11.コンドームはごみ箱に捨てちゃだめよ
異界から妻の声がする。はやく起きなさいよ、と言っているらしい。半覚醒の第九の脳にはそのように聞こえた。おかしい。妻が自分より早く起きることは絶対に無い。洋美より一時間早く起きて朝食の支度をするのが結婚の契約なのだ。妻の声はダイニングキッチンのほうからする。目を開けようとしたが目やにで上瞼と下まぶたがにニカワで張り付けたようになっていて目が開けられない。
また洋美の晴れ晴れとした爽やかな声が響いた。「トーストと目玉焼きとコーヒーの朝食が出来ているわよ。コーヒーが冷めないうちに起きなさいよ」と催促した。いったい、何事が起ったのだ。とにかく起きて顔を洗おうとベッドが降りた。バカに体がだるい。ふらふらする足で洗面所に向かおうとして本棚にぶつかった。何もないと思うところにぶつかったので勢いがある。本棚は倒れる。彼女がきゃっと悲鳴を上げる。倒れた本棚は小さなキッチンテーブルの上に倒れかかりテーブルをひっくり返した。皿は吹っ飛んで割れる。コーヒーは床にぶちまけられた。たまごも床に落ちて張り付いた。
目が見えないから床に落ちた卵を踏んづけてつるりと足を滑らしてまた倒れ掛かる。
どうしたのよ、と彼女の怒声が飛ぶ。目が開かないんだ。目やにがつまっているらしい。洗面所に行って顔を洗おうとしたんだ、と彼は弁明した。
「しょうがないわね。どうしたのよ」と彼女は浴びせかけたものの、ふらふらする彼をバスルームにまで誘導した。
水が温まるのを待って彼は入念に顔を洗った。特に目の周りは丁寧に拭った。数分後どうやら目は外界とのコンタクトを回復した。部屋に戻ると彼女は床に落ちたものを集めて床を拭いている。「ごめんね、食事は作り直すから」というと彼はキッチンに行き、湯を改めてわかし、トースターに新しいパンをセットした。作り直した料理をトレイに乗せて運ぶ。彼女の顔を見るといつになく晴れ晴れとした表情をしている。壁に賭けた時計を見ると七時だった。そうすると彼女は六時過ぎに起きたんだな、と第九は考えた。いつもより一時間以上はやい。
「ずいぶん早く起きたんだね」
「すごくすっきりとした気分なのよ。今朝は」といって彼に微笑んだ。「昨夜は疲れたの」といたわるように彼に聞いた。
彼はああ、とかうう、とか文章にならない返事をした。昨夜は例のスタッグ・カフェに自警団として彼は夕方から「勤務」していたのである。彼はいつも夕食の支度をするために六時前には帰るのであるが、昨日はそういうわけで十時過ぎに帰宅した。ドアを開けると洋美がものすごい顔で襲ってきたのである。
「それからね」と彼女は気が付いたように言った。「コンドームをごみ箱に捨てちゃだめよ。この間お手伝いさんが変な顔をしていたわよ」
12:差別
少し早めにカフぇに出勤した。妻から五時までに帰宅するように厳命されたのである。彼女が帰宅する時間は不定で早い時には七時過ぎに帰ってくるが深夜に帰ってくることも多い。なにしろキャリア・ウーマンだから忙しいのだ。昨日遅く帰宅したことを怒っている彼女は五時には電話してチェックするというのだ。
第九は近くのファミリー・レストランでスパゲッテイを掻き込んで昼前に自警団勤務についた。あれ以来ビルの防災センターの守衛が一時間おきに店を見周りに立ち寄る。お巡りさんも午前と午後に立ち寄る。あの騒ぎからそろそろ一週間になるが、ピカソ女もデコボコ組も現れない。
「仕返しにも来ないですね。そろそろ自警団を解散してもいいんじゃないですか」と彼は下駄顔老人に言った。
「そうだねえ、まだ分からないな。しかしあなたは専業主夫だから毎日出張るのも大変でしょう。家事もあるだろうし。私たちはどうせ毎日来るんだからしばらく続けますが、あなたはもう結構ですよ。ご苦労様でしたな」
「しかし、女性差別なんて言いがかりだね。もっと酷い差別に我々は苦しんでいるんだからな」と卵型禿頭老人が会話に加わった。
「女性差別なんて因縁をつける連中は自分たちが差別してることには一向に自覚がありませんからな。老人差別の実態なんて酷いからね」
「七十歳をすぎたら運転免許証を返納しろなんてな」
「しかし、現実に事故を起こしているからしょうがないんじゃないですか」
「ま、東京にいれば車を運転する必要もないからね。自動車事故は他人を巻き込むから何らかの対応は必要かもしれないな」
「ひどいのは、老人に金を自由に使えないようにすることですよ。社会主義の国じゃあるまいに」と禿頭老人が息巻いた。
「あれはひどいな。あんなことがまかり通るようじゃ世も末だな。いまどき自分の金なのに銀行に金を下ろしにいっても、十万円を超えると写真付きの免許証をみせろとか、すがれた婆あ行員に命令される。あんなことを許していいのか」の下駄顔が憤った。「自分の金だよ。預金通帳というのは万能のバウチャーだろうが。それを裏付けるために印鑑がある」
禿頭が相槌を打った。「振込なんかの時にもそんなことを言われるね。写真付きの免許証なんて言っても、こっちは免許証も持っていないしな。そういうと写真付きの何か証明書がありますか、なんて言いやがる。大昔に会社に勤めていた時には社員証なんかには写真が貼ってあったがな。退職した今はそんなものは持っていない。大体約款にはそんなことを要求する文言があるのかな」
「通帳の裏に印刷してある約款はわざと利用者に読めないように細字で印刷してあるからな」
「NHKもひどいね。振り込め詐欺防止のためなんていっているが、余計なお世話だよ。あれは幼児のような頭しか持っていない警察のキャリア官僚か、財務省の役人が銀行に指導するんだろうな。それを銀行が錦の御旗にして客を客とも思わない態度をとるんだ」
「政府は経済の活性化なんて騒ぎ立てるが、自分の金を自由に運用できなくて経済が発展すると思っているのか。あきれた話だ」
13:老人は携帯電話も買えない
和服美人がケーキをを持ってきた。『ボランティア自警団に日当を払う』なんて出過ぎた失礼なことは出来ないが、せめてケーキでお礼をというのだろう。毎日午後三時ごろにケーキをご馳走してくれる。
「そういえばお年寄りには携帯電話も売らないんですってね」と夫人は言った。
「どういうことですか」と第九は聞いた。
「私の父が携帯電話を新しいのに買い替えようとしていったら、高齢者は子供の同意が必要だって言われたんですって」
第九は驚いて、そりゃひどいなと呟いた。「本当ですか」
「小学生や中学生が携帯を買うときに親の同意が必要らしいけど、それじゃ立派な大人が子供なみに扱われているわけですか」
「父はカンカンに怒っていました。子供がおもちゃを買うときに親の許可が必要というのと同じですからね。人権どころが人間の尊厳を踏みにじるものですよ」
「まさに差別の典型ですよ。人権侵害だな。根拠はなんなんです。そんな理不尽な要求をするのは」
「たぶん、警察庁あたりのバカ官僚の差し金だろうね」と禿頭老人が言った。「携帯が犯罪
グループに流れるとか、勝手に幼稚な理屈をつけているのだろうね」
それでお父上はどうしたんですか、と第九はたずねた。
「なにが根拠なんだ、と聞いたらしいんですね。会社の規則なら書いたものを見せろと要求したら、そんなものはないらしいんですね。当局の指導とかしどろもどろの答えだったそうです。それならその指導とか通達やらを見せろといったそうです」
「ふむふむ、それでどうしました」
「その係の若い女性は上役に聞きに行ったそうです」
「あきれたね、そんな重大なことの根拠も教育されていないのか」と下駄顔
「それが、その女性がなかなか戻ってこなくて、二十分ぐらい待たされて帰ってきたら通達はお見せ出来ませんというんだそうです」
「ひどいね、顧客対応の基本的なことなのに、根拠を示せないのか」と第九は呆れた。
ひとしきり話が終わったところで、婦人がだれもケーキを食べていないことに気が付いて、「ケーキをどうぞ」と改めて勧めた。
ケーキを一口切り取ると、禿頭老人が「さっきの銀行のサービス劣化の話だが、個人客
差別も甚だしくなったね」と呟いた。
14:個人客差別
銀行で個人客を差別しているんですか、と秀麗無臭な夫人が怪訝そうに質問した。
「私の行く銀行では個人客用の係が一人しか配置されていないんでね。結構大きな支店なんですけどね」と下駄顔が答えた。「銀行に行くとロビーレディとかいうおせっかいなばあさんに半券を渡されるでしょう、順番待ちの番号が印刷してある」と続けた。
「二人待ちなんですぐに順番が来るだろうと思っているとなかなか呼ばれない。カウンターは十ぐらいあって顧客はどんどん呼ばれてはけていくのにおかしいな、と思っていたので呼ばれたときに係に疑問をただしたんですよ。そうしたら個人客用の係は一人だけだというんです。彼女が言うにはインターネット・バンキングが普及したからカウンターの窓口を減らしたというんですな」
「理屈をつけて強引にインターネット・バンキングに誘導しているんですかね」と第九が口をはさんだ。
「振込なんかでも用紙に書き込んでカウンターに持っていくとATMでもできますってかならず言われますね」
「そうそう、あれも気分悪いね。苦心して用紙に記入してきたのに分からなければお教えしましょう、なんて言いやがる」
「どうしてですかね、時勢かしら」と秀麗無臭。
「コスト削減ですよ、顧客の不便の代償で自分たちの高給を確保しようとするのです」
「まったく、従業員たちの利益しか考えないんだからひどいものだ。振り込みでちょっと金額が大きくなると写真付き証明書なんて言いやがるし、少額だとむりやりATMにいかせようとするんだ」
下駄顔も言った。「そういう時にはATMの入力をタイプライター式にしろと窓口の婆さんにいうんだ。いまさら指入力なんか出来るか、バカ野郎」
「それじゃースマホもダメですね」と秀麗無臭が混ぜ返した。
「いや、Qwertyっていうタイプライター式の入力方法もあるんじゃないですか」と第九が口を挟んだ。
下駄顔はポカンとしたが、「そうかね、そういうATMもあるのかね」とみんなに聞いた。
みんな首をひねっている。
禿頭が断を下した。Qwertyもだめだね。ぼくもタイプライター派だけど、あれはソフトキーボードだろう」
「そうですね」
「じゃあ結局一本指の入力だろう。タイプライターなら五本、いや十本の指がキーの位置を記憶しているからローマ字入力も簡単だが。それに指入力だと、訂正の仕方がよく分からないから最初からやり直す。イライラしてまた間違えるっていうことになる」
「そうそう」と下駄顔が相槌を打った。
秀麗無臭夫人が不思議そうに老人二人に尋ねた。「お二人ともご高齢なのに結構ハイカラなのね。タイプライター式のほうが良いって」
「ははは」と二人の老人は笑った。「もちろん英文タイプライターですよ。昔は和文タイプライターというのもあってね。これは大変な代物で、和文タイピストというのがいてね、エリート女性でしたよ」
「何をする人たちなんですか」
「会社で社長名で出す書簡だとか文書は活字じゃなければいけないでしょう。あるいは役所に出す申請書とかね。活字で文書を作って、でかでかと社長印を押して作成するわけです。だから和文タイピストというのは威張っていてね、我々みたいなぺいぺいが原稿を持っていくと、けんもほろろの扱いでしたよ」
「そうそう、拝み倒して自分が持って行った原稿を割り込ませてもらいましたな」
「へえ、そういう職業もあったのね」
「女性の職業ではエリートでしたね。社長秘書か和文タイピストかと言われたものです」
「それはキーボードの配列も普通の英文タイプライターとは違うんですね」
「全然違います」
「しかし、あなた方は英文タイプライターは楽々と使いこなしていたわけですか」
「私は商社に入りましてね。英文レターは必須業務でしたから、入社してまずタイプライターを練習しました」
「なるほど、それでお上手なわけね」
「指入力なんて猿みたいなマネはできません」
15:女性が怖い
ところで、とさっきから黙っている第九のほうを振り向くと彼女は「夏目さんはどんなお仕事をなさっているのですか」と訊いた。昼間に時々ぶらっと店に顕れて長時間滞留しているから不思議に思っていたのだろう。自由業か、外回りのセールスマンがさぼっているのだろうか、と不審に思っているようだ。
「何をしているように見えますか」と第九は反問した。どう答えようかと考えをまとめるための時間稼ぎである。
「さあ」としばらく婦人は彼を見つめていたが、自由業かしら、小説家?」
「夏目漱石のひ孫です、というのは真っ赤なウソですがね。ちょっと説明しにくいんです」
「なにか秘密のお仕事」と彼女は首を左へ18.5度ほど傾げた。
おしゃべりな禿頭老人が我慢出来なくなって「彼は専業主夫なんですよ」と口を挟んだ。
「センギョウシュフ?」
「シュフのフは夫という字を書きます」と禿頭が注釈を加えた。
「・・・へぇお珍しい」
「なに、最近は増えてまさあね」と下駄顔
「そうなんですか。ずうっとなんですか」
「まさか、結婚してからですよ」
「失礼、それはそうだわよね」
訥々と第九は話し始めた。
「世間並みに最初は会社に勤めていたんですがね。女でしくじりまして会社を辞めました」
「おやまあ、それは・・・」と彼女はお悔やみを述べるように言ったが、それ以上聞くのは失礼と思ったらしく、テーブルからグラスを取り上げると水を飲んだ。第九は話し始めようと決心すると逆に止まらなくなった。
あの症状が出たのは退職1,2年前だっただろうか。会社のエレベータの中で息が詰まり卒倒したのは。119番通報されてストレッチャーに乗せられて救急病院に搬送された。うわごとに「白粉が、白粉が」と言っていたらしい。それ以来彼は再発を恐れてエレベーターには乗れなくなった。これがデパート勤務のようにエスカレーターがあれば勤務が続けられたかもしれない。オフィスビルにエスカレーターなんか無いから、かれは18階の自分の職場まで毎日階段を登らなければならなくなった。上るのはまだ若くて体力があったから、なんとか凌げたが、降りるときに一度転倒して足を折ってしまった。数か月入院したのである。
16:専業主夫のお仕事
専業主夫というと、どんなことをするんですか、と女あるじが夏目第九に聞いた。
「家事労働すべてとセックスサービスです」
「大変なお仕事なのね」と彼女あきれたようにつぶやいた。「私も夫と変わってほしいわ。そんなにして尽くすなら奥様はきっとすごい美人でしょうね」
「どうでしょうかね」と彼は首をかしげて口の中でもごもごと言った。
「どうでしょうかねって、どういうことだ」と下駄顔が不思議だというように詰問した。「彼女に借金のかたにとられたのか」
禿頭が「奥さんが素晴らしいボディをしているのか」と下卑た笑いを浮かべた。
第九はうふっと気持ちの悪い含み笑いをした。「まあそんなところでしょうかね」と第九はこともなげに言った。
「退職一、二年前に会社のエレベータで粗相をしましてね」
「漏らしたのか」
「いやいや、まあそんなものかな。失神しましてね。醜態を演じました」というとコップの水を口に含んだ。
・・病院に搬送されたが翌日には退院できた。嘘のようにけろっと治ってしまったのである。退院後会社の契約している大学病院で精密検査を受けたが異常はなかった。しかし、エレベーターに乗れなくなってしまった。
再び出社するようになってからも週に一度は会社の医務室に通ったがなにもわからなかった。彼の会社はブラック企業の部類だろう。それも仕事がきついというだけではなくて、社内の人事環境が複雑でストレスから体調を崩すものが後を絶たなかった。それも普通の会社のように役員や部長同士のいざこざの巻き添えをペイペイが食らうというのではなくて、労働組合が分裂していて五つもできていた。その組合同士の陰湿な日常的な騙しあい、権力闘争、陰謀の渦がすざましかったから、社員は新入社員の時から派閥抗争のストレスをまともに浴びる。商社だから負ければ辺鄙な外国に飛ばされて勤務地をたらいまわしにされて一生日本に帰ってこれない。だから精神に異常をきたす社員が後を絶たなかったのである。
契約大学の心療内科に通うものも多かったのである。そういうわけで、見習い中、駆け出しの産業心理士の卵である丸屋サチも週に一度会社の医務室に出張っていたのであった。
彼女は私に格好のサンプルを見つけたらしい。私の心理的カウンセリングをすると申し出たのである。
17:カウンセリング
三十台と思しき背広姿の男が店に入ってきた。クルーケースのような大きなバッグを手に提げている。ただし、外側全体は冷凍ボックスのように銀紙で覆われている。時々現れてこの店で小憩していく男である。このビルの中にある診療所に立ち寄って尿とか血液の検査サンプルを回収していくのである。
店の常連で毎日のように現れる。禿頭や下駄顔のような常連とは顔なじみである。彼は隣のテーブルの席に銀色に輝くクルーケースを置いて腰を下ろした。
「商売繁盛だな」と禿頭が声をかける。
「どこも検査検査ですからね。大儲けでしょう」
「それであんたのところも儲かるわけだろう」
「違いない」と彼は油で光る頭髪を撫でた。「なにか話がはずんでいるようですね。奥さんまで参加して」
「うん、いまセンギョウシュフの話をしているところさ」
「え、なんですか、センギョウシュフって」
「専業主婦の男性版さ。彼にも聞かしてやっていいですか」
第九はにやにや笑って「聴衆が増えれば張り合いがありますからね」というと先ほどからの話を続けた。
下駄顔が男の為に言った。「この人が会社に勤めていたころ、エレベーターのなかで卒倒したんだ。そこで現れたのが産業心理士だ。彼女のカウンセリングの話だよ」
「それは興味がありますね。おなじ医療産業の話だし、聞いておけば何か参考になるかもしれませんね」
禿頭は第九のほうを向くと、それでどうしました、と聞いた。
「十八階の事務所から階段で降りるときに足を踏み外して転落したんです。その時に脚の骨を折りましてね」
「首の骨でなくよかったね」
「そうです。まあ不幸中の幸いでした。それで三か月ほど入院しました。退院しても松葉杖がないと歩けない。松葉杖じゃあ十八階までは登れないから当分自宅でリハビリですよ」
「ちょっと待ってください」と新入りの背広姿の男が割り込んだ。「どうして十八階から階段で降りるんですか」と怪訝そうに聞いた。
「いや、発端をお話ししていなかった。なんでもエレベーターのなかで突然失神してから、怖くてエレベーターが使えなくなったんですね」と和服の夫人が確認した。
「そうなんです。それで十八階の事務所まで階段を上り下りしていたんです」
「そりゃ途方もない話だ。それで心理カウンセラーの話が出てくるんですか」
「ええ、会社が社員の健康管理のために契約している大学病院がありましてね。そこの心療内科に通ったわけです」
「それは義務だったんですか、必要だったんですかね」
「さあ、どうでしょうかね。意味がなかったかな。だけど会社の命令だったから。会社はなにか見つけて私を休職かなにかにして、追い払いたかったんじゃないでしょうか」
「なんていう会社なんですか。お差支えなければ」と若い男が言った。
第九が会社の名前をいうと、「有名な会社だな、最近新聞でブラック企業だなんて記事が出ていた。労働組合が五つもあるんですって」
「そう、その会社なんですよ」
若い男は頷いて「それで分かった。なんで心療内科が出てくるのかと不思議だったんですが」
18:丸屋サチ
「そのカウンセラーというのが妙な女でね」と第九は思い出しながら言った。
彼女が正規の資格を持っていたか疑わしいな、と彼は最初から疑っていた。すくなくとも見習い看護婦じゃない、見習いか研修中という雰囲気だった。言うことにいかにも自信がなさそうだった。そのかわり、こちらが信用できないという態度を示すると、狂ったようにヒステリーをおこすのであった。年齢は25,6歳くらいのちっこい女性だった。着ているものはいつでも黒ずくめ、眼鏡まで太い黒縁だった。それが小さな丸顔を占領していた。髪は黒髪、当たり前か、日本人で染めていなければ。しかし靴のブラシのような剛毛なのである。その太い髪を肩まで伸ばしている。それがおさまりが悪いくせ毛がなのである。
言ってみれば第九は新人研修用のていのいい実験台にされているという被害意識を拭えず非常に居心地の悪い落ち着かない気分にさせられた。彼女は意識して、バカにされた経験があるのであろう、偉そうな口をきく。そのくせ、脇に置いたアンチョコだかマニュアルをひっきりなしにひっくりかえす。
第九はその背表紙に印刷してあるタイトルを記憶してさっそく本屋で求めたのである。とにかく彼女はやたらと質問をする。そのアンチョコにのっているアンケート・リストを片っ端から質問するのである。彼は最初のうちはなんでそんなことをするのか大いに戸惑った。だから次回以降は事前にそのマニュアルを読んで対策をたてたのである。どうするかって。それぞれの答えが全然矛盾するように答えるのである。彼女はくせ毛の剛毛の森のなかに指を突っ込んで身もだえした。きっと顔を上げると第九をにらみつけた。
「あなたはおかしいですね。本当におかしい。これは臨床心理の問題ではないかもしれませんね。精神科に言ったほうがいいかもしれない」
第九ははっとしたように不安そうな顔をしてみせた。「頭がおかしいんでしょうか」
「おかしいわよ」と彼女は断言した。そうかもしんないね、と彼は心の中で譲歩した。
「これで数回になりますけど、どうしてそんなにいろんな質問をするんですか」
彼女は蛇を思わせる邪眼をあげるときっと彼をにらみつけた。「全部関係あるんです。総合的に誤りのない診断をするためには必要なんです」
これには恐れ入った。ようするに俺を実験台にしてあらゆることを練習しようとしているのだ。経験のない外科医の新人があてがわれた患者を手術台の上で嬉々として切り刻んで経験、いや見識を積もうとするようなものである。
勘弁してくれよ、とかれは思った。彼女が何かと言っては参照するアンチョコや彼がそのほかに最近本屋で買った心理本によれば、彼の症状からすれば、閉所恐怖症、高所恐怖症、女性恐怖症のどれかしかないのだ。 心理的なものが原因とすればだが。もっとも、どうして彼がエレベーターで失神した症状が急に出たかという原因は調べなければならないかもしれない。
19:処女アレルギー
そろそろ冷やし中華でも食おうかなという季節になった。この間第九は支那ソバ屋に入った。ウェイトレスに冷やし中華を注文すると、アレルギーがありませんか、と彼女が聞いた。注文を取りに来たコオンナを見ると大抵のことには驚きそうもない熟女である。
「あります」と第九は答えた。「すこし処女アレルギーの気味がある」
女はびっくりしたように大丈夫ですか、と言った。「今のところ大丈夫のようです」と第九は答えた。注文を取りに来たウェイトレスが若い子だったら、こんなことを言うとセクハラと言って店が騒ぎ出すから言わないのだが、相手が女盛りだったのでつい本当のことを言ったのである。
おんなはぷいと何も言わずに向こうに行ってしまった。なかなか冷し中華が出てこない。彼女は怒って注文を無視したのかな、とぽつねんとしていると男性の店員が料理を運んできた。食い終わってレジに行くと、レジにいたさっきと別の女性店員が彼の顔を見てさっとレジを離れた。代わりに奥から中年の男がレジに入った。この店の女は老若すべて処女らしい。剛毅な店だ。
第九はさっき食べた冷やし中華は妙な味がしたな、と考えているとこの間のインシデントを思い出したのである。
御法川、これが銀色のクルーケースを携行しているおとこの名前である、が彼に問いかけた。「パニックになったときの状況はどうだったのですか」
そうだ、あれは彼の後から老婆が二人乗り込んだ。顔に深い溝のしわが碁盤の目のように走っていた。それが猛烈なおしろいの臭いを発散していた。もともと第九は強い白粉やつけすぎた香水にさらされると息が詰まる傾向があった。デパートの入り口には化粧品売り場が広い面積を占領している。女性の化粧品の下品な臭いが充満している。そういうところを通るときには普段から息を詰めるようにしていた。
「ひょっとすると臭気アレルギーかもしれませんよ。いちど見てもらえばいい。簡単な検査でわかります。このビルの診療所でも検査できます」と御法川は彼に教えた。
なるほど、臭害かもしれない。そう考えるほうが閉所恐怖症なんていうよりよほど真実らしい、と彼は考えた。ばかばかしい心理テストなど無意味なんだろうな、と思った。
しかし、失神するほどの影響があの時に限って出たのはどうしてだろう。老婆と白粉の度を越した臭気の相乗効果だったのか。それとも刺激が限度を超えたからだろうか。それにあれから怖くてエレベータに乗れなくなったという状態はやはり心理的な機制があるのだろうか。彼は考えるのが面倒くさくなった。馬鹿らしくなった。
最近は臭害問題が多いんですよ、と御法川が言った。
「その検査と言うのは何かサンプルを採っておたくの会社に持ち帰って調べるのですか」と第九は銀色のボックスケースを見ながら聞いた。
「いや、その場ですぐにわかります。いちど受けられたらどうですか」
20:労災訴訟で一揉みするか
「それで結局会社を辞めたんですか」と不思議そうに女店主が第九に聞いた。
「ええ、それから色々ありましてね。それから二年くらいあとだったかな。会社を辞めたんです」
「それで転業主夫に転職なさったんですか」とからかうように目じりに美しい皺をよせながら彼を横目で見た。
そう器用に素軽くもいきません。直線的にはいきませんや、というと第九はもうほとんど最近では思い出すこともなくなった当時のことを振り返った。
丸屋サチ子臨床心理士見習いがどのような内容かしらないが、レポートを会社に出したらしい。その結果だろう、営業から外されて資料室勤務を会社から命じられた。資料室には激しい組合活動をして左遷されてきた人間が沢山いた。
彼らはもともとの圭角がそぎ落とされて、ますます鋭くとんがってくるか、挫折のショックから精神が不活性化していた。部長や管理職も派閥争いから脱落した根性のひねくれたので占められていた。営業ばかりやっていた第九は一日中窓のない倉庫のような部屋で新聞や雑誌の整理をさせられた。彼は一時間おきにトイレに行って息抜きをした。帰ってくると課長に呼ばれて嫌味を言われる。彼は今度は閉所恐怖症になってしまった。どうもエレベーターでの発作も閉所恐怖症だったのかもしれない。そうならこんなところに一日中閉じ込めておくのは症状を悪化させるばかりで逆効果だ。丸屋臨床心理士見習いはいったいどういう診断をしたのだ。半年ほどしたころ、彼は思い立って労災認定を申請した。会社は当然無視する。彼は以前仕事の関係で知った弁護士に相談して訴訟を起こした。
まあ、いけるところまでやるさ、労災で一揉みしていれば弁護士との打ち合わせと称して外出もできる。裁判所に出廷するとして会社に行く必要もなくなる。退屈しのぎにはなるだろう。労災訴訟は一般的に言えば勤労者側が圧倒的に不利である。会社は専門の部署もあれば同様の案件を多数いつも抱えているから大手の弁護士事務所とも連携している。時々新聞で労働側が勝利すると新聞で大々的に取り上げるが、あんなのは率からいえばコンマ以下だろうと思った。ようするに会社側が対応を誤った結果だろう。レアケースである。
訴訟はいつまでたっても平行線である。訴訟合戦にも飽きが来た第九はそろそろ頃合いかなと思った。
『わたくし儀近年体調著しく弱り、激務に耐えがたくなり申しソロ、よって退職いたしたく、この儀伏してお願い申し上げソロ』と辞表を提出した。会社は待っていたように辞表を受理した。
「というわけです」
「へええドラマチックでしたね」とお世辞を言ったのは女店主である。
「とんでもない、しまらない話でした」
コーヒーをもう一杯飲もうかな、咽喉が乾きました。と第九がお願いするとするりと空気のように軽やかに身を起こして女店主が注文を告げに立った。