当ブログの基準をもう一つ示しておこう。実況中継であることである。全部読み終わってから書評を書くなどと言うことはしない。ちょこっと読んで書く。続きを読んで補足、追加することはある。訂正することは、必要があればするが、ほとんどしたことがない。
さて、現在どのくらいの位置にいるかと言うと、サッカーで言えば前半10分というところかな。
朝吹真理子の「きことわ」 15ページほど、それに終りのほうを1,2ページ読んだところ、
西村賢太 「苦役列車」 59ページほど
もうひとつ、私は小説でもリニアには読まない。あるいはシリアルリーディングはしない。ランダムアクセスである。「純文学」ではなおさらそうだ。筋が決定的な意味を持っていない。とくに朝吹さんの作品はそうらしい。
まず、漢字。最近の作品は見慣れない漢字が多用される。それがかっこいいということだろう。かってカタカナだらけの文章が軒並みだったが、漢字の氾濫も流行なのだろう。つまり必然性がない。
こんどの二作品も例外ではない。古い言葉を新鮮な感覚で復活利用するのは文士のたしなみには違いない。漢文調文脈の伝統に素養があり、センスがあり、新鮮さ即ち意外性と必然性を兼ね備えて古語を復活させれば拍手喝喝采するがこの二人のはそうではない。
おおかた辞書や類語辞典を見て拾ってきただけであろう。慣用されている漢字を使わずことさらに見慣れない漢字を使ってルビを振ったりする。悪趣味だ。
そうかと思うと現代青少年読者のためにはルビをふったほうがいいと思うのに、ふらなかったり。朝吹氏の文章に大百足というのがある。これはオオムカデと読むのかな。それともこの三文字で無学な私が知らない種の名前があるのかな。
それから、これは朝吹さんの文章についてだが、漢字と句読点は文章を明瞭に、読みやすくするためにある。頁の字面を美しくする点にある。これは読書の楽しみのためには重要なことだ。とくに詩的(純文学的)な文学のば場合は。詩集をひもとけば直ぐに判る。(注:この判る、の採用に必然性ありや、問題提出)
この点が彼女はまことに無神経だ。女性の文章とは思えない。意図的なら理解の外だ。それとも校正者の責任かな。
活字が幼児の絵本のように大きいのに、かた一方でこの無神経さ。
読みやすさの点で言えば、西村氏のほうがはるかにまさる。年の効か、もともとの素質かよく分からないが。
つづく