穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

警官にサヨナラを言う方法

2009-06-04 00:46:04 | ミステリー書評

これはWe the Juryだなと思った。アガサ・クリスティの「オリエント急行の殺人」である。I, theJuryを書いた時にミッキー・スピレーンの念頭にクリスティのアイデアがあったということはありそうもないが。

ところで最近は「警官小説」がさかりのようだが、赤川次郎と同様にわたしも嫌いである。赤川次郎の小説は一冊も読んでいないが、最近かれの書いた、「ぼくのミステリー作法」という本を読んだ。警官を主人公とする小説は好きじゃないというくだりがあった。l

まことにもっともというか、健全な考え方だろう。大体わたしは「何々屋(業、界)の思考方法」てな書物に昔から興味がある。物理学者には独特の方法論、思考方法がある。生物学者にはまた別な思考法がある。畳屋にも、大工にもその考え方がある。

そういうところに興味があるので、作家の書いた「小説の書き方」みたいな本を書店で見つけると買う。その作者の小説は買わない。

クリスティの「そして誰もいなくなった」には主役でも脇役でも警官が最後まで出てこない。それでいて、彼女の代表作のひつとになっている。そのためにはしかけがあって、いまは昔の東ヨーロッパ(ユーゴスラビア)の山中で吹雪のなかで雪溜まりにオリエント急行が突っ込んで外界と数日間連絡不能になる。

いまでもこんなことがあるのかどうか。とにかく救援隊もこない。そんな車内で殺人事件がおこる。警官も来るわけがない。そこでたまたま(いつもたまたまなのだが)名探偵エルキュール・ポワロが乗り合わせている。しかも又タマタマその鉄道会社の重役が乗っていてポワロと知り合いだ。そこでポワロに事件の究明を依頼する。ということでポワロが全部仕切ってしまう。

またラストがいい。ようやく救援隊が来ました。ポワロは事件を解決して犯人を警察に引き渡しました、なんてしまらない童話のような結末ではない。最後まで警官は出てこない。もっともポワロはもとベルギーの警察官だったから警官と縁がある、なんて言えばおしまいだが。

クリスティお定まりの関係者一同を集めてアリバイ調べというわけだが、全員アリバイが崩れない。なぜって全員が犯人でお互いに証人になる。鉄壁のアリバイだ。そして被害者に一太刀ずつあびせる。この辺も趣向だ。

その被害者が幼児誘拐虐殺の常習犯であり、犯行に加わった全員が殺された幼児の関係者、遺族である。法の追及を逃れた被害者に法を執行するというわけ。犯行グループは陪審員とおなじで12人。そこでWe the Juryというわけ。

真相を解明したポワロは鉄道会社の重役に決断をゆだねる。彼は外部から列車に乗り込んで犯行後逃亡した架空の人物の犯行ということにして実行者の乗客を告発しないことにする。もっともほとんどが一等個室寝台の上得意客だからね ?

教訓、工夫しだいで警官を登場させないミステリーを書くことは可能である >> チャンドラー

ちなみにI the Juryの日本語のタイトルは「裁くのは俺だ」。この訳はぴりっとしていていい(ハヤカワ文庫)。

そういえば、クリスティの「そして誰もいなくなった」にも警官の影も形もない。ポワロもマーブルも登場しない。全容が明らかになるのは、死亡した犯人がのこした遺書が発見されたからである。この小説のしかけは交通手段が途絶した海の孤島である。頭はもっと使うものだ。

赤川次郎は全共闘世代だから警官が主役になるのが嫌いらしい。彼の小説は読んでいないが、上記の本で自作を語ったところによると警官はよく登場するらしい。ただ脇役ということらしい。主役にするのが嫌というだけらしいね。クリスティみたいに徹底するといいのにね。

 


リアリズムと超人探偵

2009-06-02 22:12:57 | ミステリー書評

本格推理なんて言葉がある。そのこころは20世紀初頭の人工的な謎解き小説をチャンドラーなどから不自然だと批判されて自己正当化のために従来型ファンがひねり出した言葉と思われる。

密室だとか、現実にありえないと思われる不可能的な状況設定は確かに白ける。他方ではそういうことは一向に気にならないという向きもこれまた多数いるわけである。しらけるどころか、ますますしびれる向きもある。

森村誠一氏なんかによると、到底現実にはありえないようなトリックでもつじつまが合っていれば許されるそうだが。

そんなことを言えばハードボイルドで気になるのは、探偵が非現実的にタフなことだろう。これは気にならないのかな。なにが気になるというのは、結局個人の性向なのだろう。

やたらに酒がつよい。のべつまくなしにタバコを吸う。鉄パイプでぶったたかれても一時間もすれば目が覚めて前よりピンピンしている。やたらに女にもてて年中据え膳を食ってもおかわりが平気なやつもいる。こんなのがハードボイルドで気になる非リアリズムかな。

わたしの趣味からいうとまだハードボイルのほうが我慢が出来るということだ。ただ、そんな非リアリズムで読者を惹きつけなくても十分読ませる作家が望ましいのは言うまでもない。

& 主人公が非日常的で非現実的なスーパーマンであるということからすると、一部の人間が言うようにハードボイルド小説は冒険小説の一ジャンルであるという主張もうなずける。

正確を期するために補足すると、ハードボイルド御三家の作品でも非日常的なスーパーマンが出てこないものも相当ある。同じ主人公シリーズでもスーパーマンぶりが目立つのとそうでもないものがある。

大体において、非日常的スーパーマンが多いのは御三家以後の亜流というか継承者におおいようだ。

ハメットもチャンドラーも、一作品のなかでせいぜい一回に抑えているようだ。粋がっている継承者の小説がのべつ幕なしにタフガイぶりを示しているのとは違うようである。ロス・マクドナルドはまるっきりそういう場面はない。