孫たちが大きな声で広島長崎の原爆の歌「折鶴の子守歌」を、歌ってくれた。それはそれは、元気よくきれいな声で。
「何が起きたか分からないので、ピカドンって言うとったんやね。」その後、広島の原爆ドームや資料館を見た話をしたら、真剣に聞いてくれて、真珠湾攻撃から第二次世界大戦の話をしたら、4年のkouも「日本がその前の戦争で勝ったし戦争を始めたんやね。」と、言いつつわたしの話を聞いてくれた。
沖縄にアメリカ兵が上陸して大変だったことの話もして、「白旗の少女」の話もした。
話しながらところどころ記憶が抜けていたけれど、少女が最後にたどり着いたガマの中で両手両足のないおじいさんと、目の見えないおばあさんが作ってくれた白い旗を掲げてガマという洞穴から出て助かった話である。少女は7歳だった。2年のkenは、自分の年と変わらない少女が戦火の中を逃げ切ったことを、興味深げに聞いていた。
孫たちに話す材料があって良かった。3人で母親が帰ってくるまで小一時間も話をして盛り上がっていた。彼らは「かあちゃん。今までずーーっと、戦争の話をしとったんや。」と、ちょっと興奮していた。娘は言った「おかあさん、身振り手振りすごいしね。」と。いや、部屋中走り回り、ソファの陰に隠れたりもしたのであった。
後で、家にある「白旗の少女」を、読み直して改めて少女が助かったのは運だけではないことを確認した。
母を亡くし6歳でごはんを炊いて、父と畑へ行っていろいろな知恵を習い、おもしろい工夫の遊びをする兄について遊んでいたことが、逃げている間に何度も窮地を救ったのではないか。
始めは、二人の姉と兄の4人で逃げていたのだが、兄が頭に球が当たってなくなり、避難する人に紛れて、二人の姉とはぐれてしまった7才の子が、1か月以上をひとりで野原やガマを彷徨って助かるのは奇蹟だと思う。
父親と畑で生の作物をとって小川で洗って昼のご飯にしたことで自力で食べ物をさがす。また、父がいつも「人のまねはするな。頭で考えろ。」と、言ったことや、かくれんぼの時にみんなと一緒にかくれると見つかりやすいことを思い出し、避難民の群れから離れて空き家にかくれた。誰一人として空き家に逃げ込まず、みな銃弾に当たって死んだこと。アリの行列をたどって食べ物にありついたこと。ネズミやウサギに勇気づけられたこと。
今の日本は平和なのでサバイバルの準備はしなくてもよいかもしれないが、ある意味サバイバルに耐えうる心は必要かもしれない。勉強さえしていれば喜ぶ親になってはいけない。生きていく知恵を子供に教えなくては、世の中はもしかしてすすきの原より危険がいっぱいかもしれない。
わたしも、ひとりで逞しく生きるということは辛い。蝶よ花よと育てられた小百合である。
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