昭和30年代中頃の話である。M男は、北陸の山村の親元を離れて、地方都市の学生寮に入寮することになった。入寮条件は、親の収入が、ある一定額以下で、学費支払いにも窮するような貧困家庭の学生ということだったと思うが、当時の日本、まだまだ貧しい暮らしの家庭が多く、学生寮入寮希望者も多かったはずで、おそらく定員オーバー状態で(詰め込みで)、受け入れていたのではないかと、後年になってから思われたものだ。貧乏な家で育ったM男は迷わず、寮費が下宿等と比べたら段違いに安い学生寮入寮を希望し、どんな寮なのかは問題外、藁をもすがる思いで申し込んだと思うが、入寮許可通知が届いた時は、家族共々、大喜びしたものだった。ただ、いざ入寮が迫ると、世の中を知らない井の中の蛙は、初めて外で集団生活する不安に襲われたような気がする。しかし、事前に下見する等のことも無しで、いきなり入寮の日を迎えたのだった。記憶曖昧だが、初めて訪れる都市、地図を片手に迷いながら学生寮にたどり着いたのではないかと思う。
「エッ!、ここ?」、寮の玄関に立って、一瞬、目を疑ったような気がする。古い建物とは聞いていたものの、想像以上の老朽建物。第二次世界大戦の戦火を免れた、旧制高校時代の古い木造平屋建ての寮だったのだ(大正後期から昭和初期の建物)。おずおずと寮監に挨拶、布団等荷物は、鉄道便(チッキ)で届いていて、すでに決まっていた部屋へ案内されたのだと思うが、まず驚いたのは、各棟毎に小学校のような板張りの長い廊下が有り、ずらーっと小さな部屋が並んでおり、土足でギシギシ音を立てながら進むことだった。2部屋毎に、袋状半畳程のスペースが有り、各部屋への引き戸入口になっており、隣りの部屋と相対していたが、玄関等というものではなく、いきなり畳部屋である。
M男が入る部屋は、寮の玄関から見て、並列に並んだ3棟の中央の棟の中間あたりに有ったと思うが、すでに、年齢差を大いに感じる(おじさん?のように落ち着いた)医学部の先輩と、やや、軟派(ナンパ)張ってかっこつけていた、文系の先輩が、入っており ど田舎出身の初心なM男と、なんとも、ちぐはぐな3人が、狭い4畳半で、暮らすことになったのだった。各自持ち込んだ座り机を壁側に並べるため、居住空間、つまり寝るスペースは、3畳弱しか無く、1間程の押入れも3人で共用、夜、布団を敷くと、びっちり、足の踏み場も無くなる状態、真夏の山小屋並みの状態になるのだった。昼間でも薄暗い部屋の照明は、中央に裸電球1灯のみで、各自、座り机に、電気スタンドを置かないと本も読めない状況、それぞれ、授業時間や生活スタイルがまちまちのため、自習時間も異なり、深夜の場合等は、各自、机上の笠付きの電気スタンドを灯し、気を遣いながら勉強したものだった。
廊下側の窓も、中庭側の窓も、入口の引き戸と同様、桟が木製、ガタピシ、ガラス引き戸だったので、冬期は、隙間風がスースー、暖房、冷房の設備等、施されるような時代では無く、コタツもストーブも置くスペースすら無し、夏は、ガラス戸を開け放ち、外気を流通させることで涼をとり、冬は、毛布や布団にくるまって、勉強したものだった。
入室してしばらくしてから気がついたことだったが、部屋の壁、天井、ガラス窓、柱、押入れの中に至るまで、隙間なく、「落書き」がされていた。いずれも、天下国家を論ずるものや、人生訓のようなものや、哲学的な内容、はたまた、青春、恋愛を叫ぶようなもの等、高い向学心に燃えて寮生活をした、バンカラ旧制高校時代の学生、大先輩達の息吹が感じられるものばかりだったが、それも良し、決して、消してしまおう等という雰囲気すら無かったのだ。
おじさん?のような存在の医学部の先輩は無口で、下手なことを言えないような威厳さえ感じてしまい、どんな話をしたかも思い出せないが、文系の先輩には、ちょくちょく、映画館や喫茶店に、誘われ、ついて行ったような気がする。
斯々然々、現在では、プライベート云々等と騒がれてしまうような、収容所並みの学生寮の暮らしが始まったが、当時は、まだまだ、そんな環境をも受け入れて、逆に、そんな学生生活を楽しんだりもした時代だったのかも知れないと思っている。
(ネットから拝借イラスト)
(つづく)