穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

解釈学についての一解釈の試み

2016-04-30 07:56:28 | 哲学書評

分析哲学以外の現代哲学には二つの大きな潮流がある(ようである)。現象学と解釈学である。ところが両方とも名前から内容がどういうものか推測できない。さらに解説本を読んでも益々分からなくなる。

現象学についてはフッサールの「現象学の理念」を読んででますます分からなくなった。ところが解釈学であるが、どうやら見当がついたような気がして来た。以下それを述べて読者の皆様の査閲を乞い願う次第であります。

解釈学は横文字では解釈学といわない。ギリシャ語に由来があるようであるが、

techne hermeneutica というらしい。つまりtechnic of

hermeneutikというらしい。ドイツ語ではhermeneutik

というようだ。英語でも同様のギリシャ語なまりだろう。

解釈学というのは直訳すればtheory of interpretation あるいは theory of

reading となるのだろうが、そうは言わない。 

Hermeneutikとはギリシャでは曖昧に表現される神託や詩の解釈という意味だそうである。中世、近代では聖書釈義のことらしい。転じて時代が遠い昔でしかもことなる文化圏の文章をそのままでは理解出来ないので補足注釈することに転じたらしい。日本で言えば本居宣長の古事記伝みたいなものだ。二十世紀の解釈学はそれを借用している。

二、三初歩的入門書、解説書の類いを読んだところでは、その特徴はシモ(下)のごとくである。

&決定的なことを言わない。

&明確な根拠を示そうとはしない。あるいはそういうことには興味がない。

&体系を作らない。基礎づけをしない。

&膨大な文書資料を扱う。

&学際的(特に心理学、精神分析学、人文科学)の成果を積極的に援用する。

これで彼らのフロイトとの親近性が理解できた。

&その結果、通俗科学解説書風になりやすい。

&寄生的である。つまり文化評論となる。

ようするに、エッセーである。このスタイルで書くと著作は各人膨大な量となる。文章のうまさが決定的となる。卓抜な警句、奇抜な着眼点、表現のうまさが命となる。それらがあれば読んで楽しいものとなる。以上

 


デリダ・シリーズ中断のお知らせ

2016-04-28 10:17:00 | 哲学書評

突然ですが、青土社本に基づくこのシリーズは途中ですが打ち切ります。

ネタ本についてその他の不審(不備)な点に気が付きまして続行が不適切と判断致しました。 

なお、英文の原著はそれなりの評判があるようなので、それに基づいて再度取り上げるかもしれません。お約束は出来ませんが。

 


Key Ideas, Supplement and Difference

2016-04-27 08:12:30 | 哲学書評

 今回は三題噺と行こう。前回訳者の「鍵観念」という妙な訳語はkey conceptsじゃないかと推測したが、あるいはこの業界日本支部の公用語かなと思って調べたがそうでもないらしい。その時インターネットを浚ったことをご報告する。「おかしい」はむかしは「可笑しい」とあてた。今はこの可笑的、つまり笑うべきという意味合いで私は使っている。

アマゾンの紹介がある。そこに目次の紹介がある。そこで第二章の原題は

Key Ideas

とあった。conceptsと似たような物だ。この場合も前に書いた様に基本的な概念、アイデアと訳すのが正常な神経だろう。「鍵観念」という訳は不適切きわまりない。可笑的である。そういえば昔、三遊亭可笑という噺家がいなかったかな。さすがにこの訳語がデリダ業界日本支部の公用語かどうかは分からなかった。

デリダ教日本支部には妙な言葉が沢山ある。私等愚昧なものにとっては、躓きの石となるのである。この際だから目次だけでも相互対照してみた。ありましたぜ、

第五章 代補 <<< Supplement

第七章 差延 <<< Difference

私ども愚民にとっても、右側の言葉なら分かる。

しかもこの二つは「鍵観念」と違い公用語らしい。ハイデガーを評して精神病者といったユングにいわせれば日本支部はおかしな連中のクラブということになろう。日本語を使って欲しいな。

これなら、英語の原書を読んだ方が良い。しかももっと驚くことがある。価格である。金のこと等取り上げるのは下賎なことであると承知しているが、行きがかり上ついでに紹介しておこう。

青土社版 2400円プラス税しめて2549円

Routeledge版(アマゾン価格)2276円プラス税しめて2460円

なんと原書の方が百円近く安い。

笑うべく、悲しむべし。嗚呼!!

 


鴎外にカモメ鳴く宵の不気味さ

2016-04-26 19:56:33 | 森鴎外

隅田川から大分離れたところで最近しきりにカモメを見る。空高く飛びながらニャーニャー鳴き交わしている。不吉だ。大地震の前兆でないといいが。安政大地震の時に類似の記録は残っていないのか。 

森鴎外は向島に住んでいた時にカモメを見ないというので鴎外という号をつけたと記憶していたが、念のために確認すると号の由来についてはいくつかの説があるらしい。その中にはカモメの見えない所という説は無いようだ。

そうすると何かの記憶違いなのかな。もっとも向島なんて隅田川から大して離れていない。本郷に引っ越した後なら鴎外なんてぴったりなんだがな。

最近は全然離れた所でニャーニャーやる。なんだか変だ。千駄木町も鴎外ではなくなたのだろうか。



デリダって誰だ

2016-04-26 08:19:06 | 哲学書評

今回のおしゃぶりシリーズのネタは青土社「ジャック・デリダ」田崎英明訳である。ポジション・リポート37ページ(PR37) 

1:書誌的なこと

原著者の生年が紹介されていない。女性の場合はわざと隠している場合があるが男性ではあまり見ない。でインターネットで調べた。Nicholas Royleという人は数名出ている。サセックス大学教師というのは一人しかいない。驚いたことにこの頁にも生年が見当たらない。本人の写真は大きく出ている。牛みたいな顔をしたおじさんである。ま、どうでもいいことだけどね。この人は文芸評論家である。文芸評論家の書いたデリダ論ということだろう。

2:出版社を売り込むということ

出版社はRouteledgeである。かなり有名なところだ。おかしいのは原著者が数頁ごとに「ラウトレッジ・クリティカル・シンカーズ」 シリーズの名前を出すことだ。いわく編集方針はこうだから、私はこう書くとか言及する訳。無用のことだし滑稽である。まるで大出版社に依頼されて嬉しくてしょうがなくて、ことあるごとに金主の名前を連呼しているようだ。

 

3:デリダもおかしい。

デリダの紹介文も巻頭に出ている。絶賛である。せまい業界(哲学本出版業界)である。ギルド的な世界でお互いに持ち上げ合い、舐め合っていかなければならないことは分かる。しかし、少し行き過ぎではないか。ましてデリダは辛口の文明批評家として知られているようだから違和感がある。

4:文徳ということ

おのずから読者に伝わる文徳というものがある。この場合、現著者と訳者のそれであるが、まだ30頁あまりであるが、今いちという印象を持った。

5:第二章は「鍵観念」とある。おそらく原文ではKey Conceptsのような表現ではないかとおもうが(文章を読むとそう感じる)、これを鍵観念と訳すのはどうかな。日本語なら「中心的な概念」とか「基本的な観念」と訳すべきではないか。だいいち日本語としておかしい。

 


メルロ=ポンティの性曼荼羅

2016-04-25 08:23:38 | 哲学書評

注:以下括弧でくくった引用文は鷲田清一著(メルロ=ポンティ)からのもので、

『』はMPからの引用文(翻訳)、「」内は鷲田氏の地の文である。数字はページ数である。

「人間的主体から存在へと後期MPの思考はその地平を転移させていた」258

というわけで、存在が気になりだした。当然の行き着くさきとも言える。かりに存在を物自体と置き換えてみよう。カントが物自体(存在なんて人間には分かりはしないよ)といった。大多数の哲学者にとっては(決めつけられた)ように感じた。反発は様々ある。反発の様態によって以後の哲学を分類することも可能である。大別すると:

1:啓示、恩寵によって突然存在が人間(個人)に開示される。シェリングなど

2:存在と人間という二分法は間違いである。すべては絶対精神の弁証法的展開であるといったヘーゲル流の対応

3:そんな命題をひねくり回しても始まらない。人間は、個人としてすでに世界に投げ出されている。とにかく、あるいはとりあえずはそれを受け止めるしかない。古くはキルケゴール、サルトル等の実存主義の系統,ハイデガーも一面ではこの流派といえる。

4:いや、人間の努力で存在はチラ見できる、という希望を述べるもの。この流派は西欧伝統の魔術と言うか魔道に通じる。いやゆる招魂術ね。これにも分派がある。ハイデガーは(常時、怠り無く存在に問いかける=祈祷をささげる)ことにより、ひょっこりと存在はご開帳される、という。つまりハイデガーは両刀使いである。

 

さてMP晩年の境地や如何に。

『それらと根底では同質だと感ずることがあり・・・・・彼の肉の延長のごときものにある』271

「わたしの身体は世界と同じ肉でできているといわれるわけであり・・・・」271

「MPは裂開と呼んでいる。このよう裂開のなかで、」『われわれが物のなかへ移行するのと同様に、物がわれわれのうちに移行するのである』271

これらの引用のほかにも同様の趣旨の記述があちこちにある。

つまりこれはご開帳派というより、合衾派といえる。つまりチベットの性曼荼羅の世界と言える。

合衾という言葉は辞書に出ていないかも知れない。ようするにベッドをともにするという意味である。ゴウキンと読む、漢音ならゴウコンとも発音する。蛇足ながら付け加える。

 


カントの命題は刺激的だが

2016-04-23 22:05:54 | 哲学書評
3日土曜夜 カントの命題にそう目くじらをたてることはないのだが 物自体は人間には認識出来ない、という命題は提示の仕方が挑発的だったがムキになるほどのとげがあるわけではない。当たり前のことをいったのだが、相手は脇腹に拳銃を突きつけられたように感じた。 コペルニクス的転換でもなければおかしなことでもない。当たり前のことだ。だがカントの様に提示されるとなんだか自分の無能を指摘された様に感じる。とくに青年は好きな女と交際してはいけないと言われた様にかんじるものらしい。。カントは18世紀の終わりに活躍した人だが、19世紀はカントが巻き起こした「衝撃」に対する応答に終始した。いずれもカントが立てた命題の枠内で論争したのである。 察するにお前は(人間は)大したことを知ることは出来ないんだよと言われた様に感じたのだろう。そうではない。物を認識するには人間には人間のやり方があるんだよ、と言っただけなのに。 さてこのブログで3月11日にカントに対する哲学者たちの応答を一応ハイデガーまでかいつまんで書いた。「現代哲学」は不案内なので端折ったわけである。ところで今マルロ・ポンティの解説を読んでいるので、彼の場合は物自体問題をどう扱っているのか、批判しているのか、無視しているのかと思った。 どうもはっきりしないね。二十世紀にいまさらというのかもしれない。フッサールは先に紹介したメモで明確にカントから出発したといっているわけで認識論である以上当然に「物自体」に触れるべきなのにはっきりしないようだ。もっとも彼の浩瀚な著書をしらみつぶしに読めば見つかるのかも知れない。MPの場合も似たようなものらしい。つまり正面切って論じない。 ただMPお得意の二分方で世界とか存在という時にはどうも物自体の親戚のように感じる。現象学的還元をすれば物自体と私の未分化時代の状態(まるで母胎内にいるみたいだ)が体験出来るとか、肉が裂けて割れ目に我が包み込まれるなどという表現(チベット密教の性儀式みたいだね)は物自体と自分が一体化の境地に達すると言っている様にもとれる。とにかく肝心なところは曖昧にするのが現象学らしい。ぼかし絵というかね。 あと、カントの先験的カテゴリーと現象学的還元の比較も面白そうだが今回はここまで。

昇華なき弁証法

2016-04-23 17:59:12 | 哲学書評

鷲田氏も解説でしきりに弁証法といっているから、MP氏の立論も弁証法がおおいのだろう。彼の説明が首尾一貫して明確というわけでもないが、一応特徴というのはある。

彼の場合は最初から二項対立がある。また両者が合金化すなわち昇華して一段と高いレベルに変化するという論法ではない。あくまでも対立は対立のままである。もっとも「すべてを包む肉の裂開」だったかな、そういう表現もあれば「始原の状態」みたいな表現もあったような。ようするにプロセスをたどって上昇していくという弁証法はない。つまり不連続的に、かつ予測しがたい偶然性によって新しい段階に入る、ということか。


二項の間に交渉や干渉はある。ただシステムがないからいきなり不可抗力のような雪崩現象でフェーズが変わる。このよう印象を受けているが正しいのだろうか。

上記の念頭にあるのはヘーゲルのそれですが、弁証法ということばは多義的(両義的どころではない)ですからMPのは独創か別に起源があるのかわかりません。

次回は物自体との関連あるいは非関連について


メルロ=ポンティは才人にして芸人である

2016-04-21 10:41:34 | 哲学書評

M=Pはアクロバティックな芸人にして才人である
例の鷲田清一氏の「メルロ=ポンティ」いろいろ忙しくてまだ180ページ当たりだが、進行形の書評を。

彼はエッセイストだね、書き方のスティルとしては。モンテーニュ、パスカルにつながる。大変な才人だと思う。アクロバティックな思考をする。まるでサーカス芸人のようだ、哲学界の。いかにもフランスの伝統なのだろう。もっともサーカス芸人にあこがれるのは子供だけだが。

(現象学とは絶え間なく記述を続けること。。)といった趣旨のところがあったが、絶え間なく、膨大なエッセーを紡ぎだす作業の総体を現象学というのだろう。いずれにせよ現象学というネーミングがつまずきの石となる。

正直言って何のことだが分からないでしょう。わたしは哲学書を読むときは先行する哲学者との共通点に気を付けます。人間の考えることは同じようなものだという考えです。共通点を探すと当然違いもわかります。偏差というかスティルといいますかね。おっと出かけなければならない。続きはあとで。


メルロ=ポンティは思弁心理学者

2016-04-15 08:29:40 | 哲学書評

鷲田清一「M=P」ポジション・レポート115頁あたり

かれは哲学者というよりか思弁心理学者である。時々気のきいた表現もあるエッセイストふうでもある。

なお私が思弁心理学者というのはほかに、キルケゴール、ニーチェ、フロイト、ユングなどである。

もっとも20世紀の大陸系(フランス系)哲学者はみな思弁心理学系かな。あるいは文化人類学系か。まだ読んでいないから分からないが。このなかで文章もうまいのはニーチェかな。


哲学は科学の通俗的解説あるいは解釈ではない

2016-04-14 08:59:24 | 哲学書評

最近(最近というのは思い返してみるとここ数十年ということかもしれないが)書店の人文・哲学書棚では現代というか、その種の著作に当てられたスペースが大部分を占めている。勿論大書店にいけばデカルトからドイツ観念論からフッサール当たりまでのスペースもある程度ある*。十数年前までは、それが分析哲学だったようだ(古典哲学に対して)。それが最近では曰く構造主義、ポスト構造主義、脱構築、ポストモダン、ポストコロニアルなど。

*  所謂ポストモダンのモダンというのはデカルトからフッサール当たりまでを含めて「モダン」というらしい。そして上記の諸潮流も西欧「モダン」の思想を十把一絡げにして否定するものらしい。もっとも簡単に通約は出来ないようだが。

私は何を言いたいのか。私もこの種の『現代』の哲学書を読まないと読む物が無くなってしまった。だから書評もそちらを取り上げようかと、こういう訳です。

その線で鷲田清一氏の「M=P」も批評しているわけです。

これらの傾向を瞥見するに縁辺科学からの援用が非常に多い。哲学が学際化してはおしまいだと思います。まったくの私見ですが、哲学が通俗科学の解説書のように見える。

鷲田氏が引用しているM=Pの一節に次のようなところがある。107頁

「身体は諸器官の外的な寄せ集めではなく、その諸部分は互いに相手の中に包み込まれて存在している・・・・云々・・・・」

当たり前でしょう。そしてあまりにも諸部分に比重をかけすぎた反省が医学の世界にある。Holisticという考え方もその一つでしょう。これからM=Pがどう続けるのか読んでいないが、縁辺科学の所見、見解を援用するようなことは興ざめです。

哲学はあくまでも紙と鉛筆でやってほしい。大分前にこのブログで科学哲学の批評をしたときに、科学哲学は独創的な科学者が散らかした研究室の掃除をするお手伝いだと書いたことがあります。大陸系(フランス人が多いようだが)の現代哲学も同様の印象がある。

 


前回記事訂正と心身二元論の補足

2016-04-11 08:11:33 | 哲学書評

鷲田清一氏のメルロ=ポンティ紹介について書いた前回の記事の訂正です。

幻視>>幻影肢 どうも表音的に注意せずに漢字にしていると間違えます。 

訂正の機会に若干の補足をしておきましょう。

鷲田氏の著書の102頁ですが「幻影肢が一方では生理的諸条件に依存し、その限りでは第三者的な因果関係の結果でありながら・・云々」

この第三者的というのはおかしい。自分のことでしょう。第三者的というのは後知恵で渾然一体の人間を心身に分離加工したから出て来た言葉でしょう。そういう意味では現象学的還元の処理をして始源に遡及して到達した底ではありません。あくまでも人工的な二次加工品的記述です。

 デカルト以来の心身二元論の統一を試みたのはM=Pが初めてと書いてあったと思いますが、そうでしょうか。たとえばショーペンハウアーも心身の、なんというのか、親密性というか、一体性というのか、そう言う問題に触れていたところがあったと思います。

 科学を否定するのは問題だが、科学を変に(通俗科学者の様に)援用するのは慎むべきでしょう。師匠のフッサール教授がいったように。ようするにカエサルの物はカエサルに、です。

 私のこころ、私のからだという二元論は始源的ですが、からだ一般(普遍)、種としての、或は類としての人間のからだ(普遍あるいは間主観性?)と加工するのはもはや還元からはもっとも離れた物であるということです。

 


小保方晴子さんのスタップ細胞騒動を思い出す

2016-04-11 00:30:18 | 哲学書評

鷲田清一「メルロ=ポンティ」講談社の最終章から読んだ。なかなか面白いことを言う人だな、と思った。それで始めの方を読んだんだが、どうもいけない。 

MPの心身問題の捉え方を素人に分かりやすく解説しようと思ったのだろう。手足を失った人の幻影肢を取り上げている。この例がいけなかったのか、ますます訳が分からなくなっている(説得力が弱くなっている)。

高校生の頃、親類の新興宗教に関係した人間がいて、その会の講演会に連れて行かれた。霊だとか魂の宣伝をするのだが、講演者の肩書きがみんな工学博士とか何々大学理学部教授という肩書きなんだな。素人を恐れ入らせるには自然科学でも説明出来る「安心な」宗教なんだよ、というつもりだろう。

子供心にもこう言うやり方はいんちき臭いと拒否反応かあったんだな。それを思い出した。M=P氏は縁辺の自然科学系の勉強もしたらしい、それも現象学を始めてから、現象学の理論を補強するために。よくないね。コリン・ウィルソンも思い出した。これじゃ私心無く現象学的還元など出来ないだろう。

幻影肢には純自然科学系の説明があると思う(私は専門家ではないが)。少なくとも仮説はあるでしょう(純自然科学系の、自然科学系というのは精神医学や生理学を含む)。現象学に箔をつけるために援用すべきではない。

現象学というのは自然科学に対していやに斜に構えるものだと思っていた。それでも吾往かんという心意気があると思っていたのにな。

 


墓掘り職人と井戸掘り職人

2016-04-10 18:27:11 | フッサール

ハイデッゲル教授はフッサール先生の弟子としてキャリアをスタートしたらしい。メルローポンティ氏はフッサールの没後弟子でスタートしたらしい。

しかし、視線の先はまったく異なる様に思われる。フッサール氏は灯台守である。ハイデッゲル氏は墓掘り職人である。メルローポンティ氏は井戸掘り職人である。

比喩的な意味だがフッサール氏の関心が地下にむかっているようには見えない。遥か視線の先に何かを発見しようとしているようにみえる。

ハイデッガー氏の最大の目標は存在の開示であって、彼はそれをたしか「覆いを取る」とか表現していた。彼の父親はドイツ寒村の寺男であったそうだ。そんなところから彼の表現が出て来たのかも知れない。それほど地表を深く削るというイメージがわかない。

メルローポンティー氏はどこまでも深く大地(存在の異称)を掘り下げる。目標はない。井戸を掘り下げること自体が趣味なのである。メルトダウンした原子炉が何処までも地中に潜って行く様に。

あたっているかな。


フッサール哲学の骨組み

2016-04-08 07:35:18 | フッサール

1:簡単に言えば「デカルトとカントに倣いて」ということであろう。

「編者の緒論」より

抜粋1;当時のフッサールは徹底してカントに取り組んでいたので云々

抜粋2;1906年9月25日のフッサールのメモ(本書刊行の前年)

・  ・わたしは・・自分で解決しなければならない普遍的な課題をあげておく。理性の批判がそれだ。論理的理性と実践的理性、そして価値判断理性の批判だ。云々 抜粋おわり

カントの三批判書とおなじ枠組みである。デカルトについては至る所で「明証性」を述べているから引用するまでもない。 

2:主観と客観との関係;

素朴実在論の範疇に入るのではないか。「現象学の理念」78頁に「事物の超越性が、云々」とある。客観が主観を超越しているということだろう。カントなら客観から超越して「超越論的(アプリオリ)な主観の枠組みがある」という所だから主客の視点が逆転している。しかし川の西岸からみれば東岸は彼岸(超越している)であるが東岸から見れば西岸は超越しているわけだから問題はなかろう。いずれにせよ懐疑主義ではないようである。

3:主観から客観へのアクセシビリティ:

カント 物自体の把握は不可能、

フッサール (直感による現象学的還元を経て)アクセス可能と言っている様にもとれる(判然としない)、悟りのようなものかな。何れにしてもヨガ体操のようなアクロバッティックな主観の努力でチラ見(覗き見)は出来ると希望を持たせる書き方である。

4:主観と客観との関係については、その他に客観側からの一方的な恩恵的アクセスが可能とする立場がある。啓示、恩寵(シェリングなど)

また主観と客観を強引にアマルガメイトするヘーゲルのようなやり方もある。

いずれにせよ、フッサールの書き方は曖昧である。大体フッサールには体系があるのかな。

ハイデガーは絶えざる問いかけ(祈祷)により存在が開示されることがあるとしている。