天木直人のブログ
「誰がハマーショルドを殺したか」の日本上映が問いかけるもの』より、転載させて頂きました。
2020-07-24
きょう7月24日の毎日新聞で小倉孝保論説委員が教えてくれた(金言)
ドキュメンタリー映画「誰がハマーショルドを殺したか」が先日日本で封切られたと。
こんな映画がつくられていた事を私は全く知らなかったのだが、デンマーク人のマッツ・ブリュガー監督(48)が昨年製作し、サンダンス映画祭で監督賞を受賞した作品だという。
ハマーショルドといえば国連の第二代事務総長であるスウェーデンの外交官だった人物(筆者註:初代事務総長はノルウェーの元外務大臣トリグブ・リー)であり、1961年9月に「コンゴ動乱」調停のため現地に向かう途中、乗っていた飛行機が墜落し、同僚らと共に帰らぬ人となった人物である。
ブリュガー監督はこの映画の製作動機を次のように語っている。
「私は暗殺を疑っています。ハマーショルドは植民地主義に反対し、新しい国々を独立させようと理想を追求しました。そのために彼が殺害されたのなら、全人類がその死に関心を持つべきだと思ったのです」と。
ブリュガー監督はスウェーデン人の調査員とともに、墜落現場で機体の残骸を探し、南アフリカで秘密組織メンバーらを訪ね歩いて新事実を浮かび上がらせているという。
小倉論説委員はそのコラムを次のように締めくくっている。
民族や国家が自らの運命を自分たちで決める事の難しい時代が(確かに)あった、と。
墜落の謎をそのまま残している限り、そうした不正義に決着をつけたいとは言えないと。
「冷戦期の謎」を通し映画が突きつけるのは、現在の世界の姿なのだ、と。
国連総会は昨年暮れ、墜落原因の調査活動を拡大するよう求める決議を採択した。(だが)大国の思惑も絡み、調査は進んでいない、と。
この映画の日本上映は、まことに時宜を得たものだと思う。
これからの国際政治は大国と、その他大勢の国連加盟国の戦いになるのではないか。
いや、そうでなくてはいけない。
本当の意味で戦後の国際政治が民主化されなければいけないのだ。
国連改革は安保理常任理事会の強化・拡充などではなく、総会決議が安保理決議よりも上位に来る改革となるべきなのだ。
すべては、常任理事国の中で唯一の被植民地国である中国の正しい出方にかかっている。
中国が本当の意味で、弱小国の立場を代弁する国になるか、なれるか、にかかっている。
中国もまた正念場にあるのである(了)
Wikipedia
ダグ・ハマーショル
ダーグ・ヤルマル・アグネ・カール・ハンマルフェルド(スウェーデン語: Dag Hjalmar Agne Carl Hammarskjöld スウェーデン語: [dɑːɡ ˈhamːarɧœld] ( 音声ファイル), 1905年7月29日 - 1961年9月18日)は、スウェーデンの外交官。第2代国連事務総長(任期:1953年4月 - 1961年9月)。
スウェーデン人の政治家
ダグ・ハマーショルド
Dag Hammarskjöld
Dag Hammerskjold, Bestanddeelnr 912-9460.jpg
ダーグ・ハンマルフェルド
生年月日
1905年7月29日
出生地
スウェーデン、ヨンショーピング
没年月日
1961年9月18日(56歳)
死没地
ローデシア・ニヤサランド連邦の旗 ローデシア・ニヤサランド連邦、ンドラ
出身校
ウプサラ大学
サイン
Sign Dag Hammarskjold.png
国際連合の旗 第2代国際連合事務総長
在任期間
1953年4月10日 - 1961年9月18日
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ノーベル賞受賞者ノーベル賞
受賞年:1961年
受賞部門:ノーベル平和賞
受賞理由:世界の平和と協力を推進し、国際連合の強化に尽力
在任中に死去した唯一の国連事務総長となっている。
日本では英語読みに近い「ダグ・ハマーショルド」が使われることが多い。スウェーデン語読みの「ダーグ・ハンマルフェルド」と表記される場合もある。
目次
生涯 編集
生い立ちと教育
ヨンショーピングに生まれる。スウェーデンの首相ヤルマル・ハンマルフェルド(英語版)の四男として生まれる。母はアグネス・アルムクヴィスト(Agnes Almquist)。祖先は17世紀まで王家に仕えていた。少年時代の大半をウプサラで過ごす。ウプサラ大学で法学士と政治経済学修士を取得し、優秀な成績で卒業する。卒業後はストックホルムに移り、財務省に入省した。
政界
1930年から1934年まで、政府の失業問題委員会の秘書官を務める。この間、経済学の学位論文「景気循環の展開(Konjunkturspridningen: en teoretisk och historisk undersökning)」を書き、ストックホルム大学から博士号を得る。1936年から1945年まで財務次官を、1941年から1948年までスウェーデン国立銀行総裁を務めた。1945年、内閣の財政・経済問題担当の顧問に就任。大戦後の経済問題緩和についての政府案に関し、調整を行った。
1947年、スウェーデン代表として、ヨーロッパ16か国がマーシャル・プラン受け入れを決定したパリ会議に臨んだ。1948年にはパリで開催された欧州経済協力機構(OEEC)の会議に、再び代表として出席。
1949年、外務次官となる。1950年、ユニスカン[1]のスウェーデン代表団団長となった。1951年、内閣の無任所大臣に任命され、実質的には外務副大臣の役割を果たした。ハマーショルドはスウェーデン社会民主労働党内閣のために働いたものの、公式には政党に属さなかった。1954年12月20日、スウェーデン・アカデミー会員に選ばれる。父の死去による世襲をする格好になった。
ハマーショルドは1951年に国連総会のスウェーデン代表団の副団長に、1952年には国連総会のスウェーデン代表団団長に就任した。
国連事務総長
1953年、国連事務総長のトリグブ・リーが辞任すると、国連安全保障理事会は、後任にハマーショルドを推薦することを決定した。ハマーショルドにとっては驚きであったが、3月31日に安全保障理事会参加12か国中10か国がハマーショルドを推薦し、4月7日から4月10日まで開催された国連総会においても60票中57票がハマーショルドを選任した。就任時点での年齢47歳と8ヶ月は、歴代の国際連合事務総長の中で最年少記録である。
ハマーショルドは国連事務総長の最初の仕事として職員数約4000人の事務局を設立し、その職責範囲を定める規則を策定した。また事務総長が安全保障理事会ないし総会の事前承認なしに緊急行動をとることを可能とすべきであると主張した。
国際関係の面では、1955年に国連非加盟国である中華人民共和国を訪問し、朝鮮戦争に従軍して中国共産党の捕虜となっていた国連軍のアメリカ人兵士15人の釈放交渉に成功した[2]。在任中で特に顕著な功績を挙げたのはスエズ戦争である。1956年には第一次国際連合緊急軍(UNEF)を組織し、イスラエルとアラブ諸国の調停に尽力した。ソビエト連邦はハマーショルドの行動が「反ソビエト的である」と非難し、事務総長職の辞職を強く求めたが、1957年、ハマーショルドは「辞めることは簡単であるが、職を続ける方が難しいのである」と主張し、再任した。
死去
レオポルドヴィルとンドラの位置関係
1960年、ベルギーの植民地から独立を果たしたコンゴ共和国は、激化する内乱(コンゴ動乱)の沈静化のため国連に援助を求めた。ハマーショルドは4度にわたりコンゴを訪問したが、ソ連はハマーショルドのアフリカ非植民地化への努力を不充分と評価した。1960年9月、ソ連はコンゴ国連軍を編成するとした国際連合安全保障理事会決議143に賛成したものの[3]、パトリス・ルムンバ政権への支援が不十分としてハマーショルドの国連事務総長の辞任を要求し、代案としてあらかじめ拒否権を持つ西側・東側・第三世界(非同盟)出身の3人の国連事務総長によるトロイカ体制を提案した。これはソ連のニキータ・フルシチョフの自伝において「資本主義諸国・社会主義諸国・新興独立国の3つのグループの利害を対等に代表」と言及されている[4]。
1961年9月17日夜、コンゴ動乱の停戦調停に赴く途上で、搭乗機のダグラス DC-6B(機体記号SE-BDY)が北ローデシア(現在のザンビア)のンドラで墜落(1961年国連チャーター機墜落事故)、ハマーショルドも巻き込まれて事故死した。
現職の国連事務総長の事故死というニュースに加え、操縦士が警護上の理由から事前にフライトプランを提出していなかったこと、国連のコンゴ動乱への消極的介入をソ連から「反ソビエト的」だと非難され事務総長辞任を求められていたことなどから、撃墜説や暗殺説が信憑性をもって広まった[5]。現在のように機内にブラックボックスが搭載されていなかった時代(義務付けられたのは早くても60年代後半とみられる)で、事故に至るまでの経緯は事故後の推定と調査に依存するほかなかったが、調査の結果事故機には被弾や爆発の痕跡が一切発見されなかった。同機の経由地であるンドラは海抜1270m、最終目的地コンゴの首都レオポルドヴィル(現在のキンシャサ)にあるンドロ空港は海抜279mで、この名称が極めてよく似た二つの空港を操縦士が混同した結果、夜間のンドラ空港への着陸進入中に高度が低くなりすぎ、機体が地表に激突したものと結論され、謀殺説は一旦は否定された。
しかし2013年になって、当時の事務総長・潘基文により調査委員会が設置され、2017年10月に公表された調査報告書では、外部からの攻撃や脅威が原因である可能性を示唆した[6]。2019年には、ドキュメンタリー映画「Cold Case Hammarskjöld(邦題「誰がハマーショルドを殺したか」)」の中で、2007年に没したベルギー人傭兵の戦闘機パイロットが、命令されて撃墜したことを証言した[7]。
没後
死後の1961年、ノーベル平和賞がハマーショルドに授与された(授与されることは生前に決定していた。ノーベル賞は追贈されない)。また、同年11月にフォード財団から寄託された国際連合本部ビル図書館は、業績を偲び「ダグ・ハマーショルド図書館(英語版)」と命名された[8][9]。1963年、ハマーショルドの唯一の著作『道しるべ』(Vägmärken)が出版された[10]。自らをキリスト教の神秘主義者になぞらえ、外交を「内なる旅」と主張している。
著書
『道しるべ(英語版)』(鵜飼信成訳、みすず書房、初版1967年、新版1999年) - パンセ的な断想日誌。日記形式の回想録集で、1925年(20歳)から死亡した1961年までのことが記されている
評伝 編集
『世界平和への冒険旅行 ダグ・ハマーショルドと国連の未来』(光橋翠訳、新評論、2013年)
評伝集、スウェーデン政府による生誕100周年記念事業出版。ステン・アスク+アンナ・マルク=ユングクウィスト編
脚注
^ UNISCAN:イギリスおよびスカンディナヴィア三国間の経済同盟
^ Sze, Szeming (December 1986). Working for the United Nations: 1948–1968. Pittsburgh: University of Pittsburgh. p. 20.
^ “Republic of Congo - ONUC Background”. United Nations (2001年). 2015年12月29日閲覧。
^ “アーカイブされたコピー”. 2006年10月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年2月8日閲覧。
^ 大学1年生の時にカタンガ国の傭兵隊の一員としてコンゴ動乱に参加していたと自称する作家・柘植久慶によると、国連緊急軍と敵対していたカタンガ傭兵隊が北ローデシアに潜入し撃墜したという(自著『撃墜王・坂井三郎から学んだ戦いの極意と技術』より)。
^ “2代目国連総長は暗殺か…墜落死は「外部攻撃」”. 読売新聞. (2017年10月26日) 2017年10月26日閲覧。
^ “国連総長の墜落死「撃墜命じられた」と新証言”. 読売新聞. (2019年1月15日)
^ ダグ・ハマーショルド図書館 - 国際連合ウェブサイト(日本語)
^ History and Mandate - 国際連合ダグ・ハマーショルド図書館(英語)
^ http://www.buzzflash.com/hartmann/05/03/har05003.html
外部リンク 編集
ウィキメディア・コモンズには、ダグ・ハマーショルドに関連するカテゴリがあります。
ウィキクォートにダグ・ハマーショルドに関する引用句集があります。
Kofi Annan, Dag Hammarskjöld and the 21st century, The Fourth Dag Hammarskjöld Lecture 6 September 2001, Uppsala University (PDF)
Dag Hammarskjöld Foundation
Dag Hammarskjöld, Secretary-General: the official website of the UN
Markings - "the spiritual diary of Dag Hammarskjöld"
Biography
The Nobel Prize
Letters say Hammarskjöld's death Western plot
UN assassination plot denied
Media briefing by Archbishop Desmond Tutu
18 September 1961 UN Secretary-General Dag Hammarskjöld is killed
文化
先代:
ヤルマル・ハンマルフェルド(英語版) スウェーデン・アカデミー会員(第17席)
1954年 - 1961年 次代:
エリク・リンドグレン(英語版)
最終編集: 5 日前、2001:240:2975:3C00:A9D2:49B4:1F25:66DF
関連ページ
国際連合事務総長
国際連合事務局の代表
国際連合安全保障理事会決議143
1961年国連チャーター機墜落事故