前にEテレの「100分で名著」で「サルトル」をしていて、「人間は自由の刑に処されている」というところがあった。自由であることは不安である。我々の存在は偶然であり、その存在は無意味で不条理なものである。だから人間は自由である。そして、自由は不安である。「この自由はいくぶん死に似ている」という。孤独とは自由であるということも。
日々忙しく、何かに縛られていることはそこに安心があるのかもしれない。まったく自由で何をしても良いと言われても困るのだろう。
「孤立を恐れずに生き方を模索する」のだそうだ。自由というものは不安定ということ。それでは、不自由は安定なのか?
毎日の生活に、少しのストレスや拘束されることなどがあって、時折開放感を味わうことができるわけだ。仕事をしているから休日が嬉しいというような。厄介な人生は人生の薬なのかもしれない。
それにしても、厄介なことが多いなあ。相続や名義変更などが、もれなくできるまでに1年かかってしまった。(株の名義変更と、携帯電話の名義変更がもれていた。)そして、気が付いたら1周忌をしなくてはならない。ほんの家族だけでやりたいが、姑の兄弟が8人いるのだ。爺さんの兄弟は3人で、その親戚も呼ばなくてはならない。娘の嫁ぎ先のご両親にもお世話になったしと膨れ上がるので、わたしの実家は母と弟だけきてもらう。殿は、わたしのか細い肩に荷物をたくさん載せていったものだ。とはいえ、1周忌は1回しかないので精いっぱいのことをしなくてはならないと思う。
サルトルと一周忌は何の関係もないが。