詩の終わり 安部一派の不埒な自己正当化と国民の「先に立たぬ後悔」より、転載させて頂きました
抵抗戦線
詩の終わり 現代日本の救済?
20/07/12 09:31
森友事件は、安倍晋三が国会で不用意に発した戯言(口から出まかせ、心にもない大見得)「私や妻が関わっていたら議員辞職も辞さない」から、官邸人事に左右される官僚の、信じがたいほどに低劣な自己防御保存心理によって、佐川何某等高官が号令して安倍晋三・安部昭恵救出のための公文書隠蔽改ざん破棄を省庁挙げて行った事件といえる(最もまともな職員の一人は誠実な自己反省の挙句に暴露的遺書を残し抗議の意味での自裁に至った)。勿論、国民向けの鮮明な解決には全く至ってない。
この事件は国民の目からは次のような印象として残っている、例えば佐川の無罪放免、国税庁長官就任という結論から、あれはこの国では大した犯罪ではなかったのだな、ということ。上層部の雲の上の政治は(毎晩数万円の豪華料理を食す)彼らの私腹を肥やすためにだけ機能している、ということ。まさに封建時代の「お主も悪よのう」というドラマ仕立てを地で行く仕上げだ。
かかる官僚たちのなした虞犯行為は、正直な国民の目からは明らかに非常識な不正行為、国家公務員がしてはならない不倫不義行為、であり、腐りきった検察や司法が出来レースでどう裁こうと決して見逃しようもない、国民に対する恐るべき背信行為に他ならない。この国の検察司法に全く信が置けなくなってきている国民の正直な感想からして、森友事件は、安倍晋三という劣悪な政治家への国を挙げての魔訶不思議な「よいしょ」、上司(官邸)に対する(官僚の)無節操で低劣な忖度、ヒトラー時代並みの人民の静かな黙過黙認、現代的ネトウヨ的狂熱、弾劾されるべき為政者への、国民の無言の白紙委任状、という、戦後日本の民主主義の馬鹿げた総括的解答を明示している。この国の民主主義はここまで堕落した、というわけだ。しかしながら戦後日本史をまともに眺めればある意味それは当然の帰結だったとも言える。
続く加計事件は、安倍晋三がその盟友?に対する不埒な身びいきによって一地方自治体の特定の大学に獣医学部を新設許認可したという話。これに関し検察司法は何一つ立件できてないしする気もない。森友加計事案は野党が国会や公開ヒヤリングで桜の会事案に付随する格好で追及していたが、桜ともども相変わらず内閣、閣僚、省庁官僚がこれ見よがしの対応で国会、国民を官尊民卑的に煙に巻いたという形で終始した。つまり国民の印象は、安倍晋三個人、安倍晋三内閣、政権、官僚、省庁、財界、が一蓮托生で、国民愚弄の富裕層向け国政に明け暮れている、ということになる。アベノミクス、トリクルダウンは悉く失敗している。自民改憲草案通り、国家優先似非国家主義まがいが今この国を史上最低国情に落とし込んだ。
「森・かけ・桜・防衛省等事件」とひとくくりにして、ここまでこの悪代官安倍晋三は支持率4割を切ることもなく、完全なまっくろくろすけにも拘らず、分立できない検察司法により闇に葬られた、不問に付されたという形だ。ある意味国民にとってこういう不祥事はどうやら「我々にはトンとかかわりのないこってす」、といったものでしかない。だから支持率に影響することその場限りでいつの間にか元の木阿弥という形勢だ。
しかしながら、冷静に見るならば、実質支持率に関し選挙結果に見る限り、あらゆる条件等加味してみた場合、自民党支持層の有権者総数に占める割合は2割強に過ぎない。つまり無関心層などみると過半が投票に行かない現状では、この政党に有為の支持者が多数いるとは到底言えないわけで、こういうノンポリ的国情を生んだ自縄自縛の本質的病理をどう考えるべきか、まともな検証こそ必要とされる。
一方、ここのところ重大な危機的状況を呈するコロナ禍とは何か?
予測不能のパンデミック、果てしのない脅威と不安の坩堝。しかも無症状者、軽症者もかなりの割合で存在するために、高齢者や持病もち、その他ハンデのある状態の患者の重症化、死亡例が例外的にさえ語られる方面もないではない。このコロナ禍で安倍政権政府は、その政府対応において本来の馬脚(危機管理能力の欠如、国民向け思考回路の欠損)を現した格好だが、それでも支持率は3割を下回ることもなく、不思議な現象の権力持続性ばかり印象されて、結局多くの国民は詐欺被害的な意味でどうにも損ばかりしているとしか言いようもない状況だ。ある意味不作為の命の危険にさらされ続けていると言っても過言ではないのだが、にもかかわらずこの稀代の悪辣政権にやりたい放題を許している。
どうしてこうなってしまったのか?
いずれにしても現行保守政治は、完全に、保守すべきものを有してないといえる。川端康成が「美しい日本と私」と銘打ってノーベル賞受賞者演説に述べたところの「守るべき日本」は、どう見ても「汚れちまった悲しみ」に縁どられている。三島由紀夫が市ヶ谷で叫んだ「絶望」がすべてだ。日本会議の見ている日本は滅び去るべき日本にほかならず、ゾンビが蔓延る現代日本は墓場の運動会を真昼にやろうとしている。見ているほうがおぞ気だっている。
戦後日本が守ってきたのは戦勝国米国に有無言わずに従わされる形質の敗戦国縛りにある日本に過ぎない。敵国条項の中に封じ込められた長すぎる敗戦国待遇、これが国際社会での日本の在り様だ。そして「永遠平和のために」あらゆる戦闘手段を放棄して「理想実現のために」孤高の道を選んだのが誇り高き大和民族の、本来のあるべき姿だった。闘いはこういう日本の真の救済のための闘いにほかならず、今や米国一強に偏して、到底国際間協定などあり得ない現行国際社会に追随することには、救いの道は一切ないといえる。
問題はあくまで精神の問題であり、哲学の課題であり、現代日本の文学が死に物で追及すべき「言葉」の問題だ。政治が暗礁に乗り上げた以上、技術的解決ではなく、「近代化」の洗い直し、「天皇制」の検証、国民性への省察、といったところに目を向けなければならない。(つづく)