四人の哲学漫才チームがコンビを立ち上げたんですわ、と立花が話し始めた。
「2007年に四人の若造がロンドン大学のゴールドスミス校で「思弁的実在論」と題されたワークショップをぶち上げたんですな」
「何です、どういう意味ですか、思弁的実在論というのは」と門外漢のCCが聞いた。
「さあね、それが問題ですよ。満足な定義はだれも与えていないようですね。実在論というのはかなり流通している用語だから分かるだろう」と憂い顔の美女に大学教授が学生を試すような視線を向けた。彼女は若き哲学徒なのである。
「うん」と彼女はあいまいに自信がなさそうに答えた。「実在論と言っても何種類かあるんじゃない」
「そのとおり、ま、彼らの場合は観念論の対立概念というわけだ」
「それでさ、まるきり分からないのは思弁的という意味ね」
「そうさ、あんまり通用していない言葉だし、正面切って名乗りを上げるような言葉でもない。そうだな、軽蔑的に使われる用語だな」
「どういうこと?」
「自分の理論が思弁的という人がいる。彼らは当然思弁的ではない(と彼らがみなす相手を見下して)軽蔑的に使う。また、思弁的というラベルを軽蔑的に使う人は、相手が思弁的だというときは相手が根拠のない空論を弄しているという意味で軽蔑的に使うのさ」
「どういう意味でですか」
「思弁的というのは、いい加減な、とか根拠がない空論という意味でさ」
「じゃあ自分が思弁的だと威張っている人は」
「相手が幼稚な小学生的な合理主義で、あるいは女性的な合理主義だというわけさ。へーゲルなんかは悟性的というね、その上に思弁的な思考があるわけだ。カントなんかはヘーゲルに言わせれば悟性的なんだな」
「じゃヘーゲルはカントを軽蔑していたの」
「そんなことは全くない。ただ悟性的な思考では限界があるというわけだ」
「するってえと、その四人組がどうして自分たちを思弁的実在論なんて言っているのだ」
立花は前に置いた本をぱらぱらとめくって探していたが、「そうそう一か所だけ誰かが思弁的という言葉を定義していたところがあった、というよりも直接言及していたところがあったんだがな」と探していたが、「そうそうこれだ」というとその個所を読んだ。
* 絶対的なものにアクセスできると主張するあらゆる思考を思弁的と
呼ぶことにしよう *
「絶対的なものというのはカントのいう物自体ということかしら」と長南さんが頸をかしげて独り言ちた。
「この作者はそのつもりだろうな」と大学教授が生徒の採点をするように言った。
「そうすると彼ら四人の主張はカントを目の敵にしているわけだわね」
「そこまで言うのは言い過ぎだが、物自体が認識できないというカントの主張が気にくわないのは間違いないね」
「彼らにとっての脅迫観念ということだな」と下駄顔が頷いた。