穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

芥川賞選考の批評FOUR

2011-01-28 08:32:40 | 西村賢太

朝吹真理子「きことわ」96ページ。ぼちぼちやっておる。

90ページ前後から読み始めたほうがいいかもしれない。95ページあたりにはブラム・ストーカーみたいなところもある。

一文之を覆う、曰く、我はかって有り、今有るもの。我は汝であり、汝は我である。我は今此処に有り、今彼処にあるという意識あるいは無意識。ナレイターは耳年増、かまとと。(これが出来るのは神かアメーバか鳥インフルエンザ・ウイールス)。

処理の仕方を評価すれば、厳正に見れば中の下、甘く見て中の上。ただ現在価値を見るのではなく、将来価値を見るのであれば(芥川賞はそういう性質らしい)、選考委員は将来の才能の種を見ているのかもしれない。

あたしは伯楽じゃないから、その点はコメントを差し控える。

1200円の悪口クーポンはまだ残っているかな。、、、

まだあるようだ。 つづく


芥川賞選考の批評THREE

2011-01-27 20:15:08 | 西村賢太

また、朝吹真理子さんだ。「きことわ」36ページにたどりつく。夢の中で夢を見て、またその中で夢を見る、という具合に地下五階か六階か際限なく下りていく、てな所がある。島田老青年がまいったのはこの辺かな。

ようするに、あれでしょ、サブルーチンの多重ネスティングでしょ。感心するもんじゃない。このアクロバティックな描写の手並みはどうか。率直にいってあまり鮮やかとはいえない。こんな手品はうまくさばいても南京玉すだれ級のゲスな趣向である。

そのあと、25年ぶりか、二人の少女が合うというところに来るが、ちょっと乗ってきた感じ、37ページ以降どうなりますか。

ここへ持ってくるためにじらし、間を取るという工夫は判るが多重ネスティングは悪趣味じゃないか。


芥川賞選考の批評TWO

2011-01-27 10:54:07 | 西村賢太

これも朝吹さんのこと。どうも彼女に集中するが、西村氏の作品は相対的に瑕疵が少ないからどうしても彼女に集中する。

受賞がテレビのニュースになった時、島田とかいう選考委員が、氏名うろ覚え、彼女は時間を行ったり来たりするのがうまいというようなことを言った。プルーストを想わせると言ったかな。

これはどういうことだ。小説家が千人いれば時の処理、行き来は999人が腐心することだろう。当たり前のことだ。17,18世紀の小説のことは知らないが。

なぜ、ことさらに言うのか。非常に奇異に感じた。まだ10ページ足らずしか読んでいないから、島田氏?の言うことがどういうことか、見てみようか。

つづく


芥川賞選考を批評ONE

2011-01-27 07:45:26 | 西村賢太

当ブログの基準をもう一つ示しておこう。実況中継であることである。全部読み終わってから書評を書くなどと言うことはしない。ちょこっと読んで書く。続きを読んで補足、追加することはある。訂正することは、必要があればするが、ほとんどしたことがない。

さて、現在どのくらいの位置にいるかと言うと、サッカーで言えば前半10分というところかな。

朝吹真理子の「きことわ」 15ページほど、それに終りのほうを1,2ページ読んだところ、

西村賢太 「苦役列車」 59ページほど

もうひとつ、私は小説でもリニアには読まない。あるいはシリアルリーディングはしない。ランダムアクセスである。「純文学」ではなおさらそうだ。筋が決定的な意味を持っていない。とくに朝吹さんの作品はそうらしい。

まず、漢字。最近の作品は見慣れない漢字が多用される。それがかっこいいということだろう。かってカタカナだらけの文章が軒並みだったが、漢字の氾濫も流行なのだろう。つまり必然性がない。

こんどの二作品も例外ではない。古い言葉を新鮮な感覚で復活利用するのは文士のたしなみには違いない。漢文調文脈の伝統に素養があり、センスがあり、新鮮さ即ち意外性と必然性を兼ね備えて古語を復活させれば拍手喝喝采するがこの二人のはそうではない。

おおかた辞書や類語辞典を見て拾ってきただけであろう。慣用されている漢字を使わずことさらに見慣れない漢字を使ってルビを振ったりする。悪趣味だ。

そうかと思うと現代青少年読者のためにはルビをふったほうがいいと思うのに、ふらなかったり。朝吹氏の文章に大百足というのがある。これはオオムカデと読むのかな。それともこの三文字で無学な私が知らない種の名前があるのかな。

それから、これは朝吹さんの文章についてだが、漢字と句読点は文章を明瞭に、読みやすくするためにある。頁の字面を美しくする点にある。これは読書の楽しみのためには重要なことだ。とくに詩的(純文学的)な文学のば場合は。詩集をひもとけば直ぐに判る。(注:この判る、の採用に必然性ありや、問題提出)

この点が彼女はまことに無神経だ。女性の文章とは思えない。意図的なら理解の外だ。それとも校正者の責任かな。

活字が幼児の絵本のように大きいのに、かた一方でこの無神経さ。

読みやすさの点で言えば、西村氏のほうがはるかにまさる。年の効か、もともとの素質かよく分からないが。

つづく