチャンドラーおよび一部の継承者のスタイルとはたしかに類似がある。
御三家の中でこういう視点が入るのはチャンドラーだけのようだ。だから村上春樹がロンググッドバイの解説で触れているように彼も戸惑うのだろう。もっとも村上氏の捉え方はどうかと思うが。そこにチャンドラーに対する奇異の感を見るのは鋭い。
さて、西村賢太「苦役列車」にとりかかる。70ページあたりまで読んでほうっておいたが。
久しぶりに私小説という言葉を聞いたね。昔は右を向いても左を向いても私小説みたいな時代もあった。
ところで私小説とはなんだ、とWIKIPEDIAを見て驚いた。そこで私小説の例として作品のリストがあるのだが、ものすごい拡大解釈という感じがする。なんだか、小説は全部私小説になってしまうようだ。このリストはおかしいね。
もっとも、私小説には破滅型と教養型があるそうだ。だけどリストを眺めるとどちらにも入らないのが多い。おいらなんかは私小説と言うと、ここでいう破滅型を連想していたのだろうな。そうして西村氏もこの範疇にはいるようだ。
小説の材料に自分の体験を何らかの形で反映していないものは少ない。それを全部私小説といえば私小説は日本の専売特許ではなくなる。
私小説と言えば露悪型、破滅型というイメージだ。しかし、私小説ほど筆力がいるものはないだろう。露悪といっても個人の体験など正直に書いても、第三者には退屈なだけだ。殺人犯とか脱獄囚の手記でもそのままではなかなか商品にはなるまい。かならず、介助者の潤色が必要だ。
超セレブの大政治家の回想録も必ずしも面白くない、という例もある。それを名もなき若年の市井の個人の生活を小説として商品化する、狭いマーケットであっても、大変な実力が必要であろう。
自分の生活を、それも19歳ころの生活を書いて、そのまま商品化出来るわけがない。西村氏にはそれなりの実力があるのだろう。
次回はチャンドラーにその萌芽がみられるハードボイルド小説の私小説化について番外サービス。
& 読み終わった。この人はポルノも書いているんじゃないのかな。すくなくとも書けそうだ。エンターテインメント分野でもなにか書いているんじゃないかな。知らないけど。
&& アメリカでも通俗雑誌でポピュラーな分野は告白小説だというが、これは形式としては私小説だよね。本人の実体験を直に出しているか、告白風は体裁だけなのか、という違いはあるが。
朝吹真理子のきことわ。悪口クーポンも残り少なくなったのでそろそろやめておくが本作りについて一言。
単行本になったのは今回初めてのようだが、随分誤植があるようだ。あるいは原稿段階からのものか。校正者の責任だろう。彼女は気取ってしなを作るから、意図的に目ざわり(目にとまる)ような書き方をしているのかな、と思ってもみたが、どう見ても誤植(あるいは間違い)という箇所が複数ある。
最初は新潮に出たらしい。新潮って雑誌でしょ。デジタル化して原稿はとっていないのかね。それとも雑誌の初出から間違っていたのかな。
もうすこし丁寧に本は作ってほしいな。
朝吹真理子「きことわ」96ページ。ぼちぼちやっておる。
90ページ前後から読み始めたほうがいいかもしれない。95ページあたりにはブラム・ストーカーみたいなところもある。
一文之を覆う、曰く、我はかって有り、今有るもの。我は汝であり、汝は我である。我は今此処に有り、今彼処にあるという意識あるいは無意識。ナレイターは耳年増、かまとと。(これが出来るのは神かアメーバか鳥インフルエンザ・ウイールス)。
処理の仕方を評価すれば、厳正に見れば中の下、甘く見て中の上。ただ現在価値を見るのではなく、将来価値を見るのであれば(芥川賞はそういう性質らしい)、選考委員は将来の才能の種を見ているのかもしれない。
あたしは伯楽じゃないから、その点はコメントを差し控える。
1200円の悪口クーポンはまだ残っているかな。、、、
まだあるようだ。 つづく
また、朝吹真理子さんだ。「きことわ」36ページにたどりつく。夢の中で夢を見て、またその中で夢を見る、という具合に地下五階か六階か際限なく下りていく、てな所がある。島田老青年がまいったのはこの辺かな。
ようするに、あれでしょ、サブルーチンの多重ネスティングでしょ。感心するもんじゃない。このアクロバティックな描写の手並みはどうか。率直にいってあまり鮮やかとはいえない。こんな手品はうまくさばいても南京玉すだれ級のゲスな趣向である。
そのあと、25年ぶりか、二人の少女が合うというところに来るが、ちょっと乗ってきた感じ、37ページ以降どうなりますか。
ここへ持ってくるためにじらし、間を取るという工夫は判るが多重ネスティングは悪趣味じゃないか。
これも朝吹さんのこと。どうも彼女に集中するが、西村氏の作品は相対的に瑕疵が少ないからどうしても彼女に集中する。
受賞がテレビのニュースになった時、島田とかいう選考委員が、氏名うろ覚え、彼女は時間を行ったり来たりするのがうまいというようなことを言った。プルーストを想わせると言ったかな。
これはどういうことだ。小説家が千人いれば時の処理、行き来は999人が腐心することだろう。当たり前のことだ。17,18世紀の小説のことは知らないが。
なぜ、ことさらに言うのか。非常に奇異に感じた。まだ10ページ足らずしか読んでいないから、島田氏?の言うことがどういうことか、見てみようか。
つづく
当ブログの基準をもう一つ示しておこう。実況中継であることである。全部読み終わってから書評を書くなどと言うことはしない。ちょこっと読んで書く。続きを読んで補足、追加することはある。訂正することは、必要があればするが、ほとんどしたことがない。
さて、現在どのくらいの位置にいるかと言うと、サッカーで言えば前半10分というところかな。
朝吹真理子の「きことわ」 15ページほど、それに終りのほうを1,2ページ読んだところ、
西村賢太 「苦役列車」 59ページほど
もうひとつ、私は小説でもリニアには読まない。あるいはシリアルリーディングはしない。ランダムアクセスである。「純文学」ではなおさらそうだ。筋が決定的な意味を持っていない。とくに朝吹さんの作品はそうらしい。
まず、漢字。最近の作品は見慣れない漢字が多用される。それがかっこいいということだろう。かってカタカナだらけの文章が軒並みだったが、漢字の氾濫も流行なのだろう。つまり必然性がない。
こんどの二作品も例外ではない。古い言葉を新鮮な感覚で復活利用するのは文士のたしなみには違いない。漢文調文脈の伝統に素養があり、センスがあり、新鮮さ即ち意外性と必然性を兼ね備えて古語を復活させれば拍手喝喝采するがこの二人のはそうではない。
おおかた辞書や類語辞典を見て拾ってきただけであろう。慣用されている漢字を使わずことさらに見慣れない漢字を使ってルビを振ったりする。悪趣味だ。
そうかと思うと現代青少年読者のためにはルビをふったほうがいいと思うのに、ふらなかったり。朝吹氏の文章に大百足というのがある。これはオオムカデと読むのかな。それともこの三文字で無学な私が知らない種の名前があるのかな。
それから、これは朝吹さんの文章についてだが、漢字と句読点は文章を明瞭に、読みやすくするためにある。頁の字面を美しくする点にある。これは読書の楽しみのためには重要なことだ。とくに詩的(純文学的)な文学のば場合は。詩集をひもとけば直ぐに判る。(注:この判る、の採用に必然性ありや、問題提出)
この点が彼女はまことに無神経だ。女性の文章とは思えない。意図的なら理解の外だ。それとも校正者の責任かな。
活字が幼児の絵本のように大きいのに、かた一方でこの無神経さ。
読みやすさの点で言えば、西村氏のほうがはるかにまさる。年の効か、もともとの素質かよく分からないが。
つづく
当ブログで取り上げる本は二種類ある。古いのと新しいのである。
古いと言っても古本は、つまりセコハンは読まない。大体文庫本でしか手に入らないようなものばかりだ。単行本は取り上げない。当ブログでの例ではドストエフスキー、チャンドラー、ハメットなど
新しい本は単行本もある。取捨の基準は社会ネタかどうか、である。その観点から去年は村上春樹などを取り上げた。最近は書評家がベストテンだとか何だとか言っている本を大分取り上げた。これはごく最近のことでね。私も社会に遅れてはいけないと、社会現象的な本を取り上げた。
そのデンで、本日この間の芥川賞二作品をゲットした。昔は芥川賞の作品は文芸春秋に掲載された記憶があるので、雑誌を買おうかなと思っていた。作者の社会的話題性、ニュース性があるようなのでね、最近の当ブログの営業方針に沿って読んでみようかと考えておったのであるが、なんと、書店に当該作品がテンコ盛り。2400円也を払って批評権利をあがなった次第。
買った以上2400円分の悪口を書かねばなるまい。以下次号
時々易をもてあそぶんだが、山口雅也氏の奇偶評でどこまで本音で批評していいか、思いついて占ってみた。そしたら補助卦で「訟」と出た。補助卦という言葉はないんだが。本卦が出ても色いろと補完する卦も見るのが普通で、補助卦はいくつもあるのだがこの場合は之卦が訟と出た。ちなみにこの小説に出てくる教祖は本卦一本やりの単純なものらしい。
この卦の解説はキグウ下巻にもある。どの入門書にもあるレベルで問題ない。要するにとことん批判するなと言う解釈になる。じゃによってやんわりと批評するつもり。
下巻で密室殺人というので読んでみるとたしかに出てくるが相変わらず易の初級入門書的なページが多い。それでも下巻の最初を読んでいて、これはこれだけで小説にしたほうがいいだろうな、と思った。上巻はいらない。多少登場人物の紹介に3,40ページ付け加えればいいかな。それと易の講釈は短くする工夫が必要だ。そうすると下巻300ページは相殺されて200ページくらいになりそうだ。そんな小説かなとおもって読み進めたが、くだらない講釈が多くて150ページあたりで前進不能となる。
それにしても、これがこの十年間のベストスリーとはどういうことか、と「ミステリーが読みたい2011」の評論家のコメントを見て二度びっくり。痴人のたわごとの連続だ。
たとえば、杉江『ミステリという小説ジャンルを冷徹に解体した結果に行き着いた極北の境地。ここで行われた実験にはすべて価値がある』。唖然、茫然、言う言葉を知らず。
山口雅也の奇偶上巻490ページまできた。かなりの個所で怪しげな引用、登場人物(推理作家、教祖、教団関係者、精神科病院勤務医など)が聞き語りする珍説高説のかずかず、大分とばして読んだ。
浮き上がっているんだね。他のパートと有機的に、あるいは化け学的に絶妙に混交しているなら飛ばし読みは不可だが、全然そうではないようだ。
つまり屁理屈パートと小説パートが必然性をもって全体を構成していない。ま、作者は偶然という言葉がすきだから、二つのパートの相互関係などどうでもいいのだろう。なお、哲学史の流れで言うと偶然というよりかは偶有(アクシデンタル)と言うほうが普通だろうが。
それとすべてが登場人物の意見として開陳されていない。高名なる学者何某がこう申されたぞ、恐れ入らんか、てな調子だ。元はどうでも登場人物が自分のものとして述べる意見と言う箇所が一つもない。たとえば福助なんか、内容はともかく表現は彼らしく言わなきゃおかしいよ、小説でしょ。
大学の非常勤講師が偉い学者の説を切り売りしているみたいだ。教壇で一時間なんぼで生活している哲学教師ならいいが(内容は検証はしていないが)、小説じゃだめ。それぞれの登場人物の主張、意見として展開しなくちゃ。
で、あきれてしばらく巻をおき、「ゴールデンスランバー」の時と同じように電脳空間を徘徊した。なんか下巻でカルト教団で起きる密室殺人事件が出てくるそうだ。それでこれがミステリーなんだろうね。上下巻千数百円分の悪口を言う権利をまだ残している。我慢して下巻まですすもう。
逆だったかも。日本の尊敬すべき読者とかけて何と解く。
マスコミに紹介されればデパ地下の菓子屋に長蛇の列を作るともいとわず、と解く。
その心は、書評家が褒めればいかに難解(読みにくい、読みがたい)小説でも、最後まで読み切り自分の舌を納得させる異能を持つ。
マスコミが取り上げない店は見向きもしない。本の取捨を自分の判断ですることがない。
(まるでオイラみたい)
ハヤカワグループ書評家のゼロ年代ベストテンの第三位だ。上巻500ページ下巻350ページ。
おいらは上下とか二分冊以上のミステリーは読まないんだが、ベストテンでほかにめぼしいものもないらしいので千数百円の投資をした。長いものといえば、同じ理由でベストテン堂々の一位宮部氏の「模倣犯」全五冊も読まない。彼女の作品は何だったか二冊に分かれているのを読んだ記憶はあるのだが、それだけのページ数サスペンス、興趣を連続させる能力は感じられないので模倣犯もパス。例外的にこの本が良い出来なら勘弁ネ、だ。
さて「奇遇」。出だしはどうもだが、エピソードの二あたりからちょっと読ませる。しかしなかなか山が来ない。小山はおろか丘さえない。これで売れるのかなという印象。奥付を見ると2006年以来二刷のみ。ほかと一桁以上違う。一般受けはしないだろうな、と思う。しかし選者は偉いね。これを堂々の三位だ。
こういう書き方もあるんだろうが、どうもエピソードと言うの、劇中論文というか屁理屈というの、がバラバラだ。この頃若い人のはやりで辛抱して最後まで読めば恰好がつく、小ネタを回収するのかもしれないが、どうもそれほど辛抱強くない。エンターテインメントを読むのは我慢比べじゃない。
これがミステリーかね。最後まで読むとミステリーなのかな。とにかく300ページまでは解決すべき事件もないし、ミステリーと銘打たなければ、それなりに読めるところもあるのだが。
各所でペダンチックで「高踏的」なギロンが陳列されるが、少年時代に読んだ小栗忠太郎の「黒死館殺人事件」を思い出した。総じて単調な議論である。提示の仕方が女学生のノートからみたいだ。女子学生が教室で先生が言うことを一字一句最大漏らさずノートに筆記するだろう。そのノートからまるまる引用しているみたいだ。
つづく
何が嫌だと言って全共闘世代の幼稚な思い込みとビートルズ世代のいじましさ位怖気をふるうものがないと言っただけで、私がシグマ3を飛び出していることが分かろうというもの。シグマ「サン」て偏差値に直すとどうなるのかな、マイナスかそれとも1000以上になるのか。
さて、前回に続き伊坂幸太郎のゴールデンスランバー、これはビートルズの一節らしい。当事者は大学を卒業して30歳の坂を越そうかというおじさん、おばさんだ。それが頻繁にバックフラッシュする。逆だったかな。
彼らの大学時代のことが入れ替わり立ち替わり書かれて頁を稼ぐ。青春のグラフティというわけだ。著者の年齢からするとビートルズ世代より一、二世代あとのような気もするがね。ま、彼らが大学時代に口ずさんでいたわけだ。
インターネットを泳いでみると、異口同音にネタ、伏線をたくさんばらまいて几帳面に全部回収するのに感心して褒めているがばかばかしくない? 問題は回収の仕方だろう。あるいは伏線のはり方だ。回収率100パーセントなんてのはミステリー作家の評価には関係ない。屑屋ではないのだ。あるけど二義的だ。
インターネットには頓狂な賛辞がある。村上春樹に影響を受けたとかいうのだが、確かに村上氏の初期の作品にはフラッシュバックで大学生活の思い出がパステル調で描かれるがほどを心得ている(量的に、そして質的に)。
前号に書いたが、読むに耐えずに550ページ位あたりで気分転換に書評を書いているわけで、最後まで読んだら必要があれば付け加えるが、もうひとつ。
それはお手伝いさんの使い方だ。400ページ当たりだったかな、キルオ君というのが唐突に出てくる。この人物の出し方は工夫したほうがいい。それはともかく、この辺から文章がやや精彩をおびてくる。
次のお手伝いさんは中学生だか高校生だかの不良グループだ。人気の少ない駐車場あたりに出てくる。ははあ、例の手を使っているな、とすぐにわかるがストーリーはともかく持ち直す。
このお手伝いたちをどう使うかなと注目していると、キルオ君は唐突に死んでしまう。変わってニセ病人がお手伝いとして出てくる。この先どうなるか読んでいない。
このお手伝いたちの使い方次第でましなものになるかもしれない。しかし、ここまで伏線をばらまくと称して退屈な描写で無慮400ページまで引っ張るとはね。これも技かな。
伏線は最後まで伏線と意識させないようにしないと意味がないが、ちょっと読めば是は伏線だな、とわかる。伏線でなければ青春のグラフティを便々と書く意味がないことがすぐに看破される。
最近は読むものがなくて、それでも活字中毒というのか目さびしいものだから、書評屋はプロとして相対評価のレベルはある程度は評価出来るかと思い、倭ものを選ぶ参考にしている。
ここ何回か書いている。具体的にはハヤカワ「ミステリーが読みたい、2011」のゼロ年度ベストテンなんだが、七位にゴールデンスランバーがある。ひどいね。ま、しかし七位ではある。ここでふれた二、三の作品よりかは明らかに文章力では劣るから書評家のランキングはその意味では適切なのだろう。
文庫本で650ページでやっと550頁あたりまできたのだが、あまりのひどさに読むのを中断してインターネットで調査してみた。いや評判がいいね。書くのが怖くなったよ。しかし、このブログでは人と同じ意見は書かない方針だからむしろ書くべきなのかも。
何回か直木賞の候補になったらしい。しかしゴールデンスランバーは候補にもならなかったらしい。直木賞(芥川賞も)の権威を認めないわたしだが、わりとまともだなと思った。先に触れた「容疑者Xの献身」は直木賞を取ったらしいが、相対評価でいえば直木賞の基準は妥当だろう。
ところが本屋大賞を取ったらしいね。それとインターネットでのベタ褒め、そして文庫にして半月の間に三版を重ねる。悪口を書くのが怖いようだ。
さて、長くなったからまずこの辺で。次回はチト具体的に。