たけじいの気まぐれブログ

記憶力減退爺さんの日記風備忘雑記録&フォト

「トロイメライ」(再)

2022年01月12日 15時55分23秒 | 懐かしいあの曲

ふっと思い浮かんだ曲「トロイメライ」。
「ブログ内検索」してみたら、5年前、2017年1月8日にも、ブログに書き込んでいたことが分かり、コピペ、リメイクすることにした。

昭和30年代前半、中学生の頃の話である。1学年1クラスの小さな学校だったが、当時、毎年、クラス毎に演劇や合唱等を発表する「学芸会」という催しが行われていた。当日は、講堂(体育館)の教壇を舞台に設え、PTAの人達も大勢集まり、茣蓙(ござ)に座って見物していたように思う。何年生だったかの記憶曖昧だが、一場面、一幕の劇「最後の一葉」を、猛稽古し、発表したことがあった。当時は、何も分かっておらず、ただ単に演劇指導に厳しかった熱血教頭の叱咤に耐えながら、いやいや稽古しただけで、学芸会が終われば、「はいそれまでよ」だったが、後年になってから、「最後の一葉」が オー・ヘンリーの短編小説だったことを知ったり、劇中に終始、強く弱く流されていた曲が、シューマン作曲の「トロイメライ」だったことを知って、「へー!、そうだったのか」と、感慨無量になった記憶がある。

(ネットから拝借画像)


劇「最後の一葉」の舞台は、アパートの一室で、ベットが有り、病人が窓の外を眺める、一場面、一幕の劇で、ほとんど動きが無く、登場人物も少なく、4~5人だった気がする。自分が、何役で出ていたのかの記憶さえも無くなっているが、「トロイメライ」を聴く度に、北陸の山村の小さな学校の講堂の粗末な舞台の情景が目に浮かんでくるのだ。

「トロイメライ(Traumerei )」は、ロベルト・アレクサンダー・シューマン(Robert Alexander Schumann)が、1838年に作曲したピアノ曲「子供の情景(Kinderszenen)」作品15(全13曲)のひとつ、第7曲目の楽曲であったことを知ったのも、随分、後年になってからのことだったが、その暗く物悲しい旋律が、未だに脳裏に焼き付いているから不思議だ。「音楽」が嫌いで、苦手科目のひとつだった子供が・・・である。
劇中で流されていたのは、確か、ピアノ演奏物ではなく、ヴィオリン演奏物だったような気がする。

ヴァイオリン演奏の「トロイメライ (Traumerei )」 (YouTubeから共有) 

ピアノ演奏の「トロイメライ(Traumerei )」 (YouTubeから共有)

オルゴールバージョン 「トロイメライ(Traumerei )」 (YouTubeから共有)

 

コメント (4)

「中学生日記より」その54(再)

2022年01月12日 08時51分47秒 | M男のあの日あの頃(the good old days)

「中学生日記より」

「gooブログ」に引っ越してくる前、「OCNブログ人」時代に 一度書き込んだことの有る「中学生日記より」を 改めてリメイクしてみようと思っているところだ。「中学生日記」とは 中学生だった頃のM男が ほんの一時期付けていた日記帳のことで 数年前に実家を解体する際に発見した、ボロボロのゴミ同然の日記帳のことだ。土産物の小綺麗な空き箱や包装紙、冠婚葬祭ののし袋に至るまで 廃棄処分するという感覚が全く無かった父母が、子供達の教科書やノート、通信簿、図画工作作品等も押し入れの奥に詰め込んでいたもので、その中に有った。まさに「タイムカプセル」を開けるが如くの感じで、ページを捲ってみると、すっかり喪失してしまっていた記憶が、断片的に炙り出されてくる。まさか 60数年後に、ブログで第三者の目に晒される等とは 当時のM男は想像もしていなかったはずで 下手な文章、下手な文字、誤字脱字多しの日記である。


その54 「学校の周辺の雪割り」

昭和31年(1956年)1月20日、金曜日、天気 曇、
起床 5時40分、就床 21時10分、

1限、職業、特別作業で学校前の雪割り、
2限、数学、三角形
3限、理科、テスト、
4限、国語、文章、?
5限、図画、特別作業で中道の雪割り、
6限、社会、世界の生活、

1、太陽が17日ごろ(頃)からはげしい(激しい)爆発をおこし(起こし)、
  無線電話を外国に送り入れするのに困っているそうだ。
  地球上にも変化があるらしいといって(言って)いる。
2、1限は、元組合まで、わって(雪割りし)、5限は、倉庫から道まで(雪割りした)。

(宅) 15時50分。

1時間目の「職業」と、5時間目の「図画」は、授業を潰して、学校の周辺の「雪割り」をしたようだ。当時、M男達が、「雪割り」と言っていたのは、積り積もって根雪になったしまった道路や屋敷等に、人が通るだけの幅1m~2m程をスコップで掘り割って、1本の道筋を作ることだった。車社会以前、除雪車や除雪機械等、無かった時代のことである。村落中が雪で埋まり、根雪が解け始める頃までは、「雪割り」をすることなく、「かんじき」で踏み固めた雪上の1本の道筋を往来して暮らしていたものだが、どうやら、学校の周辺だけは、「雪割り」をしていたようだ。わずかに記憶が炙り出てくるが、確か、「雪割り」作業予定日には、生徒(多分、男子生徒だけだったと思うが)各自、家から角スコ(現在のようなプラスチック製、アルミ製のスコップ等無かった時代、四角い雪割り専用鉄製スコップ)を担いで登校したような気がする。現在のようなジャージや作業着等もなく、学生服のまま、長靴で、ズラーッと並んで、汗だくになって掘割っていく人海戦術、その情景が思い浮かんでくる。村落の中心に有った小さな中学校の周りには、当時、村役場、農協の建物が有ったが、もしかしたらその職員達も一緒になって「雪割り」をしたのかも知れない。住民が「組合」「組合」と言っていた農協は、供出米の集荷だけでなく、村落唯一の金融機関?であり、ホームセンター?であり、農事の司令塔?でもあった時代、住民にとっては重要な機関だったと言える。

夜間に降り積もった雪で、
かんじきで踏み固めた雪道も埋もれてしまい、
隣りの家にも行けなくなる、

当時の近所の朝の風景。
こんな朝は、各家から男衆が出て
かんじきで道を作ることから1日が始まったものだった。


振り返り記事
👇
2017年1月25日 「かんじき」


 

 

 

コメント (2)