穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

マルクスはそこまで言ったか(必要な文献学的配慮)

2019-01-26 08:55:30 | 妊娠五か月

 マルクスは生前、政治的アジビラやジャーナリスティックな寄稿以外は資本論しか公刊していない。それも資本論の第一巻まで。第二巻、第三巻はエンゲルスが書いている。したがってヘーゲルとの関係についての考察は資本論第一巻に限定すべきである。そして、前述した国際ヘーゲル学会会長のアルント教授が言うように資本論第一巻はヘーゲルの論理学よりも、ヘーゲルの法哲学と比較検討すべきものである。

  現在マルクス主義と言われているものの根拠はマルクスが生前に公刊したもののほかに次の二つのグループのドキュメント類がある。

1:マルクスの死後エンゲルスの現わした文献

2:20世紀になってロシア革命で成立したソ連邦において公刊されたマルクスの遺稿類

1:の問題点

マルクスがもっと生きていたらエンゲルスと同じ思想を持ったであろうか。断定はできない。

2:の問題

ソ連邦という独裁国家で公刊された文書の信憑性。内部の思想闘争が激しい体制で生き残ったグループが編集公刊した文書にどの程度の客観性があるのか、という問題

  しかも現在マルクスの哲学的な思想を云々する論者は例外なく、これらの遺稿集、特に「ドイツ・イデオロギー」と「哲学・経済学草稿」に頼っている。これらの遺稿は比較的早い段階で書かれたものらしいが、公刊せず手元に置いていたのは、マルクスがまだ検討を加える必要を感じていたことに他ならないのではないか。 

 上述のアルント教授はマルクスのヘーゲルへの言及は示唆にすぎなくて、その内容ははっきりしない、としているが、ヘーゲルの論理学と資本論第一巻の間には直接的な影響はないというのはそういうことではないのか。

  マルクスが長生きして自分の思想を完成していたら、いまのようなマルクス・レーニン主義のようなものになっていたかは分からない。

 


ヘーゲルのイディオレクト

2019-01-24 08:02:29 | 妊娠五か月

 Idiolectとはギリシャ語源です。Idiot(平民、無知な人、転じてまぬけ))とLect(話す)の合成語です。転じて個人言語、幼児ことば(マーマー語)となります。

 ちなみにDialecticはやはりギリシャ語源で『Dia(横断的に)とLect(話す)、つまり問答、複数人による議論』から来ています。

  前に哲学の翻訳用語の不適切さに触れましたが、明治時代?ディアレクティックを弁証法と訳したのは間違いとはいえない。訳者は弁証法とは『弁じたてて自分の主張の正しさを証明する技術』ととらえたのでしょう。プラトンの問答法やアリストテレスの用語(dialektike techne)が念頭にあったと思われる。適切な訳語と言えるでしょう。

  間違いはカントやヘーゲルが全然違う意味で自分たちの説をDialectic(X弁証法)と呼称したことです。しかもカントとヘーゲルでは同じ弁証法といっても全然関係のない別のことを言っている。プラトンの問答法とも関係がない。しいて関係をこじつければヘーゲルの場合『すべての存在や概念には自分のうちに否定のモーメントを含み、お互いに相争い、浸透しあい(正反)、そして止揚(合)する、という無限の果てしない掛け合い(ひとり漫才すなわち問答)のことだ』と強弁すれば一理あるかもしれないが。

 


マルクスはヘーゲルをパクったか(予告編)

2019-01-20 08:16:36 | 妊娠五か月

 ちょっとヘーゲルのことを書いたので、また論理学などを拾い読みしている。書店で日本語の文献なども見るのだが、著者はほとんど(全部といってもいいほど)社会主義者(マルクス主義者)である。だから買わない。ヘーゲルからマルクスへということはよく言われているし、なにも考えなければそんなものかなと思う。しかも現在のヘーゲルの研究書や翻訳の大部分が主義者の手になる実態を見るとそうなのかな、とも思うのだが。

  しかし、本当かなと思う。私はマルクスを全く知らないが、高校の公民的な知識としてのイメージはある。ヘーゲルとはまったく関係がないのではないか。あるとしたらマルクスの誤解であり、率直に言えばパクリではないかと思われてしかたがない。

  労働の疎外という部分は関連性がまだ分かるが、弁証法が逆立ちしたとかどうとかいうのになると眉唾ものではないか。

  ちとインターネットで調べた。本を買わなくてすむからね。阪南大学のページに同校が招聘した国際ヘーゲル学会会長アンドレアス・アルント教授の講演記録がある。それによると、マルクスはヘーゲルに批判的に言及しているが、それは示唆にすぎないという。つまりよくわからんということらしい。マルクスの同調者が権威付けの目的でヘーゲルとの関連をでっち上げたということらしい。彼マルクスの「書かれざる学説」つまり(ヘーゲルとの関係)は死後百数十年経ったいまでも説明研究を待っているとアレント教授はいう。

 

 


メッチャ具体的と少女は言いました

2019-01-11 08:15:48 | 妊娠五か月

 ヘーゲル論理学164節、はて、と英語力のない私は戸惑いました。

The notion is concrete out and out

という句にぶつかってどういう意味なのか、と思ったのです。訳者は前世紀初頭のW.

Wallace教授です。最近のリプリント版で読んでいるのですが、解説者であるボストン大学のFindlay教授によると、現在までの英訳書では最善なものだそうです。

 

 彼によると、Wallace氏は国境を越えてきた人(つまりスコットランド人)ですが、スコットランド人とドイツ人には非常な親近性(affinity)があって、そのために彼の訳はよくヘーゲルの真意(あるいは気分と言ったほうがいいのかもしれない)が訳されているというわけです。

 

 そこで、日本語訳としては分かりやすいという定評のある長谷川宏氏の訳を見ると「申し分なく具体的」と大人しい無難な訳であります。

 

 ようするに、14,5歳の少女なら「メッチャ 具体的」と言うところだな、と分かりました。

 

 Wallace氏がout and outとわざわざ訳しているところをみると、原文は文章語的な、申し分なく、充分に、徹底的に、徹頭徹尾とか、それに類する言葉ではなくて、ヘーゲルは強調的で口語的な土語(ドイツ語)を使っているのでしょう。

 

 


ヘーゲルの錬金術的アルゴリズム(承前)

2019-01-07 08:13:36 | 妊娠五か月

 私がまず注目するのはその哲学者特有のアルゴリズムである。ヘーゲルについて言えば、フレイジオロジーだけではなくて、彼の哲学のアルゴリズムは錬金術的である。もっとも、露骨なコピペではなくて、彼の実力で完全に換骨奪胎しているから錬金術臭にはなかなか気が付かない。

 

 テーゼ、アンチテーゼ、シンテーゼあるいは正反合という弁証法は錬金術特有の合金製造方法である。まったく異なった二つの物質を高熱の炉で融解して新物質を作る(止揚する)というのは同じアルゴリズムである。また、錬金術ではこのような過程を繰り返す。黒の過程、赤の過程、白の過程などである。そうして最終的には金を製造する。金とは比喩であっていわば「最高のもの」ということである。すなわち、哲学者の石、賢者の石、エリクセールあるいは不老長寿の妙薬とも表現される。

 

 錬金術思想の特徴は、その作業(高炉を使った作業)が作業者の精神の向上につながる、あるいは作業者の精神が向上していかないと作業は成功しないという考え方である。つまり物質と精神の照応というか相互影響を重視する考えである。これはヘーゲル哲学のもう一つの根本と同じである。有、定有、物質(無機的、有機的、人間)、精神、絶対精神という階梯と同じ思想である。錬金術でいう金あるいは賢者の石はヘーゲルのいう絶対精神にあたる。

 

 不思議なもので西欧の近代哲学者で錬金術との関係がうかがわれる者はヘーゲル以外には近代初期のドイツの神秘主義者ヤコーブ・ベーメのほかにはいないようである。ヘーゲルはその哲学史でベーメを高く評価している。もっともあまり教養の無かった*ベーメの場合、モロに芸なく錬金術の影響が、しかも断片的に出ているようではある。とてもヘーゲルのように鮮やかにはさばいていない。

   * 靴職人の息子で十分な教育を受けていなかったベーメは自分の神秘体験を文章にするのに苦労していた。

 

 バートランド・ラッセルがヘーゲルのことを、何らかの神秘体験が彼の思想のもとになったのではないかと言っていたが、これもヘーゲルの錬金術臭を鋭く嗅ぎつけたからではないか。ヘーゲルに神秘体験があったかどうかは分からない。なくても、彼の知性なら錬金術的思考を完全に自分の言葉で表現できただろう。

 

 ちなみに、錬金術以外に近代初期までアカデミズムのなかで勢力があったものに占星術があるが、これが近代哲学に影響を与えた痕跡はないようである。わずかにシュタイナーの神智学などにその反映が見られるだけのようだ。それとミーハー相手の占いとか「黄金の夜明け」ほかの近現代の魔術集団への影響にとどまっているようだ。要は天体と人間や社会の照応、つまりマクロコスモスの動きや配置がミクロコスモスの運命に影響を与えるというのだが、こちらのほうは近代哲学の上に痕跡を残していないようである。

 

 


ヘーゲルのフレイジオロジー(1)

2019-01-06 08:25:44 | 妊娠五か月

 ヘーゲルのもってまわった文章をタワゴトと痛罵するものは古来同業の哲学者でも多い。

ゲーテも辟易したというあの文章のスタイルはどうして出来上がったのだろうか。

へゲールは冒頭で「これは結論のさわりをちょいと先出ししたに過ぎない」てなことをよく書いている。そうして「そんなことは分かり切ったことだ。難しいことでも何でもない」と突き放すのである。こっちはますますバカにされたように思う。

 

 この小論の趣意は彼の文章は悪意をもって韜晦しているのではないと弁護しようということである。一体あの文章スタイルはどこからきたのか。まさか学生時代、青年時代からあのようにひねくれた文章を書いていたとも思えない。

 

 あるヘーゲルの伝記作者は「精神現象学」を上木するまでのヘゲールを「錬金術師の徒弟時代」と表現している。当時錬金術は中世よりも社会的ステータスが高く、19世紀の自然科学の勃興期よりも権威があった。アイザック・ニュートンも錬金術師を自称していた。ヘーゲルが錬金術を研究していたことは十分にありうることである。

 

 彼はコレラで急死したわけだが、残された彼の蔵書には錬金術の文献が多数あったそうだ。錬金術の文献は中世キリスト教(カトリック)の峻烈な弾圧を逃れるために非常に韜晦した表現が多い。一子相伝的に秘密が漏れることを恐れたのだろう。日本で言えば、武道の秘伝書の書き方に似ている。

 

 若きヘーゲルも錬金術書を耽読しているうちに、自然に筆をとれば、いやペンをとれば自然に錬金術書のような書き方になったのかもしれない。まったく読者をたぶらかそうとか、驚かせようとして悪意を持って意識的に書いたのではないと思われる。