奈良時代この地には「十二社権現・熊野神社」と修験道の寺院が一体
となった神仏習合の「新熊野権現」があり広く信仰されていた。
修験道・役小角の五人の弟子は、それぞれ尊龍院、大法院。建徳院。報
恩院、伝法院という五流の寺院を創建し尊龍院を中心に繁栄していたが、
平安時代以降は急速に衰退した。
その後も相次いだ戦乱の戦禍が追い打ちをかけ、多くの寺院の伽藍は焼
失した。
そして明治の神仏分離令で十二社権現は「熊野神社」となり、修験道
が禁止され、分離された「五流尊龍院」は天台宗の寺院となった。
更に先の大戦後には、天台宗から独立し「日本修験道本庁」となり、修
験道が再興され今日に到っている。
周辺は、樹木が鬱蒼と茂った森で、白壁の参道に沿って入口を入ると、
左が茅葺屋根の御庵室(庫裏)である。
その前には良く手入れされた庭園が広がり、特に紅葉の頃は古色の建物と
相まって美しい姿を見せてくれる。
石段を上ると、その横奥にブロンズ像「役行者尊像」が有る。
その前が当院の中核的な施設である護摩壇で、正面には不動明王が、
左手には護摩堂がある。
修験道最大の行事である「お日待大祭」には、全国の山伏や信者が
ここに集まるという。
その奥には鉄筋コンクリート造りの本堂があり、修験道の総本山ら
しく信徒の宿泊所「五流会館」等もある。
さらに進むと「五流稲荷大明神」、「庚申さま」を経て裏門に至る。
裏門を出ると「熊野神社」の境内に通じていて、この間は300m程だ。
境内の東側に「五流尊龍院の塔」(県指定重要文化財)が建っている。
これらの「熊野神社」を合せた一帯の宗教施設群は、神社と寺院が一
体となった、嘗ての神仏習合の形態を良く留めていると言われている。(続)
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となった神仏習合の「新熊野権現」があり広く信仰されていた。
修験道・役小角の五人の弟子は、それぞれ尊龍院、大法院。建徳院。報
恩院、伝法院という五流の寺院を創建し尊龍院を中心に繁栄していたが、
平安時代以降は急速に衰退した。
その後も相次いだ戦乱の戦禍が追い打ちをかけ、多くの寺院の伽藍は焼
失した。
そして明治の神仏分離令で十二社権現は「熊野神社」となり、修験道
が禁止され、分離された「五流尊龍院」は天台宗の寺院となった。
更に先の大戦後には、天台宗から独立し「日本修験道本庁」となり、修
験道が再興され今日に到っている。
周辺は、樹木が鬱蒼と茂った森で、白壁の参道に沿って入口を入ると、
左が茅葺屋根の御庵室(庫裏)である。
その前には良く手入れされた庭園が広がり、特に紅葉の頃は古色の建物と
相まって美しい姿を見せてくれる。
石段を上ると、その横奥にブロンズ像「役行者尊像」が有る。
その前が当院の中核的な施設である護摩壇で、正面には不動明王が、
左手には護摩堂がある。
修験道最大の行事である「お日待大祭」には、全国の山伏や信者が
ここに集まるという。
その奥には鉄筋コンクリート造りの本堂があり、修験道の総本山ら
しく信徒の宿泊所「五流会館」等もある。
さらに進むと「五流稲荷大明神」、「庚申さま」を経て裏門に至る。
裏門を出ると「熊野神社」の境内に通じていて、この間は300m程だ。
境内の東側に「五流尊龍院の塔」(県指定重要文化財)が建っている。
これらの「熊野神社」を合せた一帯の宗教施設群は、神社と寺院が一
体となった、嘗ての神仏習合の形態を良く留めていると言われている。(続)
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