穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

「湖中の女」がいまいちな理由

2015-04-29 06:49:09 | チャンドラー

いつもの癖でチャンドラーを読み返し始めたら一通り全部読んでみようと、湖中の女を三分の一ほど読んでいる。 

どうもいまいち,読書に興がのってこない。何故だろうかと考えた。主人公、依頼者のキャラのせいらしい。この作品の依頼者は日本の週刊誌風の表現でいえば「ビジネスマン」である。といっても日本ではビジネスマンと言えばひらの勤め人(サラリーマン)まで指すが、湖中の女の主人公キングズリーは化粧品会社の支店長だか、部長だか、傭われ重役といった感じなのである。

チャンドラーは彼の肩書きを書いていないが、そんなところらしい。これが彼の主人公らしくない。調子はずれのユニークさがない。こういう階層の連中で桁外れ、調子外れの人間というのはアメリカ社会でもいない。

チャンドラー節もそのせいかどうか、あまり響かない。チャンドラーの作品で繰り返される通奏低音は警察との張り合い(縄張り争い)だが、湖中の女は彼の長編で唯一警官と終止友好的な作品である。これが彼の作品に緊張感を生み出せない理由かも知れない。

もっとも、この作品の警官は山の中の駐在所の純朴な巡査で、ロスのすれっからしのデカとは違う。むしろ巡査の方がひとしきりマーロウの推理、調査方法に感心してしまうのであるが。

 もう一つ、チャンドラーの作品では始まってすぐに印象的な(魅力的とはいわないが)ヤクザ、悪漢が出てくるが、それがない。そのへんも作品にメリハリがつかない理由かも知れない。

訂正(?):

依頼者のキングズリーについて早川文庫の「登場人物」には化粧品会社の社長とあるね。本文に書いてあったかな。書いてあるとすれば最初のほうになければいけないのだが、気が付かなかった。感じとしては「ボス」という印象だが、せいぜい支店長のように読めたがな。あるいは映画化されたときに「社長」になっていたのか。

彼のオフィスに創業者の写真があると書いてあるが、氏名は違っていたと記憶する。とすると、創業者の婿養子に成り上がった男という設定かな。いずれにせよチャンドラー・キャラではない。

追記:ぼちぼちチャンドラーの短編を再読しているのだが、短編にもおなじタイトルの作品がある。当然長編の下敷きになった短編だが、そこでは依頼者は「化粧品会社の支店長」になっている。これなら長編のキャストとしてもぴったりなんだが、早川文庫の「登場人物」リストで化粧品会社社長となっているのは、そうすると、益々わけが分からない。どこから持って来たのかな。

 

 


大衆的ではないチャンドラー

2015-04-28 09:26:07 | チャンドラー

ヤフーの知恵袋の質問だったと思うが、チャンドラーを読もうと思って村上春樹訳の「大いなる眠り」を買ったが、よく分からない、どういう風に読めばいいのか教えて欲しい、という質問があった。

意外な気がしたが、よく考えてみればこの質問者は極めてまともな、かつ平均的な読者だろう。チャンドラーは大衆的なベストセラー作家ではない。高踏的という部分も有る。スジを端折るという点ではイメージ、行間の余韻を多用する詩的な部分も有る。チャンドラーは若い頃(イギリス時代)は詩作を試みている。

 どういう反応(解答)が知恵袋であったかは忘れたが、私ならまず「ロング・グッドバイ」を薦める。「大いなる眠り」はひとまず脇に置いておく。「ロング・グッドバイ」は彼の一番平易な作品である。かつ代表作とみなされている。そして、色々な評価(私だけだったりして)はあるものの、名作である。

次に分かりやすさの点で言えば「さよなら、愛しい人(村上訳邦題)」であろう。あと難易度を付けるのは難しいが、プレイバック、高い窓、湖中の女であろうか。一番読者を混乱させる(スジに限ってだが)のは「リトル・シスター」だろう。スジを追うのがミステリーの読み方だとするならばリトル・シスターが一番「破綻をきたしている」。

ただ、村上春樹氏があとがきで書いている様にこの中で出てくるオマフェイ・クエストというカマトト娘の描写だけでも読む価値は大きい。ただ村上氏はオマフェイの描写は最後まですばらしいというが、私の印象では読む価値が有るのは中盤までで、実は彼女が犯人の主役のひとりだと持って行く当たりは、スジの展開の是非はともかくとして、人物描写としては無味乾燥になっていく。

ハードボイルドの定石の一つは(その後のハードボイルド亜流ではそうでもないが)、チャンドラー、ハメット、スピレーンあたりでは無害に見える美女が実は犯人というのがハードボイルドの定石である。ロンググッドバイのアイリーンを観よ。大いなる眠りのカーメンを観よ、高い窓のマードック夫人を観よ、さよなら愛しい人のヴェルマを見よ。

 ハメットのマルタの鷹のオーショネシーをみよ。スピレーンの裁くのは俺だを見よ(名前は忘れた)。

 


チャンドラーのヒント回収三様

2015-04-27 07:34:06 | チャンドラー

日本のミステリー評論業界では「伏線の回収」なんて言う。いかにもセンスのない表現だ。彼らの語彙の貧弱さ、言語能力の乏しさ、そしてピント外れの意見にはいつも驚かされる(てなことを申しましてな,相済みません。評論家諸氏殿)。

前回もちょっと触れたと思うが村上春樹氏がどこかで言っていたが「チャンドラーは伏線が投げ出されたままになっていることがある。後でフォローがない」と書いていた。

たしかにそう言う所も有るようだ。しかし、今回またゴドクしていて、意外に律儀に「回収」しているところもある。チャンドラーの場合、なにしろ文章が印象的だから、ヒント部分の印象のほうが強くて、さらりとフォローが書いてある(そういうことがチャンドラーの場合結構有る)ので見逃してしまったと、再読して気が付いたりする。

並のミステリー作家は、あるいはその分身である探偵は「回収部分」にさしかかると、「どうだ!」と見栄を切る様に力むから読者もぎょっとしたり、感心したりするあんばいになる。 

チャンドラーの場合;

1:読者が容易に気が付くフォロー

2:読者にヒントの文章の与える印象が強くてフォローを見逃す場合

3:作者がフォローを忘れる場合

4:作者がフォローを必要と考えない場合、つまり意識的にフォローしない場合;

などがあるようだ。

4:についてだが、「リアリズム」の観点から言えば、調査の過程で十とおり考えるうちで本当のヒントは一くらいの割合だろうから、4:の場合はもっと有っても言い訳だ、一般論としては。

 



チャンドラー「大いなる眠り」ゴドク

2015-04-23 20:20:32 | チャンドラー

ユングの言う様にハイデガーがサイコパスだとすると、無理して理解しようとして読むとこっちがサイコパスになるかも知れない。というのは冗談ですが、どうもダーザイン分析で内容も平板になったわりには、いきなり前置きもなしに「世界内存在」だとか「気配り」(気づかい、だったかな)とかが、錦の御旗というか黄門様の印籠のように振りかざされるのでこのシリーズもひとまず終わります。また、ネタ切れになれば続きをするかもしれませんが。

そこで、種切れのときはチャンドラーというわけで「大いなる眠り」です。創元社文庫、村上春樹訳、原文と何回も読みましたが、「読む物がなくなったときはチャンドラー」という訳です。前に集中的にチャンドラーを取り上げましたが、大分前になります。続けざまに読む気にはなりませんが、何年か経つと読む気になるのが気に入った「名作」というものでしょう。 

再三読んだというのを、五回で代表させた訳です。五読というのは、だから、正確に五回目というのではなくて、今までに何回も読んだが又、という意味です。

今回初めて感じたのは、プロットが甘いという評判のチャンドラーですが、「大いなる眠り」は重苦しいほど構成が緊密で凝縮されているということです。チャンドラーはその名文で、プロットを読んだり、伏線を発見したりする「一般的」ミステリー読者のような読み方をしないでも、言い換えれば流して読んでも、その文章力で楽しませてくれるということがあります。

訳者の村上春樹のあとがきも大いに読み応えがありますが、この辺はすこし見解が違います。もっとも、例えば後期の「ロング・グッドバイ」などはややこしい伏線はほとんどありません。川の水のようにさらさらと流れる話ですが、それでも勿論おおいに読ませる訳です。それと何だったっけ、「リトル・シスター」だったかな、スジもめためたなものもあります。

わたしもこれまで気づかなかった様に、『大いなる眠り』も蜘蛛の巣の様に絡み合った叙述をほどいて行かなくても楽しめる訳だし、これだけ複雑なwebを一般的読者に一読して直ちに理解させる様に書くことは無理でしょう。それは作者には分かっていても、こりにこったのでしょう。処女長編というので、その辺もまじめにやったのかもしれません。その後は「無駄」な努力はしなくなったのでしょう。

五読目ともなると、こういう楽しみ方もあるのかな、というわけです。どこがどうと、書いてしまっては、この業界の人が言う様にネタバレになるんでしょう。遠慮しておきましょう。

村上春樹氏があとがきで書いていますが、「大いなる眠り」はルモンド誌の世界の名著100冊に選ばれ、またタイムの百冊のすぐれた小説にも選ばれたというが、ロンググッドバイはどうなんだろう。日本ではどうやらロンググッドバイが一番の代表作ということになっているが、欧米では二作品の評価はどうなのかな。

おなじあとがきにあるが、作者は「3ヶ月という驚異的スピードで書き上げた」というが、上に述べた複雑な構成の決定まで含めて三ヶ月で仕上げたのなら驚異的である。文章的な観点からは300頁(ハヤカワ)、原文では200頁弱だろうが、このくらいのスピードは驚異的とも言えないのではないか。文章という物は「ノリ」という側面が有るから、このくらいなら「叉手の間」というのも不自然ではないような気がするが。

 


What happened to High Window

2014-12-18 21:21:00 | チャンドラー

村上春樹訳「高い窓」読み終わった。前に褒めたがラストはよくない。それで原作と比較しようともう一度本屋で探したが前に書いた様にHigh Windowだけが無い。たまたま改訂改版の時期なのだろうか。日本の書籍でこういう端境期には一時本が書店から消えることがあるが。 

で、比較は昔原作を読んだ時の記憶や印象と村上春樹訳の比較になりますのでご了承ください。なお、昔読んだといった場合は英文の原作のことです。

スリラーで一番気をつけなければ行けないのはラストの謎解きが説明調に堕したり、平板にならないことである。特に犯人と向かい合って探偵から「こうだろう、こうだっただろう」とやるときは会話になるから、説明調になることは特に避けなければならない。

この点では「長いお別れ」も同じ趣向であるが、「長いお別れ」のほうがはるかにすっきりしていて、進め方に淀みがない。

くどくなることもいけない。村上訳ではこの欠点が目立つ。原文ではそんなでもなかった記憶があるのだが。あとがきで村上春樹も書いているが、チャンドラーのラストは辻褄が分かりにくいものがある。後書きでは高い窓は辻褄はあっているといっているが。

あるいは訳者が分かりにくさを読者のために改善しようと訳に手を加えたのかも知れない。もしそうなら、失敗している。かえってくどくなりポイントが分かりにくくなっている。前に読んだ時に、確かに込み入っているなと思ったが、素直に読んで行けた記憶がある。

しかし、全般的に見ると、これまでに彼が訳したチャンドラーで原作を読んだ時より感興を憶えたのは「高い窓」がはじめてである。残っている「プレイバック」や「湖中の女」は「高い窓」よりさらに出来に問題があるから、村上春樹が流麗な創作翻訳の腕を存分に振るえるのではないか。

 


村上春樹の創作翻訳

2014-12-14 18:35:28 | チャンドラー

前回に続き村上春樹訳チャンドラー「高い窓」である。第一回の進行形書評である。80ページくらいまで読んだ(全体で350ページほど)。

村上春樹訳のチャンドラーものは四冊読んだが、今度のが一番のっているのではないか。前四冊は忠実な翻訳だし、分かりやすく水のような(褒め言葉です)どちらかというと淡々とした訳だった。

原文(英文)は村上氏があとがきで言っている様にそれほど全編にわたって均質なドライブというか、「のり」はない。チャンドラー作品としては1、2番を争う出来ではなく、まあ中の下くらいというものである。それも確かめたく、また原文で読んだ記憶でそんなことが書いてあったのかな、というところがあり、書棚を探したが英文の方は紛失してしまったらしい。

今日書店に行ったついでに洋書の棚を見たが、彼の作品はプレイバックや湖中の女まで置いてあるのに高い窓だけない。それだけ人気のない方なのかも知れない。

創作落語とか創作料理とかいう言葉があるが、これは村上春樹の創作翻訳じゃないかなと思った。彼自身も楽しんで原作に色をつけているのではないか。原作の文章はこれだけの「のり」はなかったうような記憶が有る。これだけは翻訳の方が面白い。

彼の小説は読んでいないものも多いが、彼の創作ではこのような軽快な文章には出くわしたことが無い。いや、一度ある。「カンガルー日和」という短編集があるが、そのなかに10ページ足らずの題はわすれたが、ハードボイルド小説のラストだけを書いたようなへんてこな文章があった。短編としての体裁も整っていないが、何かの習作のような、スケッチのような掌編である。その運筆が「高い窓」の訳に似ているようだ。


村上春樹訳チャンドラーの「高い窓」

2014-12-11 21:21:39 | チャンドラー

本屋で濃紺の地に白抜きで「高い窓」が平積みになっている。高い窓、なんか聞いたこと有るな、ひょっとしたらと思って作者と訳者(海外作品のコーナーにあったので)の名を探した。これがなかなか目に飛び込まないような地味な作りなんだな。やはりチャンドラーの作品で訳者は村上春樹。今月発行だ。とうとう訳したんだな、と思って買って来た。

まず訳者の後書きを読む。これまで村上春樹はチャンドラーを四冊訳しているがまず後書きをいつも読む。これが楽しみだ。普通の後書きとは違う。

それによるとチャンドラーの長編翻訳の5冊目だそうだ。実は先日蔵書の整理をしてチャンドラーの村上訳は処分するつもりだったのだが、思い直してとっておいた。書棚をみると、これで訳していないのは「湖中の女」と「プレイバック」になる。

後書きには全部7冊訳すつもりという。順番としても妥当だろう。「湖中の女」は色々な意味でもっともチャンドラーらしくない作品だし、「プレイバック」は晩年の最後の作品で出来にむらがある。それに当時勢威をふるっていたミッキー・スピレーンのマイク・ハマーばりのセックス描写が異様に彼の作品としては多い。

このブログでもっとも沢山記事を書いた著者はおそらくチャンドラーだろうが、そのなかで何作目だったか村上春樹が今後訳するとすればどういう順番が予想を書いたが「高い窓」は有力候補だった。

本文はこれから読む。