穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

『破片」まとめ:11-20

2019-10-31 08:34:24 | 破片

11.コンドームはごみ箱に捨てちゃだめよ

 異界から妻の声がする。はやく起きなさいよ、と言っているらしい。半覚醒の第九の脳にはそのように聞こえた。おかしい。妻が自分より早く起きることは絶対に無い。洋美より一時間早く起きて朝食の支度をするのが結婚の契約なのだ。妻の声はダイニングキッチンのほうからする。目を開けようとしたが目やにで上瞼と下まぶたがにニカワで張り付けたようになっていて目が開けられない。

 また洋美の晴れ晴れとした爽やかな声が響いた。「トーストと目玉焼きとコーヒーの朝食が出来ているわよ。コーヒーが冷めないうちに起きなさいよ」と催促した。いったい、何事が起ったのだ。とにかく起きて顔を洗おうとベッドが降りた。バカに体がだるい。ふらふらする足で洗面所に向かおうとして本棚にぶつかった。何もないと思うところにぶつかったので勢いがある。本棚は倒れる。彼女がきゃっと悲鳴を上げる。倒れた本棚は小さなキッチンテーブルの上に倒れかかりテーブルをひっくり返した。皿は吹っ飛んで割れる。コーヒーは床にぶちまけられた。たまごも床に落ちて張り付いた。

 目が見えないから床に落ちた卵を踏んづけてつるりと足を滑らしてまた倒れ掛かる。

どうしたのよ、と彼女の怒声が飛ぶ。目が開かないんだ。目やにがつまっているらしい。洗面所に行って顔を洗おうとしたんだ、と彼は弁明した。

「しょうがないわね。どうしたのよ」と彼女は浴びせかけたものの、ふらふらする彼をバスルームにまで誘導した。

 水が温まるのを待って彼は入念に顔を洗った。特に目の周りは丁寧に拭った。数分後どうやら目は外界とのコンタクトを回復した。部屋に戻ると彼女は床に落ちたものを集めて床を拭いている。「ごめんね、食事は作り直すから」というと彼はキッチンに行き、湯を改めてわかし、トースターに新しいパンをセットした。作り直した料理をトレイに乗せて運ぶ。彼女の顔を見るといつになく晴れ晴れとした表情をしている。壁に賭けた時計を見ると七時だった。そうすると彼女は六時過ぎに起きたんだな、と第九は考えた。いつもより一時間以上はやい。

「ずいぶん早く起きたんだね」

「すごくすっきりとした気分なのよ。今朝は」といって彼に微笑んだ。「昨夜は疲れたの」といたわるように彼に聞いた。

彼はああ、とかうう、とか文章にならない返事をした。昨夜は例のスタッグ・カフェに自警団として彼は夕方から「勤務」していたのである。彼はいつも夕食の支度をするために六時前には帰るのであるが、昨日はそういうわけで十時過ぎに帰宅した。ドアを開けると洋美がものすごい顔で襲ってきたのである。

「それからね」と彼女は気が付いたように言った。「コンドームをごみ箱に捨てちゃだめよ。この間お手伝いさんが変な顔をしていたわよ」

  

 2:差別 

 少し早めにカフぇに出勤した。妻から五時までに帰宅するように厳命されたのである。彼女が帰宅する時間は不定で早い時には七時過ぎに帰ってくるが深夜に帰ってくることも多い。なにしろキャリア・ウーマンだから忙しいのだ。昨日遅く帰宅したことを怒っている彼女は五時には電話してチェックするというのだ。

 第九は近くのファミリー・レストランでスパゲッテイを掻き込んで昼前に自警団勤務についた。あれ以来ビルの防災センターの守衛が一時間おきに店を見周りに立ち寄る。お巡りさんも午前と午後に立ち寄る。あの騒ぎからそろそろ一週間になるが、ピカソ女もデコボコ組も現れない。

 「仕返しにも来ないですね。そろそろ自警団を解散してもいいんじゃないですか」と彼は下駄顔老人に言った。

「そうだねえ、まだ分からないな。しかしあなたは専業主夫だから毎日出張るのも大変でしょう。家事もあるだろうし。私たちはどうせ毎日来るんだからしばらく続けますが、あなたはもう結構ですよ。ご苦労様でしたな」

 「しかし、女性差別なんて言いがかりだね。もっと酷い差別に我々は苦しんでいるんだからな」と卵型禿頭老人が会話に加わった。

「女性差別なんて因縁をつける連中は自分たちが差別してることには一向に自覚がありませんからな。老人差別の実態なんて酷いからね」

 「七十歳をすぎたら運転免許証を返納しろなんてな」

「しかし、現実に事故を起こしているからしょうがないんじゃないですか」

「ま、東京にいれば車を運転する必要もないからね。自動車事故は他人を巻き込むから何らかの対応は必要かもしれないな」

 「ひどいのは、老人に金を自由に使えないようにすることですよ。社会主義の国じゃあるまいに」と禿頭老人が息巻いた。

「あれはひどいな。あんなことがまかり通るようじゃ世も末だな。いまどき自分の金なのに銀行に金を下ろしにいっても、十万円を超えると写真付きの免許証をみせろとか、すがれた婆あ行員に命令される。あんなことを許していいのか」の下駄顔が憤った。「自分の金だよ。預金通帳というのは万能のバウチャーだろうが。それを裏付けるために印鑑がある」

 禿頭が相槌を打った。「振込なんかの時にもそんなことを言われるね。写真付きの免許証なんて言っても、こっちは免許証も持っていないしな。そういうと写真付きの何か証明書がありますか、なんて言いやがる。大昔に会社に勤めていた時には社員証なんかには写真が貼ってあったがな。退職した今はそんなものは持っていない。大体約款にはそんなことを要求する文言があるのかな」

 「通帳の裏に印刷してある約款はわざと利用者に読めないように細字で印刷してあるからな」

「NHKもひどいね。振り込め詐欺防止のためなんていっているが、余計なお世話だよ。あれは幼児のような頭しか持っていない警察のキャリア官僚か、財務省の役人が銀行に指導するんだろうな。それを銀行が錦の御旗にして客を客とも思わない態度をとるんだ」

 「政府は経済の活性化なんて騒ぎ立てるが、自分の金を自由に運用できなくて経済が発展すると思っているのか。あきれた話だ」

 13:老人は携帯電話も買えない

 和服美人がケーキをを持ってきた。『ボランティア自警団に日当を払う』なんて出過ぎた失礼なことは出来ないが、せめてケーキでお礼をというのだろう。毎日午後三時ごろにケーキをご馳走してくれる。

「そういえばお年寄りには携帯電話も売らないんですってね」と夫人は言った。

「どういうことですか」と第九は聞いた。

「私の父が携帯電話を新しいのに買い替えようとしていったら、高齢者は子供の同意が必要だって言われたんですって」

第九は驚いて、そりゃひどいなと呟いた。「本当ですか」

「小学生や中学生が携帯を買うときに親の同意が必要らしいけど、それじゃ立派な大人が子供なみに扱われているわけですか」

「父はカンカンに怒っていました。子供がおもちゃを買うときに親の許可が必要というのと同じですからね。人権どころが人間の尊厳を踏みにじるものですよ」

「まさに差別の典型ですよ。人権侵害だな。根拠はなんなんです。そんな理不尽な要求をするのは」

「たぶん、警察庁あたりのバカ官僚の差し金だろうね」と禿頭老人が言った。「携帯が犯罪

グループに流れるとか、勝手に幼稚な理屈をつけているのだろうね」

それでお父上はどうしたんですか、と第九はたずねた。

「なにが根拠なんだ、と聞いたらしいんですね。会社の規則なら書いたものを見せろと要求したら、そんなものはないらしいんですね。当局の指導とかしどろもどろの答えだったそうです。それならその指導とか通達やらを見せろといったそうです」

「ふむふむ、それでどうしました」

「その係の若い女性は上役に聞きに行ったそうです」

「あきれたね、そんな重大なことの根拠も教育されていないのか」と下駄顔

「それが、その女性がなかなか戻ってこなくて、二十分ぐらい待たされて帰ってきたら通達はお見せ出来ませんというんだそうです」

「ひどいね、顧客対応の基本的なことなのに、根拠を示せないのか」と第九は呆れた。

ひとしきり話が終わったところで、婦人がだれもケーキを食べていないことに気が付いて、「ケーキをどうぞ」と改めて勧めた。

 ケーキを一口切り取ると、禿頭老人が「さっきの銀行のサービス劣化の話だが、個人客

差別も甚だしくなったね」と呟いた。

 

14:個人客差別 

 銀行で個人客を差別しているんですか、と秀麗無臭な夫人が怪訝そうに質問した。

「私の行く銀行では個人客用の係が一人しか配置されていないんでね。結構大きな支店なんですけどね」と下駄顔が答えた。「銀行に行くとロビーレディとかいうおせっかいなばあさんに半券を渡されるでしょう、順番待ちの番号が印刷してある」と続けた。

「二人待ちなんですぐに順番が来るだろうと思っているとなかなか呼ばれない。カウンターは十ぐらいあって顧客はどんどん呼ばれてはけていくのにおかしいな、と思っていたので呼ばれたときに係に疑問をただしたんですよ。そうしたら個人客用の係は一人だけだというんです。彼女が言うにはインターネット・バンキングが普及したからカウンターの窓口を減らしたというんですな」

 「理屈をつけて強引にインターネット・バンキングに誘導しているんですかね」と第九が口をはさんだ。

「振込なんかでも用紙に書き込んでカウンターに持っていくとATMでもできますってかならず言われますね」

「そうそう、あれも気分悪いね。苦心して用紙に記入してきたのに分からなければお教えしましょう、なんて言いやがる」

「どうしてですかね、時勢かしら」と秀麗無臭。

「コスト削減ですよ、顧客の不便の代償で自分たちの高給を確保しようとするのです」

 「まったく、従業員たちの利益しか考えないんだからひどいものだ。振り込みでちょっと金額が大きくなると写真付き証明書なんて言いやがるし、少額だとむりやりATMにいかせようとするんだ」

 下駄顔も言った。「そういう時にはATMの入力をタイプライター式にしろと窓口の婆さんにいうんだ。いまさら指入力なんか出来るか、バカ野郎」

「それじゃースマホもダメですね」と秀麗無臭が混ぜ返した。

「いや、Qwertyっていうタイプライター式の入力方法もあるんじゃないですか」と第九が口を挟んだ。

下駄顔はポカンとしたが、「そうかね、そういうATMもあるのかね」とみんなに聞いた。

みんな首をひねっている。

禿頭が断を下した。Qwertyもだめだね。ぼくもタイプライター派だけど、あれはソフトキーボードだろう」

「そうですね」

「じゃあ結局一本指の入力だろう。タイプライターなら五本、いや十本の指がキーの位置を記憶しているからローマ字入力も簡単だが。それに指入力だと、訂正の仕方がよく分からないから最初からやり直す。イライラしてまた間違えるっていうことになる」

「そうそう」と下駄顔が相槌を打った。

秀麗無臭夫人が不思議そうに老人二人に尋ねた。「お二人ともご高齢なのに結構ハイカラなのね。タイプライター式のほうが良いって」

「ははは」と二人の老人は笑った。「もちろん英文タイプライターですよ。昔は和文タイプライターというのもあってね。これは大変な代物で、和文タイピストというのがいてね、エリート女性でしたよ」

「何をする人たちなんですか」

「会社で社長名で出す書簡だとか文書は活字じゃなければいけないでしょう。あるいは役所に出す申請書とかね。活字で文書を作って、でかでかと社長印を押して作成するわけです。だから和文タイピストというのは威張っていてね、我々みたいなぺいぺいが原稿を持っていくと、けんもほろろの扱いでしたよ」

「そうそう、拝み倒して自分が持って行った原稿を割り込ませてもらいましたな」

「へえ、そういう職業もあったのね」

「女性の職業ではエリートでしたね。社長秘書か和文タイピストかと言われたものです」

「それはキーボードの配列も普通の英文タイプライターとは違うんですね」

「全然違います」

 「しかし、あなた方は英文タイプライターは楽々と使いこなしていたわけですか」

「私は商社に入りましてね。英文レターは必須業務でしたから、入社してまずタイプライターを練習しました」

「なるほど、それでお上手なわけね」

「指入力なんて猿みたいなマネはできません」

  

15:女性が怖い

 ところで、とさっきから黙っている第九のほうを振り向くと彼女は「夏目さんはどんなお仕事をなさっているのですか」と訊いた。昼間に時々ぶらっと店に顕れて長時間滞留しているから不思議に思っていたのだろう。自由業か、外回りのセールスマンがさぼっているのだろうか、と不審に思っているようだ。

「何をしているように見えますか」と第九は反問した。どう答えようかと考えをまとめるための時間稼ぎである。

「さあ」としばらく婦人は彼を見つめていたが、自由業かしら、小説家?」

「夏目漱石のひ孫です、というのは真っ赤なウソですがね。ちょっと説明しにくいんです」

「なにか秘密のお仕事」と彼女は首を左へ18.5度ほど傾げた。

おしゃべりな禿頭老人が我慢出来なくなって「彼は専業主夫なんですよ」と口を挟んだ。

 「センギョウシュフ?」

「シュフのフは夫という字を書きます」と禿頭が注釈を加えた。

「・・・へぇお珍しい」

「なに、最近は増えてまさあね」と下駄顔

「そうなんですか。ずうっとなんですか」

「まさか、結婚してからですよ」

「失礼、それはそうだわよね」

訥々と第九は話し始めた。

「世間並みに最初は会社に勤めていたんですがね。女でしくじりまして会社を辞めました」

「おやまあ、それは・・・」と彼女はお悔やみを述べるように言ったが、それ以上聞くのは失礼と思ったらしく、テーブルからグラスを取り上げると水を飲んだ。第九は話し始めようと決心すると逆に止まらなくなった。

 あの症状が出たのは退職1,2年前だっただろうか。会社のエレベータの中で息が詰まり卒倒したのは。119番通報されてストレッチャーに乗せられて救急病院に搬送された。うわごとに「白粉が、白粉が」と言っていたらしい。それ以来彼は再発を恐れてエレベーターには乗れなくなった。これがデパート勤務のようにエスカレーターがあれば勤務が続けられたかもしれない。オフィスビルにエスカレーターなんか無いから、かれは18階の自分の職場まで毎日階段を登らなければならなくなった。上るのはまだ若くて体力があったから、なんとか凌げたが、降りるときに一度転倒して足を折ってしまった。数か月入院したのである。

 

16:専業主夫のお仕事 

 専業主夫というと、どんなことをするんですか、と女あるじが夏目第九に聞いた。

「家事労働すべてとセックスサービスです」

「大変なお仕事なのね」と彼女あきれたようにつぶやいた。「私も夫と変わってほしいわ。そんなにして尽くすなら奥様はきっとすごい美人でしょうね」

「どうでしょうかね」と彼は首をかしげて口の中でもごもごと言った。

「どうでしょうかねって、どういうことだ」と下駄顔が不思議だというように詰問した。「彼女に借金のかたにとられたのか」

禿頭が「奥さんが素晴らしいボディをしているのか」と下卑た笑いを浮かべた。

第九はうふっと気持ちの悪い含み笑いをした。「まあそんなところでしょうかね」と第九はこともなげに言った。

 「退職一、二年前に会社のエレベータで粗相をしましてね」

「漏らしたのか」

「いやいや、まあそんなものかな。失神しましてね。醜態を演じました」というとコップの水を口に含んだ。

 ・・病院に搬送されたが翌日には退院できた。嘘のようにけろっと治ってしまったのである。退院後会社の契約している大学病院で精密検査を受けたが異常はなかった。しかし、エレベーターに乗れなくなってしまった。

 再び出社するようになってからも週に一度は会社の医務室に通ったがなにもわからなかった。彼の会社はブラック企業の部類だろう。それも仕事がきついというだけではなくて、社内の人事環境が複雑でストレスから体調を崩すものが後を絶たなかった。それも普通の会社のように役員や部長同士のいざこざの巻き添えをペイペイが食らうというのではなくて、労働組合が分裂していて五つもできていた。その組合同士の陰湿な日常的な騙しあい、権力闘争、陰謀の渦がすざましかったから、社員は新入社員の時から派閥抗争のストレスをまともに浴びる。商社だから負ければ辺鄙な外国に飛ばされて勤務地をたらいまわしにされて一生日本に帰ってこれない。だから精神に異常をきたす社員が後を絶たなかったのである。

 契約大学の心療内科に通うものも多かったのである。そういうわけで、見習い中、駆け出しの産業心理士の卵である丸屋サチも週に一度会社の医務室に出張っていたのであった。

彼女は私に格好のサンプルを見つけたらしい。私の心理的カウンセリングをすると申し出たのである。

 

17:カウンセリング 

 三十台と思しき背広姿の男が店に入ってきた。クルーケースのような大きなバッグを手に提げている。ただし、外側全体は冷凍ボックスのように銀紙で覆われている。時々現れてこの店で小憩していく男である。このビルの中にある診療所に立ち寄って尿とか血液の検査サンプルを回収していくのである。

 店の常連で毎日のように現れる。禿頭や下駄顔のような常連とは顔なじみである。彼は隣のテーブルの席に銀色に輝くクルーケースを置いて腰を下ろした。

「商売繁盛だな」と禿頭が声をかける。

「どこも検査検査ですからね。大儲けでしょう」

「それであんたのところも儲かるわけだろう」

「違いない」と彼は油で光る頭髪を撫でた。「なにか話がはずんでいるようですね。奥さんまで参加して」

「うん、いまセンギョウシュフの話をしているところさ」

「え、なんですか、センギョウシュフって」

「専業主婦の男性版さ。彼にも聞かしてやっていいですか」

第九はにやにや笑って「聴衆が増えれば張り合いがありますからね」というと先ほどからの話を続けた。

 下駄顔が男の為に言った。「この人が会社に勤めていたころ、エレベーターのなかで卒倒したんだ。そこで現れたのが産業心理士だ。彼女のカウンセリングの話だよ」

「それは興味がありますね。おなじ医療産業の話だし、聞いておけば何か参考になるかもしれませんね」

 禿頭は第九のほうを向くと、それでどうしました、と聞いた。

「十八階の事務所から階段で降りるときに足を踏み外して転落したんです。その時に脚の骨を折りましてね」

「首の骨でなくよかったね」

「そうです。まあ不幸中の幸いでした。それで三か月ほど入院しました。退院しても松葉杖がないと歩けない。松葉杖じゃあ十八階までは登れないから当分自宅でリハビリですよ」

 「ちょっと待ってください」と新入りの背広姿の男が割り込んだ。「どうして十八階から階段で降りるんですか」と怪訝そうに聞いた。

「いや、発端をお話ししていなかった。なんでもエレベーターのなかで突然失神してから、怖くてエレベーターが使えなくなったんですね」と和服の夫人が確認した。

「そうなんです。それで十八階の事務所まで階段を上り下りしていたんです」

「そりゃ途方もない話だ。それで心理カウンセラーの話が出てくるんですか」

「ええ、会社が社員の健康管理のために契約している大学病院がありましてね。そこの心療内科に通ったわけです」

「それは義務だったんですか、必要だったんですかね」

「さあ、どうでしょうかね。意味がなかったかな。だけど会社の命令だったから。会社はなにか見つけて私を休職かなにかにして、追い払いたかったんじゃないでしょうか」

「なんていう会社なんですか。お差支えなければ」と若い男が言った。

第九が会社の名前をいうと、「有名な会社だな、最近新聞でブラック企業だなんて記事が出ていた。労働組合が五つもあるんですって」

「そう、その会社なんですよ」

若い男は頷いて「それで分かった。なんで心療内科が出てくるのかと不思議だったんですが」

 

18:丸屋サチ

 「そのカウンセラーというのが妙な女でね」と第九は思い出しながら言った。

彼女が正規の資格を持っていたか疑わしいな、と彼は最初から疑っていた。すくなくとも見習い看護婦じゃない、見習いか研修中という雰囲気だった。言うことにいかにも自信がなさそうだった。そのかわり、こちらが信用できないという態度を示すると、狂ったようにヒステリーをおこすのであった。年齢は256歳くらいのちっこい女性だった。着ているものはいつでも黒ずくめ、眼鏡まで太い黒縁だった。それが小さな丸顔を占領していた。髪は黒髪、当たり前か、日本人で染めていなければ。しかし靴のブラシのような剛毛なのである。その太い髪を肩まで伸ばしている。それがおさまりが悪いくせ毛がなのである。

 言ってみれば第九は新人研修用のていのいい実験台にされているという被害意識を拭えず非常に居心地の悪い落ち着かない気分にさせられた。彼女は意識して、バカにされた経験があるのであろう、偉そうな口をきく。そのくせ、脇に置いたアンチョコだかマニュアルをひっきりなしにひっくりかえす。

 第九はその背表紙に印刷してあるタイトルを記憶してさっそく本屋で求めたのである。とにかく彼女はやたらと質問をする。そのアンチョコにのっているアンケート・リストを片っ端から質問するのである。彼は最初のうちはなんでそんなことをするのか大いに戸惑った。だから次回以降は事前にそのマニュアルを読んで対策をたてたのである。どうするかって。それぞれの答えが全然矛盾するように答えるのである。彼女はくせ毛の剛毛の森のなかに指を突っ込んで身もだえした。きっと顔を上げると第九をにらみつけた。

「あなたはおかしいですね。本当におかしい。これは臨床心理の問題ではないかもしれませんね。精神科に言ったほうがいいかもしれない」

第九ははっとしたように不安そうな顔をしてみせた。「頭がおかしいんでしょうか」

「おかしいわよ」と彼女は断言した。そうかもしんないね、と彼は心の中で譲歩した。

 「これで数回になりますけど、どうしてそんなにいろんな質問をするんですか」

彼女は蛇を思わせる邪眼をあげるときっと彼をにらみつけた。「全部関係あるんです。総合的に誤りのない診断をするためには必要なんです」

これには恐れ入った。ようするに俺を実験台にしてあらゆることを練習しようとしているのだ。経験のない外科医の新人があてがわれた患者を手術台の上で嬉々として切り刻んで経験、いや見識を積もうとするようなものである。

勘弁してくれよ、とかれは思った。彼女が何かと言っては参照するアンチョコや彼がそのほかに最近本屋で買った心理本によれば、彼の症状からすれば、閉所恐怖症、高所恐怖症、女性恐怖症のどれかしかないのだ。 心理的なものが原因とすればだが。もっとも、どうして彼がエレベーターで失神した症状が急に出たかという原因は調べなければならないかもしれない。

 

19:処女アレルギー

 そろそろ冷やし中華でも食おうかなという季節になった。この間第九は支那ソバ屋に入った。ウェイトレスに冷やし中華を注文すると、アレルギーがありませんか、と彼女が聞いた。注文を取りに来たコオンナを見ると大抵のことには驚きそうもない熟女である。

 「あります」と第九は答えた。「すこし処女アレルギーの気味がある」

女はびっくりしたように大丈夫ですか、と言った。「今のところ大丈夫のようです」と第九は答えた。注文を取りに来たウェイトレスが若い子だったら、こんなことを言うとセクハラと言って店が騒ぎ出すから言わないのだが、相手が女盛りだったのでつい本当のことを言ったのである。

 おんなはぷいと何も言わずに向こうに行ってしまった。なかなか冷し中華が出てこない。彼女は怒って注文を無視したのかな、とぽつねんとしていると男性の店員が料理を運んできた。食い終わってレジに行くと、レジにいたさっきと別の女性店員が彼の顔を見てさっとレジを離れた。代わりに奥から中年の男がレジに入った。この店の女は老若すべて処女らしい。剛毅な店だ。

 第九はさっき食べた冷やし中華は妙な味がしたな、と考えているとこの間のインシデントを思い出したのである。

 御法川、これが銀色のクルーケースを携行しているおとこの名前である、が彼に問いかけた。「パニックになったときの状況はどうだったのですか」

そうだ、あれは彼の後から老婆が二人乗り込んだ。顔に深い溝のしわが碁盤の目のように走っていた。それが猛烈なおしろいの臭いを発散していた。もともと第九は強い白粉やつけすぎた香水にさらされると息が詰まる傾向があった。デパートの入り口には化粧品売り場が広い面積を占領している。女性の化粧品の下品な臭いが充満している。そういうところを通るときには普段から息を詰めるようにしていた。

 「ひょっとすると臭気アレルギーかもしれませんよ。いちど見てもらえばいい。簡単な検査でわかります。このビルの診療所でも検査できます」と御法川は彼に教えた。

なるほど、臭害かもしれない。そう考えるほうが閉所恐怖症なんていうよりよほど真実らしい、と彼は考えた。ばかばかしい心理テストなど無意味なんだろうな、と思った。

 しかし、失神するほどの影響があの時に限って出たのはどうしてだろう。老婆と白粉の度を越した臭気の相乗効果だったのか。それとも刺激が限度を超えたからだろうか。それにあれから怖くてエレベータに乗れなくなったという状態はやはり心理的な機制があるのだろうか。彼は考えるのが面倒くさくなった。馬鹿らしくなった。

 最近は臭害問題が多いんですよ、と御法川が言った。

「その検査と言うのは何かサンプルを採っておたくの会社に持ち帰って調べるのですか」と第九は銀色のボックスケースを見ながら聞いた。

「いや、その場ですぐにわかります。いちど受けられたらどうですか」

 

20:労災訴訟で一揉みするか

 「それで結局会社を辞めたんですか」と不思議そうに女店主が第九に聞いた。

「ええ、それから色々ありましてね。それから二年くらいあとだったかな。会社を辞めたんです」

「それで転業主夫に転職なさったんですか」とからかうように目じりに美しい皺をよせながら彼を横目で見た。

そう器用に素軽くもいきません。直線的にはいきませんや、というと第九はもうほとんど最近では思い出すこともなくなった当時のことを振り返った。

 丸屋サチ子臨床心理士見習いがどのような内容かしらないが、レポートを会社に出したらしい。その結果だろう、営業から外されて資料室勤務を会社から命じられた。資料室には激しい組合活動をして左遷されてきた人間が沢山いた。

 彼らはもともとの圭角がそぎ落とされて、ますます鋭くとんがってくるか、挫折のショックから精神が不活性化していた。部長や管理職も派閥争いから脱落した根性のひねくれたので占められていた。営業ばかりやっていた第九は一日中窓のない倉庫のような部屋で新聞や雑誌の整理をさせられた。彼は一時間おきにトイレに行って息抜きをした。帰ってくると課長に呼ばれて嫌味を言われる。彼は今度は閉所恐怖症になってしまった。どうもエレベーターでの発作も閉所恐怖症だったのかもしれない。そうならこんなところに一日中閉じ込めておくのは症状を悪化させるばかりで逆効果だ。丸屋臨床心理士見習いはいったいどういう診断をしたのだ。半年ほどしたころ、彼は思い立って労災認定を申請した。会社は当然無視する。彼は以前仕事の関係で知った弁護士に相談して訴訟を起こした。

 まあ、いけるところまでやるさ、労災で一揉みしていれば弁護士との打ち合わせと称して外出もできる。裁判所に出廷するとして会社に行く必要もなくなる。退屈しのぎにはなるだろう。労災訴訟は一般的に言えば勤労者側が圧倒的に不利である。会社は専門の部署もあれば同様の案件を多数いつも抱えているから大手の弁護士事務所とも連携している。時々新聞で労働側が勝利すると新聞で大々的に取り上げるが、あんなのは率からいえばコンマ以下だろうと思った。ようするに会社側が対応を誤った結果だろう。レアケースである。

 訴訟はいつまでたっても平行線である。訴訟合戦にも飽きが来た第九はそろそろ頃合いかなと思った。

『わたくし儀近年体調著しく弱り、激務に耐えがたくなり申しソロ、よって退職いたしたく、この儀伏してお願い申し上げソロ』と辞表を提出した。会社は待っていたように辞表を受理した。

 「というわけです」

「へええドラマチックでしたね」とお世辞を言ったのは女店主である。

「とんでもない、しまらない話でした」

 コーヒーをもう一杯飲もうかな、咽喉が乾きました。と第九がお願いするとするりと空気のように軽やかに身を起こして女店主が注文を告げに立った。

 

 


『破片』既アップ分の原稿まとめのお知らせ

2019-10-30 07:10:02 | 破片

当ブログに連載中の拙稿『破片』はすでにアップしたものが37稿になりました。初めて読む方は表示が新しいほうから(降順)では読みにくいでしょうし、読み進めていただいている方も前のほうはどうだったかな、と思っても参照しにくいと思い、今回すでにアップした原稿分については投稿日時順(古い順に、すなわち最初から順次、番号を昇順)に並べてアップします。今回は1から10までです。残りも順次アップします。

なお、今後38:以降の原稿は従来通り、アップ順に番号の高い順から低い順に(降順に)表示します。また、まとまったところで番号昇順にまとめる予定ですのでよろしくお願いいたします。


破片(まとめ)1-10

2019-10-29 18:20:56 | 破片

 当ブログに連載中の拙稿『破片』すでにアップしたものが37稿になりました。初めて読む方は読みにくいでしょうし、読み進めていただいている方も前のほうはどうだったかな、と思っても参照しにくいと思い、今回原稿を投稿日時順(古い順に、すなわち最初から順次)に並べてアップします。今回は1から10までです。残りも順次アップします。

 1:空襲警報発令

 ろうそくの光が木の香の漂う浴室を頼りなげに照らしている。電灯は使えない。何時停電するか分からない。

檜作りではないが木の風呂はやはり気分が落ち着いていい。さきほど「東部軍管区発表」とラジオで空襲警報が帝都に発令されたが、毎夜のことで慣れてしまった第九は、家族が怖がって誰も沸かした風呂に入らないのを幸いせっかく沸かした湯が冷めないうちにと風呂に入っていたのである。

 陶器の風呂桶とは違う。ポンポンという後楽園の陣地から撃つ高射砲の音も眠りを誘う。いい気持になってうとうとしはじめた第六の耳に突然鋭い音が迫ってきた。ヒューンという金属が空気を切り裂くような音がしたとおもうと風呂場の外の壁にぶつかって風呂場が振動した。煙突から煤が彼の頭上に降り注いできた。

風呂場は庭に面している。衝突した物体は庭に落下したらしい。食堂に集まっている家族がばらばらと庭に出てきて叫んでいる。突然姉のギャーという悲鳴が聞こえた。父や母、それに書生が姉のもとに駆け寄ってくる気配がした。「どうした、どうした。大丈夫か」と父の声がする。父も暗闇で何かにけ躓いたらしく「痛ててて」と悲鳴を上げる。「なんだ、これは、おい明かりをもってこい」と書生の園田に命じている。灯火管制で屋内の電灯には皆黒い布でカバーがしてあって、庭は真っ暗だった。

 書生が懐中電灯を持ってきて、それで庭に落下したものを照らし出したらしく、「なんだこれは」と父が驚きの声を発した。「これは爆撃機の破片じゃないですか」と母の声。姉はうめいている。「そんなことより、竹子の傷を見なければ」父とはいい、姉を抱えて食堂に戻っていった。

 第六は慌てて風呂から出て体を拭くとズボンとシャツを着て食堂に行った。姉は畳の上に寝かされていたが顔色は真っ白だった。脚のどこかの動脈を切断したらしく下半身は血で真っ赤になっていた。父と書生は応急の止血措置をしようとなれない手で必死であった。母はおろおろするばかりであった。「三浦先生に来てもらいましょう」と父に言った。

「それがいい。急いで電話してくれ」

 廊下に出た母は電話をかけていたが、帰ってきて「先生はいらっしゃいませんでした。下町はいたるところで火災が発生していてけが人の処置で出ているんですって」

「そうか、そうだろうな。おい、竹子、大丈夫か」と話しかけるが彼女はほとんど意識がなくなっているらしい。どうやら出血だけは止まったらしい。

 「どうしてそんな怪我をしたんです。直撃じゃないでしょう」

「うん、暗闇で鋭い金属の破片に躓いたようだ。あれはなにかね。B29が撃墜されて、その破片が落ちてくることがあるらしいが」と父がつぶやいた。

「わたしもそう思いましたが、高射砲の破片の可能性もありますね」と園田が答えた。

「ふーん、そういえば後楽園に高射砲陣地があるからな。そうかもしれないな」

「破片は風呂場の煙突にぶつかってから庭に落ちたらしいが、風呂場は大丈夫か」

「中は大丈夫でした。ただ、煙突の煤が土砂降りのように落ちてきましたよ」

「そうか、煙突掃除の人ももう半年も来ていないからな」

「彼もきっと戦地に召集されたのでしょう」と園田が言った。

 

2: 新聞閲覧所

 第九は千円を払って私設新聞閲覧所に入った。彼が新聞閲覧所と勝手に呼んでいるが喫茶店である。女性と学生とみるとレジ係では時計を見て一時間足した時間をレシートに記入して客に渡す。その時間が過ぎたらまた千円を払わなければならないと注記してある。そのおかげで店の中はスタッグ・バーのような雰囲気である。年金生活者でなにもすることがない老人たちが備え付けの新聞をめくって半日を過ごすのである。第九も散歩の途中、隣の大型書店を巡察した後でしばし小憩することが多い。

 テーブルの備え付けてある注文用紙に「インスタント・コーヒー スプーン3杯、砂糖10グラム」と書き込む。注文用紙の銘柄欄には「特に希望なし」という欄にチェック・マークを入れる。湯温欄には80度と記入する。それを注文を取りに来た女子高生のようなウェイトレスに渡す。

 ゆったりとした背もたれのある椅子が余裕をもって配置されている。一時間千円分のスペースがある。禁煙ではないが、スペイシャスな椅子の配置から実質的な分煙となっている。運ばれてきたコーヒーを一口飲むと第九はぐるりと店内を見回した。いつも見かける老人たちと目があって軽く会釈した。

 デイパックから読みかけの文庫本をとりだした。二、三ページ読むと、だめだな、もう失速している、と彼は呟いて本をテーブルの上に放り出した。出だしには作家はみんな力むから、まあまあ読めると思って読むと百ページも行かないうちに小学生の作文のようになる。今読んだのはまだましなほうだ。一応二百ページまで我慢して読んだんだから。

 彼は立ち上がると、新聞の置いてあるラックまで歩いて行き、一紙を取り上げると席に戻る途中ふと思いついて一人の老人のそばで立ち止まった。店の常連で顔見知りの老人である。かれは立ち止まると「ちょっとお邪魔してもいいですか」と問いかけた。老人は見事な禿頭で磨きこまれた頭皮は美しく輝いている。かれはいつも手入れの行き届いた禿頭を感嘆して眺めるのである。

 老人は人懐っこい笑顔になると、「どうぞ、どうぞ」といって脇の椅子の上に置いてあったバッグやコートを片寄せて彼を座るように誘った。老人の年はわからないが、90歳前後と見えた。彼は今日の東京では聞くことのできなくなったほれぼれするような歯切れのいい東京弁、というより江戸弁のなごりを感じさせる言葉を話す。それを聞くだけでいい気持ちになる。きっと若い時から東京で生活してきたのだろうと思って第九は質問した。

 「昨夜妙な夢を見ましてね」とかれはニコニコしている老人に語り掛けた。「東京が空襲を受けた時の話なんです」

「ほう」と老人が応じた。

「もちろん、その時には生まれていなかったので記憶があるわけもないのですが、やけに生々しい現実感のある夢でした」

「なるほど」

「その時には、つまり空襲警報が発令されているさなかに私は風呂に入っていたのです。そうしたらいきなり庭に何かが落ちてきた。家族がそれを見に行ったら金属の破片でした。姉、私には実際には姉がいないんですけどね、その姉が暗闇の中でその破片につまずいて足の血管を切って大出血をしたんです。勿論夢の中の話ですよ」と第九は念を押した。

「それでこの金属の破片は何だろう」という話になった。高射砲が命中したアメリカの爆撃機の胴体の破片だとか、いや日本軍の高射砲の破片だとかいろいろな意見がでたわけです。そのなかで書生の園田というのが、近くの後楽園に高射砲の陣地があるからそこから発射された高射砲弾が上空で破裂した破片ではないかというのですね」

老人は奇妙な顔をして第九の顔を見ている。

「そこでお聞きしたいのは後楽園に日本軍の高射砲陣地があったというのは本当ですか。ご記憶があるかなと思って」

 「さあてね」と老人は三ミリほどに伸びている顎の無精ひげを撫でた。

「それは岡山の後楽園ではないでしょうな」

これには第六も意表をつかれた。そういえば岡山もアメリカ軍の大空襲を受けたと読んだことがある。

「わたしは小石川の後楽園とばかり思ってました」

「しかし、あなたはNHKの空襲警報は東部軍管区発表と聞いたのでしょう」

「そうです」

「そうすると岡山ということはないな」

 

3: 聞いちゃったのよ

老人はしばらく口を噤んで思案するていであった。

「実はね、私の姉はタケコというんですよ」と呟いた。「あなたの夢に出てきたタケコはどんな字かな。もっとも」と老人は笑った。「夢の中だから字が出てくるわけもないな」

「そうなんですね。しかし不思議なもので私はバンブーの竹を充てていたらしい。あなたのお姉さんはどんな字ですか」

老人は手ぶりを交えながら指で字を空中でなぞる様にしながら、多いという字に計画の計ですよ」

「しかし同じ名前とは妙ですね」

「妙と言えば妙、妙でないと言えば妙でもないな」

「どういうことですか」

「実はね、あなたの夢は私の記憶と完全に一致する」

第九はポカンとして老人を見返した。

「もっとも、何というか、二次記憶でね。風呂に入っていたのは私の兄なんですよ。私は小学生で千葉の田舎に疎開していてね。兄からあなたの夢とそっくりな体験談を聞いた」

老人はテーブルのマグカップを覗き込むと、喉から変な音を出して残っていたコーヒーを飲みこんだ。

「二次記憶というのはどういうことです」

老人は第九を流し目で見た。「日曜日の休みごとに父や兄が田舎に来るわけですよ。主たる目的は勿論疎開中の家族、母やわたしですが、とのリユニオンなんだが、その週に東京であったことなどを話してくれる。そうして帰るときには米とか野菜を大きなリュックサックに詰めて東京に戻るのです。都会は配給制でいつも食糧には不自由していましたからね。

 その時にあなたの夢とそっくりなことを話したことがあった。だから伝聞が自分の記憶として定着したのでしょうね。もっともすっかり忘れていました。あなたの話で蘇ってきたわけです」。老人はどうだ、分かったかというように第九を見つめた。

「後楽園の高射砲陣地云々という話もその時にしていましたな」

 「そうすると、お父さんやお兄さんやお姉さんは疎開しなかったんですか」

「疎開したのは子供だけですよ。それに当然子供だから世話をする母親や女中も一緒に疎開した」

 「どうしてですか」

「だって、親父は勤めがあるから東京を離れるわけにはいかない。兄は大学生でね、学校を休めない」

「お姉さんは?」

「姉は高等女学校の生徒でね、学徒動員で両国の国技館で風船爆弾を作っていたんですよ」

「風船爆弾?」と第九は戸惑った。

「九十九里あたりからとばしてね。偏西風にのってアメリカ大陸に爆弾を落とす計画でね」

「成功したんですかな」 

「何発かはカリフォルニアとかアリゾナあたりまで飛んで行ったらしい」

「しかしどうしてそんなことが僕の夢に現れたのかな」

「聞いちゃったんですね、という名文句がありましたな。私の深層記憶が漏れ出して飛翔したのかもしれませんな」と老人はわけのわからないことを言った。

「は?」

「あるいは兄貴の記憶が飛翔したのかな、兄貴はとっくの昔に死んでいるから、そうすると霊界通信ということかな」

「霊界通信というと、あのスウェーデンボルグのですか」

 

4: 三角頭巾(防空頭巾)

 老人は申し訳なさそうに言い訳をつぶやいた。「東京に空襲が始まったのは昭和十九年の十一月からなんだが、私は小学校の一年生でね。そのころのことはあまり記憶していない。それにまだ後楽園までのして遊びに行くほどの年ではなかったからね。後楽園の記憶はないんですよ」

 「お住まいはどこだったんですか。後楽園からだいぶ離れていたんですか」

「離れていると言えば離れている。離れていないと言えば離れていない」と老人は禅問答のようなことを言った。「家は森川町でね。小学校一年生の足ではちょっと遠かったね。しかし後楽園球場でホームランがでたりファインプレーがあって観客の歓声があがると、そのどよもすような音が驚くほど近くに聞こえましたな」

 「戦争中もプロ野球をやっていたんですか」

「いや、戦争末期には中止していたらしい。戦争直後から職業野球が再開されてね。夏の夜なんか開け放した窓からどっと歓声が聞こえてきてラジオをつけると、川上がホームランを打ったとか、与那嶺のファインプレーでダブルプレーにして、ピンチを切り抜けたとか放送していた」

 そのとき、一人の客が店に入ってきた。「おや、いい人がきた」と老人が声をあげると、その老人に手を挙げて呼び寄せた。六尺近い体躯で顔は下駄のように角ばっている。顎が反り返って前に出ている。第九も時々見かける店の常連である。怪訝な表情をして老人が近づいてくると、禿頭老人が自分のそばに座らせた。

 「いいところに来た。いま若い人から昔のことを質問されてね、私が答えられなかったんだが、あんたなら覚えているだろうと思うんだ」と切り出した。

 「なんだい」

「あんたは終戦の時は中学生だったっけ」

「いや、小学校の六年生だ」

「そうか、それじゃ私より記憶があるはずだ。家は餌差町だっけ」

「いや初音町だよ、どうしてだ」

「初音町とすると後楽園は隣みたいなものだろう」

「そうでもないさ、歩いて五分はかかるよ」

 「そうか、初音町というとどの辺かな」

「こんにゃく閻魔のそばだよ」

「ああそうか」

 「この人が聞いたのは後楽園に高射砲陣地があったかどうか、ということなんだ」

「なるほど、たしかにあったよ。戦後もしばらくは高射砲の台座が残っていた」

「へえ、どの辺だ」

「あれは旧競輪場のあったところだな。いまはビッグエッグになっている」

「へえ、思い出したよ。終戦直後は文京区か東京都のグラウンドだったところだな、おれも中学時代に文京区の対抗試合にでたことがある」

 禿頭老人ははっとしたように口をすこし開けた。「いや、思い出したぜ、そこが文京区のグラウンドになるまえに土手みたいになっていて所々に窪みがあった。あれは高射砲の砲台のあとじゃないかな」

 下駄顔老人が発言した。「だから高射砲の砲弾の破片がそこら中に落ちてくるわけだよ。俺なんか座布団で作った三角頭巾を被って学校にいったぜ」

「そうそう、わたしもおふくろが作ってくれた三角頭巾を被っていたな。裏側に血液型を書いた布が縫い付けてあってさ」

「いまの児童が黄色い帽子を被るみたいなものですね」と第九は言った。

  

5: ブラックホールがつぶれた

 第九は冷えすぎたコーヒーを一口飲んだ。冷やしすぎたな、とぶつぶつと呟いた。猫舌の彼はコーヒーを少し冷ましてから飲むのであるが、老人たちの、話を熱心に聞いているうちに飲み忘れたコーヒーがほとんどぬるま湯みたいになってしまった。

 「霊波でしたっけ、さっきの話は」と老人に問いかけた。

霊波って?と老人が怪訝な顔で問い返した。

「何でしたっけ、霊界通信だとか、記憶が漏れ出したとか」

「ああ、あの話ね。最近は太陽の黒点活動が活発になったんですかね」

どうも話がかみ合わない。老人の頭はすこしぼけかけているのかもしれない。

「あるいはどこかでブラックホールがつぶれたのかな」とますますわけの分からないことを言う。

 第九の戸惑った表情を見て「すこし説明しましょうかな」と老人は始めた。

剥離した記憶というのは、空中を漂っていくものですよ。これが波なのか粒子なのかはオカルト業界でも意見が一致していない。

「へへえ、これは驚いた」

老人はにやにや笑っている。ところでこれが飛んでいくスピードというのは最高速度はどのくらいだとおもいますか。分からないでしょう、と老人はからかうように言った。

 アインシュタインによれば光より速度の速いものはないそうですな。一応霊波も最高速度は光速となっております、と老人は大まじめで説明した。

「あなたは唯心論者ではないのですか」オカルトがかった人物とか宗教家は大ていは唯心論者である。

 老人は心外な顔をした。「どうして唯心論なんです。私はバリバリの唯物論者ですよ。霊波は光や電波の親戚ですよ。ただ、現在はそれを観測する権威ある観測手段がない。それを伝達する媒体も発見されていない。これは光も電波も同じですがね。昔はエーテルなんて形而上学的概念で処理したが、エーテルはどうしても観測できなかった。勿論間接的にもですね。最近ではブラック・マターかもしれないという説がある。しかし観測できない。だからブラック・マターというんです。宇宙の質量の75パーセントがブラック・マターという説もあるようだ。

 

 6: 後入れ先出し

 老人は話頭を転ずるようにつぶやいた。「後入れ先出し法というのがありますな」

第九はなんとなくみだらな言葉のように感じて返答に窮した。

「なに、記憶の話でさあ、もっとも後入れ先出し法というのは棚卸資産の評価法でね、会計上の用語ですがご存知ありませんか」

 「会社では財務関係の経験がないので知りません」

「そうですか」と言うと老人は建築労働者のような頑丈な手で鼻の脇を愛撫するようにマッサージした。記憶にも後入れ先出し説というのがある。これによると古い記憶は底のほうに滞留して意識の表層には上がってこないという説ですよ、と説明した。

 「必ずしもそうではないようですが」

「そう、一つの説ですよ。だから子供の時の記憶はなかなか浮かんでこない。年を取って大人になってからの記憶がすべて吐き出されると往々にして大昔の記憶が飛び出してくる。つまり人間、寿命が尽きてくると昔の記憶がひょっこりと思い出される。思い出されるだけじゃなくて頭から抜けて他人の頭に入っていくというわけですよ」と訳の分からないことを言った。

 つまりですな、幸せな幼少時代を過ごした人はそういうときの記憶が蘇ってきて安らかに死ぬというんですな。

「すると、幼年時代に不幸な生活を送った人の晩年はどうなりますか」

不幸な記憶が臨終で蘇ってひどくおびえたり、うなされたりすると言われております。その人が成人後太閤秀吉のように成功してもですね。晩年の姿はおぞましいそうですな」

この突拍子もない話の落としどころがだんだんと第九にも分かってきた。

「私の疎開中の記憶が飛び出していったとなると、そろそろお迎えが来るのかもしれません」

 「そんなことはないでしょう。お元気じゃないですか」

「後入れ先出し法が正しいとするとね」と老人は言って笑った。

 老人は遠くを見つめるような目で付け加えた。「私の親父も晩年は時々夢でひどくうなされてね。親父は社会的には功成り名遂げた大変な成功者でしたがね。深夜びっくりするような大声を出すことがありました。もっとも父は東京に出てくる前のことは一言も話しませんでしたがね」

 

7: 小説家の経年劣化

「あなた、これは何なの」と文庫本を読んでいた妻の洋美が本から顔を上げて訊いた。

「何を読んでいるんだい」

彼女は本をひっくり返して表紙を見た。「ポール・オースターの幻影の書よ」

表紙を確認しないと自分の読んでいる本がなんであるか分からないらしい。むりもない。なにやら訳のわからない小説なのである。第九の記憶では200ページ当たりで読むのをやめてしまったのである。入れ子細工の小説というとはなはだ技巧に富んだ成熟した小説のように聞こえる。

「チャイネーズ・ボックスみたいだろう」

「なに、それ」と洋美が問い返した。

「お土産なんかで蓋を開けると、その中に小さな箱があって、それを開けると中にまた箱がある、そういうのが延々と続くように包装してあるのがあるだろう」

「ああ、この間ロンドンで買ったイアリングがそうだったわね。ロンドンの税関で係員が中を調べようとして箱を開けるとまた箱が入っているのよ。そういうのが何重にもあっていて、税関職員はいよいよ密輸品かと思ったのか、張り切って最後まで梱包を開けられたわ。なるほどね、そんな感じの構成なのね、この小説は」と彼女は得心したようであった。「努力が必要なのね、こういう小説を読むのには」とあきらめ気味に呟いた。

 訳者や解説者はとにかく小説を褒めなければ立場がないのだから、構成が絶妙だと後書きで書いていた。第九には最後まで読む気にはならなかった。しいて言えば、沢山の短編小説を鍋に放り込んでみたものの、味が最後まで融合していない鍋料理というところだろう。

  彼は貧弱な本棚の前に言って一か所にまとめてあるオースターの作品の背表紙を眺めた。幻影の書のところが空白になっている。最初の三、四作品はムンムンと迫ってくるものがあったな、と思い出した。なんというか、ドロドロした熱い混然とした塊があって面白かった。それから数作は通俗小説化した。だがまだ筋は読めた。それがその後、短編小説のごった煮になったんだな、と彼は振り返った。

 この文庫本の翻訳者は一貫して柴田元幸氏である。彼はオースターが映画界にかかわったのが「ごった煮」作風と関係があると言っていた。そうかもしれない。映画のシナリオならこういう断片化した映像を次々と繰り広げても一応格好がつくだろう。インディージョーンズなんかみたいに。しかし、小説ではどうなんだろう。だが、オースターが幻影の書の次に書いた「オラクル・ナイト」では同じ手法だが技巧的には前作に比べて全体が有機的になっているな、と思い出した。『もう一度全作を読み返してみるか、幻影の書も含めて』と彼は考えた。

 

8:半ウイークデイ

 

第九の生活は月曜日から金曜日までが活動日である。土日は一切外出しない。群衆とくに家族ずれの発散する波、脳波なのだろうが著しく第九を狂わせる。それに土日はキャリア・ウーマンである妻が家にいるから専業主夫である彼の仕事がウイークデイより多くなる。一日中家事や妻の世話に切れ目なく働かなくてはならない。

 今日は水曜日である。春分の日である。第九はいつもの週日のように午後から街にさまよい出る。リズムになっているから街をうろつかないと体調を崩すのである。妻も容認している。新宿南口の地下道は群衆で溢れている。第九はたちまち激しい頭痛に見舞われた。おなじ群衆でも週日にはそんなに顕著に影響が出ることは無い。もっとも雑踏するラッシュアワーは避けているからでもある。何よりも休日は家族連れ、アベック(いまこんな言葉を使うのかな、若いカップル、恋人同士とでもいうのか)、まあ何でもいいや。

 それでも結婚前は土日も外出していたのである。もっぱら競馬場に通った。そのころは中央競馬でもそんなに観客はいなかった。それが年々人が競馬場に蝟集するようになり、彼は日曜日の午前中しか行かなくなった。午前中はのんびりと観戦できたからである。ところろがやがて午前中から芋の子を洗うような状態になった。彼は土曜日にしか競馬場に行かなくなった。しかし土曜日もメーンレースがある午後には満員電車みたいになった。とうとう彼は土曜日の一レースから3レースぐらいにしか行かなくなった。現在では土曜日も早朝から込み合うからもう競馬場にはいかない。

 痛む頭をさすりながら彼は早々に新宿の雑踏から抜け出して、近くの学生街の一角のビルにあるスタッグ・カフェに向かった。エレベータを出るとどこかの店で喧嘩をしているような怒鳴り声が全フロアに鳴り響いている。なんと怒鳴り声は彼が時々いくカフェの中でしていた。

 怒鳴っているのは悪質なクレイマーだろう。いつも静かな店内であまりたちの良くない客はいないのだが、どうしたのだろうとレジ前まで来た。レジには誰もいない。いつもは新客にアテンドして席まで案内してくれる女の子もいない。みんな店の奥で客に怒鳴られている。そのクレイマーは服装からすると女性である。怒鳴り声からすると男のようでもある。店員の女の子は襲い掛かられるのを恐れるようにその客から三メートルほど離れて団子のように固まっている。

 相手が手を出せば集団で抵抗しようと身構えているようだ。女は、あるいは女装の男はまん丸い顔をして黒縁の眼鏡をかけている。髪は短いざんぎりで紫色に染めている。テレビによく出てくるフェミニストの論客に似ている。顎の鰓は左右に張り出している。

 第九はしばらく見物していたが、これでは頭痛が余計ひどくなりそうだと判断して帰りかけたが、店の奥に禿頭の老人がいるのを見つけて店に入り老人の横に座った。

  

9:LGBTのたかり?

 一体何の騒ぎですか、と禿頭老人の横の席に座った第九は聞いた。

「あの客がね、入店から一時間すぎたから、さらに千円いただきますと女の子に言われてわめきだしたらしい。あの風体で女と認められたんだから喜んでもよさそうなんだがね」

 なんて言ってるんですか?

「女性に対する差別だと息巻いているのさ。あまり五月蠅く喚きたてるから新聞も読めやしない。見物しいているのさ」

「なあるほど、そういう手もありますね。格好の見世物だ」

「あの客はな、入ってきたときから騒々しかった。スマホをとりだして大声で電話をかけていたんだ」

一時間も続けてですか?

「そうなんだ。他の客が眉をひそめて牽制するように見ても一向に感じないらしいんだな」

すこし、頭がおかしいのかな。

「そこへウェイトレスが一時間経ちましたので追加料金を、とやったわけだ。そうしたら女性差別だと喚きだした」

「どのくらいやっているんですか」

「そうさな、もう三十分以上騒いでいるな」

そりゃ、いい迷惑だと言ったときに客が一人入ってきた。常連の下駄顔老人である。彼も入り口でびっくりしたように立ち止まっていたが、中に入ってきて第九のそばに腰をおろすと「何の騒ぎだ」と尋ねた。

 事情を聴くと下駄顔はLGBTのゆすりだな、と呟いた。彼は六尺豊かな相撲取りのような体を立ち上げるとゆっくりとした足取りで「おんな」のところへ近寄った。

「すこし静かにしてくれませんかね。お客はあんただけじゃないんだから」

突然現れた大男がのしかかるようにしながら変に押し殺したような声で言われて、最初は怖くなったらしいが、白目をむいて見上げると二十世紀初頭から迷い込んだらしい大変な年寄とみると元気を取り戻して「なんだ、このじじい。死に損ないは引っ込んでいろ」と返り討ちにした。

 「もう千円払うのが嫌なら店から出て行ってもらいてえな」と一オクターブ落とした声で老人は囁くようにおんなに通告した。

「なんだ、てめえは用心棒か」と女はお里丸出しの声でバカにしたように言った。

「べつに用心棒というわけじゃない。お客代表として迷惑だから出て行ってくれと言っているんだ」

用心棒ではないと聞いて元気が出てきた女は「関係ないだろ、黙って引っ込んでろ」

そうはいかない、と老人は返答した。

おんなは老人をにらみ返していたが「用心棒じゃなければ何なのよ。お客代表なんて通用しないわよ」

 下駄顔は「問われて名乗るも烏滸がましいが」と急に裏返った声で節をつけてしゃべりだした。

「なによ、なによ」

「問われて名乗るもおこがましいが、知らざー言って聞かせやしょう。姓は西郷、名は吉之助、名乗りは隆盛とは俺のことだあ」と節をつけて言った。

 「バカにしやがって」と女は立ち上がるといきなりコップの水を老人に浴びせた。老人が飛沫を避けようとして上げた手が女に当たったようにも見えなかったが、女は二メートルも後に吹っ飛ばされた。

ハンドバッグが飛ばされて床に落ちて掛け金が外れて中からがらくたが床に散乱した。くしゃくしゃになった煙草のパッケージ、未成年の少女が持つような化粧道具がぶちまけられた。

 女は慌ててそれらを拾い集めると「覚えていろ、お前なんかデコボコ組に頼んでここいら辺を歩けないようにしてやる」と叫んだ。

老人は足元にまで転がってきたコンドームの箱を拾い上げると女に差し出した。「ほら、大事な商売道具を忘れちゃいけないよ」と女のあしもとに放り投げた。

  

10: 勝手連が自警団を結成

 チンケな女が逃げ出すとスタッグ・カフェは虚脱したような静寂に包まれた。

ウェイトレスの女の子たちがお礼を述べに老人たちの席に来た。

「大変だったね。びっくりしたでしょう」と下駄顔が彼女たちを慰めた。

「あの女は前に来たことがあるの」

彼女たちは顔を見合わせていたが「初めてだわよね」と一番年長らしい三十歳くらいの女性が言うと、みんなが頷いた。

 「しかし何だな、余計なことをしたかもな。仕返しに来るかもしれない」

「そういえば、デコボコ組なんて言っていましたね。本当にあの女と関係があるんでしょうか」と第九が聞いた。

「さあな、はったりかもしれないが」

「しかし、コンドームが商売道具だとすると、そういう勢力の庇護があるかもな」と禿頭老人が口を挟んだ。「しかし、あれは商売道具かな。あのご面相で」と疑問を呈した。

 いやいや、お客もいろいろだからな。デブのばあさんじゃ無ければ勃起しないという客もいるしな。案外ああいうピカソの絵に出てくる女に欲情するマーケットもあるだろうよ、と老人は顎に生えた無精引けを撫でながら言った。

それに、と第九がフォローした。酔っぱらったらあんな女でも美人と区別がつかなくなる客もいるだろうしな、と付け加えた。

 ウェイトレスたちが慌ててばらばらとレジのほうに戻っていった。ちょうど和服を着た女性が店に入ってくるところだった。また、女性の客だ。まさか新手のクレイマーじゃないだろうな、と第九が見ていると、彼女たちは女性にペコペコしている。和服の女性は五十歳前後の上品な顔立ちをしている。彼女たちはレジの周りで話している。客じゃないらしい。

 そのうちに和服の女性は第九たちのテーブルに歩み寄り、「大変お世話になりましたそうで有難うございます」とびしっと着こなした和服を崩すことなく三十五度上半身を前傾させて頭を下げた。

 「いやいや出過ぎたことをしました。あいつが仲間を連れて店に仕返しにくるかもしれません。あなたは?」

「申し遅れて失礼いたしました。この店をやっております」

「オーナーのかたですか」

彼女は微笑むと軽く頭を下げて肯定した。

「彼女たちに聞いたんですが、今日みたいな嫌がらせはこれまでなかったそうですね」

 「そうなんです。でもこのような経営をしていると、いつか主義者から反対運動があるんじゃないかと心配をしておりました」

「このような店にするというのは貴女のアイデアなんですか」

「いえ、主人が始めたんです」

「ご主人は?」

「三年前に亡くなりまして、主人の方針で続けて参りましたがご時世ですから、店を閉めようかと思うときもありますが」というとレジに戻った女性たちのほうを見た。「人を雇っていると閉店するのもなかなか難しくて。かといって主人の方針を変更してありきたりの喫茶店とかファストフード店に切り変えるのも気が進みません」

 今日のことは警察に報告したほうがいいですね、と第九が言った。

「そうですね、早速交番に届けます」

「交番もいいが、警察署の生活安全課にも届けたほうがいいですよ」

「は、生活安全というと」

「多分そういう課があるはずです」

「わかりました。そういたします」

 下駄顔老人が言った。「どうだ、我々も自警団を作ろうじゃないか」

「おれも参加するよ」と禿頭老人が早速手を挙げた。

「どういう風にやるんです」

「なるだけ、店に来て異変があれば対処する。警察に通報するとかね。俺なんかほとんど毎日来ているから、来ている間だけでも注意するのさ」

「おれも毎日来よう」と禿頭老人も請け負った。

「私もなるたけ来ましょう」と第九。

「少なくともここ一週間ぐらいは注意したほうがいいかもしれないね」

和服の夫人は苦笑しながら断るように言った。「そんなご迷惑をおかけできません」

「どうせ毎日来ているわけだから変わりはありませんよ、店になるたけ長くいるようにするだけだ。もっとも込んできたら退散しますがね」

 

 


37:たましいは死後変化するのか

2019-10-25 21:49:17 | 破片

 女主人が疑わしそうに聞いた。「神道では昔からその、粒子説なんですか」

「おくさん、その辺は詳しくないんですよ、そちらのほうは専門ではないので」と橘さんは頭髪を後ろから前に撫でた。短く刈っているし、短いのでそういう芸当が出来るのである。

 「どうなんですかね、菅原道真なんか怨霊になって京都に現れたというから、生きていた時と同じカタマリだったんじゃないですか。八百万にも分割したら京都在官時代のいじめられた恨みなんて保持しているわけがないもの」と理路整然と長南さんが主張した。

「キリスト教や仏教ではどうなんですか」と奥さんがさらに追及した。

「さあ、どんなものですかな」と橘さんはしばらく考えていたが、「やっぱり生前と同じ人格、人格というのはおかしいが、そういうカタマリを維持しているという前提でいろいろと言っているようです」

「仏教の地獄だとか閻魔様の取り調べなんて言うのは生前のカタマリじゃないと、分解していしまっていたら追求のしようがないですからね」と奥さんがうがったような意見を開陳した。みんなびっくりしたように奥さんを見た。

「それにキリスト教でいう最後の審判なんていうのも、生前の魂が全体として残っていないと意味をなさないね」と気が付いたように第九が言った。

 「ところで人格と言うか性格は生前でも変化するでしょう。成長につれて性格が変わらない人もいる。かと思うとどんどん悪くなる人もいるし、逆にだんだん真人間になる人もいまさあ。そうするとどうなんだろう、死後の魂も変化しないとおかしいね。水平飛行の魂もあるし、よくなる魂も悪くなる魂もなければおかしい。その辺の変化を勘定にいれているんですかね。仏教とかキリスト教は」

これには橘さんは即答した。「いれちゃいませんよ」

「宗教ってずいぶんいい加減なものなのね」と長南さんがあざ笑うように切り捨てた。

 「そういえばさ、よく駅前で、暮れになると、陰気な声の録音を流しているのがいるだろう。『悔い改めなさい。そうすればすくわれる。まだ間に合う』なんてぞっとする声の録音を流しているのが」

「あの声を聞くと小腸から冷凍されてくるね、ぞっとするよ」

「いるいる、今年もそろそろ出てくるころだな」

「彼らに聞いたってわかっているわけはないが、死んでからもしタマシイが悔い改めたらどうなんだろうね。間に合うのかな。それとも死ぬ前に悔い改めないとだめなのかな」

「まだ間に合うなんて無責任なことを言っているが根拠があるのかな」

 「要するにだな、魂は死後腐るか、腐らないかということだろう」と下駄顔が決めつけた。

「肉体のように腐敗するのか、そうではないか。なるほどね。しかしその問題を取り上げた宗教も哲学も皆無のようですね」と橘さんが言った。「素朴に魂は死後も腐らず、あるいは変化せずというのかな。かなり迂闊な前提に立っているようだ」

 「生前は人間の魂は向上する人もいれば、堕落する人もいる。それが死んだあとは永久凍土に埋もれたマンモスのように千年も万年も変わらないというのもずいぶん素朴な考えですね」と第九が述べた。

 

 


36:つばさよ、あれがタマシイだ

2019-10-21 13:20:26 | 破片

 記憶の細片が剥離して空中を飛行浮遊するというのはオカルトの世界ですが、魂が空中をうようよしているというのは結構一般的な話ですね、と第九は応じた。「それでそういう彷徨える魂が格好のカモを見つけて急降下して取り付くなんて言う説がある。そういうのを憑依というんですかね」

 「そうだね、日本では古くから言われていることだ。もっとも仏教系ではなくて神道系や修験道系で言われることがおおいようだが」

「ところで魂というのは総合体なんですか」

「総合体というと」

「例えば生きているときは人格があるというでしょう。人格というのはもろもろの心的機能の総合した塊じゃないですか。死ぬと魂が肉体から抜けていくというが、その場合の魂というのは生きていた時の人格的総合体と同じなんですか」

 「うーん」と禿頭は唸った。「いい質問だね」。いい質問だね、の謂いは答えられないときに発する時間稼ぎである。

 一座はシーンとしてしばらく静かになってしまった。とうとう下駄顔が言った。

「それにはいろんな説がある。一般的にはそれは生きていた時の塊と言うか連合体というか総合体だが、諸説あるようだ。戦前の国家神道のビッグネームでミソギを体系化した川面凡児((カワツラボンジ)いう人がいるが、彼なんか魂は八百万の粒子からできていると言っていた。そして死ぬとそれがバラバラになる。もちろん、ある程度のまとまりを残している場合もある」

「それで、八百万の原子魂はどこへ行くんですか。全部空中に浮遊しているんですか」と哲学専攻ながら若い女性らしくこの種のスピリチュアル系のおとぎ話には滅法弱い長南さんが訊いた。

 さあね、と長南さんの若い女性らしいしつこさに辟易したように下駄顔は前方に反りだした顎に生えた無精ひげをなでた。「一部は成層圏を突破して宇宙のかなたに行くんでしょうな。若い女性が好む表現を使えば『お星さまになった』んですよ。しかし、神道では大部分は低空で浮遊しているらしい。平田篤胤もそう言っている」

「平田篤胤って」と長南さんはあくまでもしつこく聞く。

「幕末の国学者ですよ」と見かねて橘さんが口を挟んだ。

「どうして空中に留まるんですか」と質問魔の長南さんがねばった。

「それはね」と下駄顔が幼児を諭すように話した。「地球の重力に逆らえないんですよ」

「なんでですか」

「なんでって、魂のかけらだって微小ながら重さがあるからですよ。地球の重力を突破できないのさ」

「なんだかライプニッツのモナドみたいね」とあきらめたように長南さんが呟いた。

「八百万個の原子タマシイが夫々自分の中にミクロコスモスを持っているならモナドだけどね、むしろレウキッポスのいうアトムじゃないのかな」と橘氏が補足した。

 「そういえば」と思い出したように第九が言った。「私のマンションに国内線のパイロットが住んでいるんですがね、釜石あたりの上空を夜間飛ぶと魂が浮遊しているのか鬼火のようなものが燃えているのが見えるそうですよ。特に新月の夜などにね」

「つばさよ、あれがタマシイだ」というわけだ、と禿頭が受けた。

 


35:雲量10パーセント

2019-10-15 19:36:58 | 破片

 江東区の天守閣から見渡す空は雲量10パーセント雲高3000メートルで視界は100キロメートルに達していた。北方には筑波山が黒々と見える。ケーブルカーがキラキラ光を反射してるのが見える(これはうそ)。相模湾から侵入して首都西部上空を通過して関東平野を北進し大被害をもたらした台風二十九号は東北岩手県沖合に去った。

  恐ろしい一夜であった。五十階のベランダの隔壁は今にも破れそうに一晩中歯ぎしりのような音をたてていた。幸い(と言っては被災した地方の人たちには失礼だが)城東地区の被害は二週間前の台風二十号ほどのことはなかった。二十号では強風が換気扇から逆流して室内の床の上に黒い綿のようなごみが一面に落下したが、今回それはなかった。恐ろしい音を一晩中たてていた隔壁やガラスの仕切りも朝起きてみるとひび割れが起きていない。雨よりもとにかく音がひどかった。洋美はさすがに女である。一晩中第九にしがみついて震えていた。そんなわけでベッドに粗相をして以来パワハラを受けていた妻からの攻撃もひとまず休止となっていた。

  ここ数日床の上に直に一人で寝かされて、地獄の底に落ち込んだように意気阻喪していた第九も晴れ渡った空を見上げてひさしぶりに「カフェ」に行くことにした。ところで気が付いてみると、このカフェはまだ名前がない。以後「ダウンタウン」と命名しよう。伸び放題の髭をあたり髪に櫛をいれて出来るだけやつれた姿を見せないように身支度をすると定食屋で昼飯を掻き込んでからダウンタウンに行った。

 「おや、ずいぶんご無沙汰でしたな。お元気でしたか」とやつれた第九の顔をしげしげと観察しながら禿頭老人が卵方の顔に笑顔をつくって迎えた。

「ええ、ちょっと風邪をひきましてね」

「夏風邪はひどくなるから気を付けないとな」と下駄顔が言った。

「そう、いまごろ風邪をひくとなかなか治らないからね。気を付けないと」

久しぶりに顔を見せた第九の姿をみて女主人があいさつに来た。

「しばらくお出でにならないので夏目さんはどうしたのかしら、って噂していたんですよ。どこかに旅行にいらしていたんですか」

「質の悪い風邪を引いたんだってさ」

「まあ、そうですか。もうよくなったのですか」

「ありがとう、おかげさまで」

女主人は目をすぼめてじっと彼を見ていたが「すこしお痩せになりましたね」

「そうですね。一週間ばかり夢うつつの状態でね。ようやっと目が覚めたという感じです」

「コーヒーはいつものとおりで?」

「いや、一週間ぶりに目が覚めるようにいつもより増量してください。砂糖もね」

「どのくらい?」

「そうですね、コーヒー大匙三倍、砂糖は二十グラムほど」

「それだけ濃くすればいっぺんにしゃきっとしますね」

 

女ボーイが持ってきたコーヒーを一口飲むと、第九は満足そうに頷いた。

「ところで又妙な夢を見ましてね」と下駄顔老人に話しかけた。

「またというと」と老人はポカンとした顔をした。

「空襲警報のアナウンスを夢の中で聞いたんです」

「空襲警報の放送なんて聞いたことあるの」と老人は疑わしそうな表情をした。

「もちろんありません。戦争中は生まれていなかったんだから」

「じゃあテレビドラマかなんかの中で聞いたのかな」

「さあ、それははっきりとは思い出せないんですけどね。すくなくとも記憶にはないのです」

「どんな風に言ってました」

「空襲警報発令とかアナウンサーが言ってね。それから『敵機大編隊が相模湾上空から侵入、帝都に向かいつつあり。厳重な警戒を要す」みたいな。それからウーウーウーという警報が流されましたね」

 禿頭老人が口をはさんだ。「そういえば救急車のサイレンが今のピコピコ言い出したのはいつごろからだったかな」

「さあ、ずいぶん昔でしょう。昔はどんな音だったんですか」

「空襲警報と同じさ。ウーウーウーって鳴らすのさ」

「へえぇ」

下駄顔が話を戻した。「あんたの言うとおりだったと思うよ、大体は」

「まるで昨日の台風の進路と同じみたいね」と女主人がつぶやいた。

「そうなんですね、それでちょっと妙な気がしてね。しかも聞いたこともない空襲警報発令の放送まで夢で聞いてね」

「ははぁ」と下駄顔が膝を叩いた。「わたしも台風はまるでB29の襲来経路と同じだと昨日思った。アメリカさんは富士山を目印にして相模湾から本土に侵入して東京に向かったからね。その時に無意識下で、阿頼耶識の第七層あたりで空襲警報のことを思い出したかもしれない」

「アラヤシキって人の名前かなんかですか」と女主人が首をかしげた。

「いやいや、仏教でいう無意識ですよ。フロイトの無意識には単純な平屋で階層なんてないが、仏教では無意識は何十層もあるんですよ。タワーマンションみたいにね。そういえば、あなたは何時か後楽園の高射砲陣地のことを聞かれましたな。あの時も冗談に私の子供の時の記憶が剥離して飛んで行ったかもしれないなんていったが」

「ああ、そうでした」

「しかし、あなたも相当に感度がいいアンテナをお持ちのようですな」

「そうでしょうか、ご老人の記憶の飛翔力も大変強力のようですが」

「ははは、別の言葉で言えば脱魂と憑依ということですかな」

 

 

 

 


34:妻のジム通いのこと

2019-10-10 08:28:01 | 破片

 二度寝の味寝(ウマイ、失礼ながらルビをふらせていただく)にようやく落ち込んだ第九はまた脇腹を邪険に突かれた。洋美がすり寄ってきた。体が異常に熱い。これはまずいな、と思ったと思う間もなく彼女の太い二の腕が伸びてきた。週に二度はジムに通って鍛えている体である。ヒョイと持ち上げられて彼女の腹の上に放り上げられた。気が付いた時には彼女の腹の上に跨っていた。こうなれば抵抗するとかえってまずい。習慣的なギッタンバッコが始まった。

  週二度のジム通いで彼女の腹筋は鍛え上げられている。第九の体はしけの海の小船のようにはげしく動揺した。彼はジョイントが外れないように彼女の体にしがみついた。ジョイントが外れると彼女はそれが彼の責任であるかのように猛烈に怒り出す。彼はめまいがしてきた。失神するのはエレベーターの中だけではないらしい。

  とその時爆弾が破裂したような音がした。第九ははっとして意識を回復した。洋美の全身の筋肉も防御態勢を取るかのように収縮した。続けて二人の耳に二度目、三度目の爆発音が響いた。隣の部屋の男(女かもしれない)が慣例の早朝くしゃみを思いきり連発したらしい。なんだ、ヤツの例のくしゃみか、とおかしくなった。彼女も笑い出した。鍛え上げた全身の筋肉が弛緩した。たくましい腹筋を震わせて笑い出す。途端にジョイントが外れて彼はいったん上に放り出されてからうつぶせの姿勢のまま落下した。彼女のたくましい裸身の肩に鼻梁をぶつけた。

  しまったと思う間もなく、間髪を入れず、というより一拍おいてから鼻孔からヌルヌルした液体が流れ出した。あわてて彼は鼻の穴を右手の甲で抑えながらよろけるようにベッドから滑り降りティッシュを求めて真っ暗闇の寝室をメクラ滅法に動き回った。鼻血はベッドの上一面にまき散らされ、床のじゅうたんにこぼれた。「どうしたのよ」と洋美は暗闇の中で怒鳴ったが、手がベッドの上に落ちた血だまりの上に触ると慌てて手を引っ込めた。さっと立ち上がると狙い過たず一発で電灯のボタンを探り当ててスイッチを押した。

  彼女は寝室の惨状を目にして絶叫した。隣室のくしゃみよりも数倍大きな声であるから、隣室の住人にも聞こえたに相違ない。聞き耳をたてているのか隣室はシーンとしてしまった。驚いてくしゃみもとまってしまったらしい。

  四十路に達しようかという女性でもある。キャリアウーマンとして、会社では若い男たちをパワハラまがいに叱咤する彼女であるが、やはり女である。少女趣味のバカでかいキンキラキンの「豪華」ベッドが部屋のスペースの80パーセントを占領している。マリー・アントワネットが寝ていたような天蓋つきのベッドである。このベッドは二百万円以上したらしい。それが血潮で回復不能なまでけがされたのである。彼女の怒り方が尋常ではないのもよく理解できる。

 

 


33:三千世界のカラスを殺し主(ヌシ)と朝寝がしてみたい(伝高杉晋作、作)

2019-10-06 11:01:17 | 破片

 重労働から解放されて眠りに落ちたのが午前三時、寝れば極楽、極楽というわけにはいかなかった。妻に脇腹をつつかれて目を覚ました。窓の外はまだ真っ暗だ。

「アンタァー」と彼女は問いかけた。アンあたりまでは低音でタァーで鼻にかかった高音になる。妻の地方の方言らしい。長屋の飯炊き女が亭主に甘えているようで気色が悪いと苦情を言っているのだが、一向に改めない。

「アンタァー、あれどうなった」とまた脇腹をつついた。

「あれって?」

「マンション法と憲法の関係よ。忘れたの」

「、、、、、」

無理だ。レム睡眠状態では理解できない。

「やってないの」と彼女の声はとがってきた。

「ああ、あれね」ととりあえずはぐらかす。

そうか、なんかそんなことを頼まれたな、マンション管理法と上位法の関係だったかな。

「いま調べているところだよ」と急場しのぎに答えた。

  どこのマンションでも購入すると管理組合に知らない間に加入させられている。本人の意志も聞かない。そしてやたらと義務だ義務だといって総会に出席しろと部屋まで押しかけてくる。出席しないなら委任状を出せと言ってくる。不快に思って管理組合を脱退しようとすると出来ない。管理規約があっても脱退、退会の規定がない。欠陥規約である。憲法の結社の自由や民法の規定に違反するというのが妻の考えである。その辺を調べろというのが洋美のご下命である。判例があるかもしれないからそれも調べろというのである。第九はようやく思い出した。何にもしていないのである。すっかり忘れていた。

  一体良心的に管理組合への加入を正式に本人に求めてきて、本人が同意して署名捺印したなんてケースがあるのか。彼の場合は無かった。それで知人に経験を聞いてみようと思って何人かに声をかけた。一人だけ、事前に管理規約(案)を渡されて署名捺印を頼まれたのがいたが、とても断れるような雰囲気ではなかったという。やたらと長い規約で読んで理解するのには一週間以上かかりそうだったのでまあいいや、と押印した。

なにか不都合があれば退会すればいいやと気軽に考えたそうだ。ところが、あとで規約を読んで驚いた。どこにも退会の規約がない。おまけに解散の条項もなかったという。こんな欠陥法が許されるのかと怒っていた。

  上位法との関係は調べていない。しかし明らかに憲法違反だろう。結社の自由はたしかにある。しかし、それは結社を作る権利を禁じることが出来ないという趣旨だ。結社の活動に同意できなくなれば構成員には脱退の自由がある。それを禁止するがごときは基本的人権の侵害である。調べるまでもないようだ、と第九は思った。しかしキャリア・ウーマンである洋美は起承転結の整ったまとまったペーパーがないと納得しないのだろう。それもA4で10枚位の、やれやれ。

 退会規定がないなんてまるで新選組ではないか。やめたいと申し出ると切腹させたという。

 

 


32:最終診断は女性恐怖症

2019-10-05 07:57:14 | 破片

 じゃ、それできまりだ。女性恐怖症だったんだ、と禿頭老人が断定した。

いや、むしろ女性嫌悪症でしょう、と下駄顔老人が訂正した。

「女性蔑視症よ」と口をゆがめて補足したのはアルバイトの長南さんであった。

若い女性のくせにかわいい顔をして露骨なことを言う女だと第九は腹の中で十二指腸のあたりをを少し顰めた。

 いや、私は断定したわけではありませんよ。座談のなかで聞いた話で見当をつけてみただけですから、と橘氏は慎重に発言した。

 そのとき隣のテーブルの上にある換気扇が異音を発した。このカフェは禁煙でもなければ分煙でもない。そのかわりそれぞれのテーブルの間は三メートル以上離れている。その上各テーブルの上の天井には換気扇がある。煙を感知すると静かな音をたてて換気扇が作動する設計になっている。普段は換気扇の音は気にならないほど、静謐性を保っているのだが、この時はガーガーと異常な作動音を発した。

みんなはそのテーブルのほうを見た。首のあたりに入れ墨だかボディペインティングをしたガタイの大きな三十くらいの男と水商売風の赤く染めた長い髪を肩のあたりから前に回して乳の上あたりまでたらした女である。ふたりとも茶色の紙で巻いたたばこを吸っている。

「おい、換気扇が壊れたのかな」と下駄顔が呟いた。たばこのにおいは換気扇の為にこちらまでは届かない。

「あれはマリファナじゃないのか」と銀色のクルーケースの男が言った。煙草を吸っていた二人ずれもびっくりしたように天井を見上げながら煙を吐き続けている。

 「それで」と第九が橘氏に聞いた。「ほかの診断の可能性もあるのですかのですか」

「ウム」と彼は小さくうなった。「なんというのかな、もう少し傍証が必要でしょうな」

「たとえば?」

橘氏はパチンコ労働で荒れ気味の手のひらでピタピタと自分の顔を叩いた。

「あなたは異常に臭覚が発達していると言ったが、ほかの感覚はどうです。たとえば、聴覚とか視覚とか。非常に気になる音があるとか」

第九はしばらく考えた。「そうですね。音にはかなり神経質かな」

「たとえばどんなことですか」

 「前にいたマンションですがね、上の部屋の住人がフローリングにしたんですが、それ以来いろいろな騒音が下の階にもろに響くようになった。それも子供が跳ね回るとか、掃除で家具を動かすとか想像がつく生活音ならうるさいな、と思うだけなんですが、電動機械を作動させているような音が頻繁にしたのです。町工場じゃあるまいし、何をしているんだろうと非常に気になりました。過激派が爆弾でも作っているのかと心配でした」

 それで苦情をねじこんだんですか、と橘氏が質問した。

「いえ、我慢しました。マンションなんて言うのは壁一枚、天井一枚で隣人同士ですしね。エレベーターでも頻繁に顔を合わせるしね。苦情をいうと逆恨みされてエスカレートするなんて事件の報道がしょっちゅうテレビで報道されるでしょう。それで我慢していたんですけどね。騒音というのは真下の部屋ばかりではなくて鉄筋コンクリートの建物では左右上下広い範囲に伝わるものらしいですね。とうとう管理組合が苦情をまとめてその部屋の住人に注意したらしい。マンションの掲示板にも警告をだしました」

 「それで静かになりましったか」

「少しはね。タオルを巻いてから電動機械を使うのか、すこし音がこもったようにはなりました」

「なるほど、しかし今の話は特に音に神経質ということでもなかそうだ」

第九はしばらく橘氏の見解を頭の中で反芻していたが、「そういえば、」と口を開いた。

「参考になるかどうか、私は地下道などで下駄のような靴音を聞くと非常に不快になりますね」

「いまどき下駄をはいて歩いている人はあまりないでしょう」

「ええ、下駄じゃないんですけどね。女性でハイヒールで地下道を駆け回る若い女がいるでしょう。急いで遅刻しないように焦っているのかどうか。地下道のコンクリートの上を駆け回るとものすごく反響するんですね」

「そうそう」

「それと階段を駆け下りる女がすさまじい音をたてる」

クルーケースの男が言った。「ハイヒールだけじゃないですよ。サンダルみたいなのを履いているいるのがいるでしょう。あれもすごい騒音だね。階段なんかを降りるときには」

「それに足首がすりむけるのか、留め具をきっちり止めずにルーズにしているでしょう、大体。そうすると余計五月蠅いんだよね。僕なんかもそんなのが後から来ると振り返って睨みつけますよ」

 「まあそうだろうが、夏目さんも真っ先に女性の下駄音が頭に浮かぶというのは面白い。気に触るものが白粉、香水、ハイヒールの音とくると、やはり女性嫌悪症が疑わしいかな」と橘氏が診断した。

 

 


31:夏目さんの場合

2019-10-02 08:17:41 | 破片

  女主人が思いついたように口を開いた。

「夏目さん、いい機会だからあなたの経験も先生に診断していただいたら」

「そういえば、さっきあなたは心理療法士のカウンシルをお受けになったとか」と橘氏は第九のほうを見た。

「そう、エレベータのなかで原因不明の発作を起こしましてね、卒倒したんです」

「へえ、それで?」

「会社の命令で会社の契約している産業心理士のところへ行かされました」と言いながら第九は珍奇な黒ずくめの小さな「心理療法士」のことを思い出して眉をしかめた。

「どういう症状だったんですか」と橘さんは興味を持ったようだった。

「満員のエレベータのなかでいきなり卒倒したのです」

「それだけですか? なにか特記するような異常な状況はなかったのですか」

「そうですね、二人の老婆が後から無理矢理に押し込んできましてね。異様に熱いと感じた体を押し付けてきた。ものすごい白粉のにおいをさせてね。それだけが記憶に残っていますね」

 「エレベーターの中で気分が悪くなるようなことはそれまでにも何回もあったんですか」

「いや無いでした」

「それで心理士の見立ては」

「閉所恐怖症ではないか、というようでした」

 クルーケースの男が口を挟んだ。「わたしは臭気アレルギーではないかと言ったんですよ。アレルギー検査を勧めたんですけどね。行きましたか」

「いや、すっかり忘れていましたよ」

橘さんはしばらく考えていたが、白粉だけではなくて臭気には敏感なほうなんですか」

第九はちょっと考えてから「たしかにそういう傾向はありますね。嗅覚は非常にするどいほうですよ。ほかの人が感じないような臭いにいち早く気が付くことがある」

「幻臭ではなくて?」

「ゲンシュウとは」

「いやあまり使わない言葉ですが、幻覚とか幻聴とかいう、ない音が聞こえるとか」

「ああ、なるほど。幻聴なんて言うのは失調症の一症状らしいですね。いや私の場合は幻ではなかったですね。自分では犬並みだと思ったことがある。生理の女性なんか、人が分からなくても分かるときがある」

「証拠があったんですか」

「まあね」

「あらいやだ」と長南さんが嫌悪を示した。

「気をつけなくちゃ」と女主人が言った。

橘さんは顎を撫でた。「ほかに特に不快に思うにおいがありますか」

第九は考え考え答えた。

「女性のつけすぎた香水ね。香水の付け方も知らない女が安香水をじゃぶじゃぶ振りかけているのも嫌ですね」

「いや、まったくそういう女性が増えましたな」と下駄顔が失笑した。

「香水の選択にも教養が現れますからな」と禿頭老人が補足した。

「大体、腋臭とか体臭のきつくない日本人が香水を使う必要はない。それもじゃぶじゃぶ振りかけるなんて悪趣味だ。香水のに匂いというのは彼氏にだけ分かればいいものだ。体温が0.5度上昇して香水がほのかに蒸発する。私準備OKよという合図を50センチ先にいる彼氏に送るのが香水の仕事ですよ」

 

「そういえば」と第九が気が付いたように言った。「男が臭い水をつけているのも反吐がでるね。オーデコロンだかなんだか、柑橘系だとかいって振りかけているのがいる」

「いやだね」

電車の中でそういう男が隣に座ると席を移りたくなるね」

「そういえば、このあいだ、路上でジョギングしている半裸の男性とすれ違ったがこいつが臭水のにおいを発散させていた。ジョギングをするまえに振りかけたらしい。理解不能だな」

  橘さんが思いついたように発言した。「たしかに臭気アレルギーということもありうるが、どうも女性恐怖症ではないかな」

「どうしてです」とびっくりしたようにクルーケースが反問した。

「白粉とか香水というのは女性を連想させる。それとも女性嫌悪症かもしれない」

「そんな病気があるんですか」と女主人が不信感をあらわにして疑わしそうに聞いた。

「あります。女性恐怖症はgynophobiaといいます。女性嫌悪症はmisogynyです」